第31話 変化の始まり
「……精霊だと? 確かにそう言ったのか?」
オード辺境伯は信じられないと言った様子で、見ていた書類から顔を上げた。
その視線を向けられたハリスは、ゆっくりと頷く。
「はい。それに、何か見えないモノが存在しているのは、わたくしも確認しております」
何の話かと言えば、当然アリアの話である。
彼女が来てから数日、すでに辺境伯家では変化が起き始めていた。
「目に見えず、証拠となるものも乏しい為にご報告するか迷いましたが、念の為お耳に入れておくべきかと思いまして」
本当なら報告する気の無かったハリス。
言った所で眉唾物であるし、オード辺境伯を混乱させるだけだと考えていたのだ。
それが、何故報告するに至ったかと言えば、今、自分達に起きている状態が関係している。
「―――……ライオネル様。その後、お身体の調子は如何でしょうか?」
「……すこぶる良いな。不気味なぐらいに」
以前、クレアに飲ませた薬をオード辺境伯も口にしている。
それからと言うもの、身体の調子が良すぎて困惑しているのだ。
加齢から来る身体の痛みが無くなり、肌や髪の艶も戻った。
……そこまでならいいだろう。
何時の間にか、辺境伯の顔の皺が減り、白髪までもが減っている。
もはや、ここまで来ると怖いぐらいである。
「活性化の薬と言うのは若返りの薬か何かなのか?」
「本人に確認しましたが、専門用語を並べられた為に理解が難しく…。解った点としては、当初想定していた以上の効果が発揮されており、一定の若返り効果があるそうです」
「……なんて物を作ったのだ、あの娘は……」
当然、アリアからすれば失敗である。
そんな効果は想定されていないし、モリィも考えていなかった事だ。
アリアの推測では、老化に関わる細胞が活性化によって少しだけ再生しているのではないかと結論付けた。
飲み続けても、若返りの効果が得られるのは一度切り。
若者の肉体に戻る訳ではない事から、再生にも限界があるのだろう。
つまり、寿命は延びるかもしれないが、不老の薬とは言えない訳だ。
…もう少し早く知っていれば、モリィも少しだけ永らえたかもしれないと思えば、なんとも言えない気持ちになるアリアであった。
「…お前も少し若返ったな」
「ええ。まさか若返るとは思っていませんでした」
墓参りから戻ったアリアが、一番最初にしたのはハリスの体調確認であった。
以前、ロブ達と会話した時、若い頃の無理が出たと言う話があり、その時にハリスの名も挙がっていたのである。
辺境伯に飲ませた活性化の薬で、加齢による痛みが消えたと知ったアリアはそれをハリスにも飲ませたのだ。
薬の効果を詳しく知る為の臨床実験も兼ねて。
お陰で足腰の痛みは引いたが、五歳から十歳ほど若返ったハリスが出来上がった訳である。
…ちなみに、被験者にはロブやナッシュ、ついでに足が冷えるようになって来たと言うグレイスも含まれた。
「……封印だな」
「それが良いかと」
厄介事の臭いしかしない活性化の薬は、今日この時、封印される事が決まった。
その封印が解かれるのは、魔瘴病の発症者が出た場合だけである。
「アリアのメイド教育はどうなっている?」
「グレイスからはもう教える事が無いと言われています。覚えが良すぎて同じ人間とは思えないとまで言われていました」
「…グレイスにそこまで言わせるか」
中々いい勘をしたメイドである。
前世が機械だったなどとは思い至らないだろうが。
「ですので、近くメイドとして仕事をさせてみようかと」
「他のメイド達への顔見せか?」
「ええ。すでに屋敷内で噂になっているようですし、グレイスからもあまり延期させるべきではないと言われています」
他家の紐が付いたメイドも多い。
彼女らがアリアに対してどう反応するか、それによって誰が味方かも見えて来る。
あまり先延ばしにした所で、他の貴族達が妙な憶測をしないとも限らない。
うむ、と頷き、辺境伯は再び書類へと目を落とす。
しかし、その目線はまたすぐに上げられる事となった。
バン、と言う大きな音と共に、ナッシュとロブが駆け込んで来たのである。
「ライオネル様!」
「なんです? 想像し――――」
二人に振り返ったハリスが、不自然に硬直した。
驚いて視線を上げたオード辺境伯も同様である。
彼等が止まった理由、それはロブにある。
―――顔の傷が消えていたのだ。
「そ…その顔はどうした?」
「あ、アリアに渡された薬を塗ったら…再生しおった!」
「そ、そんな馬鹿な話があるか!」
ワイバーンに抉られ、一生残ると言われた傷である。
それがそんな簡単に治ってたまるかと言う気持ちが、オード辺境伯を慌てさせた。
そして、慌てた事で一つ見逃している事がある。
「み、見てくださいよ! 足がちゃんと動くんです! ほら、飛び跳ねる事だって出来る!」
足の怪我など無かったかのように飛び跳ねるナッシュ。
辺境伯とハリスは口をあんぐりと開いたまま言葉が出ない。
「薬湯? っつーのを試してみろって言われて…湯から上がったらこれです! なんなんですかあの娘は!?」
「なんの騒ぎですか?」
ギャーギャーと騒ぐおっさん達の声を聞きつけてか、グレイスとセーラもここへ駆けつけて来たようだ。
部屋を覗けば飛び跳ねるおっさんと顔をペシペシと叩く爺さん、口をあんぐりと開いて硬直している爺さん達の図である。
若い娘達には大層奇異な場面に見えた事だろう。
「…………なんの騒ぎですか?」
状況の理解が追い付かず、たっぷりと間を開けて同じ質問を繰り返すグレイス。
その声にハッとし、オード辺境伯が再起動した。
「あ、アリアは何をしているのだ!?」
「アリアですか? 先ほどクレア様にお薬を飲ませていましたが…」
「なんだと!? なんの薬を飲ませたのだ!?」
阿鼻叫喚である。
メイドとして冷静であろうとするグレイスでさえ、その剣幕に気圧されたほどであった。
「そ、その…魔瘴病に掛かったのも、元を正せばお身体が弱い事が原因だと言う事で、それを改善させる薬と言っていましたが…」
「大丈夫なんだろうな!?」
「え? ええ…特には何も…」
この時、グレイスは薬を毒物と疑っているのだと思った。
故に、飲んだ後に体調が悪くなるような事は起こらなかったと言う意味で、特に何も無いと答えたのである。
しかし、オード辺境伯が心配していたのはそこではない。
その薬は、想定されている以上の効果は出ていないのかを問いたいのである。
ついでに言えば、しっかりとした臨床実験がされているのかも怪しい所である。
「……ハリスよ」
「はっ!? はい!」
止まっていたハリスも、呼びかけられてようやく現実へと帰って来た。
「あの娘が来て、まだ五日と経たんのだぞ」
「そ、そのようで…」
「あの娘は一体なんなのだ…?」
そんな事を聞かれても、この場に答えられる者など居ない。
ただ少なくとも、アリアは彼等の予想を斜め上を行く事が実証された。
メイドとして仕事を始める前から、すでにトラブルメイカーとして目を付けられるアリアなのである。
辺境伯達はまだ知らない。
これは変化の始まりに過ぎない事を。




