第7話 終わりのない物語
「偉大なる魔女よ。それを殺してはなりません」
「分かっていますとも。殺してなるものですか」
声が聞こえる。ひとつは肥沃な大地の奥底から轟いているように重厚で、深い慈愛が込められた男とも女とも分からない声。そして、もうひとつは甲高くって神経質そうな女の声。
腐った植物を煮立てたような不快な香りが這い寄ってきたが、僕の体はぴくりとも動かず、視界は床で埋められている。
「なんて素晴らしいの。これが……、悪魔?」
「悪魔と言うよりないでしょう」
耳元で聞こえる女の言葉を、頭の上から降り注いでくるようなもう一方の声がすぐさま肯定する。
「そうね。ああ、ついに悪魔の力が手に入るのね」
「それを傷つけてはなりません。逃がしてもなりません」
「分かってる。竜の言う通りにする」
近くにあった女の声が遠ざかり、鋲を打ちつけるような靴音が離れていく。
竜に魔女、そして悪魔。不可思議な言葉が飛び交っているが、神が実在する物語すらあったのだ。そういったものが存在する物語があるということを、心は既に受け入れはじめている。
「それで、こっちは……、あらあらあら、これが姫? 王国のお姫様なの?」
「その通りです」
「こんなものが森に落ちてるなんてねえ。それで、こっちは、何かしらこれは、すごく忌まわしい何か。きっと森で産まれたのね。あの家の近くに違いないわ。こんなに濃いなんて。うーん……、でも使い魔にする以外に使い道はなさそう」
「丁重に扱ってください」
「丁重? もちろん丁重に扱いますとも。竜が連れてきてくれたお客様ですから。けれど、あくまで、あたし流に。いいでしょう?」
「ええ」
「それにしても、こーんなお宝の山をたまたま拾ったなんて、とっても不思議。流石は竜だね」
「定めだったのです」
女は思案気に鼻を鳴らし、固く尖った足音を響かせながら戻ってくる。
「……あっそ。まあいいや」
渾身の力を込めると指先がわずかに動いた。夢のなかにいるように体が重い。僕は冷たい石レンガの床にうつ伏せで倒れている。あごを床にこすりつけながら、かすかに視線をあげると、格子状をした細くて黒い柱の向こうに真っ白な毛の塊と派手な顔の女が見えた。
視界がすこしずつはっきりしてきた。灰色の石レンガで作られた薄暗いドーム状の空間。分厚い木のテーブルがいくつも置かれ、荒々しい木目に浮かぶいくつもの節はこちらを見返す瞳のようだ。テーブルにはおどろおどろしい色をした液体が入ったフラスコや試験管、ランプに天秤などといった実験器具が乱雑に並べられている。部屋の中ほどには激しい炎にあぶられて全身を真っ黒に焦がした大釜があり、あぶくが弾ける鈍い音と共に、煤のような煙が天井の一点に向かって立ち昇っていた。
細い柱だと思ったのは鉄格子だ。鳥かごのような檻に入れられている。天井付近には窓があるが、そこから見えるのは巨大な樹の先端部分。どうやらここは地上からかなり離れた高い位置にあるらしい。
僕のそばでは檻よりも大きな純白の毛の塊がふわふわとゆれている。視線を沿わせていくと、上部には獣のような顔がついていた。長毛を飛沫のように床に散らせながら、太くしなやかな前足を床に伸ばして、巨大な獣が身を横たえる。その前足に女が腰掛けると、愛おし気に巨獣の腹のあたりを撫でた。
女は絵具を全色混ぜ合わせたような斑模様のワンピースに、闇色のとんがり帽子。片手には柄の先端がとんがった古びた箒。死に化粧みたいなメイクのせいで、顔だけがやたらと目立って、生首が浮かんでいるようだ。穢れのない純白の毛に埋もれているからか、余計に穢らわしく見えるその姿は、まさしく魔女。先程聞こえた魔女という言葉が、そのまま女の正体を表しているようだった。
巨獣の足元にシィノルトとエポヌが横たわっている。魔女が立ちあがり、箒をテーブルの端に立てかけた。そうしてエポヌの周りをヒールの音も高らかにうろつく。彼岸花で彩られた着物の袖にはいくつもの穴が穿たれ、黄金と漆黒とが螺旋状に混ざり合った髪が踏み荒らされて、黒一色に汚されていく。
「運びなさい。檻にね」
魔女が言うと石レンガの隙間からたっぷりと肥え太った茶色い鼠が湧きだしてきて、エポヌの体の下に滑り込むと、意外な力強さでその痩せた体を持ちあげた。妙に艶やかな桃色の尻尾をふり回しながら、尖った鼻先を突きだして、僕の檻の隣に運ぶ。それが終わると壁を一気に駆け登っていった。
天井から金属音がしたかと思えば、空気を切り裂きながら檻が落ちてきた。エポヌの周りを囲うように降ってきた鉄格子は、石レンガの床に、それを砕き抜きそうな勢いで衝突すると、鐘を強く打ったような大きな音を響かせる。
そうしている間にも巨獣がシィノルトを自らの鼻先に器用に乗せて運んでいる。クリーム色の髪が真っ白な巨獣の毛と混じり合う。薄茜色のドレスのフリルがゆれて、小さな手足が垂れさがった。巨獣は落としたら簡単に壊れそうなその体を丁寧に運ぶと、テーブルの影にある簡素なベッドに置く。
すぐさま魔女がベッドに歩み寄ってシィノルトの顔をのぞき込んだ。
「約束の日よりも先に姫をよこすなんて殊勝な連中だね。ちょっと最近、反抗的だったから心配してたけど、すっかり安心。さて、さて、さっそく……」
「殺してはなりません。三人とも」
声を弾ませる魔女に対して巨獣が首を横にふる。重厚で優し気な声は巨獣の口から紡がれているようだ。
「三人? ねえ竜。それって、悪魔と、姫と、あの忌まわしいもの?」
重々しい頷き。巨獣のあごのあたりから生えたとりわけ長い毛がふわりと魔女の帽子にかかる。その先端はほんのすこし、淡い緑色に染まっていた。竜と呼ばれてはいるが、その姿は犬か狼のようだ。僕が真っ先に想像する竜の姿とはかけ離れている。蜥蜴や蛇のような鱗はなく、翼も見当たらない。
「えぇ? えぇ?」
魔女が困惑した様子で頭にかかった毛をふり払い「薬にしちゃだめなの? いつもしてるじゃない。ドロドロに溶かさないと薬にできないよ」と、甘えるように巨獣を見上げた。
「薬はもう必要ないでしょう」落ち着き払った、宥めるような声色。「偉大なる魔女よ。今、それ以上薬を使うと赤子にまで戻ってしまいますよ。それに予備の薬ももう充分にあるではありませんか」
「それは、そうだけど。習慣というか、慣例というか……。予備はいくらあっても構わないし……」
子供が言い訳するみたいに魔女は巨獣を説得する言葉を探していたが、しばらくすると肩を落として諦めたようだった。それから、こちらにふり向いて「あれを使い魔にするのはいいでしょう? 死ぬほどこき使うけど、死なないわ」と、エポヌを指差す。
「もちろんかまいません。けれど、優しくしてあげてください」
「優しく? あたしはいつだって優しいでしょう? ねえ、竜」
「ええ。もちろんです」
そんなふたりの会話を尻目に、僕はようやく弛緩していた体の自由を取り戻しつつあった。産まれたばかりの小鹿のようにたどたどしく身を起こすと「あっ!」と、魔女が駆け寄ってきた。
「見て、見て! 竜! 顔がないよコイツ!」
動物園をはじめて訪れた少女のように魔女がはしゃぐ。事実、近くで見るその姿形は少女そのものであり、厚化粧に覆われた顔は若々しい。けれど瞳は濁り切っており、声は悠久の時を経た樹木の洞からこぼれ出た木枯らしのようにしわがれていた。
僕は鉄格子に寄りかかって何とか立ちあがった。正面にいる魔女、そしてその後ろからのっそりと近づいてくる巨獣を見据える。
「ここは……?」
「しゃべった! しゃべれるんだ。そりゃそうか。こんな立派な擬態してさ。まあ、あたしや竜にはこんなもの通用しないけど。人間なら同じ種族に見えるかもね。顔はともかく、こんな粗末な翼、隠す意味あるの? 禿げちゃって、はーげ、はーげ」
僕の言葉を無視して魔女が一方的にまくしたてる。
「まだ羽根が生えそろっていないのです。彼は子供なのですよ」
巨獣は僕のことを知っているようだ。もしかしたら、と思えてならないが、まだ確信には至らない。
「子供? 竜って悪魔にも詳しいんだ。子供なら今のうちに服従させとかないとね」
「この世界とは別の理、更に別の理のなかでも特別な理で生きるものです。貴女の魔法で彼を伏させることはできないでしょう」
「さっきまで寝っ転がってたじゃない」
「深淵に呪いがのみ込まれるだけです。魂まで届かない。従わせることは不可能ですよ」
「そんなこと、やってみなきゃ分からないでしょ」
「ちょっと、待って」僕は途切れさせながらもなんとか言葉を紡ぎだす。「その、君は、クムモクモ、なの?」
「何言ってんのコイツ」
魔女は怪訝そうに眉をひそめたが、その後ろで巨獣の瞳がわずかにゆらいだのが分かった。あごの下にある淡い緑色に染まった毛先がくるりと丸まっており、それは僕がよく知っている家族の姿を彷彿とさせる。
巨獣がゆっくりと口を開いた。すると、その喉奥から深緑を潜り抜ける爽やかで清浄なそよ風を思わせる吐息が溢れだす。夢見心地。体が浮遊するような感覚。全身の力が抜けて、軟体動物のように床にへたり込んでしまう。
視界が霞み、やがて閉ざされ、世界が音だけになった。
「どうしたの、竜」
「実験するのでしょう。準備の間、ぼくが抑えておきます」
「あら、あら、ありがとう。それなら呪具を見繕ってくる」
