私にだけ意地悪な幼馴染に、ざま―みろと言ってやる!
「うそ……うそでしょ? ありえない……」
ふるふると拳を震わせながら、私は目の前に張り出された現実を、信じられない思いでじっと見つめていた。
先日行われた中間テストの順位表。
私が2位で……あいつが1位。
これは何かの見間違い。目が誤情報を映しているんだわ……そう思って、目をつむってゆっくり10秒数えてみたけれど、祈りながら目を開けてもやっぱり結果は変わらない。
なんでなんでっ?
だって、あんなに……
「あんなに勉強してたのにな。ざーんねんっ」
「っ、海斗っ!」
くくく、と耳障りな笑い声をあげながら、背の高い男が私の隣にやってきた。
出た! 私の天敵、北条海斗。今回の試験で、私を押しのけ学年1位の座を奪い取った男だ。
海斗が大きな手のひらをポンっと私の頭に置いた。無駄に終わってご苦労さん、って馬鹿にされているみたいでカチンとくる。
相変わらず嫌味な奴……
残念なんて、ちっとも思ってない癖にっ!
「ふん、今回はたまたまよ。あんたの運がほんのちょっと良かっただけなんだから、いい気にならないでよね」
「ふーん、今回は俺の方がツイてたってことか。でも前回もそうだったよな?」
「ぐっ……」
「てかさ、百華って俺に勝てたことないよな?」
「か……海斗の運が良すぎるのよ」
「お前は運悪すぎだよなあ。可哀想に」
しみじみと憐れむように言いながら、海斗が私の頭をぐりぐりと撫で回す。遠慮のない手つきのせいで髪がぐちゃぐちゃに乱れていく。
「ふはっ。落ち武者みてえ」
…………ぷちっ。
もう無理、我慢の限界っ。
こんの根性悪に、渾身の右ストレートをお見舞いしてやるっ!
「ちょっと! 避けないでよねっ!」
「いやフツーに避けるし。まあ当たってもたいして痛くねーけど」
「痛くないなら当たりなさいよ」
「避けた方が面白いじゃん」
ぺろっと舌を出しながら、またしても私のパンチを海斗が避ける。
このこのこのおっ!
こっちはこんなに怒っているのに、ニヤニヤと愉しそうに笑うんじゃないっ!
「っひゃあ!」
腕を思い切り振りかぶろうと後方に身体を反らしたタイミングで、つるりと足が滑った。私、ツイてなさすぎる! 爽やかな朝の廊下に、ドスン、と派手な音がした。
うう。お尻いったあ。
「っ、大丈夫か!?」
てっきり爆笑されると思っていたのに、意外にも海斗がハッとした顔をして、駆け寄ってきた。しかも、身を屈めて廊下にへたり込む私にスッと手を差し出してくる。
え、何?
もしかして心配してくれてるの……?
「ほら、いつまでもパンツ丸出しでボケっとしてねぇで、立てよ。……くまちゃんとか小学生かよ」
「~~~~っっっ! 最っ低っ!!!」
やっぱりいつも通りの海斗だしっ!
差し出された手をぺしっと払いのけ、ズキズキと痛む身体を堪えながら私は自力で立ち上がった。
私と海斗は幼馴染だ。
はっきり言って仲は悪い。彼は私にだけ意地悪で、小さな頃からお互い何かと張り合い、言い合いをしてきた。その関係は高校生になった今も続いている。
彼との出会いは小学生低学年の時。
私の住む家の、隣の家に引っ越してきたのが海斗だった。
何も知らなかった当時の私は、更地から家が建てられていく様子をワクワクしながら眺めていた。どんな人たちが越してくるのかな。友達ができるといいな、なんて淡い期待を抱きながら。
同じ年の子供がいると分かって、ますます私は喜んだ。
仲良くしたい。そう思って、海斗の手を取りにっこり笑いながら「よろしくね」と言ったのに。
『うるせー、このブス』
最低な一言を告げながら、海斗はバシッと私の手を振りほどいたのだ。
その日から、私たちの戦いは始まった。
海斗には顔を合わせるたびに嫌味を言われ、馬鹿にされたり髪を引っ張られたりした。もちろん私だって負けてない。嫌なことを言われるたびに威勢よく言い返し、嫌なことをされるたびに倍にして蹴り返してやった。
私たちは毎日のように争っていた。
海斗は私のことがよっぽど嫌いだったのだろう。他の人には優しいし笑顔だって見せていたのに、私にはむっつりした顔ばかり向けてくるめちゃくちゃ意地悪な奴だった。
カエルを投げつけられたこともあった。最後まで大事にとっておいた給食のプリンを横取りされたこともあった。
筆箱を開けると、どんぐり虫の幼虫が大量に入っていたこともあったな……
大絶叫する私を見て、海斗は腹を抱えて笑っていた。
こみ上げる怒りを胸に、私は誓ったのだ。
――――いつか絶対に、ざま―みろと言ってやる!
