第8話 滅びゆく物語
この街は躯街というのだとクルイと名乗った男は教えてくれた。死骸を千も万も積みあげてつくられたような腐臭が染みついた街。そこかしこで錆びついた鉄筋の骨が、戦場にうち捨てられた槍のように頭を突きだし、虫食いだらけの壁をよどんだ風がすり抜ける。電柱から垂れおちた電線は、ひびの入った道路の上でのたくり回り、断末魔を思わせる焼け焦げた模様を描いていた。割れたガラス窓を猛獣の牙のようにギラギラ輝かせた高層ビルは、巨人に下手なダルマ落としでもされたかのように間の階層がいくつも抜け落ちている。建築群にはひと突きすればバラバラになるトランプタワーのような危うさがあり、ひとつが崩れ去れば滅びが伝染し、ドミノが倒れるようにすべてが無に帰してしまうのではないかと思われた。けれど、それこそがこの街のいいところなのだと、クルイは嗤う。
僕はクルイに拾われて、躯街でしばらく暮らした。
初めに出会った時、彼は心底憐れなものを見るようなまなざしで、かわいそうに、と僕に声をかけた。どうして、と聞くと、そんな体をしていて辛くないのか、と逆に聞き返された。
クルイは骸骨が服を着て歩いているのではないかという風体で、薄い皮膚のしたにある血管を、顔や手の見える限りに、盛りあがった樹の根のように浮かびあがらせていた。髪はほとんどが抜けおちて、残った数本が懸命にしがみついているばかり。髑髏そのものであるかのような頬に挟まれた口には、欠けた歯が並んでいたが、それは奇妙にも生えかけている途中のように思えた。なめしていない生皮で作ったような厚みの均等ではないジャケットの上からでも、背筋が奇妙にねじ曲がっているのが分かる。落ちくぼんだ穴のような瞳の奥から、魚が海上の鳥を捕食しようとしているかのような、どこか異常さが感じられる視線が放たれていた。
僕に行く場所がないことを知ると、クルイは自らの住処に来るよう誘ってくれた。躯街の中央付近にいくつかそびえる、むき出しの胸骨のようなマンションのその一棟。歩くだけでぐらぐらと揺れる最上階。そこにクルイは住んでいた。他には一切人の気配はなく、そのマンションに住んでいるのは彼ひとりのようだった。
だだっ広いけれど、ほとんどなにもない部屋。しかし整っているわけでもなく、細かなゴミが放置されていて散らかった感じがした。クルイは、自分がいなくなった時に次の住人が住みやすいようになにも置いていないのだ、と言ったが、それを語る彼はそうすることで自分がいなくなれることを信じているような態度だった。
ぶよぶよのソファに腰をおろした僕に、クルイはいくつかの食べ物を差しだしてくれたが、見るからに食べられたものではなく、生きるためではなく全くその逆の目的のために食べる類のものだった。僕が差しだされた食べ物を拒み、食べなくても平気だ、と言うと、それは殊勝な心掛けだ、と感心したように目を丸くされた。
俺もそうでありたいよ、とクルイは言って、明確に毒以外のなにものでもない冒涜的な食べ物を矢継ぎ早に口に放りこむと、苦し気だがそれ以上に陶酔したような表情で、蛇が卵を呑みこむようにじっくりと胃に落とした。それからぼんやりしていたかと思うと、ねじ回し式の時計に目を向けて、なにかに気づいたように立ちあがる。そして窓から見える向かいのマンションの麓、彼方にある地面をのぞき込んだ。
落ちてしまいそうなほど身を乗りだしているので、心配になった僕が歩み寄ると、向かいのマンションの屋上から誰かが飛び降りた。指人形を思わせる影が落ちて、水風船が割れるのに似た音がかすかに響く。
落ちたのはモウという女性だと、クルイは僕に教えてくれた。なにかを期待するようなクルイの視線。けれどすぐに落胆へと変わる。平然と立ちあがり、またマンションに戻っていくモウの姿をクルイは食い入るように見つめた。そうして感慨深そうに、俺にもあんな頃があった、と溜息のような言葉をこぼした。
躯街で暮らすなかで、そこに住む何人かの住人と会ったが、その誰もがはるか遠い未来に訪れる時が、今すぐにやってきてくれることを願っていた。そして、運び人、という存在を待っていた。運ばれて来るのを待っているのではない。運ばれて行くのを夢見ているのだ。
硝子盤でこの世界の過去から未来をのぞくと、そこには命にへばりつくように日々を過ごす人々が、その身を命から引き剥がそうと必死になって奮闘する様が、壊れた映写機が作りだす禍々しい影のようにくり返し映しだされた。
エポヌの前世を探すが、その姿はどこにも見当たらない。けれど、それらしい影はこの世界に住む全ての者のかたわらにあった。誰もが心にどす黒い感情をまとわせている。魔女に呪われたからこの世界はこうであるのか、元々こういう世界だったのか、いずれかは分からない。もし前者であるならば、人々の心を導くことこそ呪いを解くすべなのかもしれなかった。しかしそんな大それたことが可能とは到底思えなかった。
世界の終焉にはクルイひとりが残されていた。クルイはむせび泣き、寄り添う影が憐れな生者を慰める。途方もない年月を経て、クルイは朽ち果て、滅んでいった。そうして何もなくなると、この物語は閉じられた。
閉じてもなお、物語は続いているようだった。その行く末を確認しようとしたが、孤独な無を見続けるという途方もない作業に僕はくじけてしまい、そのうち諦めてしまった。
僕は旅に出ることにした。この世界のことをもっとよく知りたい、そう話すとクルイは僕についてくると言いだした。
旅立つ直前、クルイはモウのことを妙に気にかけていた。けれど面識があるわけではなく、顔を合わせたことも、言葉を交わしたこともないようだった。僕も躯街に暮らしている間、モウに会ったことはなかった。一度訪ねたことはあったが、モウが住んでいるはずのマンションの全ての部屋をノックしても誰も顔を出さなかった。クルイは彼女が諦めることなく、挑戦し続けることを切に願っているような言葉を何度も口にしたが、実際に期待していることはその全く逆のように僕には思えた。クルイは彼女の飛び降りをいつも食い入るように眺めていたし、それを楽しみにしているそぶりさえあった。彼女に自らを投影して、なんらかの希望を託しているようだった。けれどその度に深く己を傷つけていることを僕は知っていた。彼からはいつも諦観めいた乱雑さと卑屈さを感じる。だから諦めない彼女が羨ましいのではないか、と僕はこれまで彼と過ごした日々を思い返して考えていた。