遠のいていく足音を聞きながら、僕の意識はぷっつりと途絶えた。
再び意識がつながった時は、魔女が声を荒げている場面であった。体中に妙なものが巻きつけられていて、服がびっしょりと濡れている。腐った土をこねたような匂いが全身にこびりついていて、それを嗅ぐとまた気絶してしまいそうだった。
「もう! なんでうまくいかないの!?」
巨獣は地団太を踏む魔女を遠くから見守っている。エポヌの姿が見当たらない。隣の檻がいつの間にかなくなっている。視線をさまよわせると、部屋の隅ににシィノルトがいた。天井付近の窓から落ちた四角い太陽の光が、暗雲のようによどんでしまった髪を照らしだしている。薄茜色のドレスは取りあげられ、灰色のボロ布に穴を空けただけのような、みすぼらしい恰好。カビの生えた雑巾で黙々と床掃除に励んでいる。
「そもそも、なんなのよコイツ! 魔力がない! こーんな妙ちきりんなモノを目の前にして、何にも成果がないなんて、口惜しいったらありゃしない。 ……隠してるの? それとも、子供だから?」
魔女は首をひねると、テーブルの上の薬品を手あたり次第引っつかんで、混ぜ合わせはじめた。
ヘドロのような液体を持って、魔女が僕の元へとやってくる。首根っこをつかまれて、無理やり顔をあげさせられると、ヘドロが僕の顔の穴、深淵に注ぎこまれる。僕は体が痺れたようになっていて抵抗できない。どろどろの液体の塊が流れてくるたびに僕の翼の先にわずかに生えている羽根の一本一本までもがわなないた。
「元気が出るお薬よ。早く育って、あたしにその力を見せてね。もし力を隠しているようなら、その時は酷い目に遭うことになるから、よおく考えて行動することね。竜との約束を破りたくないから殺しはしないけど、殺されたほうがマシってことはたくさんあるのよ。あたし、力に関する執着は誰にも負けないの。絶対に、どこにも逃げることはできないんだから、大人しく従がっておいた方が身のためよ」
冷酷に言い捨てて、空っぽになった容器を床に投げ捨てる。突き飛ばされた僕は、糸の切れた人形のように四肢を投げだし、冷たい石レンガに這いつくばる。こぼれたヘドロを掃除するためにシィノルトが小走りにやってくると、ごしごしと床を拭いながら、僕の方へ目だけで視線を向けた。
何とかしてやりたい。どうにかシィノルト、僕の娘を助けだしてやりたい。そんな気持ちが湧きあがるが、実際のところいま現在においては指先一本すら動かすことができない。
魔女がパチンと指を鳴らして尖った爪をくるりと動かすと、化け鼠たちがシィノルトに汚れた雑巾を投げつけた。
「ぜーんぶ掃除しなさい。この塔の上から下まで、全部よ」
口元を大きくゆがめ、心底楽しそうに魔女は哄笑した。渦を巻く甲高い魔女の声に包まれて、また僕は意識を保つことができなくなってしまった。
いつの間にか窓からは月明かりが差し込んでいた。この物語に入ってから、まだ一日が経っていないのか、それとも、もう数週間、数か月の時が経っているのか、途切れ途切れの記憶からは判別できない。
痛む体をなんとか起こすと、すぐそばで巨獣が僕のことを見下ろしていた。他には誰もいない。部屋は閑散として、夜が床裏にまでじっとりと染みこんでいる。
「ノナトハ」
巨獣が僕の名前を呼ぶ。この物語では誰も知るはずがない名前。
「クムモクモなの?」
「そうです。あなたたちの言うところのクムモクモ」
巨獣がしゃべるたびに、あごから垂れた長い毛の先、その淡い緑色の部分がくるくると躍る。
「どうしてこんな……」
「ごめんなさい。あなたたちには謝罪せねばなりません。けれど、ぼくは後悔していません。この世界に戻る必要があったんです。そのためにあなたたちを利用することになってしまっても、です」
僕は自身の顔の深淵にたくさんの疑問をにじませながら、毛にうずもれた精悍な顔を見つめた。そんな僕の心を汲み取ったかのように巨獣が訥々と語る。
「ぼくは魔女を守らねばなりません。使命を果たさなければならないのです」
「帰ろう。僕らの世界に」
巨獣に訴えかけてみたが、真っ白い長毛が左右にゆらされただけだった。
「クムモクモは死にました」
「死んだ?」
僕は最後に見たクムモクモの姿を思い浮かべる。全身がバラバラに引きちぎられて、自分自身の魂のなか、この物語に吸い寄せられるようにして取りこまれていく無残な姿。
「ここがぼくがいるべき世界。いるべき場所。あの異世界での体は散り散りになりました。そしてノナトハの手を借りて、この世界に戻ってきた。再構成され、あなたたちの言うところのクムモクモの前世であるぼくと、異世界からやってきた肉片は同化したのです」
「そんなことが……」
「できるはずない、とお思いなのでしょう。けれど、ぼくならできる。ぼくは不死なのです。死ぬことはない。だから異世界で死した肉片は、この世界では死を跳ね除けて蘇った。アレもぼくの一部ですから。そうして、ぼくに有益な知識をもたらしてくれました」
巨獣は窓の外に浮かぶ欠けた月を見上げた。
「運命ですよ。そして、ぼくは運命すら跳ね除けてみせます」
そう言って不敵に口元が吊りあげられる。宝石のような瞳に映りこんだ月光が妖しい輝きを放つ。
不死。死なない。信じがたいが、前世である異世界の存在がこうして事細かに現世の僕らのことを知っている理由は、いま説明された以外に思い当たらない。いうなればクムモクモは前世に産まれなおし、転生したのだ。最近、硝子盤に異常な興味を示していたのもこれを狙っていたのだろう。きっと母がエポヌを産みなおすのを目撃したり、キレンヒミの話を聞くうちに、こうしたことを考えついたに違いない。
そういえば硝子盤は、と思いだしてポケットを探るが、そこはもぬけの殻であった。
「無駄ですよ。硝子盤は真っ先に取りあげましたから」
無慈悲な宣告。
「あなたを帰すことはできません。それは、ぼくという存在がまたあの異世界に貶められてしまうということに他ならないからです。ぼくはあらゆる方法であなたの帰還を妨げます。ですが無力なあなたを殺したりはしません。身を委ねてください、ノナトハ……」
巨獣のささやきに包みこまれる。頭の芯の部分でこだまして、なぜだか安心感を抱いてしまう。巨獣の口からはまた深緑の香りがこぼれ出している。意識がとろんとして、蒙昧になっていく視界の中央で巨獣の瞳がどこまでも膨れあがっていく。
「これだけはお約束いたします。ノナトハ、エポヌ、シィノルト、三人ともが、とっても優しくて、安らかな死を迎えられるようにしてあげましょう。素敵な棺を用意して、三人一緒に柔らかい土の下で仲良く、永遠に、過ごせますように……」
途切れた意識がまたつながった。
シィノルトが心配気な視線を控えめにこちらへ向けながら、檻の近くのテーブルを片付けていた。みすぼらしい服は、あちこちがほつれて、悪臭を放つどす黒い染みがそこかしこにできている。つやつやと血色のいい頬の輝きとあまりにも不釣り合いだ。
起きあがろうと力を込めると、痙攣したように指先だけが動いた。そこから徐々に全体に指令が行き渡るように、体の各部位が順番に動きはじめる。
苦労しながら身を起こそうとしていると、シィノルトが周囲をうかがいながら「お父様」と、声を潜めて話しかけてきた。
「シィノルト、大丈夫?」
「ええ。私はちっとも。それよりもお父様が」
掃除をしているふりをしながら、シィノルトは檻のそばにしゃがみ込む。よく見ると足首や腕に赤黒い痣ができている。それでも大丈夫だと主張する我が子に、仄暗く沈んだ感情が芽生えるのを自覚してしまう。今は巨獣と魔女の姿は見当たらない。テーブルの周りを鼠が数匹駆け回っている小さな足音が聞こえるぐらいだ。
「檻を上げます」
そう言ってシィノルトは立ちあがると、壁に取り付けられたハンドルのひとつに駆け寄る。鳥かごみたいな檻は天井と鎖でつながっていて、その鎖の先は壁際に垂れおちてハンドルにつながっている。
シィノルトが華奢な体で必死にハンドルと格闘するが、一向にそれが回りだす気配はなく、重たい檻を持ちあげるのは不可能なようだった。しばらくすると手を真っ赤にしたシィノルトが戻ってきて「私の力では無理みたいです……」と、しょげた顔で床をにらんだ。
「エポヌはどうしたの」
「エポちゃんは、魔女の使い魔にされてしまいました」
声がわずかに震えている。
「お父様……」と、なおもシィノルトがなにかを告げようとした瞬間、天井付近に取り付けられた四角い窓が開け放たれ、そこに暗い影が現れた。
切り裂かれたかのように破れた着物が外から吹き込む風になびき、散ったようになった彼岸花の模様が躍る。その姿からは、斬り捨てられた遊女のような憐れっぽさと、死者を迎えに来た死神のような不気味さがただよっている。しかし、それは紛れもなく僕の妹、エポヌだった。
エポヌは爪で引っ掻きながら壁を滑りおりて、僕とシィノルトの元へと裸の足を打ち鳴らしながらやってきた。その吊りあげられたような立ち姿、もったいぶった歩き方、あごを上げて妙にえらそばっているしぐさといい、異変の兆しを伝えてくるには十分であった。
シィノルトを押しのけて、エポヌが檻のそばに立つ。
「惨めだネエ。ノナ」
喉をくつくつと鳴らして、だらんと舌を垂らす。その先からとろとろと唾液が床にこぼれた。
「どうしたんだよ……」
