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第6話 産みなおし

 母が目を覚ました。テタドの私室の前。その廊下の端。壁にもたれかけていた頭を起こすと、影をかぶせるようにして立っているキレンヒミと向きあう。

 ひゅっ、と息がもれるような音が母の顔に空いた深淵からこぼれた。それから翼をしなしなとへたらせると、急に立ちあがって異形の巨体にすがりつく。

「ごめんなさいね。リントロメ……」

 キレンヒミの虹色の髪をかき分け、パッチワークのつぎはぎローブをしわくちゃにして母は謝罪する。思わず異を唱えたい気持ちが飛びでそうになったが、すんでのところで、それはリントロメ兄さんじゃない、という言葉をのみ込んだ。弱々しい母の様子に、その事実を投げかけるのがどれだけ残酷なことなのかと考えてしまったのだ。

 リントロメ兄さんとテタドの物語が混ざり合った異世界に入る前には、追われ、追う関係だったふたり。それが奇妙に調和してしまっている。母は激情の矛を収め、キレンヒミは母の震える肩を無数の手で包みこむ。

 今、リントロメ兄さんの魂、前世、その物語はキレンヒミのなかにある。現世のリントロメ兄さんは消えてしまった。影もなく、消滅してしまった。テタドもだ。それに、エポヌも。

 主を失ったテタドの私室の前で、キレンヒミの腕のなか、母は泣き崩れている。火にかけられた鍋のお湯が吹きこぼれるように、顔の穴から涙の粒が溢れては、首筋を伝って流れおちる。僕も泣きだしたい気分ではあったが涙は出ない。混じり合った物語のなかで両目を失ってしまったから。けれどなぜか周囲の様子を把握することができている。目がないのに、視覚が蘇っているのだ。

 廊下の奥からウルキメトコ姉さんがやってきた。その後ろにはぷるぷると淡い緑色の毛玉の体を震わせて怯えているクムモクモもいる。ふたりはこの状況を図りかねているようで、距離をとって静観している。

「テタドは?」

 母があたりを見回す。

「エポヌもですよ」

 キレンヒミが穏やかに言う。

「ほんとだわ。どこに行ったのかしら、あの子たち」

 この言葉には、さすがに口を挟まざるを得なかった。

「……母さん」声が掠れている。喉が詰まっているようで、息苦しい。

「エポヌは、母さんが……」

「私?」

 きょとんとして、母が首を傾げた。

「呑みこんで、殺してしまったのですよ」

 僕が言い淀んだことを、キレンヒミがあっさりと言ってのける。

「ええっ!? ……そういえば、そうだったかしら」

 あまりにも呑気なその声に、僕ががっくりと膝を折りそうになった時、母は、

「じゃあ、産みなおさなきゃ」

 と、信じられないようなことを口走った。

 自らの顔のない顔に空いた穴、深淵のなかに手を突っ込む。その縁が大きく広がる。はじめに見えたのは漆黒、黄金、その髪。青白い顔をかたどる痩せた輪郭。それは、確かにエポヌだった。

 ずるり、ずるり、とカエルが胃袋を吐きだすみたいに産み落とされる。どさり、とその全身が廊下に横たわった。赤ちゃんではない。すでに成長した少女の姿。僕もこうやって産まれたのだろうか。感慨深いこの気持ちは思考放棄の賜物だ。エポヌが産みなおされた、という異常な状況をすんなりと受け入れることができないでいる。

「あら、いやだ。慌ててたから、思わず、こんなところで産んじゃった」

 集まっている子供たちに視線を向けて、ちょっぴり恥ずかしそうにした後、母は「おほん」と、気を取りなおして産まれたばかりの子供の肩を抱きあげる。

「エポヌ。エポヌ。起きなさい」

 骨ばった裸の体が温かそうな翼で包まれ、血色のない頬に手が置かれる。呼びかけられた少女は、漆黒と黄金が入り混じった髪を清流のように床に流れおとして、力なく瞳を開くと、母の、そして僕の顔に目を向けた。

「よかった。上手に産めたみたい。やっぱり産みなおすときれいな形をしているものなのね」

 ホッと安心したようにひとりごちる母に、僕は望みを込めて質問した。

「……母さん。テタドや、リントロメ兄さんも産みなおせるの?」

「何言ってるのノナトハ。リントロメはそこにいるじゃない」

 母はキレンヒミに顔を向けて、僕がとてもおかしなことを言っている、という風に翼をすくめる。

「そうだよノナトハ。我々はもう産まれているんだから。産まれなおすことはできないよ」

 しらばっくれているのか、自分をリントロメ兄さんだと思い込んでいるのか、キレンヒミのことになるとよく分からない。けれどキレンヒミはキレンヒミ。リントロメ兄さんではないはずなのだ。

「テタドは……」

 僕は一旦、リントロメ兄さんの話題を避けることにした。

「テタド? テタド、どこにいるの?」

 母は千鳥足のようにおぼつかない足取りでテタドの私室を見て回った。そしてその床に開けられた大穴を不思議そうに眺めた。その背中に僕は「消えてしまったんだ」と、言葉を投げかけた。

「どうして?」テタドの私室のなかをまだ母は探している。

「たぶんリントロメ兄さんの魂と混ざり合って……」

「混ざった?」母はふり返り、目を覚ましてからはじめて僕の顔を正面からまともに見た。

「あれ? ノナトハ、あなた、その顔……、ああ……」落胆とも、諦観とも、感嘆ともとれる奇妙な溜息。

 母が僕の前に立つ。手を伸ばし、あごを上げさせるようにして覗きこむ。今度はその手を僕の頬に滑らせ、右目のあたりを撫でる。僕の両目はもうないはずなのだが、母の手が見えた。僕の顔にその手が迫り、すり抜け、通り過ぎた。内側に入ってくる。診察で魂に触れられる時の感覚に似ているが、なにかが絶対的に違う。

「やっぱり……」

 吐息のようにこぼれる母の声。

「……そうだと思ってた」

 細く紡がれて、手が引っ込められる。

「どういう、ことなの?」

「テタドの魂はあなたのなかにあるから、あなたが産みなさい」

「僕が?」

 どういう意味か分からない。脳内は混乱を極めている。

「ノナトハ、あなたならうまくやれる。頑張ってね」

 それだけ言うと、突き放すように母は背中を向ける。廊下に戻って、少女の体を抱えあげ、どこかへと行こうとしている。

「ちょっと待ってよ。どうすればいいの……」

 追いすがろうとしたが、動揺のあまり、足元に散らばった本につまづいて転んでしまった。ウルキメトコ姉さんが床を滑るように僕の元へ駆け寄って助け起こしてくれる。母についていって、なにか話していたらしいキレンヒミが戻ってくると、つぎはぎローブと長い虹色の髪の毛が垂れさがったすだれの隙間から腕を、にゅっ、と伸ばして、指先でつまんだ鍵を差しだした。

「手術室を使わせてもらえる。母上が鍵を貸してくれた」

 一瞬なにを言っているのか分からなかったが、テタドを産むことについての話をしているのだと思い至った。姉は散々暴走して自分を突き飛ばし、僕を連れ去っていったキレンヒミが当たり前のように家族の一員として振舞っているのを前にして、ほんのわずかに眉をそばだたせた。僕の肩に置かれている手に小さく力が込められる。

 姉が僕をかばうように前に踏みだそうとしたので、それを手で制して「キレンヒミはもう暴れないよ」と、言ったが、相変わらずの無表情のなかに納得の兆しは見つからなかった。

「テタドを産むんだろう?」

 キレンヒミはウルキメトコ姉さんを無視して僕にだけ話しかけてくる。母に言われはしたが、そんなことが可能なのだろうか。そう考えていると、僕の心を読んだかのようにキレンヒミが「できるさ」と、五つの目と二つの口で微笑んだ。落ち着きはらったキレンヒミはなんだか神々しさがあって、厳かな安心感のようなものをもたらしてくれる。千の手を持つ神様の絵を書室で見たことがあるが、それに似ているような気がした。