僕はクルイと旅に出た。流浪するうちに多くの街に足を踏み入れた。屍街。喪街。獄街。嘆街。怪街。虚街。過去の残骸に人がこびりつくように寄り集まる場所を巡った。旅は長く続き、何年も、何十年も僕らは歩き続けた。
いずれの街も躯街と同じように廃墟と化しており、隅々まで腐臭が染みついていた。荒れ放題になった鉄の野原をさらに荒そうと躍起になった人々が暴れ回っていた。不思議と共通していたのは、深く大きな穴を掘り続ける人がいたことだった。
嘆街にいた穴掘り人はツリという名前で、しばらくそこで一緒に穴を掘ってみたりもした。どこまで掘るのか、と聞くとツリは、全員が入れるまで、と答える。全員とは、この世界に生きる全員という意味のようだった。クルイは呆れたように僕やツリを見ていたが、やがて自分も加わって穴を掘りはじめた。そうして百人ほどは優に入れそうな穴が出来上がると、ツリはその中央に寝そべって、ご褒美を待つ子供のような顔をして、曇天がたち込める空を見上げた。何日もそんな風にしていたが、なにも訪れないことが分かると、怒りと悲しみをあらわにして、手に馴染んだ採掘道具を放り投げ、わあわあと泣きはじめた。
成長の止まっていた穴をまた別の者が掘りだした。そうするとツリも加わり、数人の者たちで穴が再び広げられていった。
僕らはそんな者たちを尻目に、次の街へと向かった。どの街に行き、誰に会っても、そのいずれもが暗い希望をたぎらせていた。未来に怯え、今日という日にこそ望みを託していたのだった。口を揃えて語られたのは、運び人という実在も不確かな者のことだった。そして運び人は素晴らしい者であるというのが皆の共通認識だった。それは素晴らしい者以外であってはならないという断言にすら聞こえた。会ったことがある者から聞いたとか、そのまた知り合いから聞いたといった話が全てで、実際に運び人に会ったという者はいない。それでも噂に異議を唱える者はおらず、誰もが運び人の姿をはっきりと思い描いているようだった。それに、会ったことはないが、会ったような気がする、と答える者は夥しい数存在した。
ある者は満月のような瞳で折れた矢のような視線を射かけてくる、と言ったし、別の者は裂けた口からのぞく牙で我々を胃の腑に収めて運ぶのだ、と語った。はたまた別の者はある種の紅い花を捧げることで運び人はやってくると信じていたし、また似たような話で、紅い花のような鮮烈な血がこびりついた爪や、歯や、目玉を捧げるといいと言う者もいた。
運び人の到来を待ち望まない者はいなかった。誰もが信仰に近い感情を抱いているようだった。そして、それは共に旅をするクルイもまた同様だということに、僕は旅の途中ではっきりと気づかされることになった。
時折、僕に向けられる視線から薄々感じてはいた。僕はこの物語の住人とは決定的に違った。彼らは命から遠ざかり続けている。命を怖れるように。そこから離れることこそが至上の幸福のように考えているらしかった。だからこそ命をあるべきところへと運んでくれる運び人を待ち望んでいるのだ。僕は自らの命を手放そうなどと考えたこともなかった。むしろしがみつくように、みっともなく抱きすくめているのが僕なのだ。そんな僕を運び人と勘違いする者に出会うこともあった。
ひょっとして運び人か、そう僕に質問が投げかけられる度にクルイは隣で気のないふりをしながら、決してその答えを聞き逃さないようにと、厳めしいまなざしをして耳をそばだたせていた。
僕が、違う、と答えると深い落胆が返ってくる。そんな日のクルイは、憂さ晴らしをするかのように毒酒をぐいぐいとあおり、腐肉を腹いっぱいにため込んで、嘆息を響き渡らせた。
一度だけ気まぐれに、そうだ、と答えてみたことがあった。虚街でのことだった。長い旅に疲れ、エポヌの前世や呪いを解く方法が見つからず、心がささくれだっていた頃だ。その時、僕に質問をしたサビという名の老人と、クルイの反応を僕は忘れることができない。その記憶は激しい後悔と共に刻みつけられている。
びくり、と体が震えて赤子のようにも見えるサビがしわがれた古木のような手を伸ばした。持って行ってくれ、そう懇願される。ナイフで自らの胸を切り開き、腹の中身がすべからく差しだされる。僕が戸惑って首を横にふろうとするとクルイがひざまずき、老人を押しのけるようにして、俺が先だ、とわめきたてた。
やっぱりそうだったのか、とクルイはくり返し、僕の顔を見つめた。
僕の顔の深淵は彼にはどう見えているのだろうか。翼が生えているから天使にでも思われているのか。実際は物語の斥力のようなもので、僕の姿はこの世界の住人たちとそう大きく変わらない姿に見えていることは、長い旅のなかでよく理解している。けれど霞のなかにある姿も、目を凝らせば蜃気楼のように不確かで確かな像が感じ取れるのかもしれない。そんなことが、ふと頭に浮かんで、激しくゆさぶられる体から乖離した思考を弄んだ。
しばらくして正気を取り戻し、ごめんなさい、と謝るとサビは、すっと感情を失ったように焦点の合わない視線をさまよわせ、自らの腹のなかからまろびでた臓物を元の場所にのそのそとしまって立ち去っていった。
クルイは怒るでもなく、悲しむでもなく、老人と同じような顔を一瞬したかと思うと、僕の体からずり落ちるように倒れ、床に溶けこもうとするかのように、何十丁もの散弾銃で撃たれたみたいに穴だらけの冷たいコンクリートに全身をへばりつかせた。
それ以来、クルイは口を利かなくなった。僕は何度かクルイに謝罪の言葉を並べたが、その言葉も届いてはいないようだった。満月の夜になると、クルイは爪を剥がしはじめた。欠けた皿に両手両足分、二十個の爪を綺麗に丸く並べると、月の光がよく当たる窓辺にそれを置いた。そして祈りを捧げるかのように指を絡ませて、それを目印に運び人がやってくることを固く信じている様子で、一睡もせずに夜を明かした。