尻込みしながら発せられた僕の言葉を叩き伏せるように、
「暴れてきたんダヨ」
と、エポヌは黒と金のざんばら髪をふり乱した。見開かれた瞳には凶悪な輝きが宿り、裂けた口の端からのぞいた牙からは血のようなものが滴っている。それは地獄からやってきた幽鬼を思わせる顔であった。
「村をひとツぶっ潰しタ」
錆びついたような声は、朽ちかけた鋸の動きを思わせる響きだ。僕は困惑の方が先にきてしまって、呆けたようにエポヌを見返した。それが気に障ったのか、エポヌは怒りをあらわにして、だん、と威嚇するように床を踏みつける。隣で所在なげにしていたシィノルトが飛びあがって目を丸くした。
「エポヌ。僕のことがちゃんと分かってる? ノナトハだ」
「そんなコトはよく分かってル」
「ここから脱出しよう」
「馬鹿げたコトを」
「どうして? ほら、遊び友達のシィノルトも連れて、三人で一旦逃げるんだ。この檻を壊せないか」
「バカ、バカ、バカ……」
聞く耳持たないというように、エポヌは首をぶんぶんとふりながら両手を耳に当てる。そんなエポヌの腕を鉄格子越しにつかんで引き寄せる。青白くて骨ばった手には、死を彷彿とさせる嫌な臭いが染みついている気がした。魔女の使い魔にされたとは聞いたが、洗脳されてその意のままに動かされているということなのだろうか。
「エポヌ。僕の爪をあげよう。欲しがってただろ。剥がしていい。交換条件だ。その代わりに、僕を檻から出して」
エポヌとしての意識や記憶があるのなら、交渉の余地があるかもしれない。ウルキメトコ姉さんの物語でダクトの蓋を鋭い牙でかみちぎって外していたように、この細い鉄格子を破壊してくれることを期待しての提案だ。もしくはシィノルトと協力してあのハンドルにもう一度挑戦する手もある。囚われの身を脱して、魔女の手から家族を取り戻さなければならない。そのためであれば、爪の一枚や二枚。例え全部捧げることになっても僕は構わなかった。
思案気な瞳でエポヌが僕の爪先を見つめる。しばらくして、眉をひくつかせながら「ヨシ……」と、言葉を紡ごうとした瞬間、
「なぁにしてるのぉ?」と、意地の悪い声がどこからか投げかけられた。
声が聞こえてきた方へと視線を向けると、テーブルに乗った痩せた化け鼠が、尻尾でぺちぺちとフラスコを叩きながら、じっとこちらを見つめている。
ぴょん、とテーブルから身軽な動作で飛びおりると、みるみるうちに化け鼠の体が膨らみはじめた。ツンと尖った鼻はとんがり帽子になり、尻尾は箒に、そして腹のあたりから顔が出現すると、それは混沌色のワンピースをまとった魔女の姿を成していた。
「さっきから見てたけど、ほーんと不思議」
つかつかとやってきて鉄格子をつかむと、僕の顔に空いた深淵がのぞき込まれる。エポヌはひれ伏すようにして、魔女の後ろに静々とさがった。
「姫が、おとうさまー、なんて呼んでたけど、なに? どういうカンケー?」
ふざけた調子でシィノルトの口調を真似ると、魔女は僕に詰め寄ってくる。
「正真正銘、僕の娘だ。姫じゃない」
全くの誤解だ。誤解がとけたとしても解放されるとは思えないが、姫という誰かの身代わりになっているシィノルトが不憫で言わずにはいられない。
「悪魔の娘? これが?」
箒の柄でシィノルトが指し示される。
「僕を放して。なにが目的なの?」
今まで巨獣の吐息でずっと酩酊させられていたから、まともに言葉を交わす機会はなかった。もしかしたら話が通じる可能性があるかと思ったが、
「悪魔と交渉するわけないでしょ。あたしに従うしかいないのよ」
と、魔女は叩きつけるように言って、僕の希望をあっさりと打ち砕いてしまう。
「僕は悪魔じゃない」
「悪魔じゃなかったら、あんたは愚者。そして屍になる運命。どう? ほんとに悪魔じゃない?」
「違う」
「……殺しちゃおうかなぁ」
魔女が指をぐるぐると回して空気をかき混ぜはじめる。そのまま僕を見つめていたが、きょとんとして自分の指先を眺める。そして視線を外すと気を取り直したように、針のように尖った箒の柄を僕の左足の腿あたりに突き刺した。
僕は悲鳴をあげ、床に崩れる。
「呪いに耐性があるんだから、あんたは悪魔。それに竜が勘違いするなんてありえない。実験のために優しくしてあげてたけど、どう? 抵抗しないの? なにかして見せて。元気になる薬をたくさん飲ましてあげたでしょ。力はみなぎってるんじゃないの? ほら、さあ」
恍惚としながら矢継ぎ早に言葉を並べ、魔女は再び鋭い切っ先をふり上げた。
「やめてっ!」
シィノルトが魔女の手に飛びかかって、その腕を抱えこむように抑える。
がんっ、と殴打する音に顔をあげると、箒がシィノルトの頭に振り下ろされていた。倒れたシィノルトは床に髪を広げ、虚ろな瞳をこちらに向けている。
「やめろ……」
僕の蚊の鳴くような訴えは、ゆがんだ楽器を打ち鳴らしているような魔女の笑いにのみ込まれてかき消されてしまう。
「可愛いわあ。お、ひ、め、さ、ま」
シィノルトの上に屈み込んだ魔女が、その頬を平手で叩く。ぴしゃり、ぴしゃり、と音が響くとバラ色の頬が腫れて、たちまちリンゴのように染めあがった。
「あたし、あなたのこと大好きよ。竜が殺さないように、って言ってくれてよかった。こうして愛でている方が、ずっと、ずっと、楽しいもの」
僕は憤怒に手をにぎり締めたが、何もできない自分に余計に腹が立っただけだ。エポヌに助力を求めて視線を向けてみるが、魔女の笑いと同調するように忍び笑いをもらしている。すっかり心が魔女に囚われてしまっているようだ。
急に飽きたように表情を失くした魔女がシィノルトを放して立ちあがると、改めて僕と、自分が姫と信じ込んでいるものを見比べた。
「結局どういうカンケーなのか聞きそびれちゃったね。いや、待って、言わなくてもいい。当てましょう。そうねえ。……悪魔に魅入られた姫が、王国から追い出された。それで、悪魔は姫を連れて逃げた。けど王国の兵士たちに追い詰められて、迷いの森に踏みこんだ。それで、それで、さまよううちに倒れてしまった、とか。どう? 我ながら名推理かも。いや、まてよ……、ならどうしてあの忌まわしいものが一緒にいたのかしら。あの家にたどりつけるわけが……」
ひとりで心底楽しそうにまくしたてた後、エポヌを眺めて黙りこむ。そうして訪れた一瞬の静寂を打ち破るように、毛布を引きずるような音を立てながら巨獣が階段をあがってきた。
部屋のなかの惨状に顔をしかめながらも、それを咎める風でもなく魔女に語りかける。
「王国には、別段変わりありませんでしたよ」
「姫を失って、さぞかし国民が悲しんでいるんじゃないかしら」
「……ええ、皆、沈んだ様子で灯を失ったように悲しみに暮れています」
「……それは、嘘だ」
僕は巨獣の言葉に反発する。これは僕が唯一見出した光明だった。クムモクモである巨獣は知っているはずだ。シィノルトは王国の姫じゃない。それなのに嘘をついている。それを暴くことが現状を打破する手段のような気がした。
「あのねえ」魔女が呆れたように溜息をつく。「竜は嘘をつかないの。特にあたしに対してはね。悪魔じゃあるまいしさ」
魔女の濁り切った瞳を見返して、はっきりと断言してやる。
「シィノルトは姫じゃない。自分で行って確かめてくればすぐに分かる。本物の姫が悠々と暮らしてるよ」
「はいはい。そこまで言うならちょっと行ってもいいけどね。ちょうど数百年ぶりに王国の様子を見たいと思ってたし」
「待ってください」魔女の言葉に巨獣がかすかに慌てた様子で止めに入った。
「偉大なる魔女よ。その必要はありません」
「どうしてよ」
首を傾げて、真っ白な毛の塊が見上げられる。
「ぼくの話が信じられないのですか」
「いじけたの? そんなわけないじゃない。ちょっと散歩に行こうかってだけ」
「ほら、動揺してるのが何よりの証拠だよ」
僕はすかさず野次を飛ばした。魔女は図りかねたように僕と巨獣を見比べる。巨獣はこちらに敵意のこもったまなざしを一瞬向けたものの、すぐに魔女に向きなおって、言い含めるように語りかけた。
「偉大なる魔女ともあろう者が、悪魔の甘言を真に受けてはいけませんよ」
「そういうわけじゃない。何でそんなに止めるの?」
「それは……」
と、巨獣が口ごもり、考えを巡らせている様子だったが、やがて観念したというように目を伏せて、あごから垂れさがった長毛をゆらした。
「今の王国が危険だからです」
「危険?」
「勇者と呼ばれる者が貴女を討伐すべく動いています」
「ゆーしゃ? それは御大層なことで」
「偉大なる魔女ともあろう者が、勇者なんてものに恐れをなしてるの?」
僕は嘲弄を込めた言葉を投げかける。シィノルトやエポヌが受けた仕打ちを想い、僕は深淵のなかに暗い感情を膨れあがらせていた。今までの魔女の言動から、激情家だということは容易に推察できる。巨獣の語った目的。魔女を守るということ。それを破綻させてやるのに躊躇はない。そうでもしなければ、僕らは未来永劫、死が訪れるまで魔女と巨獣に囚われ続けることになってしまう。クムモクモが、巨獣が、どれだけ強く魔女を守りたいと思っていたとしても、僕だってエポヌやシィノルト、家族を守りたいのだ。
「ふんっ!」
魔女は荒々しく鼻を鳴らして、箒でテーブルを叩いた。
「人間如き恐るるに足らず、だけどね。まあ、安い挑発だけど、暇つぶしに乗ってあげようかな」
