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第4話 なりそこないたち

「キレンヒミ。どこにいるの」

 館の地下では巨大な機械たちが身を寄せ合って、絶えず震えながら低い唸り声をあげている。僕の声は機械たちの振動音に容易にのみ込まれてしまい、すぐにバラバラに砕かれて消えてしまった。けれど薄暗い地下室の奥からはしっかりと返答の声が響いてきた。

「あっち。あっち? 山の上?」

 ごわごわとざらついて不明瞭な声。僕はその声を頼りに、足元に注意しながら機械の森を進んでいく。勢いよく排気される空気に押されて体が踊る。赤熱する機械に炙られそうになったり、はたまた滴りおちる水をぐっしょりと浴びてしまったりと散々だ。溜息を漏らそうと天井を見上げたら、不意にのっぽの機械が発光しはじめて、目がくらんだ拍子に床へと視線を落とす。足元ではお気に入りの靴がすっかり機械油で汚れてしまっていて、悲しい気分になる。

 ひしめき合う機械たちに翻弄されながらも、その隙間を縫って奥へ奥へと足を踏み入れる。そうしてたどり着いた場所は館全体のダストシュートの出口。積みあがったゴミの山。そんなゴミたちが作るいびつな影のなかにキレンヒミがうずくまっていた。

「キレンヒミ」

 僕が声をかけるとキレンヒミは五つの目を一斉にこちらへと向ける。左頬についた縦向きの裂傷のような口から舌がベロンと垂らされる。その舌は二枚が重ね合わさっていて蛇のように先が割れていた。

「誰? 誰! ノナトハ……、待ったた」

「まったた?」

「いま来たところ、って言って」

「……いま来たところ」

「うれしいっ!」

 キレンヒミは二つの口で「ひひひ」と金属を擦ったような忍び笑いをする。キレンヒミはなりそこない。イルイジュ兄さんが組み立てたなりそこないの集まり。目は五つ、耳は四つ、口と鼻は二つずつ、足は四本、手は数えきれない程あるというでたらめさ具合。なりそこないは母が産んだ魂のない肉片。子供になれなかったもの。そしてゴミ。けれど兄はそんな手や内臓だけといった体の一部しか持たない、なりそこないをかき集めてひとりの人間を作りあげた。兄は愛情深い人だったからきっとそんな肉片すら家族として迎え入れたかったのだろう。そして、母に見つかって処分されないように地下室に隠した。地下室にあるダストシュートの終点は誰かが捨てたなりそこないを回収できるという意味でも好都合な場所だったようだ。

「ごはん持ってきたよ」

 温室で採ってきた葉っぱと木の実を差しだすと、キレンヒミはそれを指で裂いたり潰したりしながら口に放りこんでいく。

「なんだ? 蟹ねっ。ヒトデだわっ」

 キレンヒミはなんでも食べる。選り好みはないようだが、好き嫌いについては正直なところよく分からない。キレンヒミの言葉の意味を理解するのが難しいからだ。意思の疎通ができているかと思えば、急に全く関係のないわけの分からないことをしゃべり出したりする。食事をしているのは正面の口だけで、頬の口は絶えずわめき散らしている。その声は荒々しかったり、子供っぽかったり、艶っぽかったり、興奮していたり、冷静だったり、滅茶苦茶だ。

 止まることのない言葉の濁流を半ば聞き流しながら、食事にふけるキレンヒミの姿をまじまじと眺める。兄はどうやら最初のうちこそ普通の人間を作ろうとしたらしい。均整の取れた顔と体。しかしあぶれたパーツを手に入れた場合にどうするか。それを考えた結果、兄はキレンヒミに過剰なパーツを取り付けた。右の眼窩には三つ、左には二つの目玉が入れられ、鼻のすぐ右隣に二個目の鼻、左頬に二個目の口。頬の口は正面の口と口角でつながっている。両耳の耳たぶからはさらにもうひとつの耳が垂れさがり、髪の毛は様々な毛色、毛質、長さのものが入り混じる。足のかかとからはもう一本の足が生えており、前衛芸術家が作った非常にユニークなパンプスの大きすぎるヒールのように見えなくもない。特に目立つのは手だ。手のなりそこないは僕も良く見かける。だから大量に集まってしまったらしい。そんな手の取り付け場所に兄は相当困ったらしく、肩から伸びる手は数本を束ねたようであるし、さらに余った手は群生するキノコのように背中から所狭しと生えている。背中では手と手が融合するようにつながり、無数の手が一枚の布か網のようなものを形成して、さながら分厚いマントをまとっているようだ。

