第7話 忘れない
モリィに渡された本をひたすら頭に詰め込んで行くアリア。
一度見た物を覚える力、速読の能力はAIだった頃よりも落ちているものの、人間としては異次元の領域に居た。
たった数時間で三十冊以上の本を読み終えたほどである。
「…本当に覚えたのかい?」
「記憶しました。ただし、実践し経験するまでは会得したとは言い難いでしょう」
数時間前には文字すら読めなかったアリアである。
信じられないと思うのも無理はない。
「ポーションを作る上で重要な事は?」
「素材の品質管理と、薬草を磨り潰す際の力加減、調合時に絶え間なく一定の魔力を流し続ける事です」
パラリとめくっただけの内容を、こうもはっきり口にする。
「力加減の理由についてはなんて書いてあった?」
「潰し過ぎると薬草としての効力を失い、潰しが甘いと薬草の効果が抽出出来ません」
つまり、筋肉の繊細な制御が重要なのだ。
アリアはそう理解した。
そんなアリアの考えまで思い至らぬまま、モリィはただ感嘆の溜息を洩らした。
「アンタは立派な錬金術師になれるよ」
果たして本当にそうだろうか。
「はい、そうなれるよう己を鍛え上げます」
微妙に噛み合わない会話を続ける二人である。
唯一、フォックスだけが首を傾げたままクゥンと鳴いた。
「身体強化も覚えたなら、魔法の方もすぐに――――」
不意に止まった言葉に、アリアはモリィへと振り向く。
モリィは目を閉じ、浅い呼吸を繰り返していた。
「モリィさん?」
「…ちょっと眩暈がね」
そう言うモリィは、少し青白い顔をしているようだった。
アリアとフォックスが駆け寄り、モリィの様子を窺う。
「苦しいところはありますか?」
モリィの脈を測ろうと手首に指を当て、モリィに尋ねる。
この瞬間、何が起こっているかをアリアは理解した。
「いいや、大丈夫」
「―――そうですか」
手首で脈を感じられない。
理由は血圧の大きな低下…それは死が近い事を示している。
少し冷えた手を、アリアは優しく摩る。
何か手立てはないか考えながらも、医療設備もないこの場で出来る事など何も無かった。
錬金術の本にも、魔法の本にも…老衰する老人を生かす術など書かれていない。
「…こんな、急に…」
「急じゃないさ」
思わず零れた言葉に、モリィが反応を返す。
瞳は閉じられたままであったが、手は弱々しくもアリアの手を握り返していた。
思い返せば、モリィはあまり食事を取っていなかった。
睡眠も長く、筋力の低下からかあまり立ち上がる事もしなかった。
これらは老衰の前兆だったのだ。
「もっと色々教えてやるつもりだったんだがね…。まぁ、本を託せただけでも十分か…」
元々時間の無い身だったのだ。
誰かに何かを残せただけでも良かった。
モリィが思うのはそれだけ。
そっと目を開けば、何かが頬を伝った。
「すまないね、大した事もしてやれなくて」
「そんな事はありません」
「あたしは、何をするにも何時も遅いね…」
モリィが作った薬品の中には、彼女独自の薬がある。
それは特定の病気を治すものであったり、怪我の治療を行う物であったり。
誰かを治そうと研究し、しかし―――出来上がった頃には、その誰かはすでにこの世になかった。
何度も繰り返して来た後悔。
そして今、アリアにしてやれる事があるのに、それも出来ず…今度は、モリィが旅立とうとしている。
「そんな事はありません」
アリアが繰り返す。
モリィと過ごせたのは三日だけ。
しかし、その三日は、本当の意味で初めて人と触れ合った大切な時間であった。
アリアに強く刻み込まれた時間であった。
「後の事はガリオンに頼むといい。あたしからの最期の願いって言えば、奴も断らんだろうさ」
「――――はい」
贅沢を言えば、もう少し時間が欲しかった。
あと数日でも良かったのに。
そう思っても、モリィは口に出さない。
アリアをじっと見つめ、その顔を見ようとするも…もう、目が霞んで見えそうになかった。
代わりにアリアを抱き寄せる。
抵抗なく引き寄せられたアリアは、手を回してモリィを摩ってくれる。
少しでも楽になればと言うアリアの気遣いであった。
「アンタは少し心配な所があるからね…。変な男に騙されるんじゃないよ」
「はい」
「しっかり食ってしっかり寝る事」
「…はい」
「アタシみたいに、後悔する生き方するんじゃないよ」
「――――はい」
ああ、そうか。
アリアの震える声を聞いて、モリィはようやく理解した。
自分がアリアに何かしてやりたいと思う理由。
アリアに簡単に心を許してしまった理由。
アリアは誰かに寄り添える人間だ。
人の為にと行動出来る人間だ。
良く知らない老人を、心底心配出来る人間だ。
「アタシなんかの為に、泣くんじゃないよ」
「――――」
たった数日過ごしただけの老人の死に、涙を流せる人間なのだ。
だから、こうまで世話を焼きたくなる。
心配性が顔を覗かせる。
「フォックス…アリアの事を頼んだよ」
「クゥン…」
それなりに付き合いの長い友人は、弱々しくも確かに頷いた。
「何があっても、挫けるんじゃないよ…」
――――その言葉を最後に、モリィの身体から力が抜けていく。
「モリィさん…?」
その理由を理解しながらも、アリアはモリィの肩を揺らす。
無駄だと解っていたはずなのに、その行動を止められなかった。
数度揺らし、その手を止める。
僅かに開いた瞼を閉じさせ、そのままモリィの顔を撫ぜる。
「…おやすみなさい」
処理しきれない感情を抑え込みながら、それだけを告げる。
アリアに理解出来ている事は少ない。
瞳から涙が流れるのは『悲しい』から。
モリィの死を悲しんでいるから。
――――大切な人が亡くなる時、人は悲しむから。
もう一度モリィの頬を撫で、その顔を焼き付ける。
アリアの記憶力は未だ健在だ。
短い時間であったが、アリアはモリィの温もりを忘れない。
モリィが作ったシチューの味を忘れない。
この顔を、声を、アリアは生涯忘れない。