そんな儀式は満月がやってくる度におこなわれた。儀式を執りおこなっているのはクルイだけではないらしく、どこへ行っても窓辺のいくつかには同じような光景が見られた。時に爪ではなく、歯であったり、目玉だったりした。けれど朝になると、クルイの体は強靭な再生力で元通りになっていて、失おうとしたものが戻っていることに気がつくと、血管が浮きでた青白い手で、心底悲し気に髑髏のような顔を覆うのだった。
幾度かのそうした儀式を経て、月の満ち欠けよりも緩やかにクルイは元の調子へと戻っていった。いつも照れたような軽妙さで、軽薄に物事を語る彼だったが、決してあの時のことを口に出そうとすることはなかった。僕も蒸し返したりはしなかった。それでも時折、僕を眺めるクルイの瞳が、飢餓に苦しむ者が模造品の林檎を突きつけられたような虚しい輝きを帯びていることには気がついていた。
旅ではなにも得られなかった。ただ、運び人という者に会ってみたいという思いが僕のなかに芽生えていた。荒野を越えるたびに、運び人はエポヌかもしれない、という確信めいた予感が熟成されていた。
僕らは世界を一周して、再び躯街へと戻ってきた。躯街で過ごした時間は、旅をしていた時間に比べればあまりにも短いが、僕はこの場所にほのかな懐かしさを感じ、帰ってきた、なんて思ったりした。
雨が降っていた。暗い青緑色をした雨。絹のように細いその雫に触れた場所はじくじくと痛みだして、工場廃液を煮詰めたような匂いが立ち昇った。僕の翼は雨に濡れて、タールまみれになった鳥のように、じっとりと粘ついて開くこともできなくなった。
クルイと一緒に過去に住んでいた場所へと向かったが、もうマンションは崩れ去っていた。それを見たクルイは心底残念そうに、あそこに残っていたら運び人に会えたのかもしれないのに、と嘆いた。油のようなぬめりを帯びた雨が降りしきるなか、僕はクルイを宥めたが、彼は胸につきそうなほど顔を伏せて、会いたかったなあ、となおも嘆息するばかりだった。
僕らは雨を避けて向かいのマンションに足を踏み入れた。そのマンションの足元にはモウを数えきれない回数受けとめた道路が、蜘蛛の巣を思わせるひび割れを触手の如く伸ばしていた。
廊下を歩き階段をのぼるが、モウの姿は見当たらなかった。だからクルイはモウも自分たち同様に旅に出たのかもしれないなどと語っていた。クルイは足を引きずるようにしながらも軽い足取りで、以前と同じく最上階の一室に陣取ろうとしていた。長い階段をのぼりきり、廊下の中央にある扉に手をかけた瞬間、ひとりでに扉が開いた。
驚いた表情のモウが部屋のなかで後ずさった。鉢合わせになったクルイは酷く狼狽して、廊下の手すりまで後退すると、そこから飛び降りんばかりに背中を押しつけた。
モウが部屋から足を踏みだして、怪訝な表情を向けた。この物語の住人に共通した青白い顔。薄すぎる肌からは血管が浮きあがり、骸骨にかろうじて肉と肌が張りついているといった風情だ。白髪に染まった髪をすだれのように垂らした向こうに見える唇は、化粧っけがないにも関わらず朱を引いたように赤々と艶めいていた。
彼女はクルイに対して、誰、と聞いたが、扉の影に隠れるように立っていた僕を見て、運び人か、と尋ねた。苦い思い出が刺激されそうになってすぐさま否定すると、とりあえず入れ、と室内に招き入れられる。
部屋にはごちゃごちゃと集められたガラクタとしか思えないものが大量に詰めこまれており、足の踏み場もなかった。なにかの機械の部品だったと思われる歯のない歯車のような鉄片。元は色鮮やかであったのだろうが、今は単一の色に褪せてしまったコード類。蝙蝠のような形をした、明らかに部位が足りない骨。錆を集めたような砂に枯れた植物が埋められている植木鉢。
クルイと僕が植木鉢が置かれている窓際に腰を落ち着けると、割れた卵の殻のような器に注がれた毒酒が出される。僕が自分の分をクルイに渡すと、クルイは困ったように両手に器をひとつずつ持ちながら、交互に毒酒をちびちびと飲みはじめた。そうしながらも、彼女のことを盗み見るようにして、伏し目がちな視線を所在なく泳がせている。
なんの用か、と聞かれたが全く偶然の出会いであり、雨宿りをしようというだけだった。それを率直に伝えると、気のない返事が返ってきて、彼女は部屋から出ていってしまった。
どこに行ったのかと思って僕とクルイが顔を見合わせていると、窓の外から落下していく彼女が見えた。屋上から飛び降りたらしい。まだやってるのか、とクルイが壁際に置かれた足のない机の上のねじ回し式の時計を見て、苦々し気に口元をゆがめた。すぐに彼女が戻ってきたが、その体には痛んだところはまるでなく、この部屋を出ていった時のままだ。淡々として彼女は窓際に座り、降りしきる汚れた雨を眺めた。
クルイが気後れしているような態度でモウに話しかけたが、力強い瞳が返されて、怯えたように視線をそらす。クルイは入り口でのやり取りについて控えめに質問をした。もし運び人であったらどうするつもりだったのか、と聞かれた彼女は、運ばせるだけだ、とあっさりと答えた。
彼女の言い分はこうだった。運び人は望む望まないに関わらず必ず現れる。どうやって会うかではなく、会った時にどうするかこそが重要だ。くり返している飛び降り行為は、運び人に会った時に自分のなかでの決心を絶対に忘れないようにするため。運び人は自分たちを驚かし、脅し、または宥めすかして向かうべき場所から遠ざけようとする。それを乗り越えなければ、また長い長い時間、運び人を待つことになってしまう。
また、という言葉に反応したクルイが、一度でも運び人に会ったことがあるのか、と尋ねると、彼女は深々と頷いて、誰もが会ったことがあるはずだと言った。一度どころではない、何十、何百、それ以上の回数。しかし彼女自身もその答えに確信はあるが、記憶は不確かであることを認めているような口調でもあった。