 キレンヒミが僕の片手を取って先を歩こうとする。もう一方の手をウルキメトコ姉さんが取って、僕を引っ張った。両手を別々の方向に引かれて、危うく体が裂けそうになる。

「姉さん」

「本当に、大丈夫ですか」

 抑揚のない、感情のこもっていない姉の声。けれど、家族だけには分かるであろう、ほんのりとした温かみが宿っている。

「やるだけやってみる」

「ワタシはノナトハが心配です」

 こんなにはっきりと姉が人の行動に首を突っ込むのは珍しい。それだけで僕は勇気づけられた。

「大丈夫。大丈夫だから」

 くり返して、深く頷く。キレンヒミは僕らのやり取りを黙って見ていたが、姉が手を離すと再び僕の手を引いて、診察室の方向へと導いていく。

 途中、クムモクモの横を通ったが、あんなに怖がっていたキレンヒミがそばを通っても微動だにしなかった。なにかを注視している。毛玉のわずかな膨らみから視線の先を推察すると、そこにはエポヌを抱きかかえて廊下を行く母の姿があった。腕の端からこぼれて、ぶらぶらとゆれる華奢な二本の足。それに魅せられたかのようにクムモクモは固まっている。エポヌを見ているのか、母を見ているのか、あるいは生命の神秘というやつに感動しているのかもしれない。僕も命が産まれるさまを、はじめて目の当たりにして大きな衝撃を受けている。そして産まれる側ではなく産むが側になろうなどとは、まさしく青天霹靂だ。

 茫然自失した様子のクムモクモを置いて、階段へと向かう。キレンヒミがのっしのっしと前を歩いていく。もう勝手知ったる家のなかというように堂々と、身を隠すこともなく。左館の二階から一階におり、もぬけの殻になっているリントロメ兄さんの私室の前を通って、診察室へ。


 がちゃり、と音をたてて鍵が開けられると、診察室のなかから冷たい空気が吹きだしてきた。キレンヒミが扉の枠に背中をこすりつけながら、窮屈そうに室内に入る。それに続いて僕も扉をくぐった。

 診察室と隣の手術室を仕切るカーテンがめくられる。そこでは凍りついたような闇が手術台をぼんやりと取り巻いていた。

「さあ」

 キレンヒミがローブの裾から手を差しだして、手術台へと僕を誘う。

「キレンヒミは知ってるの?」

「我々はなんでも知っているよ」

 キレンヒミはその言葉が事実であることを誇示するように、聡明な光を帯びた五つの瞳を輝かせた。知恵の泉の霊水を飲んでからキレンヒミは変わった。頭脳の隅々までもが、今や明晰になっているようだ。

「どうすればいいの?」

 手術台に腰掛ける。キレンヒミが操作すると台の一部が折りたたまれるように盛りあがって、ちょうどいい背もたれになった。僕は安楽椅子に身を預けているような恰好でキレンヒミの言葉を待つ。

「ノナトハ。これを見て」

 差しだされたのは手鏡。それを見た僕は、穴だ、と思った。幾度となく目にしているもの。母の顔にあるものと同じものがそこにはあった。

 僕の顔。右半分を覆うようにして、べったりと暗い穴、深淵が口を開いている。

 手を伸ばし触ってみる。指先が呑みこまれる。すこし生暖かい。そして、火にあぶられているようにチリチリする。引き抜いて指先を確かめたが、何の異常も見当たらなかった。いつもの僕の指、僕の爪があるだけだ。

 再び手鏡をのぞき込む。深淵はちょうど右目の泣きぼくろがあった位置を中心として広がっていた。もしかしたら、あれはほくろではなくて元々小さな深淵だったのかもしれない。

 今度は思い切って、手首のあたりまで突っ込んでみる。

「怖くない。怖くない」

 キレンヒミが蛇のような舌をちらちらとゆらしながら僕を励ます。ぬるま湯に手を浸しているようだ。もしくは温かい内臓に手を突っ込んでいるような感覚。それを意識すると異物感が濃くなってきた。手を突っ込んでいるのも、突っ込まれているのも、気持ち悪くなってくる。

 思わず手を引き抜いて、そこに血だか、体液のようなものが付着していないか眺めまわしたが、汗をまとう寸前の乾いた手があるだけだった。

「いけるかいノナトハ」

 僕は目のない顔で、五つの目を見つめ返す。そして、小さく頷いた。

 母が子供を産むところを先ほど目の当たりにしたばかりだ。おそらくは同じ方法で、僕自身の深淵の奥からテタドを引っ張りあげる、ということに違いない。

「どうやって探せばいいのかな、僕のなかから」

「産まれたい者は勝手にやってくる。産まれずにはいられない。だから手を差し伸べて、きっかけを与えてやればいい。自然とノナトハの手を取り、生を目指すから」

「そう、なんだ」

 まるで想像できないが、やってみるしかないだろう。そう踏ん切りをつけると、手を伸ばして深淵のなかを探った。感覚を集中させていると、熱に方向があることに気がついた。より温かい方へと手を差し伸べる。

 何かが触れた。手だ。小さくて柔らかい手。ゆっくりと引きあげる。壊さないように慎重に。

 ずるり、と出てきたのは、予想に反して、手だった。手だけだ。つまり、なりそこない。

「頑張ったね」

 ねぎらいの言葉と共にキレンヒミは手のなりそこないを僕から受け取ると、自らの背中にくっつけた。そしてすぐさま「もう一度」と、促してくる。

 深淵のなか。慣れるとすこし心地いい気もしてくる。目の洞に子蛇を入れていた時のことを思えばこんな異物感は大したことはない。

 さっきよりも熱いなにかが近寄ってくる。とても熱い。そして、大きい。つかんだ。引っ張りあげる。すごく重たい。

「我々も手を貸そう」

 難儀しているのを見かねたキレンヒミが僕のひじのあたりを引っ張る。

 頭が出てきた。深淵が押し広げられ、視界が埋め尽くされる。苦しい、けれど、キレンヒミの手助けもあって、何とかその子は産まれ出ようとしていた。深淵の縁で体をなぞられながら子供が生まれ落ちていく。けれど最後の片足がどうにも引っかかっているようで抜けでてくれない。キレンヒミがゆらゆらと船を漕ぐように子供の体をゆするが、それでもうまくいかなった。

「ちょっと痛いかもしれないよ」と、キレンヒミは言うやいなや、子供を両手で抱えて、力を込めて引っ張った。脳みそが引き延ばされるような感覚に襲われながら、ずるずると残った片足が引きだされる。

「おや」と、キレンヒミが目を丸くした理由は、すぐに僕にも分かった。子供の足に、これまた子供の手が絡まっている。もうひとりいるのだ。

 そのもうひとりの手を取って、はじめに産まれた子の足を離させる。それから改めて引っ張ってやると二人目がすんなりと産まれ出た。

「双子だね」

 キレンヒミが声を弾ませる。僕はこの短時間に膨大な体力を消耗しており、疲労困憊の状態。子供を産むのがこんなに大変だとは想像もしていなかった。

 生まれた子に視線を向ける。先に産まれたのは男の子。テタドだ。消えた時よりもちょっぴり幼くなっているが、赤ちゃんではない。成功した、と言っていいのだろうか。

 そして、もう一方は、女の子。こちらも赤ちゃんではない。

 この子は……、この面差しは……。

 左手のひらの傷がうずいた。ふんわりした雲みたいなクリーム色の髪。くるりとカールした長いまつげ。頬はバラ色に染まり、蜂蜜から生まれたように甘ったるさを全身から立ちのぼらせている。僕が知っている姿よりもだいぶ幼い。孤児院にいた子供ぐらいの歳だろうか。

「シィノルト……」

 その名前をつぶやく。するとその子は音が鳴りそうなぐらいぱっちりと瞳を開いた。

「……シィノルト? 私のなまえ?」

 その子が半身を起こす。つぶらな瞳が向けられる。僕の沈黙を肯定と受け取ったのか、花が咲いたような微笑みを浮かべた。

「素敵なお名前をありがとうございます。お父様」

 僕は愕然としていた。テタドも遅れてまぶたを開く。僕、シィノルト、キレンヒミ、そして手術台へと順番に視線が向けられる。なにも言わない。ただ、うっすらと涙が流れた。そしてそれを見られたくなかったのか、テタドは胎児のように丸まった。