◇ ◆
「くぅぅぅぅ!!! めっっっちゃむかつく~!!!」
「はいはい、お疲れ様」
テストという名の喪が明けて、私は勉強漬けの毎日から人並みの生活に戻った。キラキラと眩しい日の光を浴びながら、中庭で親友の莉緒とランチタイムを楽しんでいる。
莉緒との付き合いは海斗よりも古い。当然、私と海斗の因縁も熟知しているので、愚痴の相手も手慣れたものだ。若干呆れた視線を向けつつも、優しく慰めてくれる。
「ほんっと疲れた。今度こそ勝てると思ったのに……」
腹いせに、ペットボトルのアイスティーをごくごくと一気にあおる。
勢いよく飲んだせいか、ごほごほとむせてしまった。おのれ海斗め。涙目になりながらギリギリと歯噛みする私の背中を、莉緒が苦笑しながらさすってくれる。
うう。莉緒の優しさが沁みるわ……。
「あんなに頑張っていたのに、残念だったね」
「…………うん」
そう。私はこの一か月、奴に勝つべく必死に勉強をしまくった。
睡眠時間を削るのはもちろんのこと、隙間時間ですらみっちり勉強に充てていた。トイレの壁には化学式を書き連ねたポスターを貼り、風呂場には防水加工の単語帳を持ち込んだ。
友達付き合いは放棄して、休み時間はひたすら教科書とにらめっこ。電車に揺られながら問題を解き、参考書片手にお弁当を食べる日々。日課のようにからかってくる海斗にも完全スルーを決め込み、このテストに臨んだのだ。
その結果、過去最高の点数を叩き出したというのに。
「どうして、今回もあいつの方が上なのよ……!」
こんなのおかしすぎる。
だって海斗、全然勉強してないんだよ?
授業中は上の空だし、休み時間は常に誰かと騒いでる。放課後はクラブ活動に精を出し、じゃあ家で勉強しているのかと思いきや、向かいに見える部屋の明かりは毎日きっかり22時で消えている。……寝るの早っ。
「今回も海斗くんが僅差で勝つとか、ほんっと空恐ろしい人よね」
「いつもいつも数点差で負けちゃうんだよね……。悔しいけどあいつの言う通り、私って運が悪いのかも」
そう。いつも負けるとはいえ、僅差なのだ。
だから今回こそはと、いつも以上に勉強に時間を割いてみた。受験の時より頑張ったと思う。
けれど結果はこの通り。
――もう、勉強で張り合うのは止めた方がいいのかな。
でも他に何があるんだろう。私でも海斗に勝てそうなことって……何?
かけっこや背比べ。ボール投げや腕相撲。
いい勝負が出来ていたのは最初の数年だけだった。海斗はぐんぐん背を伸ばし、力も強くなっていく。
中学生になり、限界を感じた私は運動以外の分野であいつに挑むことにした。
定期テストの点数。リコーダーの発表。読書感想文や書初めなどの提出物、美術の作品に至るまで、徹底的に奴と争った。
海斗が生徒会の選挙に出ると聞いた時は、私も負けじと出馬した。
でも、私は一度もあいつに勝てなかった。
定期テストは常に僅差で海斗が一位だし、あいつは私よりもよっぽど綺麗な文字を書く。読書感想文は銀賞を取ったものの、ガッツポーズを決めた私の隣であいつは金賞をもぎ取っていた。銀が輝いて見えたの、ほんの一瞬だけだった。
器用な海斗は演奏の類も上手かった。作品の類に関しては勝負以前の問題だった。不器用で、芸術センス皆無の私には、笑われなければ御の字のようなシロモノしか作れなかったのだ。
選挙だって、会長に選ばれたのは海斗の方だった。私は圧倒的な票差を付けられ副会長に収まった。
受験勉強だって必死に頑張ったのに。県内一の進学校で、首席で合格したのは海斗の方だった。
あいつの悔しそうな顔なんて、もうずいぶんと見ていない。いつも私を馬鹿にして、余裕の笑みを浮かべてる。
……悔しい。
「努力型の百華と違って海斗くんは天才だから、成績で張り合うのは厳しいんじゃない?」
「じゃあ、他になにで勝てると思う?」
「うーん……」
海斗は交友関係が広いし、私以外の人には優しいから悔しいことに人望もある。再び生徒会に立候補しても、おそらく中学の二の舞で終わるだろう。
うむむむむ。
「百華は、海斗くんに勝てたら満足なんだよね」
「うんっ」
「じゃあ、海斗くんにキスしてみたら?」
「………………はへっ!?」
「間違いなく、動揺してくれると思うけど」
妙案だとばかりに、莉緒がポンと手を叩く。
え?海斗にキス?
