第39話 勝負
クレアの完治が確認された事もあって、アリアは屋敷内を出歩く事が増えた。
今日訪れているのは、辺境伯家の資料室。
本来メイドでも出入り出来ない場所であるが、アリアはハンスの補佐と言う立場がある為、ここに通う事が許されている。
資料を手に取ってはパラパラと高速で捲るアリア。
…その様子をそっと見守るクレアの姿もあった。
(…あれで読めているのかしら…?)
身体の調子が戻ってから、クレアはアリアを観察する事が増えた。
見た目は深窓のお嬢様でありながら、好奇心が人一倍強いのである。
…そんな彼女にとって、アリアと言う生物は非常に興味深い観察対象であった。
一つの本を数分で読み終えると、アリアはまた別の本を手に取る。
今日はずっとこの繰り返しである。
「…何を調べているのでしょうね」
クレアと共に居るのはセーラだ。
この資料室に入れる人間は限られる。
屋敷の主であるオード辺境伯と孫娘のクレア。
家令であるハンスと、この資料室の管理を任されているグレイス。
そして、ハンスの補佐であるアリアだけ。
セーラも本来は入れる立場に無いのだが、クレアのお付きである以上、クレアが入るなら共に付いてくると言う訳である。
二人はアリアが戻した本のタイトルを確認して行く。
領地の特産について、領地の環境について、領地の農業について、領地の畜産について……領地の事を調べているのかと思いきや、突然植物学や動物学へと変わる。
「…薬の素材を探しているのでしょうか?」
まさか、筋肉を育てる為に栄養素の多い食べ物を探しているとは思うまい。
「…アリア。調べ物も良いのだけれど、薬の作成依頼が入って来たのでしょう? そんなにゆっくりしていて大丈夫なの?」
こう見えてアリアは多忙だ。
クレアの治療が終わったとは言え、アレンや運搬ギルドへ渡す薬の作成、薬師局の生成している薬の資料確認がある。
それに、アドモンの私兵達が抱える病人達へも対応しなければいけない。
診察自体はアレンがしてくれるのだが、その情報はアリアへと届き、それに対処する薬を作成する事になっているのだ。
「現在出来る所までは終了しています」
アリアはなんともないように答えた。
(…アリアさんって何時寝てるのかしら…)
仕事が早いだけで、アリアは早寝早起きである。
健康優良児とは彼女の為の言葉なのかもしれない。
アレンに渡す薬はそれほど多くなく、『失敗作』の中級のポーションを卸しただけだ。
素材に関しても、牙の採取をして来た時にグロームスパイアで手に入れて来ている。
運搬ギルドに卸す薬は『失敗作』の下級ポーション。
こちらは今まで散々作って来ており、モリィの家から持って来た大釜で作れば、それほど苦も無く必要分を揃えられた。
アドモンの私兵達に関してはアレンの診察待ちなので現状出来る事は無い。
唯一の問題は、薬師局の資料だ。
アリアの知らない素材も多く、その効能が判断出来ない。
ただ臨床結果を見るに、もっと効果的な薬の提案は出来た。
これは錬金術師の薬ではなく地球の医学から導き出された薬であり、薬師局で生成出来るかは解らないものの、効果が期待出来るものではあった。
…一つ懸念があるとすれば、地球の人間とこの世界の人間に大きな違いがあるのかどうか。
魔力と言う概念が無かった世界での物が、こちらの世界でも通じるかは試して見なければ解らない。
オード辺境伯が知りたかった不審な点については、それほど情報が無かった。
一部、以前の薬より効果が低い物が採用されていたぐらいで、その他の事は部外者のアリアには解らなかったのである。
結局、不審な点の何倍もの改善案を出される結果になり、オード辺境伯も目を丸くしていた。
そんな訳で、アリアも心置きなく食事改善に奔走しているのだ。
◆
「やっと会えたわね!」