クルイは、そんなはずはない、と彼女を糾弾し、噛みつかんばかりに眼窩の奥深くから血走った目をむき出したが、彼女は、諦めた人たちは覚えてないんだろう、とせせら笑った。覚えていることに耐えられない。自らの愚かな選択を胸に抱いたまま次の時を待つことができない。もしくは長すぎる待ち時間に記憶がとろけてしまっている。僕に対して、お前は覚えているんじゃないか、と聞かれるが、全く覚えがない。すると、彼女は残念そうに肩をすくめた。
惧れと好奇をないまぜにしたような表情でクルイは彼女を横目に見て、怖くはないのか、と漠然と尋ねた。彼女はクルイを、やっぱり臆病者だ、と言ったが、怖がっているのは彼だけではないことを僕は知っていた。僕が旅で出会った者はすべからく恐怖を皮膚の下に限界まで張り詰めさせて、今にも破裂しそうになっていた。
彼女は、怖くなどない、と答えたが予め録音されていた音声を流したような調子だった。そうして、それを隠すようにクルイをなじりはじめた。群れるから怖れる。心が弱くなる。誰かに看取られたいと願い、その誰かをないがしろにすることになんら罪悪感を抱いていない。また運び人に会ったとしても、同じ選択をくり返すだけ。運ばれることはない。行きつくことがない。そこまで言って、モウは自分自身の言葉で喉が裂けてしまったかのように突然押し黙った。その目の前で、違う、違う、と壊れた機械人形のようにクルイはくり返していた。けれど、部屋中がその言葉で満たされた時、違わない、と悲しそうにうなだれた。そうして、それのなにが悪いのか、と開き直ったように語気を荒げた。
永劫の時間を生き続け、もう数える程しか生物は残っていない。それがかろうじて身を寄せ合って、いくつかの街を築いているのは、お互いに同じことを考えているのを知っているからに他ならない。モウだって例外ではない。荒野にでも住めばいいものを、躯街の一角で過ごしている。わざわざ目立つ方法でその命を痛めつけている。それに俺は気づいていた。そしてモウも気づかれているのを知っていたはずだ。
まくしたてるクルイをにらみつけて、モウのこめかみがぴくぴくと震えだした。僕は、もうたくさんだ、とふたりの間に割って入って、衝突しそうになる筋張った体を押しのけた。右手でクルイを押すと、その体は垂れさがった雪のように簡単に崩れおちた。けれど左手はモウにがっしりと捕まえられてしまう。反射的に僕がモウに目を向けると、彼女は目玉がこぼれ落ちそうなほどに驚愕をたたえて、自らが握りしめている左手のひらを見つめていた。
そんな、と震える声。会ったことがなかったのか、と言われてもなんのことだか分からない。モウが厳粛な顔をして、僕の手を両手で包みこんだ。そこには一本の筋が走っている。剣で切り裂かれた古傷だ。クルイが溺れた者のように手足をばたつかせて起きあがると、僕の手を彼女から奪い取ってのぞき込んだ。驚きで全身を満たすと、僕の顔とその古傷を栗鼠のような動作で見比べる。
モウはクルイを引きはがし、僕の両肩に手を置くと、言い含めるよう語る。絶対に行くべきところから逃げてはいけない。その声には彼女からはじめて感じられた深い悔恨が宿っていた。然るべき時はいつだって僕のそばにあるらしかった。今すぐにでもそこへ行くことができる。よく考えて決めるように、彼女は何度も念を押した。
出ていって、と窓の外が指差されると、もう雨はあがっていた。靄のような中途半端な雲がただよい、水中から見上げているようなゆがんだ太陽の光が、暗がりを余計に暗く見せるためだけに降り注いでいる。
扉をくぐる僕を彼女はまぶしそうに見送った。
よすがもなく躯街をさまよう。僕の頭のなかでは様々な言葉が渦を巻いていた。エポヌ。呪い。運び人。恐怖。行くべき場所。
先を歩く僕にクルイが追いついてきて、左に回り込んできたかと思うと、その手を取って傷を愛おしそうに撫でた。ねだるべき親を持たない子供がショーケースのなかのおもちゃに手を伸ばすように。そんなクルイはひどく幼く見えた。
いいなあ、いいなあ、とくり返すクルイをやんわりとふり払うと、捨てられた子犬のように、ああ、と弱々しく道路にしなだれかかる。そして、落ちているガラスの破片を拾いあげて、僕の手のひらと同じ場所に切り傷を作りはじめた。クルイの手のひらに刻まれた糸のような傷は瞬く間にふさがって、決して痕が残ったりはしなかった。道路に寝っ転がったまま、骨ばった自らの手を不思議そうに目を細めて、いつまでも眺めている。
僕はそんなひねくれっぱなしのクルイを助け起こそうと、そばに寄って右手を差し伸べた。ちくり、と右手に痛みが走った。道路に芋虫のようなものが落ちた。芋虫からは、どろり、と赤い粘液のようなものが流れだしている。
クルイが手に持っていたガラスの破片を投げ捨てた。芋虫と同様の赤で濡れたガラスが割れると同時に、僕の右手を両手で抱えるようにつかむ。ぐっと力を込められると、激痛が走った。その激痛すらも愛おしそうにしながらクルイは僕の右手の小指にむしゃぶりついた。そこにはもう小指はなかった。小指だったものは道路に転がっている。傷口から吹きだす血を、骸骨同然のあごをカタカタと鳴らしながらクルイが吸う。そうすることで運び人と会えるという僕の権利を奪い取ることができると固く信じているかのようであった。
しがみついてくる骨と皮だけの体を力づくで押しのけると、クルイは赤子のように道路にひっくり返った。けれどすぐさま起きあがって、地中から這い出た虫の如くに熱のないまなざしを、僕の指の傷口、そこから垂れおちる血潮にのみ向けた。
クルイは蛙が舌を伸ばすような俊敏な動作で僕の切断された小指を拾いあげ、口に放りこんだ。そうしてガムでも食べるみたいにくちゃくちゃと頬張られると、頭のなかで鐘を打つような不快感が湧きあがった。
じっと僕を見つめる瞳は僕を通り過ぎてその先にいる運び人を見ているようだった。クルイはおもむろに道の端に立てかけられていた鉄の棒をつかんだ。錆が血糊のように張りついた鉄の棒は鋭利な切っ先を鈍く輝かせている。ひた、ひた、と近づいてくる。それでなにをするつもりかは容易に想像できた。