どうしてそうなる?
「……む、無理無理無理っ!!!! 第一、そんなことして何になるっていうの」
「ちょっと落ち着いて百華、顔が面白いくらい真っ赤よ」
「だって! 莉緒がヘンなこと言うから……」
「あのね。もし、もしもよ。百華が海斗くんにキスしたら、向こうはどんな反応してくると思う?」
海斗の反応?
――――そんなの決まってる。
さっきまで爆発しそうなほど火照っていた頬が、スッと冷えていくのを感じた。
ふふん。嫌がるあいつの様子が、ありありと目に浮かんでくるわ!
「うげっ!! 気持ちわりーことするんじゃねぇよ。冗談は顔だけにしろよなっ!」
嫌悪に顔を歪めながら、頬をごしごしとこする仕草をしてみせる。あいつのセリフも反応も、絶対こんなかんじに決まってる!
ふっ、我ながら完璧な演技だわ。
完璧すぎて莉緒がドン引いている。
「ああそう……そういう認識なわけね……」
「嫌がらせとしては最高レベルだと思うけど、これって私のダメージも最高だからね?」
「でも、ざまーみろって言えそうよね」
……確かに。
いやいやいや。キスなんて出来るわけがない。
首をぶんぶんと横に振る。
「そんなの出来るわけないしっ! そんな非現実的な方法よりも、もっと他にあいつを悔しがらせる上手い方法ないかなあ? なるべく私の心臓に優しい方法で」
「心臓を労わっていたら、いつまで経っても今のままだと思うけど……」
「………………でも、」
いくらなんでも、キスは、ない。
そりゃダメージは与えられるだろうけど……。
かといって、他に良い案があるのかといえば…………なにもなく。
うーん、と二人で頭をひねる。
「ほんっと難しいわね……」
莉緒は遠い目をするばかりで、これといった代案はお互い浮かんでこなかった。
◇ ◆
放課後のチャイムが鳴って、今日も私は図書室に向かった。
僅差で負けるとはいえ、一番希望があるのも成績なのだ。代案が思い浮かばないのなら、とりあえず勉学に励むしかない。
……莉緒が変なこと言ったけどさ。キ……キスとかあんなの、途方もなく切羽詰まった際の、ほんとに最終の最終の、最後の手段でしかないしっ。
ごほん、と咳払いを一つして、図書室の扉をギィと開ける。定期テストを終えた後のせいか中は利用者も少なく、静寂な空間が広がっていた。我が家は兄弟が多くて騒がしいので、勉強に集中できるこの環境は非常にありがたい。
いつもの窓際の席に着き、勉強道具を机の上に広げていく。グラウンドでは部活動をしている生徒たちがいて、テニスボールを打つ音や、ピッと笛の鳴る音、掛け声のようなものが時折聞こえてくる。
とはいえ、うるさいと感じるほどではない。
ちらりと窓から外を覗いてみると、トラックの周りを走る海斗の姿が見えた。同じ部活の仲間たちに何やら声を掛けられて、楽しそうに笑っている。
……私には馬鹿にするような笑い方しかしないくせに。
仲間に向けられた海斗の笑顔が妙に眩しくて、ツキンと胸が痛んだ。
ふーんだ。そっちが遊んでいる間に勉強して、今度こそ私が勝ってやるんだから……。
海斗からパッと目を逸らし、机の上に視線を戻す。アンダーラインをあちこちに引いた教科書に、びっしりと書き込みを入れた参考書。付箋がたくさん挟まれた辞書。そのすべてが灰色に見えた。
「あ、もうこんな時間」
顔を上げると、外が薄暗くなっていた。
もうすぐ図書室が閉まる時間だ。広げたものを手早く片付け、荷物を抱えて廊下に出る。下駄箱に向かおうと階段を下りたところで、足が止まった。
海斗の声がしたからだ。
「……え? 俺?」
「うん。わたし、入学した時からずっと北条くんのことが好きだったの……」
ひゅっと息を呑んだ。
海斗が、同じクラスの丸山さんに、告白されている……