 なりそこないをひとつとして捨てることができなかったのはイルイジュ兄さんらしいと言えばらしいのだが、これでは人間から逸脱し過ぎている、と苦笑いせずにはいられない。

 キレンヒミがごはんを食べ終えたのを確認した僕は「腎臓があったよ」と、拾ってきたなりそこないを取りだした。キレンヒミは満腹になったお腹をさすりながら、床に垂れおちる髪の毛とローブを引きずるようにして少しだけ明るい場所に出てきてくれる。キレンヒミがまとっているローブはイルイジュ兄さんの手作りだ。常識外れの体形をしているから、さしもの館の衣装室にもぴったり合う服が見つからなかったのだろう。切れ端を寄せ集めたパッチワークのつぎはぎローブ。いびつな体形に合うように調整されており、背中の手たちがちゃんと外に出せるような構造になっている。キレンヒミ自身とそっくりなそのローブはなんだかよく似合っていた。

「お腹に入れるからじっとしててね」

「ないない。やあやあ」

 ローブをめくる。乳房が五つも六つもぶら下がった胸の真ん中に亀裂のような穴が空いている。それを閉じている紐をほどいて亀裂を広げると、腎臓を納めるべき場所を探す。数人分の骨が組み合わさって檻のようになっている肋骨のなかで、爪跡のような傷がついた心臓が力強く脈打っている。心臓の下、やや膨らんだ胃を通り過ぎ、肝臓のそばにある窪みに腎臓を置いた。するとキレンヒミは「ひいゅひいゅ」と笛を吹くような音を鳴らしながら、なりそこないの腎臓を自らの体と融合させた。

 キレンヒミにはもう一人分の人間としては必要なものがほとんど揃っている。それどころかかなりの過積載状態だ。足りていないのは脳の一部、右前頭葉だけ。

 胸の紐を結びなおして亀裂を閉じてやるとキレンヒミは「イルイジュはどこ?」と、ぽつりと僕に尋ねた。

「……イルイジュ兄さんは、もういないんだ。特別な”眼”に連れていかれたから」

 言い含めるようにゆっくりと話す。僕の答えを聞いたキレンヒミはがっくりとうなだれてしまった。


 イルイジュ兄さんが特別な”眼”に連れていかれたのはウルキメトコ姉さんの物語から脱出した後、間もない頃だった。物語のなかで右手と両足を溶解液によって焼かれてしまった兄は母の治療の甲斐もなくその傷は治らなかった。僕は物語のなかでの己の無力さを痛感し、贖罪の念に憑りつかれていた。だからせめて兄が不便を感じないようにと、兄の車椅子を押したり、身の回りの世話に奔走していた。母は兄がそんな状態であるにも関わらず、特別な”眼”を館に招いた。僕が書き換えた兄の物語を母は再度調整したようだった。それから兄は見事、僕にとっては残念ながら送り子に選ばれて”眼”の世界に連れていかれることになった。

 その時の母の様子はとても印象に残っている。喜ぶでもなく、悲しむでもなく、気の抜けたような、そんな風だった。イルイジュ兄さんは連れていかれる寸前であっても朗らかで、いつも通りの態度を崩さなかった。特別な”眼”は他の”眼”の数倍の大きさはあった。真っ暗な穴のような球体の体の外周から闇色の触手を伸ばして、兄を車椅子ごと抱えると自分の頭の上に乗せた。そうして兄を気遣うようにゆっくりと浮かびあがり、”眼”の世界につながっているという天と地を結ぶ塔へと飛んでいった。兄は小さな点になって見えなくなるまで笑顔を絶やさず、見送る僕らに手をふっていた。

 その数日前、イルイジュ兄さんは僕を地下室へと連れていって、キレンヒミと引き合わせていた。そしてキレンヒミのことを僕に託していたのだった。

 僕は兄の物語をもう一度書き換えてしまってはどうかと何度思ったか分からない。特別な”眼”に気に入られないように、送り子に選ばれないように、兄の物語をエポヌの言っていた通り、母が修復できないぐらいに壊してしまうべきだったかもしれないと思わない時はなかった。けれど肝心の硝子盤は母に取りあげられてしまった。硝子盤がなければ魂のなかの物語を見ることができない。時計職人にとってのルーペのようなものだ。あれ以来、硝子盤の置かれている診察室は厳重に施錠されていてどうすることもできない。

 そうして結局、僕がなにもできないまま兄は連れていかれてしまったのだ。


「……キレちゃん、元気だしテ」

「エポちゃん……」

 地下室の機械が落とす巨大な影のなかから、ぬうっ、と姿を現したエポヌが慰めるようにキレンヒミの頭を撫でた。虹を無造作にちぎって植えつけたようなキレンヒミの髪がぐるぐるとかき混ぜられる。使い古したパレットに水を注いだように色が混ざり合いながら、床に垂れおちた髪が渦を巻く。