僕は翼を広げようとした。そうして空へと飛びあがろうとした。しかし汚れた雨によって蝋のように固められた翼は、うまく動かすことができなかった。
クルイは騒いだりしなかった。これまで共に過ごしてきたなかで、もっとも冷静で、落ち着いた態度だった。尖った鉄の棒を振り上げて、打ち下ろす。切っ先が僕の体に吸い込まれるように、いとも簡単に胸の真ん中から侵入し、背中から突き出た。
僕のそばに寄り添う者がいた。僕は唐突にその者のことを理解した。その者はずっと僕や、この世界に点在する街々で暮らす人たちのそばに寄り添い続けていた。
あらゆる風景が走馬灯のように流れている。その風景はこの物語のなかで僕が見聞きしたものだけでなく、館での出来事や、僕の前世や、全く覚えのない場面すらも含まれているようだった。僕はそれを見ているわけではなく、聞いているわけでもなかった。もうすでに僕という存在は肉体から解き放たれ、魂だけの存在になっているのを自覚した。これはその者を通して見ている光景であり、感じている音であり、匂いであった。既に喉を失っているので声は出せなかったが、精神のみでもってその者と交感することが可能だった。お互いの精神の表層を交感によって伝え合い、意思の伝達をなすことができた。
その者は運び人と呼ばれている存在だった。
運び人の後ろに僕の魂とぴったり同じ大きさの門があるのが分かった。その門は細緻な装飾で埋め尽くされており、その装飾は表面一杯に更なる装飾をまとっていた。そうして際限のない穴の中の穴のような装飾に食い破られた門は門という形を失っていたが、それが門であることは疑いようのない事実だと、運び人との交感を通して知った。僕の行くべき場所はその向こう側にあるらしかった。僕を門の向こうへと運び入れるのか、と思念によって運び人に尋ねると、どうかな、という曖昧な返答があった。運び人の言葉は僕の内側から湧きだしており、確かにそれは僕自身が紡いだ言葉に相違なかったが、僕の意思とはまるで別物だった。
運び人は今この瞬間において僕の願いをひとつだけ叶えてくれると言った。そして、こんな時の願いと言えばひとつしかないだろう、と釣り針をゆらすように僕の心を刺激した。願いを拒否するならば門をくぐることになる、この先には怖ろしいものがある、と運び人は魂の奥底にまで突き刺さるような思念を送ってきた。僕は奔流となって押し寄せてくるその思念にいたぶられ、脅される。心がバラバラになり、光も、闇もなくなる。無を無で洗い流したような空間。それから逃れようとして思念から精神を引きはがし、真っ先に浮かんだ、クルイはどうなったのか、ということに思いを馳せた。
運び人との交感を通してあらゆる場所が見通せた。この世界ではない場所も見えた。運び人はクルイの姿を探しだして、それを僕に見せてくれた。躯街の片隅で彼は夢中で僕の死骸を胃のなかに納めていた。
復讐でもしたいのか、と運び人が聞いたがそんな気持ちは微塵もなかった。僕が彼を憎んでいないことを交感によって知ったうえで、運び人は意地悪くもそんな思念を送ってきているということが、僕も交感によって分かっていた。
決断しろと命じられる。願いを祈れと。門から遠ざかりたいと言わせようとしているのだ。もしそれを祈ってしまえば、僕はもう二度と家族の元へと帰れなくなることを運び人は知っていた。魂が世界で染まり、この物語の住人になってしまう。だが祈らずにこの門を越えたとして、その先にあるのも僕が望むような場所ではなかった。門は永遠に続く流浪への入り口だった。
決めあぐねている僕に運び人は猶予をくれた。運び人はいつでも僕を門の向こう側へと運び入れられたが、そうはしなかった。よそ者の僕は後回しにしても構わないらしい。けれど、それとは別に、運び人が僕に対して親近感ともいえる感情を抱いていることが交感によってかすかに伝わってきた。僕を立ち退かせることへの躊躇と、滞在を延長させようとする思惑があるような気がした。それは僕の心の残響なのかもしれなかったが、確かに運び人の精神から発せられていた。
運び人は後にエポヌとなる魂なのだろうかと僕が考えると、言葉をなす前の意識を運び人が汲み取って、かつてエポヌであった時もあった、と答えた。おかしな話だ。クムモクモの時とは違う。エポヌ自身がこの物語に入ったわけではない。僕の疑問に対して、運び人が急速に遠ざかると同時に、僕と一体化するほどに近づいてくるのが分かった。あらゆるものは一方通行ではない、と運び人は宇宙よりも高い山の向こうから言った。数多の世界も、過去や未来といった時間も、果てとはじまりも、全てはつながっているのだ、と僕の内側から語りかける。全てが納められた箱のなかでは、そのひとつひとつが等価値になり無価値でもあるのだ、と運び人は説明する。
僕の精神が混迷のさなかにあるなか、何者かの魂が現れた。
やっぱり運び人だったのか、とサビの精神が嬉しそうに言った。しかし本物の運び人がそばにいることが分かると、僕との交感を薄めて、戸惑いながらも恭しい思念を送った。運んでくれ、と言って己の魂と同じ大きさをした門の向こうをにらみつけるサビの精神は急速に若返っていった。そのように運び人が感じさせているのだった。おお、と感嘆するサビの精神に対して、運び人は別の思念を送りはじめた。この門の先では腐朽が待っている。言葉が紡がれると、サビの精神はひび割れて、しなやかさを失い、崩れはじめた。悲鳴のようなサビの恐怖が伝わってくる。ひとつだけ願いを叶えてやる。祈れ。甘いささやきに導かれるように、サビは祈り、元の場所へと立ち戻っていった。
サビの様子を運び人の目を通して見る。虚街にある崩れおちた宿の一室。尽きたはずの命が延長され、腐ったベッドにぼんやりと横たわったまま、穴のあいた天井からよどんだ空を見続けていた。運び人はそれを満足そうに確認すると、また別の命へと視線を向けた。