 僕らの生活、家族そのものが一変した。母、僕、キレンヒミ、ウルキメトコ姉さん、エポヌ、クムモクモ、テタド、そしてシィノルト。同じなのは八人だということぐらいだ。

 キレンヒミとシィノルトは間違いなく新たに加わった家族の一員だが、産まれなおしたエポヌとテタドも以前とは異なっている。見た目や性質に大きな変化はないけれど、記憶がつながっているのかは曖昧だ。立場としてもテタドは僕のきょうだい、弟ではなく息子になった。テタドは母をお婆様として敬っている一方で、僕にはクソ親父だなんだのと邪険な態度をとるあたり、前のテタドとなにかつながりがありそうだと思えるのだが、それも判然としない。当の本人に記憶のことを聞いてみても、分からない、と言われるだけだ。

 僕の娘、テタドの妹にあたるシィノルトは、天真爛漫で甘え上手な子だ。テタドもこの妹には得意の毒舌を披露するのをためらっている節があり、なんだかんだと面倒を見ている。末っ子だったテタドも、兄になってすこし変わったのかもしれない。シィノルトは遊ぶのが大好きで、エポヌ、クムモクモと一緒に三人でよく館中を駆け回っている。シィノルトと遊ぶようになってから、めそめそ泣いてばかりだったクムモクモも元気を取り戻しているようだった。

 キレンヒミはのらりくらりと家族の一員として紛れ込んでいる。母はキレンヒミのことを魂だけで判断しているのか、ずっとリントロメ兄さんだと信じて疑っていない。エポヌ、テタド、シィノルトの三人は、母の言うことを鵜呑みにしてキレンヒミの名前をリントロメだと認識しているようだ。ウルキメトコ姉さんとクムモクモは当然気がついているはずなのだが、ふたりとも元々おしゃべりな方ではないし、僕も言及したりしないから黙認されているような形だ。

 本物のリントロメ兄さんは帰ってこない。母が産みなおすこともないし、僕が産もうと挑戦したこともあったが、なりそこないが増えるだけだった。死んだ、と言うしかないのだろうか。時折、不思議と僕もキレンヒミがリントロメ兄さんに思えることがある。キレンヒミと同化した、と言う風にも考えることもできるかもしれないが、実際のところよく分かっていない。けれどふたりが同じものだなんて僕には思うことができない。僕にとっては消滅してしまった、というのが現実だ。そしてそれを考えるたびに沈んだ気持ちになっている。

 夜。闇に紛れてキレンヒミは度々外へと出かけている。母にばれないようにこっそりと。まだ星の欠片集めも諦めてはいないようだ。魂を得たキレンヒミの物語を”眼”が見にくることもあるが、自分が貰った贈り物を母に渡さずに呑みこんだりしている。

 そして母はというと、僕に魂、前世の物語の扱いについて手ほどきしてくれるようになった。自分の子供は自分でお世話しなさい、というのが母の言葉だ。だからテタドとシィノルトの食事の準備や、診察などは僕の役割になっている。


「お父様……、どうでしょうか」

「うん。問題ないね」

 ふわりと髪が躍る。柔らかそうなバラ色の頬。口の端がわずかに上がり、瞳が優しく佇んでいる。薄茜色のドレスのフリルが床の近くでゆれて、曙光に照らされた波間のようにざわめいた。

 子供たちの診察について、母は気の向くままであったが、僕はきっちり定期的におこなうことに決めた。診察の方法は母の見様見真似。脈を測ったり、聴診器を当てたり、あとは色々と数値を計測できる器具を使って、その数値が許容範囲内なのか診察室に置いてある本の内容と照らし合わせる。その確認が全て終われば、魂の診察をする。

「シィノルト。じっとしててね」

「はい。お父様」

 シィノルトはテタドと違って診察を嫌がったりしない。行儀よく膝の上で両手を揃えて、動かずにいてくれる。

 硝子盤を構える。母に貰った僕専用のもの。シィノルトの魂、そこに刻まれた前世の物語が見えてくる。


 かつて僕が体験した世界と重なる物語。イルイジュ兄さんの前世が生きていたのと同じ世界。僕の娘であるシィノルトの前世。彼女は誰からも愛された。彼女にとって愛されることは当たり前のことだった。空気と同じ。目に見えない、存在しているのが当たり前のものだった。

 彼女は誰かを愛する必要がなかった。そうしなくても愛は向こうからやってきた。父親を筆頭に、老若男女、動物たち、花の一輪に至るまで彼女を愛した。それは奔流となり、ぶつかり合って、争いに発展しそうになった。

 彼女は何者も拒まなかったし、快く受け入れた。けれど彼女が誰かを選ぶことはなかった。選ぶという発想そのものが浮かばなかった。彼女は徹頭徹尾、選ばれる側であり、選ぶ側ではなかったのだ。だから彼女は言った。あなたたちで決めてください、と。そして、喧嘩はいけません、と。

 全員がそれを承諾して、固く誓いを守った。喧嘩など起こらなかった。ただ彼女の父親以外がいなくなっただけだった。その代わりに別の者たちが群がってきた。前にいた者たちがどこにいったのか彼女は知る由もない。知りたいとも思っていない。そもそも気づいていないのだ。周りの空気が入れ替わったとして、気にする者などいないだろう。彼女にとってそれはそういうことであった。

 大きな争いが起こっていることについて、彼女は何の感情も抱いていなかった。けれど自分を取り巻く人、そこからもたらされる愛、空気が減れば、すこし息苦しさを感じた。だから人のいる方へ、いる方へと自ら身を投じていた。父親は窓を開けて換気するように、定期的に娘の周りの人間を入れ替えた。

 自分を取り巻く空気をよくしようとするのは自然な欲求であり、彼女はそのために孤児院に子供たちを集めた。そんな時、イルイジュと出会った。

 イルイジュについて彼女は、新鮮な空気をくれる人だと思っていた。しかしある時、彼女は気がついた。イルイジュがもたらしていたのは彼の持つ最も清浄な空気ではなかった。その事実に生まれてはじめて怒りというものを感じた。イルイジュの死後、彼女は求めはじめた。より新鮮で、清浄な空気を。それをもたらしてくれるのはマーダブンではなかった。父親でもなかった。それを父親に願うと、空気の入れ替えはより頻度を増しておこなわれた。マーダブンも、タジルワも、循環し、消費される空気の一部でしかなかった。

 そして、戦火がどこまでも拡大していった。

 彼女は捕らえられ、断頭台に消えた。


 この物語に僕は登場しない。登場しないのがおかしいのか、登場するのがおかしいのか、判断は難しい。僕はイルイジュに連れられて孤児院へと赴き、シィノルトと出会った。けれどイルイジュが連れてきたのは靄に覆われた見知らぬ少年。エポヌも同様に曖昧な存在にすり替わっている。この異世界にとってはよそ者だから焦点が合っていない写真のようにぼやけているのだ。けれど所詮はわき役に過ぎない存在。物語にさしたる影響はない。

 自らの手で物語を書き換えてみるとその制約の大きさがよく分かった。手を加えられるのはほんの一部の過程だけ。それでも長い目で見れば大きく物語が動くのだが、結果を変えることはできない。イルイジュを救えないか試してみたが、どうやっても無理だった。運命とでも言えばいいのか、定まったものを改変することはできないらしい。

 硝子盤で物語を調整する方法は絵を描くのに似ている。硝子盤のなかで展開される場面に手を伸ばしてその一部を書き換える。それが何枚も重なると、パラパラ漫画かアニメーションのようにつながって、新たな物語になるのだ。

 一方で、以前やったように物語に直接入ってしまうような方法もある。これは映画のなかの俳優のひとりになるようなもので、より大胆に物語の中身を変えられる。それに役者として子供たちを連れていって演出までできるのだ。隣人がおこなっている方法だと聞いたが、そうやって隣人の館は”眼”から人気を博しているのだろう。

 改めて、僕は考える。この世界、いま僕の生きている現世というのは、いったいなんなのだろう。僕や母はなにをしているんだろう。物語を書き換える、というのは、時空を超えて世界を改変している、ということなのだろうか。さながら神のように。

 何のために僕らは異世界を改変し、”眼”たちは何を求めているのか。僕らという存在は”眼”の奴隷なのか。それとも”眼”を惹きつける芸術家なのか。そして、この世界に転生した子供たちは魂の器に過ぎないのだろうか。