食材について、ナッシュにも聞いてみようと厨房へ足を伸ばすアリア。
それを引き留めたのは勝気なメイドだった。
「御機嫌よう、ウリネさん」
「な、なんで私の名前を知ってるのよ!」
「覚えましたので」
アリアの頭の中には、すでにメイド達全員の顔と名前が入っている。
何故と聞かれても記憶したからだとしか答えられず、アリアはそのままを口にした。
「…まぁ、いいわ。それより、私と勝負しなさい!」
廊下のど真ん中で、なんとも声高に叫んだものである。
傍で見ていたフォックスは口をあんぐりと開けたまま硬直した。
精霊に正気を疑われたメイドなど、アリアを除けば初めての人間だ。
「では、騎士団で剣を借りて来ますね」
「ち、違っ…剣で戦う訳じゃないわ!」
対するアリアは即答であった。
なんなら了承を伝える前に準備を始めようとしたぐらいである。
望む所とはこう言う事だろう。
ウリネもアリアの噂は耳にしている。
その上で肉弾戦を挑もうとするほど、人生を諦めてはいなかった。
「メイド同士で競い合うのになんで剣なのよ!」
それもそうか、とフォックスが頷く。
最近、アリアばかり見ていた所為で常識が失われつつあったらしい。
「それではどんな事で競い合うのでしょうか?」
相変わらずの無表情であるが、声が明らかに落胆している。
制止がもう少し遅ければ、ウキウキで駆け出していたに違いない。
「どちらがより美味しい紅茶を淹れられるか勝負よ! し、審査員はライオネル様がいいわね!」
「ナッシュさんではなく?」
「ハンス様でもいいわ!」
家令相手に『でも』とは何事だろうか。
そんな突っ込みを入れるのはフォックスだけなのだが、悲しい事に二人には通じていない。
「私が勝ったらクレア様の専属メイドとハンス様の補佐を代わって貰うわ!」
「私に人事権は無いのですが」
「その鉄面皮を剥がしてやるから覚悟してなさい!」
アリアの異議はウリネに届く事なく、ウリネは厨房へと消えて行く。
アリアとフォックスは見つめ合い、一体なんなのだろうと首を傾げ合うのであった。
そんなこんなで、何故か紅茶の味を競う事になるのである。
◆
結果を語る必要はあるだろうか。
今食堂では、地面に崩れ落ちるウリネと無表情で佇むアリアが並んでいる。
さすがにオード辺境伯を呼ぶ訳にもいかず、ハンスが審査員となって紅茶を試して貰った。
…忙しいのにこんな事に付き合わされ、それでも笑顔で応じたハンスは中々の器である。
――――…内心では、アリアの紅茶に毒物を混入させ、ハンスを暗殺して罪を擦り付ける…そんなストーリーさえ考えていたのだが、二人が用意した紅茶に細工などはなく、ごく普通に美味しい紅茶を飲んだだけであった。
最初にこの話を聞いた時、アリアに頼んだのは解毒薬の準備だったりする。
「アリアの紅茶は私の趣味に合わせた素晴らしいものでした。…ウリネも努力したのでしょうが、少し茶葉の抽出が足りなかったようで。普段と違う水を使われたのでは?」
「う゛…」
図星である。
少しでも味が良くなるようにと、商人から買った湧き水を使用していたのだ。
「水によって味や茶葉の抽出時間も変わるものです。美味しい紅茶を淹れるには、まずは水を知る事ですな。…とは言え、いい時間を過ごさせて頂きました。ありがとうございます」
そう締めくくり、ハンスは仕事へと戻って行った。
残されたのは崩れ落ちたウリネとそれを見つめるアリアだけである。
「あの…」
「こ、これで勝ったと思わない事ね! 覚えてなさい!」
ガバリと立ち上がったかと思えば、ウリネは食堂を飛び出してしまった。
よほど悔しかったのか、少し涙ぐんでいたようである。
「……変わった方ですね」
そう呟くアリアの横で、フォックスは深い溜息を吐いた。
ウリネも、アリアにだけは言われたくなかっただろう、と。