この門の前においては、時間が伸び縮みしているらしかった。その証拠に先程まで躯街にいたはずのクルイが、はるか遠く離れたところにある獄街をさまよっている姿が見えた。クルイは胃袋が破れるほどに、たらふく毒を食らったようで、餓鬼のように膨れた腹をさすりながら夜とも昼とも分からない空模様の下を歩いていた。その瞬間は突然やってきた。操る糸が切れた人形のように、ぷつりと倒れ、動かなくなる。そしてクルイは門の前に現れた。
クルイは門を見上げた。憧れをみなぎらせ、運び人の方へ意識を向け、それから僕がいることに気がつくと激しいノイズのような思念をまき散らした。へっへっへっ、とクルイは薄ら笑いをした。隙をうかがうように距離をとり、そのう……すまなかったなあ、とおずおずと切りだす。僕は何か返答の思念を飛ばそうとしたが、それ以前に交感により僕が怒ってもいないことが分かったクルイは、すぐさま身をひるがえすようにして僕をまるきり無視しだすと、運び人にだけ意識を定めた。
門の向こうへ運んでくれ、とせがむように言うクルイに運び人はなにも応えない。しばらくすると、クルイは苦しそうにうめきはじめた。なにか食い物か飲み物がないか、と聞いてくる。いつの間にか僕らの周囲には砂粒が舞い踊る荒野があった。それは運び人が見せているまぼろしに過ぎないが、確かにそこに実在しているように感じられた。クルイは砂をすくってのみ込みはじめた。そうしてサンドバッグのように膨れると、虚ろになった心をただよわせた。運び人はそんな心の隙間に滑りこむように、門の向こうでは飢餓が待っている、と伝えた。そうして、ひとつだけ願いを叶えてやる。祈れ。と、サビにしたようにささやく。
クルイはすがるように僕に交感を求めたが、僕は彼の意思を支えるすべを持っていなかった。彼は祈り、毒で腹が膨れた肉体に再び戻ると、満たされた胃を撫でながら満足気に微笑んだ。
なぜこんなことをするのかという疑問が湧きあがっていた。これでは運び人ではなく、番人だ。けれど返ってきたのは、彼らが望んだことをしてやっているだけだ、という独善的ともとれる答えだった。彼らの考えをゆがめてでもかと尋ねると、本当に望んでいることを気がつかせているだけなのだと言う。承服しかねる問答だったが、思念を重ねようとしていると、そこにツリの魂が現れた。
ツリの肉体は柔らかい土の上、穴の底に横たわっていた。自ら掘った墓のなかで安らかな精神を保ったまま魂がここへとやってきたのだ。僕はこの門の前でツリに会って、あの行為にはモウの飛び降りと変わらない意味が込められていたことに気がついた。ツリは自分の魂の大きさをした門を眺めまわし、運び人にその向こうへと運ぶように願った。だがそれをたまたま聞き逃したとでもいう態度で、運び人は別の思念をツリへと送る。ツリの魂は住み慣れた嘆街にある、自らの手で掘った穴の底にいた。母なる大地に抱かれているように心地良いその場所。そこに土がかぶせられていく。たちまち息苦しさに満たされ、空気を求めてがむしゃらに動くが、身動きひとつとれなくなる。闇がとっぷりと染みこんだ場所で、ツリは絶叫をあげながらもがき続けていた。そんなツリが埋まった土の上から、門の向こうに今まさに踏みこみかけている、さらなる狭窄だけがその先にある、と運び人は告げる。ツリは願い、祈った。そうして大量の人々が横たわり並ぶ、死体安置所のような嘆街の穴の底へとまた帰っていった。
僕はこれでいいのだろうかと考えていた。門の向こう側について確かなことを知っているわけではない。そこが彼らが帰っていった場所よりも素晴らしいとは限らない。けれど怠惰な先延ばしを永久にくり返させることは残酷な所業のように思えてならなかった。ここを訪れる者たちはすべからく門前から追い払われ、また変わりない、変わりようがない日常へと戻っていった。人間だけでない。わずかに残った他の生命全てがここにやってきては、その事実すら忘れて生を延長させていた。
やがて、モウの魂が現れた。あんなにも決意をみなぎらせていた彼女も、いざ運び人を前にすると弱り切った態度を見せた。けれど、すぐに気丈さを取り戻して交感を強める。門の向こうへと運べ、と毅然とした態度で運び人に命じる。本当にいいのか、と運び人が確認したが、いい、という即答。その瞬間、僕らは雑踏のなかにいた。モウの精神からかすかな驚きと、それを食いしばって耐えようというゆるがぬ決心が伝わってきた。躯街もかつてはこんな大都市だったのかもしれない。会社員、学生、子供、生き生きと体を躍動させる人々がそばをかすめて通り過ぎていく。その誰もが僕らには気づかない。それどころか、隣を歩き、手をつないでいる者にすら気づいていない様子だった。モウの精神はうずくまり、心を閉ざし、ただ行き交う人々の気配のみを拠り所にしはじめた。運び人はモウが根をあげるのを待っていたが、予想以上に耐えられているらしく、しぶしぶといった風に、彼女の恐怖の根源を口にした。
門の向こうには孤独が待っている。それを聞いたモウは耐えかねたようにさめざめと泣きはじめた。そして、心の芯がぽっきりと折れてしまったように、願い、祈り、またあの躯街のマンションへと戻っていった。
彼女が去った後、運び人の精神の表層がざわめいていた。僕にはその理由が分かった。僕らは長大な時間、寄り添い、交感し続けていた。魂を重ね続けて、お互いのほんのすこし深い部分にまで、その根が張り巡らされようとしていた。その精神の奥は寂寞としているようで、巧妙に隠されていた恐怖が存在していた。そして、それはこの世界における根源的な恐怖であった。それこそが僕が探していた呪いだった。いまや運び人の存在そのものが呪いに成り果てていた。
孤独。それが真なる恐怖だった。死よりも怖ろしいもの。この世界の誰もが最後の一人になりたくないと願っていた。そうして駆り立てられ、競い合うようにして、門をくぐろうとしていたのだ。しかし、それは運び人にとっても同じだった。門の向こう側、そこにある死へと命を誘うのが課せられた役割であったが、それが終わった時、待っているのは尽きることのない孤独だった。門は運び人が通ることを許さなかった。運び人にとってこの門前こそが窮極の場所であり、その向こう側に到達することは叶わなかった。