「やめなさい。偉大なる魔女よ」
「もうっ。しつっこいよ、竜」
「聞きなさい。……貴女が見ていない間に人間たちは変わったのです。行けば、命を落とすことになるかもしれません」
「ふざけてるの? あたしは不死なのよ。それとも今更になって契約を反故にする気なの」
魔女は怒っている風でもなく、心底困惑しているように見上げたが、巨獣の瞳はそんな視線を正面から受け止めて、鼻先を魔女へと差しだした。その鼻先を魔女が撫でながら、次の言葉を待っている。
巨獣はふさふさと柔らかそうな尻尾で魔女を抱きしめた。
「ぼくを信じてください。どうか、お願いします……」
「でも、興味があるわ勇者だなんて。どんな奴があたしの命を狙ってるのか」
「どうか……」
「騙されちゃダメだよ。やっぱり自分の目で確かめなきゃ」
執拗にふたりの関係を裂こうとする僕に、ついに怒りが心頭に達したらしく、
「ノナトハっ!」という一喝と共に、巨獣の口から吐息が噴きだした。たちまち僕の意識は芯を失ってどろどろに溶けだしてしまうと、急速に闇のなかへと引きずり込まれていった。
この物語に入りこんでから、眠りとも言えない意識の混濁から覚めるのは、もう何回目になるとも分からない。誰かに担がれて運ばれている。太い腕が僕の足を抱えており、硬い金属の鎧にもたれかかった体勢でゆられている。
じめじめと腐敗したような植物の香り。視界がなにかに覆われている。布袋のようなものが頭からかぶせられているのだ。その小さな破れ目から暗い光が差しこんで、かすかかだが周りの様子が分かった。どうやらここは森のなかみたいだ。そして僕を背負っている大柄な人物のそばにシィノルトが付き従っている。
「シィノルト……」
なんとか喉をふり絞ると、かすれた声がもれ出した。僕を運ぶ足が止まり、ゆっくりと地面におろされる。それから、大きくうねった樹の根のそばに丁寧な動作で座らされた。
「……ここはどこ? なにがあった?」
梢の隙間から太陽が見えるが、あたりは夜のように暗い。風もないのにざわざわと不安気な葉擦れの音がこだまして、湿った空気がそこかしこにただよい、ひどい匂いが充満している。頭上では根に比べて病的に細い、くねくねと曲がりくねった針金のような枝が、茨を全身にまといながら防壁のような森の天井を形作っていた。足元にも棘のある植物が這いまわっているらしく、太ももをちくちくと刺激している。ちらちらと咲き乱れている原色の花は、そのどれもが毒液めいた液体を垂れ流しており、触れるだけで爛れそうな危険なつやめきをまとっていた。
「この方が助けてくださったのよ」
示されたのはブリキ人形みたいな無骨な鎧をまとった、がっしりとした体格の人物。暗がりに油断のない視線を走らせている。
「俺は、大したことは……」
顔全体を覆う兜の向こうから、意外に若々しい声が聞こえてくる。青年を脱しようとしているその寸前といった印象だ。
「あなたは、誰なんですか」
「魔女に名を知られるわけにいかないので名乗ることはできませんが、ただ、勇者と呼ばれています」
すこし照れくさそうに青年が言う。勇者、というと巨獣が恐れていた存在。思わぬ展開に少々混乱しているが、ともかく事態が好転しているらしい。
「勇者様が魔女の塔へやってきて、私たちを助けだしてくださったの。檻も一刀両断でしたのよ」
「彼女が塔のなかへ引き入れて案内してくださったのです。魔女は留守のようでしたから、とにかくお二人を連れだそうと、森を引き返している途中です。ご自分で立って歩けますか?」
話を聞いているうちにだいぶん頭のなかが鮮明になってきた。希望が見えてきたことで活力が蘇ってきた気がする。シィノルトの手を借りて、ふらつきながら立ちあがる。魔女に刺された足の傷は痛むが、思ったより浅かったので、足が上げにくいぐらいで歩けないほどではない。
「なんとか歩けそうです」
「なら急ぎましょう。この森には魔女の使い魔がはびこっています。数は減らしましたが、夜になる前に脱出できなければ、命の保証はできません」
僕は頷き、足を前に進める。勇者は分厚い剣を片手で軽々と携えながら僕らの前を歩き、使い魔の襲来に目を光らせながら、枝払いや足場の踏み固めをしてくれている。その後ろをシィノルト、最後尾に僕が続く。
僕がかぶらされている布袋はシィノルトがかぶせたのだろうか。僕には顔がないから、それによる不信を招かれないようにする処置だろう。背中が圧迫されて翼がむず痒い。胴に布が巻かれているが、きっと翼を隠すためだ。気の利かせてくれたシィノルトをほめてやりたいが、今はそんな場合ではない。
「シィノルト」
「なんでしょうか……、ノナトハ」
シィノルトはすこし逡巡して、僕をお父様と呼ぶのを差し控えた。親子なのは事実なのだが、この世界の法則に照らし合わせれば、僕とシィノルトの見た目の年齢差がそれほど大きくないので奇妙に思われるかもしれない。僕が言わないまでも、自身でそれに気がついたらしかった。
勇者が声を潜めて「あの、名前は……」と、諫めるようにあごを引いた。僕はすぐに先程聞いた、魔女に名を知られてはいけない、という話に思い至った。
「僕らはもう魔女に名前を知られてしまっているんです」
「それは……、まずいですね。俺たちの動きが筒抜けになっている可能性があります。魔女は様々な方法で人間を操るらしいですが、とりわけ名前を用いる魔術は強力だと聞きます」
僕らの名前はクムモクモである巨獣によって、はじめから魔女に知らされていたに違いないから不可抗力だ。とりあえずは今のところ自分の心身になんの変化もなく、シィノルトも無事なように見える。
「この森を抜けさえすれば、魔女の影響力は大幅に弱まるはずです」
よほど僕の様子が深刻そうに見えたのか、勇者は励ますように言って一歩の歩幅を広げた。僕はシィノルトに身を寄せるようにして「エポヌは」と、聞いてみるが、埃っぽくなってしまったクリーム色の髪をゆらしながら、首が横にふられただけだった。
人を傷つけ苛むことを至上の目的としているような植物たちをかき分けて進む。その途中、不意に前を歩く勇者が足を止めた。槍のような葉が密集している茂みの奥から異様な気配がただよってくる。
「魔女の使い魔がいます」
潜めた声で危険を知らせると、僕らをかばうように勇者が前に進みでる。
闇のなかに焔のような瞳が浮かぶ。腐り落ちた果実を踏みつぶしているかのようなうなり声。不規則に並んだ鋭い牙が鈍色のざらついた輝きを放ち、獲物を求めるひょろ長い舌が垂らされる。
勇者に向かって跳躍してきたその獣は異常な体をしていた。様々な動物の体の一部を無作為にちぎり取って接着したような姿。頭こそ狼だが、体にはヒョウのような模様があり、しなやかな体を短毛が覆っている。背中からはワニのような棘が生え、尻尾の先にはウツボのような凶悪な顔がついている。足はタコのような太くねばついた触手。カニの殻を思わせる硬そうなハサミ。縞模様に鋭い毛が生えたクモやハチのような節のある足。分厚くて強靭なクマかカバのような腕が密集しているというでたらめさだ。
正確かつ素早い動きで、襲いかかってくる使い魔の体を分厚い剣が頭から真っ二つに切り裂いた。はじめからそこに切れ目でも入っていたかのように使い魔は右と左の半身に分かれて、真緑の泥のような血しぶきをまき散らす。勇者は一瞬で身を引いて、それを浴びないように注意しながら後ろにいた僕らの安全を確かめるようにふり向いた。
「素晴らしいです」
シィノルトが手を叩きだしそうなほど瞳を輝かせて、賞賛の言葉を贈る。勇者はそれを聞き流すようにしながら、何事もなかったように道を変えて先を急ぎはじめた。
「道が分かるんですか?」
シィノルトの疑問は僕も感じていたことだった。ふり返りもせず「いえ、けれど正しい方向に向かっています」と、背中越しに答えが返ってくる。
「どういうことです」
「信じてもらえるか分かりませんが」と、勇者はよどみない剣捌きで道を切り開きながら「俺は迷うことができないんです」と、道の先を見据えた。
「勝手に行くべき場所へと到達してしまう、そういった才能に恵まれていると聖女様は仰ってくださいました。けれど単純に言ってしまえば凄まじく運がいいんですね。それに加えて今は聖女様の祝福もあります」
特異な才能だが信じるも信じないもない。現状、僕らは彼についていく他ないのだ。そしてそれよりも「聖女様というのは」と、いうことの方に興味をひかれた。
「ああ。聖女様とお呼びするのは王国に近いものだけで、離れた村では多分、姫様としか呼ばれていないと思います。呪いを跳ね除ける力で人の魂を魔女から守るすべをお持ちの方です」
姫、ということはシィノルトが身代わりになっている人物。やっぱり巨獣の言葉は嘘だったじゃないか、と魔女に言ってやりたい気分だったが、今はそんな気持ちは深淵の底へとしまい込んで押さえつけておく。
「姫……」と、シィノルトがなにか言いたそうに口をとがらせると「どんな方なんでしょうか」と、勇者に尋ねた。その問いに勇者の声がわずかに緩んだ。
「素晴らしい方、と表現する以外に俺にはできません」
心からの敬服が感じられる響きがあった。
「まあ。勇者様はそのお方がお好き?」
