第69話 精霊
精霊とは。
世界に自然と言う名の秩序をもたらす存在であり、その維持や管理を司る。
神とは明確に異なる存在でありながら、その力は神に匹敵するとされる。
そんな存在は今、一人の少女から逃走している。
必死で。
それはもう必死で。
「わんわんわんわんわん!!!」
「待ってくださーい!!」
生物とは思えぬ急カーブを描き、後ろから迫るメイド。
力の流れだとか体重移動だとか、そう言った物が綿密に計算され尽した上での動き。
到底人智の及ばぬ動きを、自らの契約者は簡単にやってのける。
正に化け物である。
フォックスがかつて契約していた者の中には、力技で似たような事をやってしまう者だって居た。
だが、それでもアリアは異様に映る。
身体能力や魔法能力で言えば、アリアは彼等に敵わない。
しかし、それを覆せるだけのセンスが存在している。
それは頭の回転の早さであったり、制御能力の高さであったり…。
そうでなければ、いくら身体強化が得意であっても、あんな動きは到底出来ないだろう。
フォックスは前方に居たメイドの間をすり抜け、彼女達を障害物としてアリアの足止めを狙う。
だが、アリアは一瞬の迷いも無く地を蹴り、壁を走って迫り来る。
一切スピードを緩める事も無く、だ。
「あ、アリア!?」
「アレどうなってるの!?」
壁を垂直に走るアリアを見てハルノとユラギが絶句しているが、フォックスはそれ所ではない。
アレを見た瞬間、自分が逃げ切れるビジョンが見えなくなってしまった。
「わんわんわん!!」
「そこです!」
「わおん!?」
飛んで来たフォークを間一髪で躱し、殺すつもりかと叫ぶフォックス。
いや、そんなもので精霊が死ぬ訳ではないが、アリアに躊躇が一切無いのが問題だ。
「大丈夫です! 痛くしませんから!!」
「わおーん!!」
今フォークを投げた人間が、痛くしないと言って何の説得力があるのだろう。
必死に逃げたフォックスであったが、その幕切れは呆気ないものであった。
曲がった先が袋小路。
振り向けば、妙な威圧感を放ったアリアがゆっくりと歩いて来る所だった。
「さぁ…もう逃げ場はありませんよ?」
さて、何故こんな事態になっているのかと言えば、魔物避けの薬が始まりであった。
『今後また畑を作るのなら、魔物避けの薬をストックしておかなければいけませんね』
その言葉を聞いた瞬間、フォックスはアリアを見た。
同時に、アリアの首もグリンと曲がり、フォックスと目が合ったのである。
アレは捕食者の目であった。
自分を素材としてしか認識していないのではないか――――そんな疑問さえ浮かんだほどである。
フォックスは自分が丸裸にされる未来を想像し、その恐怖から一目散に逃げ出して……今に至るのだ。
自らの契約者から逃げ回る精霊など、過去を遡っても中々いないだろう。
「く、くぅん…!」
追い詰められ、致し方なしと説得を試みるフォックス。
前回の『事故』も踏まえ、別の素材を考えた方がいいのではないか。
その問い掛けに、アリアはこう答える。
「少し暖かくなって来ましたし、一度全て刈ってしまってもいいかもしれませんね」
通じていない…!
交渉に当たる以前の問題であった。
フォックスの念話がアリアに正確に伝わらないのは何故か。
フォックスは常々考えているものの、その答えには未だに辿り着けていない。
それは、重要な情報が欠落しているからとも言える。
精霊の念話とは。
イメージを伝える為、相手の心に働きかける一種の魔法である。
働きかけるに当たり、相手の感情を刺激したり、想起させる事で正確に伝える事が出来るのだ。
だが、相手は元々はAIなのである。
多少の感情は理解しつつあるとは言え、完全に理解したかと言えば全くもってそんな事は無い。
いや、理解はしつつも実感を伴っていないのだ。
そんな相手に何を想起させると言うのだろうか。
刺激したとして、それが何の感情であるかなど、本人に解るはずも無い。
つまり……普通の人間と同じ方法で意思疎通が出来る訳も無いのである。
アリアが元AIである事を知らぬ故の悲劇であった。
「先に、まずは身体を洗いましょうか」
そう言ってエプロンの中から出したのは洗濯板。
一体どんな洗い方を想定しているのか、そしてその洗濯板はどうやってしまっていたのか。
そう言った疑問が頭を過ぎ去る中、フォックスはただ叫ぶ事しか出来なかった。
「わおおおおん!!!」
「さぁ、行きましょう、フォックスさん」
◆
「何があったらこうなるのよ…」
ウリネはなんとも言えない気持ちで溜息を吐く。
目の前には泡だらけになった水場。
その惨状を引き起こしたであろうアリアも水浸しである。
「フォックスさんが抵抗するので」
「わんわん!」
しないわけないだろ、とフォックスは叫ぶ。
あの後、アリアはフォックスを洗剤入りの水へ叩き込み、抵抗するフォックスを力で無理矢理捻じ伏せた。
しかし相手も精霊の端くれである。
時に魔法を使い、アリアに全力の抵抗を行った。
精霊は契約者を傷付ける事が出来ない。
もしそんな制約が無ければ、今頃この場は大戦争へと発展していた事だろう。
洗った後に毛を刈られる事が確定しているフォックスからすれば、なんとしてもここで食い止めなければいけない。
アリアからすれば、やはり『動物』は水が苦手なのかと誤解を招く事になってしまっている。
「…なんでもいいけど、最後にちゃんと掃除しなさいよね」
頭痛に耐えながら、ウリネはそれだけ告げる。
彼女はアリアの監視も仕事に加えられている。
これからコレを見張らなければならないのかと思うと、少し眩暈を覚えるのだった。
「わんわん!」
「さぁ、続きを始めますよ」
「わんわんわんわん!!」
助けてくれとウリネに懇願するフォックスであるが、残念ながらウリネにはフォックスを認識出来ないのであった。