 今なら母の気持ちがすこしだけ分かった。自分の子供を愛しいと思い、”眼”に愛されてほしいという気持ち。

 しかし、これはいったい、なんだ。ここは、地獄なのだろうか。僕の知っている物語。子供たちの前世の主人公たちは皆それぞれにろくでもないことをしでかして、その果てに死んでいる。その償いをこの世界でさせられているのかもしれない。穢れを持った魂が僕や母みたいな者の深淵を通って産まれ出る。魂の浄化作業もしくはろ過作業。前世を調整され、魂をすこしでも整えて”眼”に連れていかれる。それなら”眼”の世界は天国。それとも輪廻転生が待っているのか。いや、僕の悪い癖だ。こんなものは考え過ぎからくるくだらない妄想。僕らは今、現在、確かに生きている。生まれ変わった。転生したのだ。それでも前世のくびきから解き放たれないなんて、そんな哀しいことはあってほしくない。変なことを考えるのはやめよう。

 どうにも身が入らないでいるのを察してか、シィノルトが、どうしたの、というように僕の顔の深淵をのぞき込んでいる。綿あめみたいな髪が膨らんで、甘い香りがただよってくる。

「……今日はこのぐらいにしようか。シィノルト。テタドを呼んできてくれるかい」

「はい。お父様」

 シィノルトがふわりと椅子から降りると、ドレスの裾がひらひらと踊った。次はテタドの診察の番。僕が直接声をかけると、なんだかんだと理由をつけて逃げられるので、テタドを呼ぶ役割はシィノルトに一任している。テタドもかわいい妹に言われると突っぱねることはできないようだ。しぶしぶといった風だが妹を困らせるようなことはしない。それにつけ入る僕はずる賢くなったというか、父親としてちょっと大人になったのかもしれない、なんてことを考える。

 シィノルトが出ていくと、閉じられる寸前の扉の隙間を通って、入れ替わりに小さな”眼”が診察室に入ってきた。僕が勝手に細眼と呼んでいるとびきり小さな体をした”眼”だ。

 綿毛がただようみたいにふよふよと飛んでいた細眼は、鳥が翼を休めるように僕の肩を止まり木にした。肩に乗った細眼を観察してみるが、まるで何を考えているのか分からない。意思の疎通ができない存在。けれど、こちらの言っていることが通じている気配を感じることもある。

 ”眼”にも色々な者がいるというのは破眼の件でよく分かった。キレンヒミをそそのかして星の欠片を盗んでいた破眼は最近この館を訪れていない。キレンヒミも見かけていないらしい。ここでの悪事に飽きてしまったというだけかもしれないが、他の”眼”に咎められた可能性もあるのではないかと僕は考えている。イルイジュ兄さんを連れていった特別な”眼”からは、そのしぐさの端々から思いやりのようなものが感じられた。今になって考えると、立派な体躯に見合った精神性を持った方なのではないかという気がする。そういった方が送り子を連れていくという、おそらくは”眼”たちのなかでの重要な役割を果たしているのなら、その社会には一定の秩序があって然るべきであり、無法に関する仕打ちというのもありそうなものだと思えるのだ。

「やっぱり、イルイジュ兄さんは見つからない?」

 僕は一方的に細眼に語りかける。こちらの話が通じているというのは、根拠の薄い推察にすぎないが、もしそれが外れていたとして、僕がただ独り言をたれ流しているだけのことに過ぎない。

「イルイジュ兄さんは炎みたいな赤毛で、右手と両足を火傷してるんだ。それで車椅子を使ってる。”眼”の世界ではどうしてるか分からないけど。きちんとした格好、礼服を着ていることが多かったなあ。今も多分それは変わっていないと思う。それとも特別な”眼”が服を用意してくれたりしているのかもしれないけど」

 細眼は僕の話を聞いているのか僕の魂、物語をのぞいているのか、その視線が向けられている場所は判然としない。イルイジュ兄さんを探してほしいと何度か頼んではいるが、それは僕の一方的なお願いだ。

 肩の上でころころとゆれる細眼になおも語りかけていると、診察室の扉が開いた。テタドが顔をのぞかせて、ひとりでぶつぶつ言っている僕にぎょっとして後ずさる。僕が黙って視線を向けると、眉根に深い皺を寄せながらおずおずと入ってきた。そして嫌々という態度をにじませながら椅子に腰掛ける。

「クソ親父、早く済ませ……」

 テタドは暴言を吐きだそうとして僕の肩にいる”眼”に気がつくと「……さっさとして」とだけ言って口をつぐんだ。

 シィノルトと同じように診察する。体に異常がないのはすぐに確認できた。それが終わると魂の診察。

 テタドの前世の物語。僕とキレンヒミが入った世界。そこでの僕という存在はシィノルトの物語で見たのと同様に朧げだ。けれどキレンヒミは違う。しっかりとその存在が物語に根付いている。登場人物のひとりとして物語に受け入れられているのだ。その代わり、ということなのか分からないがリントロメ兄さんの前世だった巨人の王の姿は霞んでよく見えなくなっている。

 一通り眺めて、魂の診察を終える。テタドは物語を見終えるといつも、ひどい苦痛に耐えようとするみたいに顔をしかめる。前世の兄である探偵のことを思いだしたくないらしい。僕はその苦痛をすこしでも和らげられないかと物語に手を加えてみたが、全くうまくいっていない。どうやってもテタドの前世である彼はこっぴどく裏切られ、激しい憎悪に駆られ、失意の底で怪盗への道を選ぶのだ。

 僕に文句を言う元気もなくして、肩を落としたテタドが診察室を出ていく。その背中についていくように細眼も去っていった。使った器具や本を元の場所に戻し、カルテに記入を終わらせて棚に片付けると、僕も診察室を後にした。


 テタドとシィノルト。僕の息子と娘。親になったという事実に、まだなんだか変な感覚がつきまとう。育児、というには赤ちゃんの時期をすっ飛ばしているわけだが、その苦労は絶えない。テタドは常に反抗的だし、シィノルトは素直なのだが、よく一緒にいるエポヌに影響されて、いたずらっ子としての才能を開花させはじめたので困っている。母が館の管理の一部を僕に任せるようになり、地下室の点検や掃除に洗濯、その他もろもろの家事も請け負うようにもなった。日々の忙しさは増す一方だ。

 僕自身の体の変化のこともある。深淵のこと。顔がなくなってしまった。その代わりにぽっかりと穴が空いて、そこからものを見たり、声を出したり、匂いを嗅いだりしている。食事をする必要はなくなった。顔だけでなく体の中身まで変質しているようだ。それが事実であることを示すように背中からは母のような翼が生えかけている。まだ枯れ枝のようで空を飛べはしないが、きちんと羽根が生えそろえば、バルコニーから飛び立って、館の外に出れるようにもなるだろう。

「エポちゃん。待って」

 シィノルトの声。自室に向かって温室を歩いていると、樹々の奥で三つの影が動いていた。

「こっちダヨ。シィちゃん」

「あっ。クムちゃんが枝をかじってるよ」

「そこはシルシなんだカラ、かじっちゃダメ」

 楽しそうな笑い声。

 エポヌの髪が木陰のなかで黒と金の渦を巻いている。彼岸花があしらわれた黒い着物の袖が大きくはためく。よく似合っているが、なんだか不吉な感じがする着物だ。エポヌと並んでいるとシィノルトの薄茜色のドレスも、夜明けではなく夕暮れの寂しさを帯びているように見える。クリーム色の柔らかな髪は空を覆う曇天のようだ。

 淡い緑色をした毛玉、クムモクモが枝の上をぴょんぴょんと飛んで移動している。そこに青白くて骨ばったエポヌの手と、血色のいいふんわりとしたシィノルトの手が伸ばされる。ふたりに毛をつかまれて、捕らえられたクムモクモは地面に引きずりおろされる。いじめられているのかと思ったが、クムモクモは毛玉を柔らかく膨らませて、笑うように鼻を鳴らした。楽しんでいるらしい。

 クムモクモにとってエポヌは姉だったが、産まれなおした今は妹。それにシィノルトという従妹が加わって、年長者としてふたりの遊び相手をしている風にも見える。引っ張られても、のしかかられても、ふたりと同じぐらいの背丈のまん丸な毛玉はびくともせずにふわふわを保っている。