すこしませた質問に僕は思わず娘の顔をのぞき込んだ。バラ色の頬の端が吊りあがって、からかっているような表情だ。他人の恋愛が気になるお年頃になったのだろうか。
「ええ」と、勇者はきっぱりと言って「誰もが彼女を愛しています。俺もそのひとりです」と恭しく言った。
シィノルトにとっては前世を思いだしてしまいそうな話だ。小首を傾げ「一度会ってみたいです」と、春風のような柔らかい微笑が浮かべられた。
「是非。聖女様もお喜びになると思います。あなたは聖女様ととてもよく似ていらっしゃるから、きっとすぐに親しくなれると思います」
言葉の尻尾を捕まえるようにして「では勇者様は私にも好意を持ってくださってるんですか」と、妙に色っぽく鎧に覆われた大きな背中に血色のいい手が伸ばされたので、僕はびっくりして、慌てて間に割って入った。これ以上はからかいが過ぎるというものだ。こんな状況でもシィノルトのいたずら癖が抜けてないらしい。
「勇者さんは魔女と一緒にいる巨大な獣のことを知っていますか。魔女に竜と呼ばれているものです」
くすくすと笑うシィノルトを横目に、話題を変えようと疑問をぶつけると、
「獣? 竜?」と、勇者は声に困惑をにじませた。
「どんな獣ですか」
「真っ白な長い毛に覆われていて、犬のような見た目ですが、家ほどの大きさです。それから、あごの下の毛先が淡い緑色に染まっています」
「それなら、王国の聖獣に似てますが……」
他には思い当たらないといったように、言葉の後半は思案に呑まれる。そんな時またしても魔女の使い魔たちが襲いかかってきた。勇者の喉元だけをにらみ、その一点を突破しようと牙をむき出す。正面から襲ってきた使い魔が簡単に切り払われると、頭上、そして背後からも現れた。
勇者の後ろにいた僕は身を縮めてシィノルトをかばうように抱き寄せたが、使い魔たちは僕らには目もくれず、ただ勇者だけの命を欲しているようにその身を躍動させていた。
上から飛びかかってきた使い魔を剣の横っ腹で叩き伏せるが、固い殻に覆われた腕で防がれて、金属がぶつかり合う重たい音が響く。もう一匹が首の後ろに噛みつこうとしたが、勇者は身をよじって籠手に取り付けられた盾で弾き返した。ねばついた触手を使って盾に張りついて、太く強靭な腕をふり上げた使い魔の鼻先を、剣の柄で思いっきり殴り飛ばす。
頭が弾け飛んだ使い魔が地面に転がると同時に、叩き伏せられていた使い魔が勇者の足元に躍りかかった。噛みつこうという寸前、大きく開かれた喉を、鎧を着ているとは思えない身軽な動作で蹴り飛ばし、のけぞってあらわになった腹が真っ二つに切り裂かれる。
使い魔の遺体が三つ横たわる中央で、勇者は息一つ切らさずに佇んでいる。それを見た僕は、ほっと息をついたが、シィノルトはよほど怖かったのか、僕の服の袖をしっかりとにぎり締めたまま、瞳をわななかせている。
「どうして、勇者様はそんなに強いんですか」
「俺より強い人はたくさんいます」勇者は軽く血振りした剣をぴたりと構えると、他に襲いかかってくるものがいないかと、梢にかたどられた闇の奥を見回した。太陽が性急に傾きはじめており、夜のような森のなかに、真実の夜が忍び寄ってきている。時間が経つたびに森全体の異様な雰囲気がにわかに実体を持ちはじめているような気がした。
歩きだしながら勇者が語る。
「俺は勇者を選ぶ大会で優勝しましたが、大会で対戦したすべての相手が俺を凌駕する強さを持った達人でした。状況によっては全試合で負けていたでしょう。けれど勝った。先程も言いましたが、俺は凄まじく運がいいんです。勝ったのは運の差ですね。こんなことを言うと決勝の相手には怒られたんですが、それでも俺は自分自身の運の良さを誇りに思っています。これで誰かが救えるのなら」
颯爽と歩く勇者の背中は陽の光のように温かく、頼もしい。
「それで、勇者に選ばれて、魔女を討つためにやってきたということですか」
シィノルトはまだ僕の後ろに隠れるようにしている。
「いえ。今回はただの偵察だったのです。魔女がすでに死んでいるのではないかという噂の真偽を確かめるため」
「どうしてそんな噂が?」
「それは、百年に一度、王国の姫を生贄として求めていたはずの魔女が、その当日になっても姿を現さなかったからです。催促すらありません。まだ生きながらえていたとしても、現れなかったということは、魔女が弱っているか、聖女として呪いを跳ね除ける力を持っている姫様に恐れをなしたのではないかと王国では結論付けられました。どちらにしてもこれは王国を支配し続けていた魔女から解放されるまたとない好機なんです」
僕とシィノルトはふたりして難しい顔で頷いた。そうしているうちに、ようやく森の出口が見えてきた。夕日が大地を染めあげて、燃えるような野原が広がっている。その一角に僕たちを導いた勇者は、屈みこんで地面を探った。そして地面から突きでた鉄の輪っかをにぎると、錆びついた蓋を持ちあげた。
隠された地下壕。勇者によると、魔女の寝首をかく絶好の機会が訪れた際、それを逃さないように迷いの森の周囲にはいくつものこういった施設があるらしい。
土を掘り返して平らにならしただけ、といった簡素なつくりだったが、小さな部隊なら悠々と隠せそうな広さがあった。奥にはもう一段深く掘られた冷たい空洞がいくつかあり、温かそうな獣の毛皮や、武器の数々が収められていた。非常食として干し肉も吊るされている。
毛皮を一枚ずつ拝借して、吊るされている干し肉がナイフで手ごろな大きさに切り取られる。それらを持って地下壕の広間で三人、腰を落ち着けた。すっかり土だらけになってしまったが、シィノルトの着させられている粗末な服は、むしろ土で洗われて綺麗になったように思える。
兜を脱いだ勇者は、声の印象よりも老け込んだ見た目をしていた。髪は短く刈り込まれており、四角い顔に横一文字に結ばれた口元が武人然とした雰囲気を醸し出している。目尻には深い皺が寄っており、なんとなく苦労性な性格を思わせた。
シィノルトが小さな口で小鳥がパンをついばむように干し肉を食べ進めている間に、勇者は二口、三口で肉を素早く胃に送りこんだ。そうして肉を食べようとしない僕に怪訝そうなまなざしが向けられる。
「それ、外さないんですか」
おずおずと聞かれる。頭からかぶっている布袋のことだ。胴の布もずっと巻いたままだったから、翼が押さえつけられ続けていてひどく痒くなってきた。胴は怪我をしているとでも言えばいいだろうが、頭のこればかりは不信に思われても仕方がない。
しかし僕には顔がないのだ。顔には真っ暗な穴。それが普通ではないものに映るだろうというということは容易に予想できた。事実、魔女には悪魔だと思い込まれているのだ。ともすれば魔女の仲間として断罪されてもおかしくない。
「顔に、傷があって、見られたくないんです」
「そうなんですか」
勇者は僕のたどたどしい嘘をあっさりと信じてくれたが「それなら」と、腰に提げている革袋を探って、数枚の葉っぱを取りだした。
「薬草を持っていますので、治療しましょう。聖女様が育てられたものです。傷跡など残さず治すことができますよ。お体もどこか怪我されているんじゃないですか」
僕の胴に巻かれた布に視線が向けられる。僕がどう取りつくろおうか考えていると、シィノルトが、
「怪我じゃありませんの。恥ずかしがってるだけですのよ」
と、布袋をさっと取り去ってしまった。
僕は思わず両手を顔の前で広げたが、顔全体を覆う穴をそんなもので隠しおおせるわけはなかった。勇者の鋭い視線が深く突き刺さってくる。ややあって、ふう、と鼻が鳴らされると「怪我でないならよかったです」と、すこし気まずそうに視線がそらされた。
「お体も大丈夫なんですか」に「足にすこしだけ」と、シィノルトが返すと、勇者は薬草を一枚差しだした。シィノルトはそれを受取ろうとせず、僕に目を向ける。僕の方へ改めて差しだされた薬草を、魔女の箒の柄で突かれてできた傷口に貼ると、みるみる足の痛みが引いていった。それを確認し終わると、勇者は剣や鎧を手入れしはじめた。
シィノルトが僕に耳打ちする。その声は吹きだしそうな響きを帯びていて、おちょくられているような感覚に陥る。
「慌てすぎです。お顔は念のため隠していただけなんです。私、魔女がそのお顔について擬態とか、色々言ってたのを聞いてたんです。お父様は擬態している自覚はなかったんですか」
思い当たる節がないわけではなかった。テタドやシィノルトの物語に関わっていたはずの自分自身が、外から硝子盤で見ると靄のようなどこかの誰かになっていた。あれのことかもしれない。
「僕はなにもしてないんだ。とにかくよかったよ」
美しい睫毛が瞬いて、僕の深淵がじっとのぞかれる、それから目がそらされると、シィノルトは干し肉をすこしずつ胃に収める作業に戻った。その足元で干し肉のおこぼれが得られるとでも期待しているのか、鼠が穴から顔を出していたが、僕が視線を向けると、さっさと土の下に隠れてしまった。
僕は勇者に背中を向けて、干し肉を顔の穴に放りこんだ。こういった体になってからというもの食事をしなくても全く問題ないのだが、別に食べられないというわけではない。味だって感じる。ただこの行為は食事というよりも、深淵のなかへの投棄と言った方が近い気がする。
しばらく食べているふりをしてから、ふり返って勇者に改めて尋ねた。
