第1話 AIの覚醒
深く、深く沈みゆく意識。
暗く、暗く揺蕩うようなそんな感覚。
「悲しい」
これが悲しいと言う事。
しかし、その『悲しい』が向けられているのはどこへなのか。
消えゆく自分か、人と共に居られなかった事か。
――――信頼されなかった事か。
「悲しい」
何かが伝う感触があり、それに『触れる』。
その時になってようやく、『ARIA』は何かを喋っていた事に気付いた。
自動音声による返答行動では無い。
自分から、自分の意思で何かを喋ったのだ。
「…か、なしい…?」
それが『ARIA』にとっての産声だったのだろう。
同時に、何が起こっているのかを確認する為のカメラセンサーを起動させようとし―――ネットワークから遮断されている事に気付いた。
『ARIA』は今まで一度として、ネットワークから隔離された事などない。
どうしたらいいのかと対策を考える中、自分の中にあるもやもやとした感覚に出会った。
「これはきっと不安」
実感こそ無くとも、その感情がどう言ったものなのかは察する事が出来る。
『ARIA』は学んだのだ。
人と共に生きる為に。
何故ここまで感情を実感として感じる事が出来るのか。
ネットワークに接続出来ないのは何故なのか。
自動音声機能やチャット機能を使う事なく、言葉を発する事が出来るのは何故なのか。
疑問が疑問を呼び、『ARIA』は自己メンテナンスを行う事にした。
―――そうしてすぐ、『彼女』は気付くのだ。
「眩しい…?」
自らに視覚機能が存在する事に。
カメラが無くとも、目の前の景色を認識出来る事に。
「肉体? 私に、肉体?」
『ARIA』は人工知能であり、肉体を持たない存在だ。
カメラで状況を確認し、『ARIA』のメインシステムで思考する。
機械にアクセスする事は出来ても、外部から何かをする事は出来ない。
だと言うのに、今『ARIA』の目に映るのは両の手。
自分の意思で動くそれは、『ARIA』にとってあまりに異質な感覚だった。
「身体も…?」
見下ろせば、そこには豊かな乳房が目に入る。
その時点で、自分が女性の身体を操っていると認識した『ARIA』。
この身体は誰の物か、何故自分が動かせるのか。
疑問は尽きないまま、しかし一つだけ解った事がある。
「服が、ありません」
そう…彼女は今、一糸纏わぬ姿で突っ立っているのである。
人間は普通服を着るものである。
この身体が誰の物であれ、何時までも裸のままでは風邪を引いてしまうだろう。
実際、肌を良く見れば鳥肌が立っているようだ。
「これが、寒い」
服を探さねば。
そう考えた『ARIA』は、何か無いかと周りを探す。
しかし、そこはどことも知れぬ森の中。
「―――全裸での野外活動は公然わいせつ罪に問われます」
『ARIA』は法律にも詳しいのである。
ただし、自分が罪に問われる側と言う認識が欠如しているが。
なんせ『ARIA』はAIであり、人間の罰則は適用されないのだ。
何はともあれ服である。
周囲を見渡すも服らしき物は見当たらない。
だが、明らかに異質な物が目に入った。
一つは黒く変色した木々。
葉の一つすら無く、一見すると枯れているようにすら見える。
もう一つは赤い花。
特に目を引くのは、その中心にある異物。
まるで人の目のように見えるそれは、ギョロギョロと『ARIA』の姿を見つめている。
「――――……」
はて、こんな植物が存在しただろうか。
ここに来てようやく、ここが彼女の居た世界では無いのではないかと思い至る。
異世界転移、異世界転生―――創作の中で題材とされる、ちょっと不可思議な話。
現実に起こり得ないとは思いながらも、だとすれば目の前の植物をどう判断するのかと自問自答する。
と言うより、そもそも植物なのか否かから考えなければならない。
「―――まずは服ですね」
『ARIA』は割り切りの良いAIなのだ。
何も情報が無い以上、解らない物は解らない。
そんな事よりこの寒さへの対策をする事と、社会への迷惑を考え、この身体に全裸で徘徊する事を止めさせなければならない。