 エポヌは母が選んでくれた濃紺色のドレスを脱ぎ捨てて、以前着ていた古ぼけた椿の着物姿に戻っている。黄金と漆黒が入り混じった髪も、錆付いたかんざしが挿されているぐらいで飾りっ気がなくなっており、今はただただ影に染まっている。この変化に対して母が口を差し挟むことはなかった。それどころか僕らの服装などにはすっかり興味を失ってしまっているようだった。

 エポヌはかなり以前からキレンヒミのことを知っていたみたいだ。エポヌのことだから地下室で遊んでいて見つけたのだろう。それからイルイジュ兄さんと一緒に隠れて世話をしていた。時にはキレンヒミをこっそり地下室から連れだしていたらしいが、僕は全く気付いていなかった。

「爪を切ッテあげル。いッパい爪をちょうダイ。占ッテあげるワネ」

 言いながらパチリ、パチリ、と大量にある手の一つひとつの爪をエポヌが綺麗にしてやっている。僕はキレンヒミのことをエポヌに任せて地下室を出た。地下と一階をつなぐ階段に身を潜めて、誰にも見られていないことを確認してから廊下へと滑りでる。

 ふうと息がこぼれ出た。どうしようかと考えた僕は、雑然とした頭のなかを落ち着けるために館を散歩することにした。


 右と左に分かれて一階で繋がった双子の館。足を向けたのはその左館の三階。そこにある温室を彷徨う。温室には物陰がたくさんあるので、なりそこないが潜んでいることが多い。体を動かすついでにそれを探そうと思ったのだ。

 細い枝を頼りなく伸ばした冬の森のような風景。温室と言っても左館の温室は右館のものと違い、肌寒いぐらいの室温で、空気はさらさらと乾燥している。道すがら木陰をのぞき込んでみると何体かのなりそこないを見かけた。けれど入り組んだ植物の間に逃げられてしまって捕まえることはできなかった。

 同じ階には母の私室がある。温室をぐるりと回って通り抜けるとその扉が見えてきた。天井。母の私室の扉。翼のある母にしか出入りできない場所。その扉の向こう側から欠けた歯車が回るような音と共に紙が引きちぎられるような音がもれ聞こえてくる。それからかすかに筆が走る音。手紙を読んでいるのか、書いているのか、それとも全く別のことをしているのかもしれない。

 僕は折り返して再び温室のなかを行く。イルイジュ兄さんが特別な”眼”に選ばれてから、いや、それ以前、兄が怪我をした時点から母はじっとりと沈んでおり、翼も心持ちしおれてしまっている。なにか心の奥底で気持ちが張り詰めているようだった。ズボラだった母はしっかり者の皮をかぶって、笑うことも少なくなって、私室にこもりきりになることが多くなった。そして時折、思いだしたかのように診察室に閉じこもると大量のなりそこないたちを産み落とした。

 母がそんな風だから今はなりそこないが館中に溢れている。キレンヒミの体のパーツを探すのにも全く苦労しなくなり、僕が兄に任された時にはまだまだ足りていなかった体も、あっという間に完成の一歩手前まで近付いた。とはいえ、なりそこないの偏りは甚だしい。しばらく温室をうろうろしたものの脳のなりそこないはまるで見当たらなかった。

 階段まで戻ってくると温室の探索は諦めることにして館の最上階、四階へとのぼっていく。ちらりと食堂をのぞき込む。しーんとした静寂が食卓を包んでいる。当然だ。今はごはんの時間ではないのだから。兄がいないと食事の時間は火が消えたように寂しく感じる。元気にしているのは嫌っていた兄がいなくなったテタドぐらいなものだ。

 食堂になりそこないはいない。母がきちんと掃除しているのだろう。僕は階段をおりて左館の二階へ向かう。


 展示室の前を通りがかると、開いた扉から突然”眼”が飛びだしてきて、ぶつかった僕は跳ね飛ばされてしまった。体を起こした時にはもうその”眼”は廊下の遥か向こうにまで行ってしまっている。”眼”がぶつかった胸のあたりに泥がはねたような汚れがついていた。ハンカチで拭うとぷんと腐った油のような匂いがする。

 僕は乱暴な”眼”が出てきた展示室のなかを覗いてみた。特に変わったところはない。展示室には創作工房できょうだいたちが作った様々なものがごちゃごちゃと置かれている。名前に反して物置といった風情だ。その大部分は僕が描いた絵とリントロメ兄さんが作った壺。部屋の中央には大きな台座があり、その周りだけは綺麗に片付けられている。台座の上に置かれた巨大な金魚鉢みたいな透明なケース。そこにはたくさんの小石が納められている。その小石はきょうだいたちが”眼”から貰った贈り物、星の欠片と呼ばれているものだ。

 ケースの上部は天井付近まで届いており、その口に当たる部分のヒダのへこみが投入口だ。母が翼を使って飛びあがっては、新しく貰えた星の欠片を入れている。壊しでもしないと取りだすことができなさそうだが、特に使い道のなさそうなものだからその必要もないのだろう。