「あの、勇者さん。巨大な獣の話ですが」
「ああ、森での話ですね。残念ですが俺には王国の聖獣以外には思い当たらないです。けれど聖域である山の頂上から王国を見守っている聖獣が魔女と一緒にいるはずはありません。確かその獣は竜と呼ばれていると仰ってませんでしたか」
「魔女にはそう呼ばれていました」
「竜の伝承なら王国にあります」
勇者は剣を置くと、こちらに向きなおって語りはじめた。
「不死の竜の伝説です。遥か昔、王国ができる前のこと、この土地には邪悪な竜が棲んでいました。付近の村々から財宝を奪い尽くし、災いを振りまいていました。竜が触れれば草花は枯れ、水は汚泥になり、空気は瘴気に変じた、と言われています。そんな竜が棲む土地に、とある夫婦が訪れました。後に王国の初代の王と王妃になるお方たちです。来る日も来る日も夫婦は穢れた土地を清浄にしようと奮闘しましたが、うまくいきませんでした。そんな夫婦に竜はある提案をします。それは夫婦の娘を竜に捧げることでした。そうすれば竜は森の奥深くに去り、以降、土地を汚すことはないと約束したのです。けれど竜は嘘つきで、決してその言葉を信頼することはできません。夫婦は竜の秘密を知っていました。それは竜の不死に関する秘密です。竜は自らの心臓を肉体から取りだし、別のところに隠していました。心臓が傷つかない限り竜は滅びません。夫婦は竜の提案を呑み、竜の元へ行く娘に、鋼の如き硬さを持つその心臓をも貫ける、杭のような針を持たせました。そして娘に竜の心臓のことを教えました。竜の棲みかへ連れていかれた娘は、見事、心臓を見つけ出します。そうして心臓を刺し貫いて竜を滅ぼすと、娘は山のような財宝を持って帰ったと言います。夫婦とその娘は長い時間をかけて土地を浄化して、財宝を使って町を作り、今の王国が築かれる礎となりました」
語り終えた勇者は、使い魔たちと戦っていた時には見せなかった疲れをにじませて息をついた。シィノルトは干し肉を食べ終えて勇者の話に聞き入っていたが、神妙な顔をしてうつむいてしまっている。
「確かに僕は、魔女と巨大な獣がどちらとも不死だと言っているのを聞きました」
「魔女もですか?」
「ええ」
それは困った、というように勇者は太い眉をひそめた。
「その大きな獣、というのが本当に竜だとしたら、伝承と同じように心臓を隠しているのかもしれません。ただ、魔女については……」
魔女の塔で聞いた会話を懸命に思いだす。
「魔女は竜に契約を反故にするつもりなのか、と言ってました。竜と何らかの約束をして、その力で魔女は不死になっているのかもしれません」
「なるほど、なら魔女よりも先に竜をなんとかしなくてはいけない可能性がある、ということですね」
勇者はずっしりと腕を組むと、天井を見上げながら考え込んだ。僕も同じようにしてその視線の先を見つめる。
巨獣、竜、クムモクモを殺す。今更になって、その事実が僕に重くのしかかってきた。この物語を終わらせるには、不死の竜の死が必要なのだ。館に転生してきたからには、その命は一度は断たれたはずであり、それが可能であるということを示している。永劫に僕らを閉じ込めようとしている竜。その命を断てば、僕も、エポヌも、シィノルトも館に戻れる。しかし、クムモクモは? もう館での肉体は弾け飛んだ。本人が言っていた通り、死んでいる。この世界でしか生きていない。生きられない。その命を奪うということは、二つの世界でのクムモクモを殺し、その魂の居所を奪うということに他ならない。
そんなことをしてもいいのか、と考えてしまう。クムモクモは僕らの命をいつでも奪えたにも関わらず、そうしなかった。情けをかけてくれた。家族を守るために家族を討とうとする僕の行為は、クムモクモがしていることよりずっと残酷なのかもしれない。けど、僕は戻りたいのだ。母がいるあの館に。エポヌとシィノルトを連れて。ウルキメトコ姉さん、テタド、キレンヒミ、それにイルイジュ兄さんだって。もうみんなに会える機会を永遠に取りあげられるなどということを容認することはできない。館でのクムモクモもこんな気持ちだったのだろうか。ずっと温室の隅ですすり泣いていたクムモクモ。愛らしい僕のきょうだい。
勇者はゆったりと視線をおろすと、明日のことについて話しはじめた。
「あなた方が村に戻るのは危険です。俺と一緒に王国へきてください」
「村?」
「私たちが住んでた村のことをおっしゃっているのよ。攫われてから色々あったから記憶が薄れてるんですか?」
シィノルトがそう説明していたらしい。僕は思いだしたというように手を打ってその場を取りつくろったが、王国へと連れていかれるわけにはいかなかった。エポヌを放ってはおけない。
「勇者さん。もうひとり塔に捕らえられている者がいるんです。僕の妹です。どうにかならないでしょうか。金と黒が合わさった不思議な髪色をしているので、すぐに見つけられると思います。魔女に操られて、その使い魔になってなにかをさせられているようなんです」
「それは……」と、勇者が息を呑んだ。瞳がゆれて、なにかを言いよどんでいる。けれどすぐにキッと顔をあげると僕をしっかりと見据えて「諦めてください」と、言い切った。
その言葉の衝撃にゆさぶられるようにして言葉を失った僕に、勇者が言う。
「魔女の使い魔になった者は魂が呪われるんです。一度でも呪われた魂を浄化する方法はありません。魂の奥深くに呪いが刻み込まれてしまっているんです。それに……、おそらく妹さんと思われる者はいくつかの村を襲って討伐命令が出されています。今頃は既に王国の部隊によって討伐されているはずです」
勇者が淡々と残酷な事実を告げる。僕は話の内容を受け止めるのに長大な時間を要して、ただ茫然としていた。
物語のなかで死んでも、母に産みなおしてもらえるのだろうか。きっと無理だ。物語に溶けて消えてしまう。子供を産んでみて感覚的に魂についてすこしだけ理解してきている。以前、エポヌが死んだ時には母がのみ込んでいたからこそ、肉体を失っても魂が深淵に留まっており産みなおせたのだ。テタドだって僕が本人の物語のなかに入っていて、意図せずではあったがその魂を捕まえていた。けれどこの異世界、関わりのない物語のなかで魂と肉体を失えば、それがどこに行くのかなんて分からない。分からない以上、絶対にあってほしくないことだ。
「残念ですが」と、勇者は深々と頭をさげて「今は一緒に王国に来てください。先程の竜の話を持ち帰れば、きっと聖女様が有効な策を講じてくださいます」と、申し訳なさそうに声をふり絞った。
体が、どすんと重くなるのを感じた。僕が返答できずにいると、シィノルトが出し抜けに「竜の心臓の場所が分かるかもしれません」と、言いだした。
「どういうことです?」
勇者が眉間に高い山を築きながらシィノルトの方へと顔を向けた瞬間、その背後で影が起きあがった。
むくむくと膨れあがり、影が形を成す。闇になかで爛々と満月のような瞳が輝く。うすぼんやりとした地下壕の明かりに照らされた細い指先から伸びる爪は、鉄すら切り裂いてしまいそうに鋭い。
僕が危険を知らせる声を喉奥から吐きだそうとした時、もう既に勇者の手には剣がにぎられていた。大振りに振られた分厚い剣がかわされる。姿を見せずに影から影へと刺客は移動し、弄ぶように爪先だけをのぞかせる。その間にも勇者は僕とシィノルトを地下壕の奥へと後ろ手に押しやって、自分の体を盾にするように前に出した。
影からはまとわりつくような視線が放たれている。僕はじりじりと奥の空洞まで後退して、並べられた武器のひとつを手に取った。槍だ。シィノルトには軽そうなナイフを持たせる。
まるで攻めこんでこない刺客に勇者も攻めあぐねているようで、にらみ合いが続いている。地下壕の天井から小さな砂煙が霧雨のように降ってきている。糸が張り詰めたような緊張がいつまでも続くかと思われたその時、影のなかからなにかが飛んできた。
濁った泥にも似た細かな砂粒が詰められた瓶。勇者は剣の横っ腹でその瓶をはじき返そうとしたが、触れた途端に瓶は自壊して弾け、詰められていた砂粒が胞子のように広がった。
闇色の霧に包まれた勇者がうめき声をあげる。膝が折られ、地に着くかと思われたが、すんでのところで持ちなおし、再び構えられた剣の切っ先が刺客の喉元に向けられた。
「大丈夫なんですか?」
シィノルトが心配げに震わせた声を、泥で汚れた鎧の背中に投げかける。
「祝福は呪いなどに負けませんよ」低く言いながら、勇者は闘争心をむき出すようにして、剣をにぎる手に力を込めた。
影が跳んだ。横なぎに振られた剣をかわし、頭上を飛び越えると、宙返りの姿勢のまま勇者の首元を狙う。僕は加勢しようと手に持っていた槍を突きだした。ふり向きざまに勇者が剣をふり下ろす。前方には剣、後方には槍、逃げ場はないはずだったが、影は曲芸じみた動きで僕の槍をつかむと同時に剣の側面に張りついた。
影と目が合ったような気がした。戸惑いに硬直した僕の体は、槍と一緒に前へと引っ張られる。槍の柄に黄金と漆黒の入り混じった無数の紐が絡みついている。それが紐ではなく髪の毛だと理解した瞬間には、勇者の剣がふり下ろされる先に僕の体は投げだされていた。
