第54話 願い
川の水質に関しては問題無かった。
いや、今調べられる範囲で異常は見つけれなかったと言うのが正確だろうか。
(何か溶け出しているか、バクテリアの影響かとも思いましたが、そんな様子はありませんでしたね)
グロームスパイアに詳しいフォックスに尋ねてみても、使用上問題は無いと返された。
もっと詳しい事を知っていそうなのだが、二人のやり取りはまだまだ曖昧だ。
何やら冒険者のようなイメージが届けられるだけで、それが何を意味するのかが解らない。
(…畑に使う分には問題無さそうですし、これは一旦保留としましょう)
調べるのなら顕微鏡や薬品を作る必要があるが、さすがにそれを作るだけの素材は無い。
アリアは物質を変質させる事が出来るが、それはある種の付与に近い。
水を水銀にしたり、小石を金に変えるほどの事は出来ないのだ。
…いや、出来なくもないのだが、あまりに効率が悪すぎる。
水を他の液体と混ざり合わない性質に書き換えるような事なら可能だが、水を全く別の液体に変えるとなると、途方もない労力を必要とする。
と言うより、そんな事が簡単に出来るのなら、食事改善の為の食材など自分で生み出している。
「先ほどからどうしました?」
黙り込んでいたアリアを心配し、セーラが顔を覗き込む。
「…いえ、考え事をしていました」
「考え事をしながら歩いていると、人にぶつかってしまいますよ」
セーラは口元を隠し、鈴の音のようなコロコロとした笑い声を零した。
正面に目を向ければ、行き交う領民達。
ここはイオニス領唯一の街、フロギアの中心部。
様々な商人や街人達が集まる心臓部とも呼べる場所だ。
「…賑やかな場所ですね」
「そりゃそうじゃろう。ここが賑やかで無くなった時は、それこそこの地の終わりじゃよ」
快活に笑うロブ。
今日はアリアとセーラ、ロブ…そして、赤髪の騎士、ニールが連れ立って街を歩いている。
彼はアドモンの元私兵であり、アリアを保護に向かったうちの一人でもある。
今回は三人が街に繰り出すと言う事で、護衛兼荷物持ちとして同行する事になっていた。
「買い物と言う事でしたが、本日はどちらまで?」
「日用品を買う目的でしたが、アリアが街を見て回った事が無いそうなので、色々立ち寄るつもりでいます」
と言うのは建前で。
事の発端は、アリアからの質問。
『硬貨の価値を教えてください』。
問われたセーラは意味が解らず、つい眉を顰めてしまったとか。
これまで何度か領主邸の外に出ているし、普通に買い物しているのだとばかり思っていたセーラ。
詳しく聞けば、一度も買い物した事など無く、街の作りさえよく知らないと言う。
事実、アリアはグロームスパイアへ行くにも決まった道を通っていたし、訪れた事があるのは運搬ギルドとロドニーの工房のみ。
運搬ギルドへは道を聞いてから向かった上、ロドニーの工房にはロブの案内があった。
そして、そのどちらもが、グロームスパイアへ向かう為の道中であったのだ。
――――つまり、アリアが知っている道は一本だけなのである。
「――――ここには他領の商人も集まっているのでしょうか?」
アリアは人の営みを眩しそうに見つめながら、この地の事について尋ねる。
これだけの人を『肉眼』で見るなど初めての事だ。
人の生活、息吹…そんなものを感じられた気がして、なんだか胸が熱くなってくる。
かつてのアリアも、こんな日常の中に溶け込んでいた。
自分の胸にあるのが郷愁なのか悲しみなのか。
それを正確に理解するほどには、感情と言う物を熟知し切れてはいなかった。
「ええ。この領で手に入るのは、殆どが他領からの物資ですので」
自給自足なんてほど遠い、イオニス領の現状を表す良い例であるだろう。
「まずは商店街を見て回ろうかのう」
「道中の護衛はお任せください」
ロブにそう言って答えるニール。
彼への信用は、今の時点では全くと言っていいほどに存在しない。