 イルイジュ兄さんが連れていかれてから、この館を訪れる”眼”の数はすこしずつ増加していた。それに比例して贈り物も増大している。今ではケースに納められた星の欠片が小さな山を築くほどだ。

 この小山のなかにイルイジュ兄さんが貰った贈り物も混ざっている。それを目で探してみたが見つからず、ただ感傷的な気分だけが残った。

 僕が貰った贈り物も探してみる。それはすぐに分かった。自分が貰ったものでもあるし、特別小さいから目立つのだ。どの”眼”にそれを貰ったのかも分かる。と言うより僕に贈り物をくれるのはたった一体の”眼”だけだ。

 考えていたらふよふよと風に吹かれる綿毛のようにその”眼”がただよってきた。手のひらに乗りそうな大きさの”眼”。こんなに小さい”眼”は他にいない。僕は心のなかでこの”眼”のことを細眼と呼んでいる。

 ウルキメトコ姉さんの物語のなかで蛙の判別がつくようになったのと同じく、多くの”眼”を見るうちにその個体差がだんだん分かるようになってきた。よくこの館を訪れる常連というべき”眼”たちがいる。僕はそれらに細眼と同じように勝手に名前を付けている。

 ”眼”を見分けるコツはその輪郭だ。”眼”に共通するのは真っ暗な穴のような球体という形状で、大きさはまちまち。けれどその外周部はささくれ立っていたり、柔らかい毛のようだったり、もやが立ち上っているようだったりと様々だ。そこに目を凝らすと”眼”が判別できるのだ。

 節眼、と呼んでいるのは輪郭が微妙にカクカクした”眼”だ。節眼は大雑把な性格をしているらしく、物語を短時間でざっと眺めてはすぐにどこかへといってしまう。

 網眼。輪郭がまつ毛のようになっていて、それが絡み合っている。この館に最も頻繁にやってくる”眼”だ。音もなくゆっくりと館のなかを飛んでいて、物静かな印象がある。けれど一度もきょうだいたちに贈り物をくれたことはないのでこの館のなにが気に入っているのかはよく分からない。

 色眼。この”眼”の輪郭は光の加減によって色づいて見える。ただしそんな判断基準がなくっても飛びぬけて物語を眺める視線がねちっこいからすぐに分かる。クムモクモにはじめて贈り物をくれたのはこの”眼”だ。

 破眼。輪郭がひび割れたようになっている。いつも弾丸のように館のなかを飛び回っていて、さっきも僕にぶつかっていった。物語を見に来ているんだか、そうじゃないのか、よく分からない。網眼とは別の意味でなぜこの館を訪れているのか謎だ。この”眼”には階段から落とされそうになったり、突き飛ばされて軽い怪我をしたこともある。ちょっと怖い”眼”だ。


 僕が展示室を出ると細眼は母鳥の後ろを飛ぶ小鳥のようについてきた。細眼はこの館を訪れた時にはこうして僕のそばにいることがほとんどだ。一緒にいる時間が多くなってくると自然と愛着のようなものが湧いてきてしまっている。けれども僕は細眼との距離を測りかねている。地上と天空に別れて住む僕と細眼。僕やきょうだいたちはただ”眼”を楽しませる物語を包んだ皮袋でしかない。僕にとって価値があるのが現世だとして、彼らにとって価値があるのは前世なのだ。このどうしようもない齟齬が僕と細眼との間に超えられない壁を築いている。

 廊下を歩いていると奥に暗い影がのっそりと現れたのが見えた。丸い影はどんどん大きくなり、風切り音を鳴らしながらこちらへと近付いてくる。

 破眼だ。またぶつかる、と思ったその刹那、廊下の角からひょっこり現れたリントロメ兄さんが僕の前に歩みでた。

「兄さん危ないよっ!」

 僕は廊下の奥を指差した。けれど兄は声をかけた僕の方にふり返って、その背後に迫る破眼には目を向けてもいない。ごおっ、と破眼の巻き起こす風が僕の方にまで届いて、岩に弾丸が撃ち込まれたような固い衝突音が響いた。僕は身を竦めたが兄はなんともなさそうに、それどころか激突したことすら気づいていないようだった。その体には微塵の揺れすらなく、袈裟のような衣装がすこしずれたぐらいだ。

 兄は腰を鉤のように曲げながら僕の方へゆっくりと歩いてきて、

「ノナ坊や今なにか言ったかい?」

 と、聞いてきた。

「いや……」

 兄の背後の様子を窺う。跳ね飛ばされた破眼が恨みがましい視線をちらりと向けて、ふらふらとよろめきながら飛んでいった。僕の近くにいた細眼は風圧で目を回してしまったようで、松ぼっくりの種のように空中で踊っている。

