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あと、八か月


「…な……する……」

「し、しかし皇子殿下……」

「分かっている。だけど、僕は……」


 廊下を歩いていたとき、扉の向こうから微かに聞こえた話し声に、私はふと足を止めた。この声は、私の夫のものだ。


「ルイ? そこにいるの……?」


 私の問いかけに、部屋の中の会話が止まり静寂が訪れる。


「……レティア?」


 ルイの声は、いつもの穏やかさを保っていた。けれど、ほんのわずかに間があった気がする。


「そうよ、レティアよ。……ねえ、入ってもいい?」

「ダメだ」


 即答だった。

 普段なら、私が聞くまでもなく「おいで」と扉を開けてくれるはずの彼が、その日はなぜか拒んだ。

 かすかに、焦げたような、鉄の錆びたような匂いが鼻をかすめる。ほんのわずかに開いていた隙間から、微かに黒い煙のようなものが揺らめくのが見えていた。


「そこに何かあるの?」


 自分でも驚くほど、かすれた声が漏れる。沈黙が、数秒続いた。


「なんでもないよ」


 彼の返事はあまりにも自然で、それ以上追及するのがためらわれるほどだった。

 そうして数十秒すると、扉は静かに開き、中からルイーズが出てきた。

 その背後、室内の奥にちらりと見えた人影に、私は思わず目を凝らす。その男には見覚えがあった。


(あれは、イカルド侯爵……?)


 彼は、どこか分が悪そうに目線を逸らしていた。


「レティア、一緒に散歩でもしようか」


 彼はいつもと変わらぬ微笑みを浮かべ、優しく私の手を取る。その温もりも、握り方も、何ひとつ変わらない。


「う、うん」


 けれど、扉の向こうに残された、微かに焦げたような匂いと、私の心に残る得体の知れない不安は、消えることがなかった。




∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴




「ということで、妃殿下はどう思われますでしょうか? ……妃殿下?」

「えっ? ああ、ごめんなさい。もう一度言っていただけますでしょうか」


 エンディミオンの声が耳に届いているはずなのに、内容が頭に入ってこない。気を抜けば、すぐに心はあの場面へと引き戻される。


 黒く揺らめいた煙、焦げた匂い。ルイーズの奥に見えた、イカルド侯爵の伏せられた視線。

 そして何より、普段なら迷わず私を招き入れるはずのルイーズが私を部屋へ入れようとしなかったこと。


「妃殿下、今日のところはお休みになられてはどうでしょうか」

「え? どうしてですか、まだ時間ではありませんよ」

「今日の分のお仕事はとうに完了しています。むしろ、やりすぎなくらいです。是非ともうちの部下たちにも妃殿下を見習ってほしいものです。ですのでどうか、今日のところはお休みください」

「……ありがとう、そうさせてもらうわね」


 手元にあった羽根ペンをそっと置き、ふうっと小さく息をつく。

 昨日からずっと、ルイーズのことが頭から離れない。仕事に支障は出ていないものの、作業中もずっと心ここにあらずと言った感じだった。




∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴




「このままお部屋に戻られますか?」


 財務部から出た私に声をかけたのは、護衛騎士のアルベルト卿。赤い髪に水色の目が特徴的な彼は、端正な顔立ちをしているのにあまり感情を表に出すことのない人だ。


「そうね。夜までは予定もないし、少し仮眠でも……あら?」


 皇宮の長い廊下を歩いていると、前から一人の男が歩いて来ているのが見えた。その正体は、昨日ルイーズと共に居た男性。


「これはこれは。ごきげんよう、レティア妃殿下」


 イカルド・ランドレア。

 若くしてランドレア侯爵家の当主にまで登りあがった、学問の天才。

 彼は優雅な仕草で片手を胸に当て、私に向けて

礼を取る。


「お久しぶりですね、イカルド侯爵」


 私が穏やかに応じると、イカルドは微笑みを浮かべる。


「アルベルト卿も久しいですね。君の父上には本当にお世話になっていますよ」


 イカルドの言葉に、アルベルトは僅かに眉を寄せながらも、形式的に頭を下げた。


「それはどうも」


 そっけない返事だった。護衛騎士としての礼儀は守りながらも、アルベルトの声色にはどこか硬さがある。

 アルベルトの家は、代々騎士の家系であり、帝国でも名の知れた名門貴族だ。侯爵家当主であるイカルドとは、何らかの関わりがあったとしても不思議ではない。


「イカルド侯爵はどうして皇宮に?」

「ええ、実は皇子殿下に呼び出されまして」

「そ、そうですか……」


(どういうこと? 二日間も続けて皇宮にイカルド侯爵を呼び出すだなんてどういうつもりなの?)


 それに、彼の指にはめられているのはルイーズの所有する移動魔法の掛かった移動石。貴重な魔道具を、イカルド侯爵に渡すだなんて一体何を考えているの。


(嫌な予感がする。言葉に言い表すことのできない、嫌な予感。これは何……?)


「申し訳ございません妃殿下。ルイーズ皇子殿下との約束の時間を過ぎてしまうので、私はこれで失礼させていただきます」


 彼は軽く一礼すると、踵を返す。その背を見送りながら、私は胸の奥に湧き上がる不安を振り払えずにいた。




∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴




「ルイ、今日は何をしていたんですか?」


 夜、私は静かに問いかけた。ルイーズはベッドサイドに腰掛けながら、いつもと変わらない穏やかな微笑みを浮かべていた。


「今日は書類整理に明け暮れていたよ。一日中、誰とも会わずに部屋に引きこもっていたから、まだ声が籠るんだ」


 ルイーズはいつも通りの優しい口調でそう言った。


「……あら、そうでしたか」


 私は笑顔を浮かべながら、彼の瞳をじっと見つめた。ルイーズの青い瞳は澄んでいて、どこまでも誠実そうに見える。


 だけど、私は知っている。


 彼が今日、イカルド侯爵を呼び出していたことを。彼が大切にしている移動魔法の掛かった移動石を渡すほどの、重要な話をしていたことを。

 それなのに、「一日中誰とも会わずに」と平然と口にする彼の言葉は、明らかに嘘。


(ねえ、ルイ。どうして私に嘘をつくの……?)

レティアが死ぬまで、あと八か月。


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 残された時間が減って行く中、まさかここで波乱の予感とは。二人の恋に、今後も目が離せません。
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