第44話 圧倒的恐怖
「……ふむ」
火に掛けた調合用の鍋を見ながら、アリアは考える。
この領で作られている作物は、主に小麦。
その他には野菜が少々と言った所だ。
殆どの食糧は他領からの支援や輸入に頼っている上、作られている小麦や野菜も圧倒的に足りていない状態ではあるが。
他領からしても、イオニス領は無視出来ない場所である。
グロームスパイアからの魔物を抑える役割を担い、いざとなればその身を挺して守るのがイオニス領、そしてオード辺境伯家の仕事だからだ。
それ故に、最低限度の生活が出来るよう国や周辺の領から支援されている。
とは言え、もしこれが打ち切られる―――いや、打ち切られずとも、支援が減るだけであっと言う間に領地として立ちいかなくなるだろう。
他の領とて、飢饉の一つでも起これば自分の領で手一杯になるのだから。
そんなギリギリの状態で成り立っているのがこのイオニス領なのだ。
つまり、アリアが欲する食材を手にするなど、夢のまた夢なのである。
(せめてプロテインだけでも欲しい所ですが、なかなか上手くはいきませんね)
中世のファンタジー世界に、到底無さそうな品名が飛び出した。
アリアにとっては、プロテインが『せめて』のラインであるようだ。
しかし、この程度で諦めるアリアではない。
無ければ作ればいい。
この世界に来て、アリアが学んだ事の一つである。
幸い、農業に関する情報もアリアは記憶している。
この世界のみならず、地球の農業についてもだ。
(まずは農地の確保。そして、安定して収穫出来るように、育成方法の改善や品種改良を行う必要もあります。これらが成功し、領地が潤えば他領、他国にある食べ物を取り寄せる事も出来るかもしれません。そうする事で、プロテインやその他の健康食品も取り寄せられる可能性があります)
まず、この世界に健康食品と呼ばれる物は存在しない。
と言うより、健康食品と言う概念が無い。
そんな事を知る由も無いが、アリアの求めるハードルは無駄に高い。
(―――…そして、農地を得る為に問題になるのがワイバーン)
アリアの目的を阻む、翼竜。
この領地を脅かし、発展を大きく妨げて来た存在。
この地の人間にとっては、恐怖の代名詞とも言える魔物だ。
空を飛び、強靭な牙や爪で獲物を襲う。
何より怖いのは、その機動力。
魔法が存在する世界であっても、空の敵と言うのは非常に厄介な相手なのである。
特に、グロームスパイアのワイバーンとなれば、世間で見られるものより数段格上と言える存在だ。
(ワイバーンを何とかしなければ、筋肉を鍛えられない)
アリアは自身の二の腕を摘まむ。
かろうじてプニプニと言える状態ではないが、決して引き締まった筋肉とは言えない頼りなさだ。
これまで鍛錬は怠っていないのに、はっきり言って全く変わっていない。
(…ワイバーンを何とかせねばなりません)
まるで不倶戴天の敵とも言える気持ちで、ワイバーンを意識するアリア。
投石で頭蓋を粉砕され、時に追い回され、牙を引っこ抜かれたワイバーンであるが、彼等の受難はまだまだ続くようである。
煮立った鍋をかき混ぜ、魔力を流し込む。
鍋の中の黒く濁った液体は、アリアが手を加える事で色味を変えて行く。
黒から灰色へ、そして白。
最終的には白い濁りも消え、透明な液体へと姿を変えていた。
「これを試してみましょう」
今度は何を作ったのだと、フォックスが鍋を覗き込む。
鍋から立ち昇る香りは無く、無色無臭の薬品。
唯一感じられるのは、アリアの魔力がこれまで以上に注ぎこまれている事。
それだけ、受け入れられる魔力が多い素材を使用したのだと解る。
「クゥン?」
これは何かと問い掛ければ、珍しく意図を読み取ったアリアが頷いて見せた。
「これは魔物避けの薬です。モリィさんの資料を基に作った、新しい薬です」
モリィの遺した錬金術書には、虫避けの薬がある。
その薬の効果は、異世界らしい変わった仕組みだ。
匂いなどで追い払うのではなく、虫が危険と感じる魔力の波長を放つと言うもの。
虫の第六感を刺激し、この先は危険と思い込ませるのだ。
通常であれば天敵となる鳥などの素材を用い、魔力を増幅、拡散させる。
『ここに天敵が居るぞ』と、言外に訴えかけるのである。
「その作用を強化し、魔物にも影響を与えられるようにした薬です」
虫避けの効果は、魔物にまでは及ばない。
極小さな生物に対してのみ作用する、効果の弱いもの。