「……リントロメ兄さんはなにしてるの?」

 兄はシアタールームの方をあごで指して、

「のんびり眠ろうと思ってのう」

 と、言いながら扉を開けて入っていった。僕は兄の後ろをついていって、暗箱のなかのような室内へと足を踏み入れた。

 兄は映写機を回して真ん中の席に座る。僕はその隣に座って、ちらちらと光がゆれるスクリーンの上を一緒に眺めた。映しだされたのは炎だ。自然のなかで炎が燃えている。ただそれだけの映像。ぱちぱちと火が爆ぜて、植物で作られたドームの内側を茜色に染めあげている。しばらくするとそこに動物が集って身を温めはじめた。

「イルイジュ兄さんは元気にしてるかなあ」

 僕が不意に思い浮かんだことを口の端からこぼすと、リントロメ兄さんは既に船を漕ぎはじめながら、

「生きてるなら。元気じゃろうなあ」

 と、しみじみ言った。

「あんな怪我してても?」

「生きてる限りは元気じゃ。元気がなくなったら死んでしまうからのう」

 リントロメ兄さんの綿のような白い髭が映像の炎に照らされて茜色に染まり、暗褐色の頭がつやつやと輝く。

「また会えるかな」

「そりゃあ。無理じゃろうなあ」

 ささやかな希望をすぐに否定された僕はちょっとだけむっとして、

「でも、たとえば僕が送り子になるかもしれないじゃない」

 と、ありそうもないことを口にした。

「それでも世界は広いからの」

「”眼”の世界も?」

 兄はひょろひょろと垂れさがる真っ白な髭を手で梳きながら、スクリーンのその向こうを見通すように首を持ちあげた。そうして「空いっぱい」と、深く深く頷いた。

「……寂しいかい?」

 と、兄に慰めるような調子で言われて、僕は自分が泣きそうな顔をしていることに気がついた。うつむいた僕の頭にザラザラとして温かい大きな手が置かれる。

「いいかい坊や。世界はとても広い。広いけれども、地も、空も、あらゆる場所はつながっとる。たとえ会えなくてもノナ坊やとイル坊やはつながっとる。分かるかい?」

 僕が首をかすかに横にふると、兄は語り続けた。

「時間もそうじゃ。過去、未来、前世、現世、全て同じこと。ぜーんぶノナ坊やの内にあって、外にもある。分かるかい?」

 またしても僕は首をふる。

「ノナ坊やはイル坊やとの楽しい思い出がたくさんあるじゃろ」

 こくり、と頷く。

「思いだして、楽しいかい」

 もう一度。

「そうじゃろ。楽しい思い出は楽しい気分になる。楽しい気分で思い返す思い出は楽しい。悲しい気分で思い返す思い出は悲しい。坊やが全てを決定する権利を持ってるんじゃ。これは未来も同じこと」

「未来も?」

「そう。イル坊やには会えんじゃろうが、悲しむことはないっちゅうことじゃ」

「……やっぱり、よく、分からない」

「分からんでもええ、考えんでええ、ただ儂はノナ坊やにも、イル坊やにも元気でいて欲しいのう」

 それだけ言ってリントロメ兄さんは口を閉ざした。僕は兄の言った意味を考えようとして、すぐに考えるのをやめた。そうしてぼーっと炎の映像を眺めていると、いつの間にかリントロメ兄さんは寝息をたてていた。

 僕はそっと席を立つと、兄を起こさないように静かにシアタールームの外に出た。


 一階におりて左館と右館をつなぐ廊下を渡る。劇場の前を通っても、もうピアノの音色が聞こえてくることはない。右館一階の倉庫の前を横切り、イルイジュ兄さんの私室へと向かう。今はもう誰も使っていない部屋。それでも僕はこの部屋を毎日掃除するようにしている。

 扉を開けるとなぜか部屋のなかにテタドがいた。僕は驚いて言葉を失くしてしまったが、それは相手も同じようだった。ハッとしてその手に目を向けると兄のお気に入りだったティーカップが握られている。僕がそのティーカップとテタドの顔に視線を往復させていると、テタドは一瞬眉をひそめて、すぐに口元を厭らしくゆがめた。

「どうしたのノナ兄ちゃん」

 その口調には悪びれた様子もない。大きな耳当てのついた鹿撃ち帽をかぶりなおして、目がくらみそうな模様の外套をバサリとひるがえす。

「それ」と、僕はテタドの手元を指差して「どうするつもりなの」と、問いただすように詰め寄った。

「これ? 誰も使わないんなら。貰おうかと思って、ね」

「イルイジュ兄さんのものを勝手に持っていくなんて……」

「もういない人のものに所有権なんてないでしょ」

「そんな言い方するなよ」

「怒った? ははは。ノナ兄ちゃんでも怒ることあるんだ。あの色ボケがいなくなって清々したついでに、早くこの部屋もまっさらにすべきなんだよ」

 高笑いするテタドを僕はにらみ付けた。イルイジュ兄さんがいなくなってからのテタドの増長ぶりは目に余るものがある。平然とイルイジュ兄さんをけなす言葉を垂れ流すテタドに対して心の奥底から怒りが噴出しはじめた。