 そのうちクムモクモを落ち葉の上にゴロゴロと転がして、葉っぱだらけにするという遊びがはじまった。それを横目に見ながらその場を通り過ぎて、自室に戻ろうとした時、僕は悲鳴を上げながら、足元の暗闇にのみ込まれた。

 歓声が近づいてくる。穴に落ちたらしい。落とし穴だ。

「ノナ。吃驚シタ?」

 ふたつの顔と毛玉が上から見下ろしている。

 落ちたことよりも、この階の床がこんなに深かったことに驚いている。

「お父様が引っかかってしまいましたの?」

 すこし白々しい台詞だ。右館の三階。この階に自室がある僕と、遊び場にしているこの三人組以外の家族はほどんどこの温室を通ったりはしないはずだ。他の誰を引っかけようとしていたというのか。

 子供三人で掘れる穴でもあり、幸いそこまで深くなかった。足が滑って椅子に沈みこんだような体勢になって、すっぽりと体が穴に納まっていたが、立ちあがると胸から上が穴から飛びでる。

 穴から這いだして三人を見回す。エポヌは目を見開いて、口を耳元まで裂けさせながらケタケタと笑っている。シィノルトはすこし申し訳なさそうにもじもじしている。クムモクモはそんなふたりに挟まれて身を縮めていた。

「シィノルト」

「ごめんなさい。お父様」

 僕に叱られるのを察してかシィノルトが先んじて頭をさげる。うるうると湿った瞳で見上げられると、強く言うことはできなくなる。

「怪我しそうないたずらはしちゃいけないよ」

「怪我なンテしなかッタじゃナイ」

 エポヌが錆びついたように濁った声で反論する。産まれなおしてからというもの、子供っぽさが増している。以前ならしなかったであろう危険な驚かし方をしてくるようになっている。

「エポヌ。危ないことをシィノルトに教えないで。クムモクモも止めてよ」

「危なくナイ。楽しいダケ。落ちて楽しかッタでショ」

 考えてしまう。確かにちょっと、楽しかった、かも。いや、でも、それは危ないかどうかとは無関係だ。

 僕が逡巡した一瞬の隙をついて、エポヌは父親と叔母のどちらに与すればいいのか迷っていた様子のシィノルトを懐柔してしまう。

「シィちゃんは楽しかったヨネ」

「ええ」

「ほら、ノナ」

 何がほらだ、と思ったが申し訳なさそうにしているシィノルトを責める気にもならず、かといってエポヌを説得することもできなさそうだ。こうなったら、とクムモクモに助けを求めて視線を向けたが、毛玉の奥からふんふんと鼻を鳴らして、僕らのやり取りよりも、僕のポケットのなかにあるものを気にしているようだ。

 ポケットを探ると硝子盤が出てきた。母に貰ってから肌身離さず持ち歩いている。硝子盤を見ると、クムモクモは飛びかかってきそうな激しい興味を示した。身を寄せてきて、ぐっ、ぐっ、と毛玉のなかに手が引っ張りこまれる。

「どうしたの?」

 硝子盤をポケットにしまって毛玉から手を引き抜く。魂に入りこんでしまったら大変だ。硝子盤を頻繁に使うようになって分かったことだが、これは鍵のようなもの。ギュッと握っていると、魂の扉が開かれて、なかを覗いたり、手や体そのものが魂に入れる状態になる。キレンヒミに聞いたところによると”眼”の技術らしいのだが、母は、郵便ポストに入っていた、なんてあっけらかんと話していた。

 押しのけるように引きはがすとクムモクモは淡い緑色の毛をふり乱して走り去ってしまう。いまだにこのきょうだいの考えていることはよく分かっていない。クムモクモに気を取られているうちにエポヌとシィノルトにも逃げられてしまった。


 自室に戻り扉を開けると、そこにはみっちりと手が生えていた。手の隙間から虹色の髪の毛と、つぎはぎだらけのローブが見え隠れしている。キレンヒミの背中だ。

「ちょっと、キレンヒミ」

「おっと失礼」

 キレンヒミが巨体をわきにどけると、僕は体を斜めにしながらその横を通って、扉を閉める。ベッドの横。部屋の角の床にキレンヒミがどっかりと腰を落ちつける。僕の自室はふたりぐらいは十分に許容できる広さなのだが、そのうちひとりがキレンヒミだと相当な圧迫感がある。

「どうしたんだい、土だらけだけれど」

「いたずら三人組の掘った落とし穴に落ちたんだよ」

「かわいいいたずらだね」

 キレンヒミも三人組の相手をよくしている。話などを聞かせているようだ。

「打ち所が悪かったら大怪我だよ。僕は感心しないな。シィノルトによくない影響がないといいけど」

 若干憤慨している僕を見て、キレンヒミが二つの口の一方で大笑いして、もう一方で含み笑いした。

「すっかりお父さんになってるじゃないか」

「心配するのは当然だよ。怪我してからじゃ遅いんだからね」

 意図せず鋭くなった僕の声にキレンヒミは頭をかいて目を伏せた。けれど、まだその頬は笑っている。

「いやいやすまない」

「それで、どうしたの?」

「ああ。今日は塔まで足を伸ばしたんだ。その情報共有さ」

 こっそり外出するのを手伝ってあげているので、そのお礼としてキレンヒミは外の情報を僕に話してくれている。別に見返りを求めてのことではなく、また母とキレンヒミがぶつかったりするのを避けたいがためだけの行動だったのだが、僕としてもこの世界について知りたいことがたくさんあるので、ありがたく頂戴している。

「塔の入り口には門すらなかった。開きっぱなしで入り放題さ」

 塔、というのは僕らの住む地上と”眼”の世界があるという空をつないでいる建物だ。物語で見た宇宙樹に比べたら小さいが、それでも途方もなく大きな建造物ではある。

 キレンヒミは二つの口を交互に使って、よどみなくしゃべり続ける。

「見張りがいるわけでもないから、すこし入ってみたよ。来れるものならどうぞご自由に、と言われてる気がしてね。延々と続く螺旋階段をずっとずっとのぼっていった。”眼”の世界を覗けるかと思ったけれど、やっぱり今のままじゃ無理みたいだ。境界を越えられなかったよ」

「キレンヒミなら空を飛んでいけばいいんじゃないの」

「それはできないんだ。我々の住む地上と”眼”の住む空は全くの別物なんだ。壁で仕切られているわけじゃないけれど、層が違う。ノナトハは物語に自由に入れるが、我々はそうじゃない。それと同じだ。資格が必要なのさ。それがなければ塔を通ったとしても、侵入できない」

「資格?」

「星になるってこと」

 星、星の欠片、キレンヒミが何度もくり返している言葉だ。星になる。星の欠片を集めると、星になれるらしい。

「それは、具体的にどういうことなの」

「”眼”になるってことかな」

「”眼”に? でも、連れていかれたイルイジュ兄さんは”眼”じゃないよ。”眼”じゃないけれど”眼”の世界に行ってしまった」

「ああ。その話はちょっと複雑になるかもしれない。”眼”の一部になった、と言うと分かりやすいかな」

「……それって、兄さんは無事なの」

「不安にさせたかな。もちろん無事さ。無事でなければ”眼”にとって価値はないからね。比喩的な表現だよ。”眼”の世界の住人として受け入れられている、と考えていいはずだ」

「それならいいけど。……母さんも星の欠片集めに腐心してるけれど、”眼”になりたがってるのかな」

「母上はすこし勘違いしているんだと思う」

 キレンヒミは珍しく断言せずに、思案するように腕を組むと、天井を見上げた。

「母上はこの場所から離れたがっている。子供を産む者が地上から脱出するには、星になるのが唯一の方法だ。けれどその先に待っている”眼”の世界は母上が望んでいるものではないだろう」

「どういうこと?」

「”眼”の世界もこことほとんど変わらない世界だ」まるで見てきたかのようにキレンヒミは言う。「母上は世界を変えることが自分を変えることだと信じている。そんな考えが幻想かどうかは置いておいて、それで違う世界に身を置こうとしているんだ。けれど到達するのは変わらない世界。それでかみ合わないだろう、ということだよ」