2階の階段横にある二年の教室に2人はいた。海斗の手が、机の上に置いてあるスポーツバッグの取っ手に触れている。おそらく部活の後、荷物を取りにきたタイミングで告白されたのだと思う。
丸山さんは小柄でふんわりとした可愛らしい女の子。華奢なのに胸は大きいという反則ボディの持ち主だ。
フリーの状態で彼女に告白されたら、大半の男子がOKするだろう。
……すごい現場に居合わせちゃった。
明日の朝、さっそく海斗をからかってやろ。
焦る海斗の姿が見られるかもしれない。楽しみ……なはずなのに。どうしてだろう、ちっとも心が弾まない。それどころか、全身に鉛を詰められたような重い感覚がする。
頬を真っ赤に染めた丸山さんが、大きな瞳を潤ませて海斗をじっと見上げている。海斗は満更でもなさそうな様子で、後頭部をポリポリと搔いている。
このまま付き合っちゃうのかな。もしも海斗に彼女が出来たら……
心臓がどくどくと嫌な音を立てる。
……今までのような、ライバル関係ではいられなくなっちゃう……?
『みてなさい! いつか、絶対にあんたに勝ってやるんだからっ!』
『俺に勝つ? 100年はえーよ。ま、必死で頑張れば、一生に一度くらいはチャンスがあるかもね』
これまでずっと海斗と争ってきたのに。
ざまーみろも言えないまま、手の届かないところに行っちゃうの?
……やだ。やだやだやだ!
このまま海斗が彼女を作っちゃうなんて、絶対いや!
まだ一度も勝てていないのに……!
『心臓を労わっていたら、いつまで経っても今のままだと思うけど』
―――そうよね、莉緒。
莉緒の言うとおりだ。
勝つために手段を選んでいるうちは、私の望む結果は得られない。
相手はあの海斗なのだ。
全力で!身を削ってでも!がんがん突撃していかないと!
―――――きっと私は一生、あいつに勝てない。
「お待たせぇ、海斗っ」
自分でもびっくりするほど甘ったるい声が出た。
突如現れた私に、海斗と丸山さんがぎょっとした視線を向けている。だよねえ。人気のない校舎内に私がいたことも、告白の最中に乱入されることも、自分で言うのもなんだが想定外もいいとこだと思う。
何しに来た?と言いたげな2つの視線を受けながら、私は空気を読まずにずかずかと海斗の側に行き、呆けている彼の腕を取る。ぴったりと身を寄せるような形で強引に腕を組み、丸山さんに、に~っこりと笑ってみせた。
「ごめんね丸山さん、海斗は私と付き合ってるの」
「え? は? ももも、百華っ!?」
――――ふん。海斗の恋なんて、粉みじんに壊してやる!
突然の展開に頭が付いていかないのか、海斗は私の腕を振り払うことも出来ずに真っ赤になって慌てふためいている。こんなに余裕のない海斗を見るのは初めてで、さっきまで重くつかえていた胸が、ほんの少しだけスッとした。
「…………うそ、だって、彼女いないって聞いたのに……」
「からかわれるのが嫌で隠してたのよ。ね、海斗」
「ちょ、ちょっと待て百華。何を言っ……」
「ごめんねえ、勝手にバラしちゃって」
真っ赤な嘘だけどねっ。
私の言うことを信じちゃったのか、丸山さんは泣きそうな顔をしている。
ごめんね。でも私、引いてあげる気はないの。
「北条くん、ほ、本当なの……?」
「あ、えと、丸山、これはその、だってお前、そんな素振りちっとも……」
どうやって誤解を解こうか必死に考えているようで、海斗が私と丸山さんに交互に視線を向けながら、もにょもにょと歯切れの悪い言葉を繰り返している。
ふふん。誤解なんて解かせてやるものか。むしろ深めてやる。
……ねぇ、莉緒。あれをやるなら今よね。
こうなりゃ何でもしてやるわ。
見てて莉緒。私、頑張る!
私は焦る海斗の腕を引き、彼の顔をぐいっと自分に引き寄せた。身長差があるからこうでもしないと届かないんだよね……。私からも精一杯の背伸びをして、日に焼けた頬に顔を寄せる。
悪いけど、丸山さんにはここできっちり諦めてもらうわ!!