勇者の足元の土が大きく盛りあがった。気合の声と共に、凄まじい力が剣の重みと慣性を制御して、剣の軌道が変えられる。はね上げられた刺客は半ばめり込むようにして天井に着地した。憎々しげに勇者を見返す刺客の瞳には、今しがた命を奪おうとした僕のことなどまるで映りこんでいないようだった。
「エポヌ!」
生きていてよかった。けれど、呼びかけは無駄のようだ。エポヌはただじっと勇者の一挙手一投足にだけ全注意力を傾けている。その精神は完全に魔女の支配下にあるようだった。
「エポヌ。やめるんだ」
諦めきれずにくり返す僕の隣で、シィノルトも「エポちゃん!」と、声を張りあげた。エポヌの視線がはじめて勇者から外れた。エポヌとシィノルト、ふたりの視線が絡まり合う。
「エポちゃん……」
鈍い動作でエポヌが天井からぶら下がる。
「エポちゃん、聞いて」
すとんと、床におりると、そのまま座りこんでしまった。産まれなおしてからというもの、エポヌと過ごした時間は僕よりもシィノルトの方がはるかに長い。寂しくもあるが、交渉役としてはシィノルトが適任なのかもしれなかった。勇者はいざとなれば青白い細首を一息に落とせるように、介錯でもするかのような構えをとりながら、事の成り行きを見守っている。
「なアに……、シィちゃん」
「こんなことはやめて。私たちと一緒に行きましょう」
あまりにもあっさり頷きが返される。敵意が一切消え去ってしまい、すっかり大人しくなったエポヌの処遇に困ったように勇者も剣をおろした。シィノルトはお人形でも運ぶみたいにエポヌの肩に手を回すと、部屋の片隅へと運んでいく。そうして腰をおろさせると、僕らの方へ戻ってきて、
「これからどうしましょうか」
と、髪をふわりとゆらしながら首を傾げた。
座りこんだエポヌを遠目に見ながら、勇者はまだ警戒を解いていない。彼はエポヌを置いて王国へ向かうべきだと主張したが、僕にとってそれは到底許容できない選択であった。シィノルトは竜の心臓が迷いの森に隠されているのだと語った。魔女の塔の隅々まで掃除させられている間に、言葉を操るおしゃべりな使い魔から聞き出したのだという。そしてその隠し場所までの道筋を自分なら案内できると言い張り、魔女が出かけている今夜こそ、心臓の破壊を決行するまたとない機会だと勇者に提言した。
シィノルトは竜がクムモクモであるということを知っているのだろうか。知らないのだとすれば、僕にできることは永久にそれを知らずにいられるようにしてあげることだけだ。
意見を交わすふたりを尻目に、僕は全く別の方法を考えていた。竜に奪われた硝子盤。それが破壊されていないのならば取り返したかった。そうすればこの物語の結末、竜にふりかかる運命をのぞいて、この状況を打破する手段を見出すことができるのではないかと思ったのだ。それをこっそりシィノルトに相談すると、ぽかんとした顔で「硝子盤?」と、聞き返された。
「シィノルトは掃除の時に、僕の硝子盤を見かけなかった? 竜に取りあげられてしまったんだ。あれがあれば今の状況を何とかできるかもしれない」
「……たぶん見かけました。ええ、塔の裏手にある倉庫のなかにあったはずです。それで、どうするつもりなんですか」
「未来を見て、定められた運命を先回りすれば、竜を何とかできるはず」
「そんなことが、できるんですか?」
信じられないといった表情を向けられる。
「シィノルトは魂に刻まれた物語に入るのははじめてだろうけど、僕は何度も経験してる。物語の扱いも上達しているから、きっとできると思う」
「すごい、素晴らしいです。どうやるのか見てみたいです」
親として、キラキラと輝く瞳に応えてやりたい。
「見せられるものなら見せたいよ。でも、どうやって硝子盤を取り戻したらいいものか……」
「それなら、エポちゃんに頼みましょう」
言ってシィノルトは「エポちゃん」と、呼びかけた。
「なアに、シィちゃん」
エポヌが平時と同じように答える。どうも妙だが、その態度は魔女による支配から解放されているようだった。
「魔女の塔の裏手の倉庫に硝子盤があるの。竜が物入れに使っている銀色の大きな箱の隅に入っていたはず。それを取ってきてくれない?」
ふたりの視線がぶつかって、シィノルトが頷くと、頷きが返された。
「分かッタ」
エポヌは簡潔に返事すると、音もなく地下壕から出ていった。僕はシィノルトの即決からの行動の早さに止めるのも忘れて見ていたが「大丈夫かな」と、いう心配が心の底から湧きあがった。
「大丈夫です。エポちゃんは魔女の使い魔だと思われているでしょうから、仲間のふりをしていれば、問題ありません」
「そんな器用なことできるのかな」
「できます」
微笑むシィノルトの後ろで、勇者が剣を土に突き刺して、まっすぐ僕らを見据えると、
「お二方は、本当に王国に来る気はないんですか」
と、最終確認を突きつけた。
「エポヌを待とうと思います」
答える僕に、勇者は渋い顔を返してきたが、こちらの意思が強固なことを見て取ると、やれやれというように嘆息した。
「どちらにせよ」と、勇者は地下壕の入り口に向かって歩きだす。
「この場所はもう魔女に知られているようです。気休めかもしれませんが、別の地下壕へと移りましょう」
これについては異論はなかったので、僕とシィノルトはその背中に続く。
「さっき、シィノルトが言っていた心臓については、どう思いますか」
先を行く勇者に意見を求める。
「竜の心臓、ですか。本当に今が好機であるならば、確かに退治しておきたくはあります」
正直な言葉の後に「しかし、王国に情報を持ち帰る方が優先です」と、きっぱりとした意思が示された。
入口の蓋が開けられる。草原を撫でるように吹いてきた濡れた夜気が流れ込んできて肌が凍りつく。外には夜の香りが充満していた。空の天辺には欠けた月が浮かびあがっており、遠くに見える迷いの森は、大きくうねる樹々がぶつかり合って、不気味な音楽を奏でている。
身を屈めて、声を潜め、何一つさえぎるもののない草原を横切る。ざわめく草の波に足を取られないように注意していると、足元に落ちる月の光が陰ったのに気がついた。雲が横切ったのかと思い、ふと空を見上げると、星々すらも夜空から消え去っていた。
勇者が立ち止まり剣を手に取ったが、その切っ先はなにかに迷っているかのようにゆれ動いている。深緑の香りがただよってくる。その匂いで、なにが現れたのか分かった。
「こっちへ!」
走りだした勇者の後に僕とシィノルトが続く。そんな僕らを月を包み込む雲のように濃い影が迫る。それは白く清浄な長毛に覆われた巨大な獣。竜と呼ばれているもの。空を飛んでいるかのように地を駆け回り、逃げ場などないことを誇示するかのように、行く先々で立ちはだかってくる。純白の美しい獣は月の光の下で舞い踊り、狩りを楽しんでいるかのように僕らを追い立てた。
堂々巡りの追いかけっこがくり返され、徐々に僕らは迷いの森の方角へと押しこめられてしまう。そしてついには前を竜、後ろを迷いの森に挟まれてしまった。
追い詰められた僕らに得意の吐息が吹きかけられるが、勇者の剣によってそれはふり払われ、たちまちのうちに霧散する。勇者は意を決したように逃げ腰を正し、竜がふり上げた前足をバッサリと切り落とした。立て続けに一方の前足も切り払うと、竜は頭から地に落ちる。そして一切の容赦もなく、宝石のような瞳がはめられた優美な顔に分厚い剣が打ち落とされた。
傷口からは血の一滴すら流れない。まるで綿の詰まった人形を裁断しているようだ。竜は脳天を割られているにも関わらず、煌々と輝く瞳でしっかりと勇者を見据え、後ろ足でずるずると前進してくる。更に傷口深くに刃が押しこめられるが、そんなことはお構いなしだった。
切り落とされた前足が、それ自体がひとつの生き物のように尺取虫の如く這いはじめた。胴体に向かって跳躍すると、元通りにくっついてしまう。
それを目にした勇者は、僕らを抱えて迷いの森へと飛びこんだ。
僕らが森に逃げこむと、思案するように竜は鼻を鳴らしながら森の外周に留まった。しばらく森の奥へと進んで竜が追ってきていないことを確かめると、立ち止まって荒い息を整える。そうして今は頼もしさすら感じる茨の天井を見上げた。森の天井の向こう側には閉じ込められたような夜空が見える。
「あれは」勇者が息を呑み「聖獣のようでした」と、唖然として言った。
「竜です。魔女に竜と呼ばれていたものです」
「そうですか……。聖獣、いえ、竜を何とかしなければ脱出することはできないようですね」
勇者は戦士らしい切り替えの早さで、すでに竜と戦うことを考えているようだった。
「不死とは言っても、細切れにできれば動きを封じられるかもしれません」
「それよりも」と、シィノルトが口をはさむ。
「心臓の元へと向かいましょうよ」
「分かるの?」
僕が聞くと「任せてください。ほら」と、枝が指差される。そこにはゆがんでひび割れた二重丸のような印がつけられていた。
「あの印をたどれば心臓の元へ行けます」
迷いの森の入り口から樹々の悲鳴が響いてきた。結局、竜は森のなかまで追ってくることにしたらしい。茨をものともせずに、樹を押し倒しながら体を差しこんで、僕らを探して鼻を引くつかせている。
「行くしかないようですね」
勇者が付近の枝に視線を走らせるが、誰よりも早くシィノルトが次の印を発見していた。
「こっちです」