「なんだよ。その目。……そんな目でボクを見るなよっ!」

 テタドが挑みかかるようにらみ返してくる。テタドの瞳の奥に炎が燃えあがり、癇に障ったというように唇をねじ曲げた。

 僕はティーカップを取り戻そうと手を伸ばした。しかしそれは身をよじってかわされてしまう。部屋の真ん中に置かれた猫足のテーブルを挟んで僕らは向かい合う。右か、左か、どちらでも同じなのだが、相手の動きを観察しながら僕が右回りにテーブルを回ると、弟はそれを予期していたかのように、ひらりと外套をはためかせてテーブルの上に敷かれたクロスに汚れた足跡を刻みつけた。そのままテーブルの向こう側への逃亡を計る。

 僕は咄嗟に目の前の外套をつかんだ。するとテタドがつんのめって、陶器が砕ける悲しい音が部屋のなかに響いた。

「……兄ちゃんが引っ張ったから」

 テーブルの上にうつぶせで倒れこみながらテタドが言う。

「……大事なティーカップだったんだ。勝手に持っていっていいものじゃないよ」

 僕も負けじと言い返す。今回のことに関しては絶対に引く気はなかった。

「分かった。分かった。次からノナ兄ちゃんに許可を取ればいいんでしょ。欲しい食器を選んで、後でリストにして渡すよ」

 テーブルの上に腰かけたテタドが茶化すような軽い調子で言う。

「そういうことじゃない!」

 僕の剣幕に驚いたのかテタドは目を瞬かせた。そうしてゆっくりと身を縮めると帽子のつばの持ってうつむいた。

「……悪かったよ。兄ちゃんは気が済むまで空っぽの部屋の世話をするといいよ」

 余計な一言をそえつつもテタドは本当に反省している風に謝罪の言葉をもらした。僕も流石にむきになりすぎたことを反省して「僕もごめん」と、小さく謝る。

 すっかり沈黙が部屋を満たして、なんだか気まずい空気が流れた。僕は割れたティーカップの破片を片付ける。テタドはテーブルの上に腰かけたまま掃き集められるカップの破片を静かに眺めていた。そうして片付けが終わると、テタドが口を開いて「お詫びと言ってはなんだけど、なにか探し物があったら見つけてあげるよ」と、言いだした。

 僕は気がついた。要するに弟はいま暇なのだ。暇を持て余してこんなことをしていたのだ。それが分かるとわだかまっていた気持ちがとろとろと溶けはじめた。言われる通りに探しているものがないか考えてみるが思いつかない。けれども何かないかと頭のなかの小箱をひっくり返すようにして探すと、ひとつ思い浮かんだことがあった。

「なりそこないを探してるんだけど、前頭葉の」

「は? なりそこない? なんでそんなもん探してるの」

「えっと……、見かけて捨てようとしたんだけど、逃げられちゃって。どこにいったのかな、と思って」

 たどたどしく嘘を並べてみたものの、弟は明らかに疑いの目を向けている。それでも暇つぶしにはちょうど良かったのか「まあ、いいよ」と、探してもらえることになった。


「どっち」

「どっち?」

「脳には右と左があるでしょ」

「ああそういう意味か。右の前頭葉」

「……随分はっきり分かってるんだね」

「う、ん、その、書室で脳の図鑑を最近見たんだよ。それで、ぱっ、と分かったっていうか」

「ふーん。……言っとくけど、いる場所は教えるけど、いるかどうかは保証できないからね」

「どういうこと?」

「なりそこないっていうのは習性があるんだよ。本能っていうのかな」

 テタドがそう言いながら僕を案内したのは右館三階のトレーニングルームだった。トレーニングルームは空間が歪んでいるのではないかと思えるぐらい広大だ。劇場の舞台と客席を合わせたぐらいだろうか。室内には四方八方から棒が伸びて、空間のなかに縦横斜めの線を引いている。どういうトレーニングが想定されているのかは知らないが、たぶん上ったり、ぶら下がったりするのだろう。

 僕はそんな棒を使わずに走り回ったり、ボールを投げ合ったりして遊んだ思い出が多い。昔はイルイジュ兄さんとよくキャッチボールをしていたし、クムモクモがそれに参加して遠くに飛んでいったボールを拾ってきてくれたりもしていた。