僕が真なる恐怖に気がついたことに、運び人も気がついた。そうして無理やりにでも押し込めていたらしいそれが浮かびあがると、うめき声にも似た思念を発した。
どうして運び人はこの門をくぐれないのか、と僕は聞いた。運び人は、あらゆる世界や時間に存在する自分が全て納められた箱のなかにも底があるのだ、と語った。そうでなければパンドラの箱に希望が残ったりはしなかったのだから。そして、そんな箱の底に納められた者が運び人だった。運び人は取り残されるのをなによりも怖れていた。モウや他の者たちが抱いていたのと変わらない恐怖に突き動かされていたのだ。待ち受ける孤独は、劫火に焼かれるより、魂を砕かれるより、光や闇がない場所よりも怖ろしかった。死に到達できないからこそ、運び人は誰よりもそれを怖れていた。
門から遠ざかることが、生に近づくことではないことを運び人は知っていた。門から逃げかえった人々は、生きた証を失い、賽の河原の子供さながらにまた人生を積みあげる無為な作業を強いられる。分かっていながらも、運び人は己の恐怖が顕在しないようにするためにそれを強要し続けた。
僕には運び人の気持ちが理解できた。それは実際に僕が理解したわけではなく、同化が進み過ぎた故に理解したと感じたのかもしれなかった。僕はいつも家族を失うことを怖れていたし、その果てにある孤独を怖れていた。運び人はエポヌであり、僕の家族であり、僕自身でもあった。
交感される思念が同調し、精神が絡まり合い、融和しはじめた。僕は誰の望みかも定かでなくなった祈りを捧げた。それは僕自身に届き、僕は願いを聞き入れた。すると、この場所が僕という存在たちが納められた箱の底、窮極の場所になった。永久にかたわらに。それが誰かの願いだった。その願いにより孤独という呪いが霧消し、その精神の隅々が晴れ渡った。
運び人は訪れる者を驚かしたり、脅したり、宥めすかしたりしなくなった。彼らが望むままに、門の先へと命を運び入れてやった。世界にこびりついていた命が運び出され、遅々とした歩みで滅びへと向かっていた。そして、最後に残った一握りの命たちを一斉に刈り取ると、僕ら以外のものはなにもなくなった。
僕と運び人は寄り添って、どちらのものとも知れない未来へと思いを馳せた。それは過去であり、懐かしい思い出のようだった。紡がれる記憶を共有しながら、僕らは語らい続けた。
クムモクモの魂、その物語のなか。かつて通り過ぎた一瞬。今から通り過ぎようとしている一瞬。
迷いの森にそびえ立つ魔女の塔の、その麓。そこで僕はエポヌに押し倒され、背中を地面にこすりつけながら、硝子盤を巡る取っ組み合いをしている。だが、既にエポヌの瞳には理性の火が灯り、呪いは炎で浄化されたように消え去っていた。
「……ありがとう」
と、言ったのはエポヌなのか、運び人なのか。僕の体はエポヌの物語のなかでの放浪を経て、幾分逞しくなっていた。あれは前世でありながら、来世であった。全てが混在するという箱のなかに僕という存在が納められていることを自覚した。そしてその底に位置する窮極の場所、いつかたどりつくその門の前で、今も僕と運び人は共に居続けていた。
僕は今を生きはじめた。空からは魔女、地上からは竜が迫る状況。一刻の猶予もなかった。僕とエポヌは身を起こすと、手を取り合って魔女の塔のなかにいるシィノルトの元へと向かった。
大きく翼を広げると、エポヌを抱えて冷たい石レンガが積みあげられた、氷のような壁に沿って飛びあがる。頂上の部屋の窓枠まで到着すると、その内側から化け鼠たちが分厚いガラスがはめられた窓を開けてくれた。魔女の不在をいいことに、本当にシィノルトはその手下たちを取りこんでいるらしい。自分の娘ながら、その愛される才能というのには驚かされる。
翼を畳んで室内へ体をねじ込むと、勢い余って空中に放りだされてしまう。機転を利かせたエポヌが壁を蹴って、部屋の隅に置かれた粗末なベッドの方へと飛んでくれたから事なきを得たが、その衝撃で床がぐらぐらとゆれる。火にかけられていた大釜が横倒しになって、煮詰められたヘドロのような粘液を床にまき散らし、噴きだした黒煙が天井を一瞬で黒に染めあげた。
シィノルトが僕らの元へと駆け寄ってくる。手を広げてそれを迎え、三人で団子のように固まって抱き合った。
「お父様! エポちゃん!」
柔らかい丘のような頬の上を小さな涙がこぼれ落ちた。エポヌの物語を経た僕の姿はすこし変わってしまっていたので、シィノルトに受け入れられるかほんのちょっぴり心配していたのだが杞憂だったようだ。
薄汚れたローブがさざ波のように広がり、数匹の化け鼠がその上に乗ると、栗の棘のように生い茂った髭をざわめかせながら尖った鼻に落ちてくるを雫を眺めている。
僕がエポヌとシィノルトのふたりを抱えて飛びあがろうとした瞬間、塔がゆれはじめた。激しくゆさぶられて、立っているのもままならなくなる。階段を踏み抜くような勢いで、何者かが竜巻のように螺旋階段をのぼってくる。竜がやってきたのだ。机に置かれた実験器具たちが次々と床に落ちて、ガラスの飛沫を散らしている。薬品は溝に染みこんで混ざり合い、その奥で眠っていたらしい化け鼠たちが跳び起きて、上を下への大騒ぎになった。ふり落とされた石レンガの石片が小さな遺跡を築くように壁際に降り積もり、歯抜けになった壁面の向こう側に、竜が樹々を押し倒して作ったらしい迷いの森の抜け道がどこまでも伸びていた。
階段の出口から真っ白な長毛に覆われた巨獣、竜が頭をのぞかせる。竜は僕らを憎々し気ににらみつけると、牙をむき出して威嚇するような咆哮を発した。僕らと距離を取り、足を踏みしめるとその場から動かなくなる。けれど僕が翼を広げて窓から脱出しようかという気配を見せると、大きく背筋を引き絞って、いつでも飛びかかれるのだという体勢を取った。
