『僕を信じて』
「はあ、はぁっ」
私は今、なにをしているの? どうして今、こんなにも走っているの?
腕を引かれ、必死に走る。草木がガサゴソと夜風で揺れていて、踏み出す足が土を力強く踏む。
外に出るのもやっとだった私が、今、見ず知らずの人と共に走っている。
「……ご、ごめんなさい、もう走れないわ。私、身体弱くて、その……」
『身体が弱いことを言い訳にするとは、本当に惨めな女だ』
ふいに、私の婚約者ロイドの言葉が頭に響いた。
(どうしよう。私のせいで、不快にさせてしまったかもしれない。早く謝らないと……)
「大丈夫」
その短い言葉と共に、私の身体はふわりと彼に抱き上げられてしまった。
家の書斎の隅にあったロマンス本で見たことがある。
これはいわゆる、お姫様抱っこというやつだ。年頃の少女らしく憧れはあったものの、まさか初対面の殿方にされてしまうなんて夢にも思わなかった。
黒のローブを深く被った男の顔が、抱き上げられた瞬間見える。月明かりに照らされて、キラキラと輝く青の瞳と目が合った。
「僕を信じて」
名も知らない男の言葉を信じ、家を飛び出してしまうだなんて、私はどうかしている。
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「レティア・カスターナ、愛しているよ」
白がかった金髪に、黄金色の瞳。
目を細めて甘い声で私の名を囁き、手を伸ばしてきた男。
ダンドリ―侯爵家の長男、ロイド・ダンドリー侯爵令息。
彼は、私の婚約者だ。
「離して!」
「……レティア?」
頬に添えられた手を振り払い、困惑した顔を浮かべるロイドをギュッと睨みつけた。
「私、知っているんだからね、ロイド!」
今までの私ならロイドの口から発せられるその愛の言葉に笑顔で頷いていたはずだ。
しかし、私は聞いてしまったのだ。
先日参加した、父の友人の伯爵邸で開かれたパーティーのときのこと。
普段は、社交界への参加は婚約者のロイドにエスコートされて向かっていた。しかし、私のお母様が丁度体調を崩してしまい母に代わって私が父のパートナーを務めていた。
お父様と会場で別れた後、私は来ているはずのロイドの姿を探した。しかし会場のどこにも彼の姿が見当たらなかった。
だから、ロイドの控え室に探しに向かうことにしたのだ。
……扉の隙間から見た、服をはだけさせて抱き合う二人の男女の姿を、私は死ぬまで忘れることはできないであろう。
そこに居た二人の男女は、私の婚約者ロイド・ダンドリーと、男爵令嬢レリアン・フランシスだった。
「ねえ、ロイド? 私は嬉しいけど、あの病弱姫の元に行かなくてもいいの?」
「あぁ、あの女なら大丈夫だよレリアン。今頃どうせ自慢のお父様と一緒にいるだろうから。それに……直に、あの女は死ぬのだからな」
ソファーになだれ込む形で抱き合う二人。レリアンは豊かな胸をロイドに押し当て、甘えた声で囁く。そんなレリアンを見て、ロイドは満足げに微笑んだ。
二人の会話を聞いてしまった私は、息がうまく吸えなくなるほど動揺した。
(どうして、どうして、なんで……?)
すぐにでもこの場から逃げ出したいのに、足がすくんで動くことが出来ない。
耳を強く押さえて、レリアンの甲高い叫び声にも似たその喘ぎ声が耳に届かないように必死に耐えた。
「あいしてる、愛しているわ、ロイド」
「私もさ、レリアン……」
(……吐き気がする、)
私は生まれつき身体が弱かった。
医師からは二十歳に命を落とすと診断された。病に侵され、結婚など夢のまた夢の話だった。
それでも、私と結婚したいと申し出る人間は少なくなかった。
それはけして、私を愛しているからでは無い。私と結婚して、カスターナ公爵家の当主の座に就くことを狙っているだけだ。
公爵家の一人娘で、病に犯された短命な女。貴族の結婚相手として、私はこれ以上に無いほど都合の良い結婚相手だった。
そりゃあそうよね、愛が無くとも結婚さえすれば公爵家の当主になれる。私が死んだ後にでも、本当に愛している女性と再婚すれば良いだけだもの。
(でも、貴方だけは私の味方なんじゃなかったの?)
『愛しているよ、レティア』
『でも、私は……』
『知っている。そこも含めて、君が好きなんだ』
(あの時私に囁いた言葉も全て、嘘だったの?)