「っ! やだ…………!」
「…………………………ぇ、」
人間、切羽詰まれば何でも出来るみたい。
莉緒に言われた時は恥ずかしくて絶対に無理だと思っていたのに。今、私、海斗の頬にキスしてる……。
や、やればできるじゃん私。もちろん私の心臓は、バクバクと大きな音を立てているけれど。
海斗はよっぽどショックなのか、口をぱかっと開けたまま石像のようにぴしりと固まっている。丸山さんは目に大粒の涙を浮かべながら、パタパタと走り去っていった。
やった……やったわ……
私は海斗の恋を潰したのだ。ふ、ふふふふふ…………
ざまーみろ、海斗っっ!!
達成感に胸が震える。これは完勝といっても差し支えない結果だと思う。私は今、成績で負ける以上のダメージを海斗に与えてやったのだ。普段は余裕たっぷりの憎らしいライバルが、今日は始終おろおろし、最後はショックに固まっていた。
口元にくっきりと弧を描きながら海斗の顔を見上げる。ふふ、なんて言ってやろうかな。ワクワクしながら彼に勝利宣言を突き付けてやろうとした瞬間――――……なぜか私の唇には生温かいものがぐにゅりと押し付けられていた。…………あれえ?
「むぐっ、むぐむぐむぐ……!」
勝利宣言どころか、くぐもった呻き声しかあげられない。
えーと、私の気のせいじゃなければ、海斗の顔がやけに近い気がするんですけど……。私の口を塞いでいるこのやけに柔らかいものの正体ってもしかして……いや、もしかしなくても……あれ?
あれあれ? あれええええ?????
駄目だ。頭がぐるぐると回って、ちっとも思考がまとまらない。目もぐるぐると回ってきた気がする。ついでに息も苦しくなってきた。ちょっと密封長すぎ。酸素、酸素!
ぽかぽかと目の前の壁を叩いたら、ようやく唇から何かが離れて、ぷはっと息をついた。ゼイゼイと呼吸をしながら目を開けると、熱っぽい瞳をした海斗の顔が間近に見えて、ぎょっとする。
「はぁ、百華……。よく分からないけどさ、そういうことでいいんだよな?」
「――――は、はぃぃぃぃ?」
そういうことって、どういうこと!?
私の方こそよく分からないんだけど……ざまーみろと言えるような雰囲気じゃないのは確かだ。
「こんなことして、お前も俺が好きってことだよな?」
「……え?」
いや、好きっていうか、その。
海斗と丸山さんの仲を壊してやろうと思っただけなんだけど。
もしかして勘違いさせちゃった?
……ってちょっと待って。もももも、『も』?
「も、って何? も、って何ぃ!?」
ダメ! 余計に混乱してきた!
「んなの、俺もお前が好きってことに決まってんだろ」
「嘘っ。だって海斗は私のこと、嫌ってたよね?」
「いや嫌ってねぇけど。……むしろ百華の方こそ、俺のこと嫌ってたよな?」
海斗が……私を好き?
いやいや何かの冗談でしょう。だってこれまで一度も好意的な態度を取られたこと、なかったし……
海斗が気まずそうに目を逸らす。
「ま、しょーがねーよな。お前にはひっでぇ態度ばっか取ってたし。……俺さあ、喧嘩ふっかけるようなことしか言えなかったけど……本当はずっと百華と仲良くしたいと思ってた」
――――――え?
