第16話 グロームスパイアの変
グロームスパイアとは、イオニス領南部に存在する広大な山岳地帯である。
山の入り口から中腹までの間でさえ、騎士団が対応するような魔物が闊歩する危険な場所だ。
中腹から更に登れば、景色が一変して不気味な空間が広がる。
そこには災害級の魔物が所狭しと存在しており、人類でも到達出来たのは数人だけである。
そして、グロームスパイアと呼ばれる所以は、最奥に位置する特別高い山。
雲で山頂を覆い隠し、威風堂々と聳え立つそれを、人々は畏怖と共に見上げるのだ。
――――そのグロームスパイアで、今異変が起きていた。
「何故逃げるのですか!」
「わんわんわん!!」
爆走と言うに相応しい砂煙を上げ、グロームスパイアを駆け回る少女が一人。
転生した元AIであるアリアである。
やめてやれよ! と訴えるようにフォックスが肩をバシバシと叩いている。
アリアの先には悲壮な悲鳴を上げながら逃げ回る熊―――もとい、フェルグリムと呼ばれる魔物。
以前、アリアの飛び蹴りで瞬殺された魔物と同種の存在である。
それだけではない。
大きな狼やワイバーン、他にも様々な魔物が逃げ回っている。
まるで魔物が氾濫したかのような地獄を思わせる光景。
ちょっとした――――いや、立派な大惨事である。
「大丈夫です! 怪我は治しますから!」
「わんわん!」
そう言う問題じゃねぇよ! と、フォックスはアリアの服を噛み引き留めようとするものの、しかしアリアの力には敵わずふわふわと振り回されている。
精霊とは本来魔物と対になる存在である。
精霊は魔物を毛嫌いし、魔物も精霊を毛嫌いする。
基本的に避け合う双方だが、出会い方によっては問答無用で殺し合いに発展する事もある。
そんな犬猿の仲なのだ。
だが今、精霊であるはずのフォックスが魔物に同情すると言う前代未聞の様相を呈している。
「少し殴り合うだけですから!」
「ギャオオオ!!」
「わんわん!!」
アリアが魔物達を追う理由とは。
筋力トレーニングとして、スパーリングを行いたいのである。
その相手として選んだのが山に潜む魔物達であった。
…ちなみに、アリアは彼等を魔物と認識していない。
異世界に存在する動物の一種としか考えていないのだ。
故に、魔物に対する警戒と言う物があまりない。
と言うより、筋肉でどうにかなる相手としか思っていない。
「グオオ!!」
「ギャオオオ!!
「わんわんわん!」
「待ってくださーい!」
後にグロームスパイアの変と呼ばれるこの大惨事は、こうして始まったのである。
◆
ぜぇぜぇと荒い呼吸を繰り返し、アドモンは滴る汗を拭った。
「全く…馬車も通れんとは。こんな山奥に住む馬鹿の気がしれんわい」
十人ほどの部下を連れながら、彼等はグロームスパイアを登っている。
兵達は酷く怯えた様子であり、ビクビクと周囲を見回したりと落ち着きが無い様子だ。
ここは本来、人の踏み入るような場所では無いのである。
「本当に行くのですか…?」
「またか! 怖気づきおって!」
ここに至るまで兵士達から何度も確認され、アドモンには苛立ちが募る。
兵士達はここがどのような場所であるのか良く理解している。
しかし、強く引き留める事は出来ない。
モリィの薬が手に入らなくなった以上、薬師局から睨まれれば病気を治す事が出来ないのだ。
治癒の魔法は病気に効果は薄い上、使用者が限られるのである。
「全く、貴様らには高い――――」
突然、森が荒れだした。
恐ろしい叫び声と津波のような葉が騒めく音。
そして、大地を揺るがす激しい地響き。
「な、なんだ…?」
「何か来ます!」
アドモンを庇いつつ、急いで兵士達は岩陰に身を隠す。
慌てた様子でガシャガシャと音を立てていたが、そこに現れたモノ達はその音に構う余裕などなかった。
「ギャオオオオ!」
「グワアアア!」
彼等の前を通ったのはフェルグリムとワイバーン。
それも一体どころか十体近い数が、である。
どちらも、たった一体で数十人の騎士が動く強力な魔物であった。
「な…な…」
万が一、あれが街に向かうような事になれば街が滅んでしまうだろう。
だが、彼等は街の方に向かうでもなく、バラバラに散って去って行った。
不幸中の幸いと言うべきだろうか。
「なんなのだ…あれは…」
アドモンはようやく、この場がどれほど危険な場所かを実感した。
あれほどの魔物が群れを成すなど聞いた事も無い。
以前領主の兵が向かったと聞いて、心のどこかで油断があったのだ。
…まさか、アリアに追い回されて逃げている魔物達の一部だとは思っていない。
もう少し奥へと進めば、もっと多くの魔物が逃げ惑っている事だろう。
「か、帰りましょう! あんな数の魔物は相手にしきれません!」
ヒステリックに兵士の一人が叫ぶ。
グロームスパイアがここまでとは想定していなかった。
その危険を耳にする事はあっても、現実にここへ来た者は余りいないのである。
アドモンにも現実と言う物が見えて来たのである。
しかし、ともアドモンは思う。
どうやってモリィ、そしてアリアはこんな場所で暮らしているのか。
何か方法があるのではないかとも考えた。
モリィに関してはフォックスが共に生活していたからであるが、アリアに関しては少し事情が異なる。
まさか、アリアがこの辺りの魔物達に恐れられている存在だとは思い至らない。
「…領主の兵はここから無事に戻った。何か方法があるはずだ」
でなければ、こんな場所への出入りなど出来るはずもない。
今まで送った使者が帰って来なかったのはこう言う理由だったのだ。
面倒ではあるが、自分の命には代えられない。
上手く聞き出す算段を立てねばなるまい、とアドモンは歯噛みしつつ、撤退の合図を出そうとしたその時。
「…おや? こんな所で何をなさっているのですか?」
間が良いのか間が悪いのか。
アドモン達の元へ、少女の鈴のような声が響いた。
視線をやり、そして気付く。
この少女が求めていた相手であると。
「どうやら運が巡って来たらしい」
下卑た笑いを浮かべつつ、アドモンはアリアの前へと歩み寄る。
普通の人間には見えない精霊が、アドモンに『グルル』と唸った。