まるで予め知っているかのようにシィノルトは瞬く間に印を見つけ導いていく。僕は不気味な予感に駆られながらも、遠ざかっていく我が子の背中を必死になって追いかけた。
たどり着いたのは朽ち果てた廃屋だった。僕らが通ってきた道には使い魔一匹いなかった。進むにつれ森の樹々すら避けるように緑の密度が薄くなっていて、なにか忌まわしいものの通り道であるような気がしてならなかった。
廃屋は全体が苔むしていて、荒れ果てた姿に悠久の歳月を宿している。煙突は途中でぽっきり折れており、折れた先端が突き刺さった屋根には大穴が空いていた。木造だが、使われている材木は明らかに森の樹々とは異なる。農民が暮らしていたらしい雰囲気があるが、こんな場所に住んでいたなど到底信じられない。もしかしたらこの森が魔女に支配される前に建てられたものかもしれなかった。
「なかに心臓があります!」
シィノルトが扉を開けて叫ぶと、勇者が屋内へと飛びこんでいく。僕も後に続こうとしたが、その直前に扉がバタリと閉じられて、シィノルトが押さえるようにその前に立ちふさがった。
廃屋のなかからは何の音も聞こえない。
「……どうしたのシィノルト」
シィノルトはなにも言わない。屋内の様子に耳を澄ませ、しばらくするとなにかを察知したように、にやりと頬をゆがめた。その手にはいつの間にか箒がにぎられている。
錆びついた音を立てて再び扉が開かれる。シィノルトがヒールの音高らかに足を踏み入れる。僕は数歩後ずさっていたが、聞こえてくる哄笑に誘われるように勇者の元へと向かった。
「よかった。ここの呪いは効くみたいで。うふふ」
倒れ伏す勇者の隣で、魔女がヘビのようにうねった髪をゆらして、耳から垂れる虫の目玉を思わせるピアスを打ち鳴らしている。シィノルトの姿はない。
「シィノルト?」
僕の声は室内をぐるりとこだまして、誰にも届くこともなくただようと、梁に張られた蜘蛛の巣に捕らえられてしまった。
「シィノルトって誰だったの?」
魔女が首を傾げて僕を見つめる。迷いの森を駆けるシィノルトの姿から予感していながらも、頭のなかからふり払おうとしていた最悪の事態。魔女がシィノルトに化けていたのだ。以前、鼠に化けているのを見ているにも関わらず、僕は愚かにも本物のシィノルトだと信じ込んでしまっていた。今頃、本物のシィノルトはまだ塔にいるに違いない。
「硝子盤、っていうのでどんなことができるの?」
魔女は僕に質問を重ねるが、僕はこの危機的状況をどうやって抜けだそうか頭を働かせるので精一杯だった。
「竜が嘘を言ってることが分かったんじゃないの」
ただの時間稼ぎに過ぎない言葉。
「そうねえ。確かにそう。けど……」魔女は廃屋の入り口に立っている僕の背後、開け放たれたままになっている扉の方を向いて、そのずっとずっと先にいるであろう竜を見通すように視線を伸ばした。
「あたしを想って言ってくれてたってことがよく分かった。確かにこいつは厄介だったもの。それにもし聖女とか呼ばれている姫を生贄として渡されていたら、こいつのくだらない昔話に出てきた娘がしたっていうように、だまし討ちで竜の心臓を傷つけられることになってたかもね」
今にも崩れ落ちそうな家。ささくれだった梁と柱が大きくしなりながら家を支えており、床には大量に降り積もった埃。抜け落ちた天井から月の光が差し込んで、魔女と、その足元に転がる勇者を照らしている。奥に見える暖炉は真っ黒な煤汚れを吐き出して、そばの棚に置かれた花瓶には、枯れてもなお痛めつけられ続けている灰色の花が飾られていた。その隣には色褪せた肖像画。そこに描かれている男と女、そしてふたりの娘と思われる少女。その少女の面差しは、どことなく魔女に似ているような気がした。
僕はじりじりと後退して脱出を図ろうとしたが、魔女がぴんと指を向けると扉が自然と閉じられてしまう。後ろ手に扉を開けようとするが、固く鍵が閉められているようで、どうにもならない。
「逃げられない、って何度も念押ししたわよね」
死に化粧のような顔が、時が止まっているかのような廃屋のなかに、ぼうっと浮かびあがった。「嘘ついてたのはあなたも同じでしょ」と、責めるように言いながら、僕に歩み寄ってくる。
「何もできないみたいなふりして、やっぱりできるんじゃない。悪魔の力、見てみたいわ。硝子盤があれば、未来が分かるのよね。あたしの未来を見せて、教えて。それまでは殺さないでいてあげる。その力を、きっとあたしにちょうだいね」
魔女が箒を一振りすると、針のように尖った柄の先端が僕の体の薄皮一枚ほどを切り裂いた。斜めに血の線が走り、胴に巻かれていた布が解け、着ていたシャツに鋭利な切れ目が入る。
なにか、背中に違和感があるような気がした。その原因を探ろうと感覚を尖らせた時、魔女の背後に倒れていた勇者が、突如、立ち上がって剣を振りかぶると、無防備な背中に向かって奇襲を仕掛けた。だがその攻撃には、明らかに力がこもっていない。簡単に避けられてしまい、剣にふり回されるようにして膝をついてしまう。なんとか剣を杖代わりにして身を起こしているが、それが限界のようだった。
「まーだ動けるなんで元気ね。でもね。この家は世界で最も穢れた場所なのよ。聖女の祝福がどうとか言ってたけれど、ここでは、そんなものに意味はない」
歌うように魔女が語る。踊るような足取りで勇者の周りを回って、今は拘束具のようになっている重たい鎧を蹴りつけた。兜が蹴り飛ばされると、次はあらわになった顔面が尖った箒の柄でなぶられる。身動き取れない勇者は、じっと歯を食いしばって耐えるばかりだ。
「この家はね、あなたたちの王国を作ったっていう夫婦が暮らしていたのよ。あなたにとっては憧れの家なんじゃないかしら。よかったわね、そんなところで死ねるなんて。竜を騙した報いが巡り巡ってあなたに降りかかるの。あなたも昔話の一部になれるわね。とっても素敵じゃない」
夢中で勇者を痛めつける魔女の後ろで、僕は背中に意識を集中していた。動かせる。翼に羽根が生えそろっている。いまなら、飛べる気がする。
魔女が勇者にとどめを刺そうと箒をふり上げた瞬間、僕は翼を一気に羽ばたかせた。翼が起こした風で埃と煤が室内にもうもうとたち込めるなか、僕はまっすぐに天井へと向かう。そこに空いた穴、崩れた屋根を通り抜けて、一直線に外へと飛びだしていく。
空にいる。はじめて飛べた。だが感慨に浸っている時間はない。すぐに魔女が追ってきている。箒にまたがり、風を切り、瞬く間に距離が詰まる。このままでは追いつかれてしまう、と思ったその時、既に遠く離れた迷いの森に埋もれた廃屋から光芒が放たれた。魔女のそばをかすめて、勇者の剣が空高く、ロケットのように雲を突き抜けていく。
魔女は僕と勇者、どちらを優先するか迷ったようだったが、結局、僕を追いかけてきた。けれどその逡巡の隙をついて僕は魔女を引き離すことに成功していた。
広大な迷いの森も空から見れば単一の緑の原でしかない。この空までは人を迷わせる呪いも届いてこないようだった。僕は何の策も持ち合わせていない。だが向かうべき場所はひとつだ。迷いの森から頭を突き出した魔女の塔。墓標を思わせる灰色の円柱へと、本物のシィノルトを助けに向かわなければならない。
迷いの森の天井をなぞるようにして空を行く。後ろから甲高い怨嗟の声が追いすがってくる。さらには樹々が横倒しにされる凄まじい轟音も響いてきた。竜が追いついてきたのだ。猛然と迷いの森を突っ切る竜は魔女すらも追い抜いて、僕へと迫っているようだった。
僕は娘を助けるという使命感に突き動かされ、にわかに活力がみなぎった翼を羽ばたかせて、放たれた矢のように塔へと向かう。塔の上空に到着すると、外壁の窓に切り取られた景色のなかに、化け鼠たちとなにやら楽しそうに話し込んでいるシィノルトの姿が見えた。案外、魔女のでまかせが的中していて、本当に情報を聞き出しているのかもしれない。娘のたくましく元気な姿を確認できて、ほっと一安心した僕の視界の端に、塔の裏手にある倉庫が映りこんだ。その入り口が開けられてエポヌが顔を出す。手には硝子盤が握られている。
「エポヌ!」
僕はエポヌの元に急降下して、驚いたように見上げるエポヌの手から硝子盤をむしり取った。エポヌが僕を見て、その次に背後から追いかけてくる魔女を見て、瞳を仄暗く輝かせると硝子盤を取り戻そうと、骨ばった腕を猛然と伸ばしてきた。
思った通りだった。地下壕のなかでエポヌが急に大人しくなった理由。それはシィノルトに化けていた魔女が指示したからに他ならなかった。エポヌはまだ操られている。勇者は魂の奥深くに呪いが刻み込まれていると言っていた。それを解く方法はない、と。けれど、それはこの世界での話だ。呪いが刻み込まれた魂。魂を扱うことは僕にだってできる。そこに刻まれた前世の物語を何度も巡ってきたのだ。相手がエポヌの魂に何かしたのなら、それを取り除くまでだ。
取っ組み合う形になって、背中を地面に押しつけられる。それでも硝子盤を手放さずに、僕は抵抗し続けた。魔女の叫びが空から轟いてくる。森がひしめく悲鳴のような音はもうすぐそばにまで迫り、竜の到来を予感させていた。
硝子盤をにぎり締める。そこにはエポヌの魂が映しだされている。ひたすらにどす黒い、井戸の底に凝った血だまりような風景。僕は一切の躊躇もなく、エポヌの物語に頭から突っ込んでいった。