「私のことを、騙していたのでしょう?!」
「レティア……」
「な、なによ!」
ロイドの言葉に反発した返事をしつつも、心のどこかで、勘違いだと彼の口から撤回してほしいと願っていた。
嘘でもいいから、言い訳でもなんでもいいから。全て間違いであったと、そう言って欲しかった。
「ほんっとうにお前は間抜けだな」
しかし、その愚かな期待は哀れなものでしかなかった。
「虫の息の、虫けら以下。お前は本当にクズだ」
「……ロイド」
「チッ、気安く私の名前の名前を呼ぶな」
鋭い視線、冷たい声。
それは今までに見たことが無い、ロイドの本当の姿だった。
(これまでの貴方は全て偽りだったというの? 私への愛は全て嘘で、貴方が本当に愛していたのはレリアン嬢だったの?)
「どうして? 私を、愛していたのではないんですか?」
泣きたくないのに、自然と私の目からは涙が零れ落ちた。
(ダメよ、泣いちゃダメ。泣いたって、余計に自分が惨めになるだけじゃない)
「あぁそうだよ、愛しているとも。しかしそれはお前自身ではなく、お前の公爵家の娘という立場をだ」
「......そう、貴方もそうだったの」
「だったらなんだって言うんだ? 今更、お前は私に婚約破棄を言い渡すことはできないだろう?」
「そ、そんなこと……」
「病弱な一人娘がやっと婚約できて跡継ぎ問題に安心したと思ったら、婚約破棄をしたなんて。公爵様はどう思うだろうなぁ?」
ロイドの言葉に私の胸はドクン、と鳴る。
何も言い返すことが出来ないでいる私を、小ばかにしたように「フンッ」と鼻で笑ったロイドは、私に向かって一歩、二歩と足を進めた。
「大丈夫ですよ、レティア。君は今まで通り私の手のひらの上で転がされていればいいんだ。そうすればお前が息を引き取るその時まで、君の理想の王子さまとやらを演じてやろう」
私の肩に手を置いて、吐息交じりにそう告げたロイド。
ロイドの言う通りだ。
私には、ロイドに婚約破棄を言い渡す勇気などない。そんなことをすれば、きっと家族を心配させてしまう。
だから私はこのまま、このまま息を殺して、死ぬ時を待つことしかできない。
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「ぐすっ、ぐす……」
皇宮の美しい庭園の陰に隠れ、声を押し殺して涙を流した。
憧れの皇宮のパーティーなのに、どうして陰で泣いたりしないといけないの?
ううん、そもそも皇宮のパーティーなんかでロイドに聞かなきゃよかったことじゃない。ばかね、私。
それとも、無意識のうちに保険をかけていたのかな。皇宮でなら、あの人も私に酷い扱いはしないって。そんな叶いもしない期待を抱いてしまったから、きっと罰が当たったんだわ。
(あぁ、私って本当にばか)
今からでも会場に戻ろうか……いいや、今更戻ったところで私をエスコートしてくれる人間も居ない。お父様に恥をかかせるだけだわ。
あの時見た、ロイドとレリアンの幸せそうな顔が忘れられない。
そう言えば、ロイドは私にあんな顔を向けたことはなかったわね。いつだって完璧な笑顔を浮かべていたけれど、今思えばあの顔はただの仮面のようなもの。
正直、羨ましいと思ってしまう。
私だって、一度でいいから恋がしてみたかった。
だけど、こんな私を心から愛してくれる人なんて、いるはずが無いんだわ。
「泣かないで、レディ」
突如、誰かの声が聞こえた。
急いで顔を上げると、そこには私を見下ろす形で立っていた一つの人影。
「だ、だれなの?!」
見られた、と焦り涙に濡れた顔を隠すように手で顔を覆う。
最悪だ。仮にも私は公爵家の娘なのに、一人で隠れて泣いていたところを誰かに見られてしまうなんて。
ローブを深くかぶっていて顔がよく見れない。
声からして、男性だと思うけど。皇宮のパーティーに来ているということはそれなりに立場のある人間のはず。
「そんなに怯えなくとも大丈夫です。僕は、怪しい人間ではありません」
「し、信じられません!」
「あなたのような麗しいレディを泣かせたのは誰ですか?」
「……あなたには関係ないでしょう」
「はは、随分と警戒されていますね。僕は、君をここから連れ出そうと思いまして」
「えっ……?」
私を連れ出す? この男は本気で言っているの?
私のことを、公爵家の娘である私を誘拐すると宣言するなんて只事では済まないわよ?
どうしよう、誰か助けを呼ばなくちゃ……。
でも。私を助けてくれる人なんて、いるのかしら。
『お前はクズだ』
……私をクズ呼ばわりする男のために、死んでなんてあげない。私は、私に残された時間を全うしたいの。
「さぁ、僕を信じて」
たとえこれが、私に下された天罰だとしても。
私は、賭けてみたい。
私は、彼からさし伸ばされた手を取った。
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