 テタドはトレーニングルームをざっと見回して、部屋の隅にある種々様々なボールが入ったカゴをひっくり返すと、その中を漁った。

「……いないみたいだね。ほんとに見かけたの?」

「えっ? うん……」

「いる場所は教えたから、あとは自分で探してよ」

「どうしてここにいるって分かるの」

「習性だよ。生態観察の賜物。いちいち説明するのは面倒くさいから、もういいでしょ」

 言い捨ててテタドは去っていってしまった。後に残された僕はトレーニングルームのなかを探し回ったがキレンヒミに足りていない最後のパーツ、右前頭葉は見つからなかった。


 トレーニングルームから出ると、なんだかどっと疲れがのしかかってきた。すぐそこにある自室に戻ろうかと思ったが気が変わった。やっぱりもうちょっと探してみよう。簡単に休憩なんてしていたらイルイジュ兄さんに笑われるような気がする。

 廊下を抜けて同じ右館三階にある温室に足を踏み入れる。こちらの温室は母の私室がある左館の温室に比べると大きな葉っぱや太い幹の樹が多く、蒸し暑くて重苦しい暗さがある。自室の近くは念入りに確認しているから簡単にはなりそこないは見当たらない。このあたりにいたなりそこないは全て回収してしまったのかもしれなかった。

 梢が揺れる音すらしない、と思っていたら小さな声が聞こえてきた。泣き声。またクムモクモが泣いているのだ。草原に生える新芽のように柔らかく、淡い緑色の毛で全身を包んだ毛玉のような愛らしいきょうだい。それがいつもと同じ場所、枝葉がかごのように絡まっている場所でひっそりと泣いている。

 聞いていると僕まで泣きだしそうになってきて、追いすがってくる泣き声を振り切るようにして小走りに階段へと向かう。僕がクムモクモにしてあげられることはない。それが余計に悲しかった。声をかけたり慰めようとしてみたが、より深い悲しみを呼び起こさせるだけのようだった。だからせめて、そっとしておくことしか僕にできることはないのだ。


 右館の二階におりる。創作工房へ向かおうとしていたが、その途中ふと衣装室の扉が目に入った。

 覗いてみるが誰もいない。パイプに吊りさげられた衣装たちは打ち捨てられた船に張られた帆のようなもの寂しさがあった。なかに踏みこむと乾燥した冷たい空気がまとわりついてきて肌がぴりぴりとしてくる。母が張り切ってきょうだいたちに衣装を選んでいたのがもうずっとずっと昔のように感じる。あの時のことを思い返しながらうろついていると、奥にある大きな姿見の前に到着した。

 僕の姿。相変わらずだらしない着古したシャツとズボン。ぼさぼさの髪。いつもと変わらない。けれど変わった部分もある。右頬にある大きな火傷の痕。ウルキメトコ姉さんの物語のなかで、ベッドのいかだにゆられる直前、跳ねた溶解液に触れてしまったことによる傷だ。それから左手には、シィノルトにつけられた剣による切り傷もはっきりと残っている。

 火傷は右の口角辺りから飛沫が散っているように触手を伸ばして、右目、右耳のあたりまで広がっている。顔が引きつるような感じはするものの痛みはない。けれど見た目には非常に陰惨な印象を与えてしまう。僕は髪も肌も不健康を示すような灰色っぽさがあるから、溶岩が流れた跡のような火傷は非常に目立ってしまうのだ。唯一の救いと言えば、ずっと気になっていた右目の泣きぼくろが目立たなくなったことぐらいだろうか。今や火傷にのみ込まれてしまって、どこにいったのやら分からない。

 姿見を眺めていると背後に重なる服の影に小さな暗い丸が見えた。細眼だ。まだついてきていたらしい。ふり返ると恥ずかしがっているように服の隙間に隠れてしまった。姿見の方へ顔を向けると、ちらりと顔を出す。ふり返ると隠れる。

 やっぱりまだ”眼”との付き合い方は分からない。僕は細眼に気づいていないふりを決め込んで、衣装室から出ることにした。


 創作工房の扉を開けると、なかには先客がいた。ウルキメトコ姉さんだ。デコレーションされた宇宙服のような不格好で重たそうな衣装。母が選んだものだ。姉はそんな動き難そうな衣装を律儀に身にまとい続けている。

 いつだって明瞭でハキハキしている姉には珍しく、ぼんやりしている様子。イーゼルの前に立って、そこに立てかけた絵を眺めているようだ。

 姉の横に並んで硝子玉みたいなまん丸の瞳から放たれている視線の先を追うと、そこにあったのは僕の描いた絵だった。ウルキメトコ姉さんの肖像画。一応、完成はしているけれどなにか足りない気がして放置していた絵だ。