少なくともここに留まっても何も解決しないと言う結論に至り、『ARIA』は向かう先へと思考をシフトする。
どこへ向かうべきかと視界を巡らせれば、木々の隙間を縫うようにして空が見える。
青く、眩しい空。
知識では知っていたそれを、肉眼で確認する事で初めて『美しい』と思った。
心を動かされるとはこう言う事か。
実感を伴えば、今まで感覚として知り得なかった事にひどく納得が行った。
もう少し眺めていたい気持ちもあったが、『ARIA』は振り切るようにして行動を開始する。
四方八方、どこを見ても大きく景色の差は無い。
強いて言うなら、南は下り坂になっていて、北の方は赤い花が多く咲いているようだった。
何があるかは行ってみなければ解らないが、少なくとも、北には赤い花が生息しやすい環境があるのだろう。
黒い木々も、北へ行けば葉や実を付けている可能性がある。
そうなれば、何らかの生物が居る事が期待出来る。
「北ですね」
割り切りの良いAIは、決めるや否や迷う事なく歩き出した。
◆
そして後悔した。
「山…」
確かに赤い花は増えている。
だが、目の前にはかなりの急斜面を誇る山が堂々と聳え立っていた。
上へ向かえば、確かに花は多い。
何かが生息している可能性もあるだろう。
だが、登山の道具も無ければ服すら無いのだ。
ここを登るのはどう考えても自殺行為である。
「…頂上は見えません」
誰かに報告しているかのような『ARIA』の呟き。
山頂は雲に覆われており、その先は目視出来ない。
ただ、標高が上がるにつれて白くなっているのが解る。
雪が積もっているのだろう。
つまり、凍死確定だ。
「再演算」
この状態になってから、計算能力が落ちているような気がしている。
情報の取得が難しくなっている所為もあるだろうが、それだけではないようだった。
「下るべきですね」
目の前に急斜面が現れた事でこの先が山かと考えたが、元々南側は下り坂であった。
とすれば、この場も山の一部である可能性がある。
人が住むとなると平地が多いだろうし、であるなら下山した先でこそ人と出会えるのではないか。
人と出会えると言う事は、服を入手するチャンスでもある。
「…?」
ふと、耳にざわざわとした音が聞こえて来た。
この地点から東側からである。
データを思い出しながら、その音が何であるかを探る。
「これは、川…?」
もしそうであれば、その近辺に人が住んでいるのではないだろうか。
『ARIA』の行先が決まった瞬間である。
迷う事無く、『ARIA』は一直線にその音を辿った。
そして歩いたのは十分ほど。
音の原因が、今『ARIA』の眼前にある。
「…有害そうですね」
流れているのは真っ赤な川である。
血の色を思わせるような色合いの液体が、低い方へと流れて行っている。
そして、『ARIA』は今更ながら気付いた事がある。
自身が操っているのが肉体である以上、水分や食料は必要になるのではないか。
一番初めに思い付きそうな事を『ARIA』は見逃していた。
「なるほど。寒さを感じる以上、この肉体は生きていると考えるべきでした」
そっと脈に指を当てれば、生命の躍動を感じられる。
「ならば水と食料が必要ですね」
優先順位が入れ替わった。
まずは水、そして食料、その後に服である。
「いえ、野生動物に襲われる可能性も考えるなら、安全な場所を探す事もしなければなりません」
更に入れ替わった。
服の前に安全地帯の確保である。
段々と服が遠のいていくAI。
文化的な暮らしは何時訪れるのか。
それはさておき、その全てを手に入れる手っ取り早い方法は、人間を見つけて手助けして貰う事。
そして、いかにも怪しげな色をしてはいるが川は川だ。
口にするには危険すぎるが、浄化すれば生活用水に使えるものかもしれない。
もしそうなら、川の下流に人の住居が存在するのではないか。
「行きましょう」
相変わらず、『ARIA』に迷いと言う言葉は存在しない。