「母さんは地上が嫌なの? 僕らとの生活が」

 キレンヒミは優し気に目を細めて僕を見つめた。

「違うよ。母上ほど家族を愛している人はいない。ちょっと頭に血が上りやすくて、周りが見えなくなってしまうことはあるけどね。しかしながら、それ以上に自分が受け入れられないんだと思う。要するに自分が嫌いなのさ。自己嫌悪と言うやつだ」

「どうして、そんな……」

「さあ。どうしてだろうね。けれど自分が嫌いだから、自分から生まれたものが受け入れづらい。単純な考えさ。母上は不器用でそのあたりの線引きが不得意だからね。心理的な摩擦があるんだろう。それを変えたいと思って色々模索したり”眼”の世界に憧れたりしているのだと思う」

 キレンヒミの話をどこまで真に受けていいものやら分からない。ずいぶん知った風な物言いだと感じる。けれどその話の内容には所々思い当たる節があるのも事実だった。

「キレンヒミはどうして星になりたいの?」

 これ以上、母の心情に深入りするのはいたたまれない気持ちになるので話題の矛先を変える。

「それは決まってるだろう。イルイジュに会うためさ」

 返ってきたのがあまりにまっとうな理由だったので、僕はぽかんとしてしまった。

「なんて顔してるんだい」

 言いながらキレンヒミは起きあがって、僕の顔にぽっかり空いた深淵の縁を指先でなぞった。

「我々の産みの親は確かに母上かもしれない。けれど育ての親にこそ真の親愛の情を抱くこともある」

「それは、そうかもしれないけど……、会えるの?」

 僕はリントロメ兄さんに言われたことを思いだしていた。”眼”の世界は広い。たとえそこに到達できたとしても会うことなどできないだろう、と。

「小さな幸せに満足して、大きな幸せを求めないのは罪なんだ。求め続けなければならない」

 どこかで聞いたような台詞だ。けれど誰が言っていたのかは分からない。言うだけ言ってキレンヒミはのっそりと背筋を伸ばすと、扉の方にふり返り、天井を背中の無数の手で撫でまわした。

「それじゃあ我々は部屋に戻るよ」

 部屋、というのはリントロメ兄さんの私室だ。抜けた天井をなおして、今はキレンヒミが使っている。イルイジュ兄さんの私室だった部屋はシィノルトの部屋になった。

 巨体を扉の枠にこすりつけながら出ていくキレンヒミを見送ると、僕は今日の日記をつけるべく机と向かい合う。それからごはんの時間になるまでは、日記を書き続けた。


 ごはんの時間。食事を終えたきょうだい、子供たちが去っていく。きょうだいたちの食器を母が、テタドとシィノルトの食器を僕が片付ける。それから僕と母は食堂に残ってすこしだけ話をする。母が僕に物語の扱いについて手ほどきするようになってから、この会合は日課のようになっている。

「テタドとシィノルトの様子はどう」

 母が聞く。僕が顔を失い、そこに深淵が現れてから、母の僕に対する態度は変わった。自分の子供ではなくもっと近くて遠いような距離感。親しい友人、そんな感じだ。

「問題ないよ」

 僕が答える。

「物語を書き換えるのに、なにか悩みはない?」

 母の深淵は月のない夜よりも暗い。僕を直視せずに、僕の深淵を通して自分を見ている。他人の瞳に映りこんだ小さな己を見るように。むしろ悩んでいるのは母のように思えるが、そんなことを言葉にすることはできない。

「どんな物語が”眼”の好みなのかな」

 曖昧な疑問をぶつけてみる。

「それは私にも分からない。”眼”によって好みも違うし、よく来てくださる”眼”の好みに合わせてもいいけれど、そうすると新しく来てくださる”眼”には楽しんで頂けないような気もするし……。結局、私たちがいいと思えるような内容にすべきなんじゃないかしら」

「母さんはどんな物語にしようとしているの」

「私? そう、ねえ。自然のまま、かな。あんまり変えすぎないようにしてる」

 キレンヒミの言っていたことが頭を過る。変え過ぎないように、ではなく自分の意思で変えるのを怖がっているんじゃないだろうか。自己嫌悪というものに囚われて。

「ノナトハはどうなの? あなたの方がむしろ詳しいんじゃないかな。いま一番贈り物をもらっているのはテタドだし、イルイジュだって、あなたが物語に触れてから選ばれたのよ」

 若干、含みがある言い方に感じてしまう。僕は母の自尊心を傷つけているのだろうか。それから母は「やっぱり、あなたは……」と、なにかを言いかけて、結局なにも言わなかった。沈黙を埋めるように僕が話しはじめる。

「僕はすこしでも幸せな物語がいい、と思う。物語の主人公、子供たちの前世が幸せであるように」

「……でも誰かの幸せは、別の誰かを不幸にすることだってあるじゃない」

 妙に突っかかってくる。母は頬杖をついて、棘のある視線を向けてくる。

「そうかもしれないけど。それは割り切るしかないんじゃないかな。僕はみんなに幸せになってほしいんじゃなくて、僕の好きな人に幸せになってほしいだけだから」

「ふーん。でもそれって……」

 母が言葉を継ごうとした時、クムモクモがひょっこりと食卓に乱入してきた。

「あら。どうしたのクムモクモ。まだ食べたりない?」

 ぴょんと膝に乗ったクムモクモを、母が手で毛を梳くように撫でる。クムモクモは机を挟んで座る僕に対して毛むくじゃらに埋もれた瞳を向けている。続けざまにどやどやとエポヌとシィノルトもやってきた。さらにはその後ろに巨体を天井近くまで持ちあげたキレンヒミもいる。

「クムちゃん、こんなとコロにいタノ」

「行儀よくリントロメ伯父様のお話を聞きましょう」

「せっカク盛りアがッテきたノニ」

 エポヌとシィノルトがそれぞれクムモクモを引っ張る。食後にキレンヒミの話を聞いていたらしい。

「まあ。リントロメ、どんなお話をしてたの」

 母が聞くとキレンヒミは「物語のなかでのお話です」と、恭しく頭をさげた。

「それはいけないわ」

 母が声をとがらせる。そういえば僕も昔、こんな風に怒られたことがあった。もっとも僕は話す側ではなく聞く側だったけれど。

「物語について話すと、物語がお口から外に漏れ出ちゃうの。それが別の物語と混じってしまうと、魂を失うことになるかもしれないのよ」

 キレンヒミに言うにはまったく皮肉めいていた。母はいまだに起こったことを把握していないので、こんなことをさらりと言ってのける。これがしつけのための話なのか事実なのかはよく分かっていない。後半はともかく前半については眉唾物だと僕は思っている。けれど、前世についてあまり大っぴらにしない方がいい、というのは僕も賛成だ。前世に囚われると今を生きれなくなってしまうから。

「以後、気を付けます」キレンヒミが目を伏せて「さあ、別のお話をしてあげよう」と、三人組を連れて立ち去った。

 キレンヒミが話していたというのは僕と一緒にリントロメ兄さんとテタドの物語が混じり合った世界に入った時のことだろうか。当然、僕のことも話題に出ただろうから、その話のどこかに興味をひかれたクムモクモが僕を見にきたのかもしれない。

 四人が階段をおりていく音が遠のいていくと、母がふうと息を吐いた。食堂に雪のような冷たい静寂が降り積もる。それをふり払うように「今日はこのぐらいにしましょうか」と、母が席を立った。

 ひらひらと翼の先をふって、階段の方へと去っていく。僕も翼をふり返そうとしたが、まだ羽根が生えそろっていない翼はうまく動かせずに、結局は手をふることになった。


 館ではいたずら旋風が巻き起こっていた。いたずらっ子三人組のいたずらが激しさを増している。

「シィノルト!」

 自室を出ると、温室の隅でテタドが妹に呼びかけているのを見かけた。怒っているような口調だが、その目尻は困ったようにさげられて、怒り切れていないといった雰囲気だ。

「お兄様。なんでしょう」

「また、ボクの帽子を……」

 テタドの手にはいつもかぶっている大きな耳当てがついた鹿撃ち帽が握られている。けれどその帽子は葉っぱまみれで、すこし土に汚れていた。

「まあ! もう見つけられたのですね。素晴らしいです。お兄様はお宝探しがとってもお上手」

「そりゃあ、ボクにかかればこのぐらい……」

 妹に褒められるとまんざらでもないらしく、元々下火だった怒りの炎がすぐに頭を引っ込める。

「今度一緒にお宝探ししましょうよ。私いつもエポちゃんに負けちゃうんです」

「なんだって? よし。ボクがいたら百人力どころか千人力だ。お化け叔母さんなんか赤子の手をひねるみたいなものだよ」

「わあ。心強いです」

 人のことは言えないが、テタドはいたずらを抑えるのに一役買ってくれそうにない。それどころか取り込まれようとしている。僕は肩をおとしながら通り過ぎると、右館の二階へおりて、創作工房へと向かった。今日はウルキメトコ姉さんと約束をしているのだ。

