あと、九か月
「妃殿下、それではこちらをお願いいたします」
私に声をかけたのは、ロンバルディア帝国の皇宮財務部、部長のエンディミオン・ボルジアン。
栗色の髪に、緑の瞳。若い青年にしては珍しいモノクルを付けているのが、特徴的な人だ。
「ありがとう」
私がニコリと笑みを向けると、エンディミオンは呆れたような「はあ」と、わざとらしくため息をついた。
「これが仕事ですので」
そう冷たく言い残すと、「昼までに完成させるようにお願いします」と言い残し、すぐに去っていった。
(随分と嫌われてしまっているようね。まぁ、そんなことはどうでもいいのだけど)
私はエンディミオンから渡された予算表をじっと見つめた。ぱっと見では整った数字が並んでいるように見えるが、よく見ると明らかに不自然な点がいくつもあった。
例えば、宮殿の維持費。通常の相場よりも二割も高く計上されている。さらに、使用される予定のない家具の購入費や、記録にない修繕費が堂々と組み込まれていた。
私は羽ペンを手に取り、インクを付ける。そして予算表に記載されている桁が多すぎる数字の上から、思い切り線を引いた。
不要、不要、不要。これも過剰な請求、ここの修繕費はそもそも必要がない。いくらなんでも、おかしすぎる。確認がまだだとしても、ここまでおかしな数字は記載時に気が付くことでしょう。
(……ああ、なるほど。恐らくこれは、私を試しているのね?)
異国の病弱姫だと呼ばれた私には、こんなことも気が付かないとでも思っているのかしら。確かに私は病弱で、誰かの助けがなければ生きていけないような弱い人間かもしれない。
だけど私は、自由に動き回ることができない分、誰よりも勉学に励んできた。私が生まれ育ったあの国でだって、このロンバルディア帝国でだって、誰かに引け目をとるとは少しも思わない。
私は、公女だったのよ。そして今は、ルイーズ・ディ・ロンバルディア皇子殿下の妻。皇子妃という立場で、部下に蔑まられるわけにはいかない。
「妃殿下? 何か問題がありましたでしょうか」
対面に座る男。ルイーズの側近であり、騎士のアルベルト卿が私の浮かない顔に気が付いたのか、声をかけてきた。アルベルト卿は、ルイーズが付けてくれた私の護衛騎士だ。
「アルベルト卿、すぐにエンディミオンさんを呼んできていただけますか?」
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「お呼びでしょうか、妃殿下」
「エンディミオンさん。この予算表ですがいくつか問題があります」
淡々とした声で語る私に、エンディミオンは「と、いいますと?」と聞き返す。
「まず、この修繕費です。去年と比較しても倍以上の金額が計上されていますが、具体的にどの箇所を修繕する予定なのでしょうか?」
「……皇宮の維持には多くの費用がかかります。それは、実際にお暮しになられている妃殿下が一番ご存じのことでしょう」
「ええ、確かにその通りです。しかし、宮の修繕記録を確認したところ、ここ数年で大規模な改修は行われていません。それなのに突然この金額が必要になるというのは、少々不自然では?」
エンディミオンは何も言わず、ただ口を紡いだまま私を真っ直ぐに見つめていた。
「それから、この装飾品の購入費。これほどの額が計上されるということは、相当な品が入るのでしょうね。購入予定の品目リストを拝見できますか?」
「…………」
「あら、ご用意いただけないのですか? それとも、ご用意ができないのでしょうか」
私の声は静かだったが、確かな威圧感を帯びていた。
「妃殿下、私の負けです」
エンディミオンは観念したように肩を落とすと、右手を胸の前に置き、私に向かい一礼した。
「私を試そうとなさったのでしょう? ですが、異国のお馬鹿な姫と言われる私でも、これだけ異常な数字でしたら気づいてしまいますよ」
「……大変申し訳ございません」