今回の買い物は、ニールの信用度を測る為のものでもあった。
ニールと言う男は私兵達をまとめる立場にあり、アドモンの元に居た頃も彼等を率いていた。
時に、汚い仕事を手伝った事もある。
それらに対する反発を押し殺し、病弱な娘を救いたいと言う一心でアドモンに尽して来たのがニールである。
そんな彼が刑に服さず、酌量の余地があると考えられたのは、彼の言動が理由だった。
アドモンと共に捕らえられた時、彼が最初に告げたのは、責任は部下ではなく指示した自分にあると言う事。
妻や娘は何も知らないので、どうか救って欲しいと言う事だけ。
質問されれば知っている限りを答えるし、アドモンがやって来た事の証拠さえ隠し持っていた。
アドモンに止めを刺したのは、ある種ニールであったとも言える。
この男は、家族や部下達を守る為に従順な私兵を演じながら、いつかその喉元を噛み切ろうと潜伏し続けていたのである。
部下や被害者の証言も彼を救う一助となった。
部下達に汚い仕事をさせないよう、その殆どを自分だけで請け負って来た。
殺人を命じられた時には被害者を逃がし、まるで死んだかのように偽装工作がされていた。
それらの証言、行動があったからこそ、辺境伯は彼を見守る事にしたのだ。
だが、ロブ達からすればそれを真に受ける訳にもいかない。
自分達が油断すれば、それこそ辺境伯の命に関わるような事態にもなるだろう。
今日集められたメンバーを見れば、その警戒度が見えて来る。
騎士相手でも自衛の出来るセーラ。
しっかり剣と鎧をまとっているロブ。
そして、グロームスパイアの魔物を狩れるアリア。
…例え、今この場で三人の命を狙ったとて、それを達成するのは難しい。
「では参りましょう」
セーラはそう促しながら、油断なく辺りを見据える。
向かった先で襲撃を受ける可能性さえあるのだ。
見た目は穏やかだが、今の緊張感はただならぬものが漂っている。
◆
「わたくしも付いていければ良かったのですけれど…」
「そう言うな。兵達の見定めが終われば、もう少し自由に動く事も出来るようになる。…まぁ、その前にお前のお披露目をしなくてはならんが」
注がれた紅茶に口を付け、暇そうな令嬢が頬を膨らませる。
ここは辺境伯の執務室。
セーラもアリアも居ない以上、クレアの安全を守るにはここが一番いいと判断したのである。
ここには辺境伯も居るし、ハリスも居る。
どちらも歳は取っているが、剣に覚えのある人物。
騎士団が救助に来るまで、襲撃を凌ぐぐらいは訳も無い。
「クレアの部屋は?」
「扉の前に護衛を二人配置しています。護衛を含め、内部に入った人間はいないようです」
残るグレイスとナッシュは、食事に何か混ぜられないよう厨房に控えている。
こちらも警戒態勢だ。
「アリアが罠を仕掛けたと言っていましたわ」
「扉を開けば、我々にも解るそうです」
ここにクレアが居るなど誰も知らない。
つまり、一人で部屋に残っていると思われているのだ。
クレアの暗殺を試みるなら、こんなチャンス滅多にない。
あからさまな罠ではあるが、それでも事実確認ぐらいはするだろう。
その為に扉を開けば、アリアの罠が炸裂する。
辺境伯側からすれば、敵を炙り出す罠。
だが、クレアの部屋――――と言うより、その先にあるアリアの部屋を探られるのは都合が悪い。
これだけ大胆な作戦に出たのは、アリアが『部屋の警備は万全』と言い切ったからだ。
その警備の一環として、部屋のドアに罠を仕掛けている。
「一体どんな罠なのでしょうね?」
どこか楽し気に言うクレアに、二人の老人は顔を顰めた。
どんな罠かは知らないが、作ったのがアリアなのだ。
起動すれば一体どんな結果が待ち受けているか考えるのも恐ろしい。
「……扉が開かない事を祈ろう」
苦々しく呟く辺境伯。
果たして、その願いは聞き届けられるのだろうか。