 イーゼルにカンバスを立てかけて、下地を塗っていると姉がやってきた。時間ぴったり。いつもながら見事なものだ。細身のスラックスをサスペンダーで吊って、パリッとした真っ白なシャツを着こなしている。僕が、いつもと違う恰好を描きたい、と言ったから衣装を変えてきてくれたのだ。

 どんな服装がいいのか、と聞かれて、僕みたいなラフな格好、と答えたからか、まるきり僕に似た服装になっている。けれど姉が着るとまったくだらしない印象がないのが不思議だ。むしろ逆で、粛々とした雰囲気がある。中身の問題なのだろうか。少しショックだ。

「その椅子に」と、言い切らないうちに姉は「はい」と、返事して椅子に腰掛ける。もう何枚も描いているからモデルが様になっている。細かい指示をすると、足を組んで肩肘をついた、気怠げだけれどちょっと気取ったポーズになる。

 まずは色を作るところから。もう慣れたもので、どんな色が必要なのか、その調合方法も把握している。パレットが完成すると、迷いなく筆を走らせる。

 すこし前、隣人がこの館にやってきた。母がお世話になっているお礼として、もてなすために招いたのだ。近くで見る隣人は姿こそ母と似ているけれど、深淵の奥に光を灯していて、翼はキラキラとつやめいていた。その隣人が僕の絵をたまたま目にして、それを欲しいと言ったのだ。僕が了承すると、母は隣人に絵を贈った。すごく喜んでもらえて、僕もうれしくなった。それから僕は意欲的に絵を描くようになった。

 隣人は僕の深淵をのぞき込んで、羽根が生えそろって飛べるようになったらぜひとも自分の子供たちの絵を描きにきてほしい、と言っていた。対価として星の欠片を支払う、とも。隣人は星になる気はないらしい。そういう人たちにとっては、星の欠片が通貨として使われていることを、この時初めて知った。

 色を塗り重ねる。ガラス玉みたいにまん丸な瞳。光を孕んで煌めく透明な髪。これらがうまく描けたときには最高に気分がいい。

 長い時間集中して、すこし休憩しようかと筆を置いた瞬間に、淡い緑色の毛玉が工房に飛び込んできた。しかもそれは一つではない。三つだ。

 ウルキメトコ姉さんの足元に集まって、伸びたり縮んだりしている。姉はモデルとしてぴたりと静止したまま微動だにしないが、その周りに毛玉がうごめくさまは、なにかの儀式めいていた。

 また妙な遊びを考えついたらしい。クムモクモごっこ、とでも言えばいいのか。抜け毛や植物のヒゲなんかを集めてそれっぽい毛玉を作って着ているらしい。非常に出来が良くて、まったく見分けがつかない。

「姉さん。休憩しよう」

「はい」

 提案すると、姉は姿勢を崩して毛玉たちに目を向けた。声を出すと誰が誰だか分かってしまうからか、三つの毛玉は黙ってこちらを見返している。どうして欲しいのだろうか。

「クムモクモ」姉が右の毛玉を指差す。「エポヌ、シィノルト」真ん中そして左。

 三つの毛玉はドキリと体を震わせて、身を寄せて混ざり合うと、また別れた。

「シィノルト、クムモクモ、エポヌ」右、真ん中、左。またドキリと毛玉が体を震わせる。どうやら合っているらしい。こうやって遊ぶのか、と感心していると、右の毛玉が「お父様もやってみてください」と、また毛玉がシャッフルされた。

 分からない。全く同じに見える。よくできた仮装だ。僕はうんうんとうなって、おもむろに硝子盤を取りだした。魂を見れば一目瞭然だ。

「ズル!」と、右側から声があがる。エポヌの声。左の毛玉が抗議するかのように飛びかかってくる。慌てて僕は硝子盤をしまう。僕にぶつかる直前でウルキメトコ姉さんに捕まって、腕のなかでじたばたしている。その毛玉から漂ってくる濃い草の香りはクムモクモに違いない。なら真ん中がシィノルトだ。

「お父様。ズルはいけません」

 予想通り、真ん中の毛玉からシィノルトの声がする。

「ごめん。つい」

「ノナ。罰ゲーム!」

 エポヌが毛玉から顔を出すと、牙をむき出して笑った。

「僕になにさせるつもりなの」

「爪をはがしちゃオウ」

「ちょっと、待ってよ! 切った爪じゃダメ?」

「ダメ。一枚でいいカラ」

「いやだよ。他に何かないの……」

「ならお父様。私の言うこと、ひとつだけ聞いてくださいな」

「どんなこと?」

「今じゃなくていいんです。予約です」

 なんにせよエポヌの提案するものよりはずっとましだ。シィノルトなら過激なお願いはしないだろう。

「……分かった。いいよ」

「うれしいっ。エポちゃん。お父様を許してあげて」

「仕方がナイ。ノナは仕様がナイナ」

 寛大な心で譲歩してやろうという態度を見え見えにしてエポヌが言う。子供の遊びに付き合う大変さを実感する。僕も子供のはずなのに。

「姉さんはどうやって判別してるの」

「見た目が違います」

「どのあたり?」

「すべて」

 分からない。そもそも見えているものが違うようだ。

「ウルキメトコ伯母様は素晴らしい観察眼をお持ちなんですね」

 毛玉から手が出てきて、ぱちぱちと叩かれた。エポヌも真似して手を叩く。クムモクモは姉の腕から解放されて、その足元に着地すると、ふたりに加わって踊るように跳ねはじめた。

「姉さん。今日はこのぐらいにしておこう」

「分かりました」

 どっ、と疲れてしまった。今日はお開きにして続きは別の日に描こう。

 姉さんが工房を出ていって、僕が後片付けをしていると、

「お父様、私たちを描いてくださらない?」

 と、シィノルトが言いだした。

「それがさっきの罰のお願い?」

「あっ、違います。けれど、ダメでしょうか?」

 三人組は毛玉の仮装のまま、串に刺さった団子のように並ぶ。僕はスケッチブックを取りだして、色エンピツで簡単にスケッチした。

「これで、いいかな」

 ページを破って渡すと、エポヌとシィノルトの手が伸びてきてそれを受け取る。

「ありがとうございます! お父様」

「ノナ。ありがとネ」

 三人で一斉にそれをのぞき込んでいて、皺くちゃになってしまわないかと心配になるが、意外に丁重に扱ってくれているようで無事だ。そのまま三人はスケッチを持って工房を出ていった。


 自室に戻るとまたキレンヒミが待っていた。巨体が部屋の天井に押しこめられている。

「情報共有?」

「そう」

 頷いてから、定位置となっているベットの横の床に腰掛ける。そうしてキレンヒミが話しだす前に、僕はもやもやした気分を吐きだしていた。

「いたずらっ子三人組はどうにかならないかな」

「どうにか、って?」

「もうちょっと、大人しくさ……。あの三人組、”眼”にいたずらしたこともあるんだよ」

 僕が節眼、網眼、色眼と勝手に名付けている常連の”眼”。そんな”眼”たちをあの三人組は部屋に閉じ込めたり、虫網を持って追いかけたりしたことがあるのだ。それを目の当たりにした僕は肝をつぶすことになった。節眼と網眼が気を悪くしたように体を膨らませていたが、色眼がとりなすように間に入ってくれたから事なきを得たようだった。それ以来、節眼と網眼はこの館から足が遠のいている。色眼は元々クムモクモを贔屓にしていたが、今は一緒にいるエポヌとシィノルトにも興味をひかれているようだ。