「試されることは構いません。ですが、次回からはもっと誠実な方法でお願いいたします。私は試されるまでもなく、自分に任された仕事は何だってこなして見せますから」
エンディミオンは私に「今後は誠心誠意、お仕えいたします」と言い、深く頭を下げた。
これで、彼が私を侮ることはなくなるだろう。仕事の度にこんな面倒ごとに巻き込まれるのは、流石に勘弁してほしい。
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皇宮の庭園は、春の陽光を浴びて煌めいていた。澄み渡る青空の下、色とりどりの花々が風にそよぎ、噴水の水音が優雅に響いている。
手入れの行き届いた花壇には、私のためにルイーズが私の故郷の国から取り寄せられた珍しい花々が咲き誇り、風が吹くたびにかすかに甘い香りが漂った。そんな絵画のように美しい景色を前にしても、私はどうにも機嫌が悪かった。
「全く、ひどいわ」
私はカップを置き、ため息をつく。銀のトレイには琥珀色の紅茶と小さな焼き菓子が並んでいたが、甘党の私でも今は甘未を楽しむ気分にはなれそうもない。
「試すような真似をするなんて、あの執務管、性格が悪すぎる。そもそも私が何も知らないと思っていたこと自体、失礼極まりないと思わない?」
対面に座るルイーズはカップを口元に運びながら、どこか楽しげに私を見つめていた。その余裕たっぷりの表情がますます癪に障る。
「エンディミオン、あいつはそういうところがあるからな」
さらりとした口調で告げる彼に、私は思わず眉をひそめる。
「もう、ルイってば彼を庇うの?」
じろりとルイーズを睨みつけると、彼はまるで小さな子どもを宥めるように微笑を深めた。
「君の賢さを証明する機会を作ったと考えれば、悪くはなかっただろう?」
「そんなもの、わざわざ証明するまでもないわ」
私はふんと小さく鼻を鳴らし、ぷいっと顔をそむけた。そんな私の姿を見たルイーズはくすりと笑う。
「ははっ、ごめんよレティア。僕が悪かったから怒らないで」
謝っているはずなのに、その声音はどこか楽しげだった。まったく、彼はこういうところがずるい。私の機嫌が悪いのを知っていながら、軽やかに受け流すのだから。
そう思いながらも、私が次の言葉を探す前に、ルイーズの指がそっと私の手に触れた。
「怒ってなんかいないわ。ただ……」
言いかけた言葉は、彼の指先が私の手の甲をなぞる感触にかき消された。
驚いて見上げると、ルイーズは穏やかな微笑みを浮かべていた。いつもの、余裕に満ちた笑み。彼は私の手を包み込むように握り、親指でそっと撫でながら優しく囁く。
「レティア。僕は君のそういうところが、好きだよ」
声は低く、甘く、そして優しい。まるで春の陽だまりに包まれるような、心地の良い響きだった。
「そんな美しい君に、エンディミオンは対抗心が沸いたのだろう。なにせ、僕の妻はとても聡明な人のようですので」
「……そんな甘い言葉を囁いても、私は騙されないから」
そう言いながらも、心のどこかでわかっていた。彼の言葉が、ただの気まぐれや甘い戯れではないことを。
それでも、素直に受け入れるには悔しさと恥ずかしさが大きすぎた。
「騙してなんかいないさ」
ルイーズは優雅な仕草で私の手を引き寄せる。そして、そのまま私の手の甲にそっと唇を落とした。
ほんの一瞬の、柔らかく温かな接触。けれど、それだけで胸の奥がきゅっと締めつけられる。触れたのは一瞬だったのにその感触は消えず、まるで私の肌に残り続けるかのようだった。
「……もう、あなたってば、本当にずるい人だわ」
ルイは何も言わず、ただ私を見つめて微笑む。
どこまでも美しく、優雅で、私の心を溶かしてしまいそうな微笑みだった。
レティアが死ぬまで、あと九か月。
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