隙をうかがいながら壁の上部にある窓へと視線を向けると、僕らの行く手に立ちはだかるように魔女が姿を現した。竜はこれを待っていたらしい。魔女はよほど興奮しているようで、息は切れぎれで、こめかみに血の色が浮かびあがっている。
「竜! そいつらを逃がしちゃダメだよ!」
「分かっていますとも」
竜の態度からはまだ冷静さが感じ取れたが、魔女は今にも僕らを取り殺しような形相で針のような箒の柄の切っ先をぎらつかせた。切り立った山のような歯をがちがちと鳴らして、魔女は僕らを呪おうとするように腕をふりあげたが、指先が天頂を指し示した時、突如として硬直してしまった。耳をそばだたせたかと思うと、その視線はばねのように外の方角へと向けられる。
風を切る音。それに気がついた瞬間には砲弾のように飛んできた人とも獣とも知れないものに、魔女の首はへし折られていた。
散った花びらのように窓から落ちる魔女の体を、豪風のように駆けた竜が受けとめる。見上げた先には瘴気を帯びた人影。鎖帷子の継ぎ目には土や茨の棘が詰まっており、腐葉土のなかから今しがた産まれてきたばかりのような姿だ。迷いの森に蔓延っていた使い魔たちよりも禍々しい気配をまとっており、虚脱したような表情からはかつての面影はほとんど残っていないが、それはまごうことなく勇者だった。あの穢れた家からこの塔まで、迷いの森を突っ切ってきたらしい。
凄まじい炸裂音と共に、勇者が立つ窓の足元の壁が崩れ落ちた。その振動にも勇者は微動だにせず、ただ獲物だけに焦点を合わしている。大穴の向こうには迷いの森が広がっている。そこでは竜の通った跡が急速に成長する植物たちによって修復され、元通りに覆いつくされようとしていたが、轟音と共に迫りくる巨大なカタパルトの車輪がそれを許さず、踏みつぶしていた。轍に群がる大量の小さな影。人間たちの大軍勢が塔に向かって攻めこんでくる。カタパルトから次々と重たい鉄の塊が射出され、塔の壁面を着々と削り取っていった。
竜の背で真っ白い長毛にうずもれるように倒れていた魔女が身を起こすと、折れていたはずの首は元通りまっすぐになっていた。濁った瞳で迷いの森の向こう側からやってくるものを見つめると、驚愕の表情を浮かべる。
鎧をまとった兵士たちの足取りはどこか虚ろだ。先頭に立つ少女の瞳だけが爛々と輝き、軍勢を導いていた。
「勇者よ聞け!」軍勢の先頭に立つ少女が可憐な声を張りあげた。
「行け! 分かたれた心臓を切り裂け! 決して再び寄り添うことがないように! 合わさることがないように! その呪いの一片たりとも残さずに粉砕せよ!」
魔女が狂ったように笑いだすと、勇者がその胴体の一点だけを狙って跳躍した。竜が尻尾と前足をつかって巧みにふり払うが、勇者は化け物じみた動きでことごとく致命傷を避け、壁や天井を這うように移動しながら、執拗な攻撃を重ねた。その様子は、森で見た魔女の使い魔や、呪われていたエポヌの姿と重なるものがあった。
竜が勇者の相手で手一杯になっている隙をついて、僕らは砲弾によって開けられた穴から塔を脱出することに成功していた。僕はシィノルトを抱えて翼を羽ばたかせ、エポヌは持ち前の身軽さで塔の壁面を滑りおりた。
外で待っていたのは砲弾と矢の雨であった。王国の軍勢がやってくるのとは逆方向、迷いの森のなかへと急いで逃げこんだが、降り注ぐ矢の勢いは衰えることはなく、その執拗さは茨でできた分厚い天井を打ち抜くほどであった。けれど軍勢の注意はあくまで塔、そこにいる魔女と竜のふたりに向けられており、逃げ去る僕らを追跡してくる者はいなかった。
僕はふたりを抱えて破られた森の天井から空へと飛びあがった。そのまま塔から離れるように雲に紛れて滑空する。ふり返ると崩壊する塔が見えた。舞いあがる土煙の一部が盛りあがり、その先端から純白の獣が弾丸のように飛びでると、迷いの森の樹々をへし折って駆けだした。背中には一滴の染みのように魔女がへばりついている。すぐさまその後を勇者が追う。竜よりも獣らしく、四つ足で大地を踏みしめ、冒涜的にすら感じる動きで、竜の通り道に積みあがった倒れた樹々や茨をものともせずに越えていく。
魔女は竜の背で笑い続けている。雷雨のような哄笑が遠のいて、僕らは迷いの森の上空を抜けると、小さな花畑に降り立った。
「もう大丈夫」
細かに震えているシィノルトを宥める。エポヌがその肩を抱いてやると、ゆっくりと震えがとまった。
竜と魔女はもう目の届かないところへと行ってしまった。もうすぐこの物語が終わる。僕は硝子盤をのぞき込んだ。彼らの行く末を見届けるために。彼らがいつか窮極の場所へとたどり着いた時、魂が再び巡り合うことを願って。
――あれを見た? 竜。
――見ました。
――傑作だったわね。あんなに穢れた人間は見たことない。あたし以上だわ。祝福だなんて馬鹿みたい。呪いと祝いの区別もついてないなんて。
――ぼくらは呪い過ぎたのです。
――……そうかもね。巡り巡って、結局、あたしたちのところに戻ってきたのか。勇者をあんな風にしちゃうなんてね。
――あの家の呪いを使ったのでしょう。
――とどめを刺しに戻るべきだった。あたしですら持て余している呪われた土地の穢れを扱えるなんて思っていなかったんだもの。
――ぼくだってそうです。ここまでのものとは。しかし、例えとどめを刺していたとしても、別の呪われた人間がやってくるだけだったでしょう。
――うん……、勇者が追ってきてる。もうすぐ追いつかれちゃうね。
――そのようです。
――あたしたちの心臓の秘密もばれちゃった。きっちりふたり同時に殺しにきてるよ。
――ええ。
――別れて逃げよっか。そうしたら、片方が生き残っている限り、わたしたちは生き続けられる。
――いけません。そうなった時、彼らは貴女を捕え、永遠の苦しみを味わわせるでしょう。
――見くびらないでよ。逃げてみせる。
――だめです。今回は、ぼくは貴女から離れたりしません。
――今回? いつも、ずっと一緒だったじゃない。
――そうですね。だから、これから一緒に眠りましょう。柔らかい土のしたで。
――それもいいか。素敵な棺にふたりで入ってさ。ずっとずっと一緒に……。