 そんな話をすると、キレンヒミはこそこそと笑った。

「それは見ものだったね」

「笑いごとじゃないよ。せめてエポヌだけでもどうにかならないかな。エポヌがもうすこし落ち着けば、他のふたりも落ち着くと思う」

「エポヌはしょうがないよ」

「どうして? ここしばらく、なんだかほんのすこし残酷な性格になってる気がするんだ」

「そうだろうね」

 したり顔でキレンヒミが眉をあげた。

「近頃、母上は暴走しているようだ」

 急に母の話になったので、僕は驚いてキレンヒミの顔を見た。

「僕には落ち着いてるように見えるよ」

「表面上はね。けれど魂になにをしてるか知ってる?」

「前世の物語? あまり大きくは変えてないって聞いてるけど、違うの?」

 キレンヒミは片膝を立てて、そこに頭を置いた。そして爪先で自らの心臓のあたりを指し示す。

「我々の物語をのぞいてごらん。今日、我々の診察があったんだ」

 硝子盤を構えて、言われた通りにしてみる。そこには僕が知っているものとは全く異なる世界が広がっていた。それを言うとキレンヒミは「そうだと思った」と、溜息をついた。

「もしかして、テタドの物語にも影響があったりするのかな」

 キレンヒミに宿るリントロメ兄さんの前世と、テタドの前世が生きていたのは共通する世界のはずだ。

「すこしはあるだろうね。でももう魂の在り所が違うから、大きな影響はないはずだよ」

「そうなのかな」平行世界というものだと考えていいのだろうか。いや、よく考えれば、そもそも魂の物語を書き換えるのは、異世界を直接書き換えているのとは違うのかもしれない。今更、僕はそのことに思い至った。撮影された後の映画を編集しているのと、撮影現場自体を工事改修するのが違うようなものだ。僕がやっているのはおそらくは前者?

 本当にそうなのかな? 分からない。すこしは影響がある、とキレンヒミは言った。とにかくテタドの物語を確かめれば分かることだ。

「不安だから明日にでもテタドを診察してみるよ。でも、どうして母さんは……」

「ノナトハに対抗しているんだろう」

「僕に?」

「変わろうと頑張ってるのさ」

 言うべき言葉を探して、それが見つからずに黙ってしまう。僕の深淵をのぞき込みながらキレンヒミがゆっくりと二つの口を開いた。

「前世は、現世に影響してる」

「……やだな」

「どうして?」

 思わず僕がこぼした言葉に、キレンヒミは首を傾げる。

「……なんでだろう。やっぱり、僕は、僕でいたいからかな」

「そうであっても。決して逃れられないよ。邂逅し、融和しなきゃならない」

「融和……」

「バランスが大事なんだ。魂の比重が大きくなれば、エポヌみたいになる」

「残酷になるってこと?」

「違うよ。前世の影響が強くなるんだ」

「それって、エポヌが前世で残酷な性格だったってこと?」

「まあ、そういうこと」

 うーん、と考え込んでしまう。そんな僕を置いたまま、キレンヒミは館の外の話を語りだした。

「ちょっと離れた館まで行ってみたんだけれど、ノナトハみたいな子がいたよ」

「僕みたいな?」

「産む者になった子供」

「その子も物語を、子供を産むの?」

「そう。顔がなくなって、産むための深淵になり、館を行き来するための翼が生えた者」

「……それを聞くと、ちょっとだけ安心したかな」

「気にしてたのかい?」

「だって、きょうだいたちと違って僕だけこんなことになったら、それはおかしいって思うよ」

「大丈夫さ。産む者は転生者から発生するものなんだから。おかしなことなんてひとつもないよ」

 そうなんだ、と思った直後、小さな疑問が浮かんだ。

「……それって、母さんも転生者ってことなの?」

「それは、そうだろうね」

「でも魂が見えないよ。前世がない」

 母に診察されるとき、母の硝子盤を通して向こう側を見返しているのに、そこには一切なにも映りこんでいない。何気なく自分の硝子盤を通して見たこともあったはずだが、その時にも魂は見当たらなかった。

「そうなのかい?」

 キレンヒミが意外という風に首を傾げて「そんなはずないけど」と、怪訝そうに指先で額をかいた。

「だって産む者であるノナトハにだって魂は、前世はきちんとあるだろう」

「うん」

「母上だって同じはずだ」

 僕はキレンヒミと一緒に首をひねる。それからふたりで意見を出し合ってみたものの、結論がでないまま密やかな集会はお開きになった。

 去り際にキレンヒミは「もうすぐだ」と、こぼした。

「星に、なるの?」

「そうだ。あと数個で完成する」

「星になっても、またこの館に来てくれる?」

「もちろんだよ」

「だったら、いいな」

 キレンヒミが部屋を出ていく。再び家族が減ってしまう、それを思うと落ち込んだ気分が深淵の底から湧きだしてきた。


 次の日。キレンヒミに言っていた通り、診察をすることにした。けれどまずはシィノルトからだ。定期診察ではなくて臨時のものだし、いきなりテタドを呼んでも来てくれないだろう。さらにはテタドひとりだけと言ったら余計に敬遠されてしまう。シィノルトの診察をして、シィノルトにテタドを呼んでもらうのが最も確実な方法だ。

 診察室で待っていると、扉を開けて毛玉が入ってきた。

「お父様。お待たせ致しました」

 シィノルトの声。まだクムモクモごっこが続いているらしい。それにしても昨日より巨大化している。改造したらしい。温室で遊んでいた直後なのか草の匂いが濃くただよっており、シィノルトの甘ったるい香りと混ざって、なんとなく食虫植物を思わせる香りになっている。

 毛玉をまとったままで器用に椅子に腰掛ける。

「手を出して」

 言ってみると、毛玉のなかから血色のいいシィノルトの手が差しだされた。毛玉を脱ぐように言おうかと思ったが、今日はテタドの診察がしたいだけの建前。最近診察したばかりでもあるから、厳密にする必要はないだろうと思いなおした。

 すぐに硝子盤を取りだすと、シィノルトが「もういいんですか」と、聞いてきた。

「今日は念のためというか、簡単に見たいだけだったから」

 硝子盤をのぞき込もうとする僕を制するように「お父様」と、シィノルトが椅子から身を乗りだした。

「すこし目をつぶってくださらない?」

 目がない僕が目をつぶるというのもおかしな話だが、深淵のなかの視覚を閉ざすことはできる。

「どうして?」

「昨日、お約束したじゃありませんか」

 ひとつ言うことを聞く、という約束はしたが、こんなことでいいならお安い御用だ。

「目をつぶるだけでいいのかい」

「ええ。早く」

 せかされて目をつぶる。と言ってもシィノルトからは僕が目をつぶっているかどうか分からないだろう。そう思っていると、顔の前で小さな手がふられている気配がする。僕がちゃんと見ていないのを確認しているようだ。

「まだ目を開けちゃいけませんよ」

 ごそごそと音がする。と、次の瞬間、硝子盤を握った僕の手が、その上から押さえつけられた。手が引っ張られる。思わずなにが起こっているのか確認するため視界を開く。毛玉が三つある。巨大化していると思っていた毛玉が三つに分裂しているのだ。僕をつかんでいるのは青白い手。エポヌだ。

 こんなことが前にもあったのを思いだす。イルイジュ兄さんの部屋でのことだ。

「エポヌ。やめるんだ」

「お父様。目を開いちゃったんですか。約束したのに」

「シィノルト。やめさせて」

「それはできません。クムちゃんのためなんです」

 シィノルトも一緒になって僕の手を引っ張る。無理やり握らされたままの硝子盤を通して物語が見えた。正面の毛玉のなか。クムモクモの物語。深い深い森のなか。そこに僕の体ごと引っ張りこまれる。クムモクモの毛が僕の全身に触手のように絡まってくる。腕にびっしりと毛が巻きついていて、ふりほどくことができない。

「やめるんだ」

 僕はうめき、もがいたが、三人がかりで押さえつけられてどうにもできない。

 かつてイルイジュ兄さんにされたように、物語に突き落とされる。けれど、今回はすこし違うことがある。クムモクモが自分自身を僕の体に縛りつけるように、数多の毛を使ってきつく結びつけているということだ。僕に引っ張られて、自らの魂のなかにその肉体が取りこまれようとしている。

 クムモクモの体がはげしくゆがんでいく。

 伸びて、ぶつり、と引きちぎられる。

 バラバラに裂かれ、断片になる。

 内臓が裏返り、反転した。

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