効果を強くすれば、もっと大型の生物などにも影響を及ぼす事が出来る。
……とは言え、かなりの魔力と精密な調合が必要であり、机上の空論、仮説上の効果でしかなかったものだが。
それを可能にしたのがこの薬だ。
モリィの遺した研究資料、そして薬師局の資料で得られた研究成果が役に立った。
今、アリアの頭の中には、薬師局の資料も全てインプットされているのである。
「わん!?」
それはつまり、人にも効果があるのではないか。
当然行き着く疑問である。
人に効果が及ばないのは効力が弱い為。
魔物にさえ作用すると言うのなら、人間にも作用するのが道理と言うものだ。
「それに関しては要検証と言った所でしょうか。魔物に対してのみ効果を発動する波長もあるかもしれません。様々な素材を混ぜ込む事で波長を変え、実験してみる必要があるでしょう」
一番大切な所が検証されていなかった。
こんな薬品を撒いたなら、誰も近付かぬ不毛の地が産まれるかもしれない。
「今回は、私の血を混ぜたものとフォックスさんの毛を混ぜたものを用意しました」
愕然となっていたフォックスへ、更に追い打ちが掛けられた。
フォックスが寝ている間に、フォックスの毛が素材として毟り取られていたのである。
しかし、偶然とは言えこれは中々面白い薬だと言えた。
グロームスパイアの魔物達は、アリアに対して恐怖心を抱いている。
そのアリアの魔力と血が混入された薬品ともなれば、彼等に対して高い効果を持つだろう。
問題は、グロームスパイア以外の魔物には効果を持たない事。
アリアと言う個人を識別しているからこそ、意味を持つ薬なのだ。
そして、精霊の毛が素材として使われた薬。
本来、魔物と精霊は敵対関係にある。
その精霊の気配を感じ取れば、魔物は近付いて来ない。
実際、モリィがグロームスパイアで生活出来たのは、フォックスが居た事による影響が大きいのだから。
素材のチョイスは非常に有意義なものであったと言える。
ただ一つの見落としが無ければ。
◆
アリアの用意した薬の効果、これを詳しく説明するならこうだ。
薬の効果範囲に入った者に、アリアの気配と魔力、そしてアリアが威嚇しているかのような錯覚を与える。
これにより第六感を刺激し、相手に危険と認識させて避けさせる。
アリアと言う個人を知っている者ほど、効果が高まると言う仕組みだ。
フォックスの薬にしても同じ事。
フォックスを知っている者ほど、その効果が高くなる。
魔物を避けると言う意味では、フォックスの毛を使用した薬は非常に有用な物である。
普通の人間にはフォックスを認識出来ない故に、人間側には危険度が理解出来ない。
なんとなく誰かが居るような気がする、敏感な者であれば怒っている気がする程度の認識に留まるだろう。
逆に、魔物からすれば精霊との敵対意識は遺伝子レベルで刻み込まれている。
そんな存在が居る場所、そして威嚇している場所ともなれば、よっぽどの理由が無ければ近付かない。
フォックスの毛で作った薬は、正にアリアが求めた薬なのである。
そう…その薬だけであれば。
その日、辺境伯邸に異常が起きた。
アリアの手に持った薬は、匂いなどで作用するものではない。
あくまで魔力の波動によって引き起こされる現象を利用したものだ。
魔力の波動によって引き起こされる現象とは。
解り易い例としては、アリアが初めて魔力を使った時が当てはまる。
あの時、魔力はアリアの体内のみならず、周囲を振動させるほどの影響を与えた。
要はあれと一緒だ。
つまり何が言いたいかと言えば、瓶に入れた所で効果は発動してしまっていると言う事である。
――――その者は、奥から一歩一歩踏み締めるようにして歩いて来た。
一歩進む度に襲う重圧。
まるで黒い靄を背負っているかのように、見る者全てを戦慄させた。
距離が近付けば近付くほど、呼吸する事すら難しくなる。
酸素を取り入れようと、無意識に呼吸が荒くなる。
膝を付いて頭を垂れたくなるような、圧倒的強者による無機質なプレッシャー。
とても目を合わせられない。
まるで太古の魔王を前にしたかのような、根源的な恐怖がそこにあった。
「ハルノさん、ユラギさん、おはようございます」
「「は、はひいいいぃぃぃ!!」」
そこには、アリアの圧倒的な存在感と威圧感が確かに存在していた。
そして、アリアが怒り狂っていると言う情報は、瞬く間に辺境伯邸、延いては貴族達に共有されるのである。