「中学に入って、ガキっぽい態度は止めようって思ったんだけどさぁ。……お前、覚えてる? 入学式の日に俺が、必死になって笑顔作ってお前の制服姿褒めたらさ、気持ち悪!つったの。それからしばらくお前に避けられてさ、むちゃくちゃ落ち込んだわ。そう都合よく行くわけねえなって、思い知らされた」
覚えてる。
入学式の日の朝、家を出たら海斗が腕を組んで私のことじっと見ててさ。何事かと訝しんでいたら、制服、似合ってるじゃん、って言われたんだよね。
正直、馬鹿にされたと思った。だってあの時の海斗、すごくうさんくさい笑顔してたんだもん。
あれは海斗なりの歩み寄りだったのか。
ごめん。全然気づかなかった……。
その後、しばらく避けていたのも覚えている。
だって制服姿の海斗が妙に大人びて見えて、……悔しいことに、ちょっとばかしカッコよく見えちゃったんだよね。隣にいると妙に落ち着かなくて、話しかけられそうになる度に逃げていた。
「だから、初めての中間テストで百華から挑まれた時、すっげえ嬉しかった。俺が求めてる関係じゃなかったけど、一緒に居られるならもうこれでいいやって思った」
海斗と顔を合わせることがなくなって、ホッとしたのと同時に、心にぽっかりと穴の空いたような物足りなさも感じていた。
だからなのかもしれない。
私は、……再び勝負を持ちかけるようになったのだ。
「嫌われることばかり続けてた。好かれるのはもう諦めてた。怒りの感情を向けられているうちは、百華は、俺を見てくれたから」
「海斗……」
「だからこんなの、俺の方こそ嘘みたいなんだけど。……なあ。お前も俺のこと好き……なんだよな?」
海斗に真っ直ぐに見つめられて。どきりと心臓が跳ねる。
――――本当は分かってた。
中学に上がる頃から海斗の態度は変わっていた。嫌味な態度は相変わらずだったけど、海斗の方から何かを競おうと持ち掛けてくることはなくなっていた。
そう、ムキになっていたのは私だけ。
昔と違って、今の海斗は私をライバルだなんて思っていない。中学の時も、高校に入ってからも、私が一方的に海斗に勝とうとしていただけだった。
鼻を明かしてやりたいと思った。ざま―みろと言ってやりたいと思った。けれどそれ以上に期待していた。海斗を打ち負かすことが出来たら、彼に認めてもらえるような気がして。あのキラキラとした眩しい笑顔を、私にも向けてもらえるんじゃないかと――――期待していた。
『よろしくね』
あの時からずっと。
私は、海斗に振り向いて欲しかったのだ。
「…………うん。たぶん、私も好き」
言葉にしたら、すとんと胸に落ちてきた。なあんだ。私、海斗のことが好きだったんだ。ずっとずっと好きだったんだ。
クスクスと笑いがこみ上げてくる。そんな私を見て、海斗が恨めしそうな顔をした。
「たぶんてなんだよ、たぶんて」
「だって今、気付いたんだもん……自分の気持ちに」
丸山さんに告白されている海斗を見て、ショックを受けた。
ライバル関係でいられなくなる、なんてただの言い訳だ。
「私、海斗を取られたくなかったから、あんなに必死になってたんだなって」
海斗が口元を押さえながらぐっと呻いている。
「……俺、夢見てんじゃねえよな?」
「気になるなら、渾身の右ストレートをお腹に入れてあげようか?」
「ソレ何度も言ってるけど、ぜんっぜん痛くねえからな? たぶんそんなんされたら笑う」
「なんでよ」
「可愛すぎて笑う」
「かわ……っっっ!!」
海斗の爆弾発言に、ぶわりと頬に熱が集まる。
「うっわ真っ赤。もしかして可愛いって言われて照れてんの?」
「ちちち、違うしっ!」
「ははっ。焦ってんの、すっげえ可愛い」
優しい眼差しで見つめられて、ますます狼狽えてしまう。
なんてこと。
さっきまで私の方が押していたのに……いつの間にか立場が逆転しちゃってない!?
だって、可愛いなんて言うから。今まで一度も言われたことなかったのに、海斗が急にそんなこと言うから……!
「~~~~んもう! もうっ!! そういうこと、言うんじゃないっ!!!」
「なんなのその猫パンチ? 俺に爆笑してほしいの? むちゃくちゃ可愛いんですけど」
「くぅぅぅぅぅ、また言った!」
結局いつもと同じじゃないっ!
「……今日こそ海斗に勝てたと思ったのに……」
「あぁ?」
「丸山さん。あの子可愛いしさ、告白されて海斗も喜んでると思ってた」
「え? いやそりゃ可愛い女の子に告られたら嬉しいけどさー……断るつもりだったよ?」
「あのまま付き合うつもりに見えたの! だから阻止して、今度こそざまぁみろって言ってやるつもりだったのにぃぃぃぃ!!! 海斗ってば、がっかりどころかすっごく嬉しそうな顔してるし……。あぁぁ悔しい。私ほんっと、海斗に全然勝てないしっ」
むぅとむくれる私を見て、海斗がきょとんと目を見開いた。
それから、照れくさそうに、ぷいと顔を背ける。
「ばぁか。俺なんて――――とっくの昔にお前に負けてる」
一目惚れだよ悪いか。
そう言って。私の頭をがしがしと乱暴に掻く海斗は、耳まで真っ赤になっていた。