「どうかな」

 なんとなく意見を求めてみる。絵のなかの姉は椅子に座って、無表情のままずっと遠くを眺めている。服装は今みたいにずんぐりむっくりしておらず、シャープなシルエットの灰色のスーツ。そして幾何学的なデザインのブローチと髪飾りをつけている。そういえば姉の物語のなかで出会ったウルの恰好に似ているかもしれない。

 僕の質問に対する答えを考えこんでいるのか姉はなにも言わない。姉の透き通った透明の髪が工房の明かりを乱反射して宇宙で輝く星々のようにきらきらと煌めいている。そんな吸いこまれそうな髪を眺めていると、姉の物語での出来事が記憶の底からどろどろと這いだしてきた。火傷の痕がチクチクする。ダストシュートにのみ込まれるイルイジュ兄さん。あの時、僕がその手を捉まえていれば兄は怪我をしないで済んだかもしれないのに。もしくはもっと僕にできることがあれば……。

 過ぎ去った出来事が僕を苛み、心が痛くなってくる。

「……ウルキメトコ姉さんはロボットじゃないよね」

 急に心配になった僕は尋ねた。馬鹿々々しい質問。すぐにごめんと打ち消そうとした瞬間、姉が突然、セミが脱皮するように着ぶくれした上着を脱いだ。僕の手を取って自分の胸に押しあてる。姉の冷たい肌の向こうで、とくん、とくん、と心臓が動いている。

「よかった……」

 僕がほっと息をつくと、姉はほんのすこしだけ微笑んだ気がした。それを見た僕が笑顔を返すと、今度ははっきり分かるぐらいに、にっこりと笑った。

「姉さん。そこに座って」

 姉に椅子を勧める。そうして僕は工房の棚から絵筆を取りだしてきた。カンバスの上を絵筆で何度も撫でる。ちょっとずつ絵のなかの姉の姿が変わっていく。僕の今の気持ちを絵筆に乗せて色を重ねる。姉は椅子に座ったままそんな僕の筆さばきをじっと眺めている。

 絵筆を動かす音だけが工房に響いた。それはやがて小さく細かな音になっていき、最後にかたんと絵筆を置く音が鳴った。

「どう、かな」

 完成した絵を姉がのぞき込む。絵のなかのウルキメトコ姉さんは幸せそうに微笑んで、腕に赤ちゃんを抱いている。物語のなかで出会ったあの赤ちゃんだ。

 姉はなにも言わず、じっとりとした静寂が訪れる。僕はせめて姉の物語の結末が幸せなものであって欲しかった。幸せな姉の姿を描きたいという衝動をとめることができなかったのだ。それは欺瞞なのかもしれない。それも分かっている。不安になりはじめた僕に、姉が「この絵をワタシに下さい」と、小さな秋風が吹いたような声で言った。

「……うん。いいよ」

 僕がその言葉に驚きつつも頷くと、姉は絵を布で優しく包んで、両手で抱きしめるように持ちあげた。

「ありがとう」

「またモデルになってね」

 背を向けた姉に言うと、こくん、と頷きが返ってきた。

 滑るように床を歩きながら姉が工房から出ていく。僕はそれから工房の椅子に座って、なにも乗せられていないイーゼルを眺めた。そうしていると背後から風に吹き上げられたように、ふわりと細眼が出てきた。

 細眼はバイバイと手をふるように体をゆらして窓の方へと飛んでいく。そんな細眼に僕は「待って」と、声をかけていた。

「あの……イルイジュ兄さん。僕の兄なんだけど。イルイジュって人は”眼”の世界で元気にしてる?」

 細眼はぶらぶらと体をゆらす。それは、知らない、とか、分からない、という返答のように思えた。僕が首を傾げると、それ以上に細眼が体を傾げる。

「……またね」

 諦めて別れを告げると細眼は蝶が舞うにひらひらと窓の外へと去っていった。


 母が、家族が、すこしずつ変わっていく。一滴一滴、雫が岩を穿つように穴が広がっていく。そしてある日、唐突に大きな大きな亀裂が口を開いたのだった。

「きゃあああああああ!!」

 それは展示室からだった。驚き、悲しみ、怒り、そんな感情をぐちゃぐちゃにかき混ぜたような母の叫び。きょうだいたち全員がその声を聞きつけて展示室に集まった。

 母は展示室の中央、星の欠片が入った透明のケースの前でうずくまっている。

「どうしたの?」

 僕が声をかけると母はガバリと体を起こして、

「ないっ! ないのよ!」

 と、翼をふり乱した。翼から抜け落ちた羽毛があたりに飛び散り、枯れ葉のように舞っては落ちる。

「なにがないの?」

「星のっ、欠片がっ、足りないのよ!」

 母は積みあがった星の欠片を指差して叫んだ。ふり向いて集まっているきょうだいたちを見回す。僕にはうず高く積まれた小石の数がいくつかなんてピンとこなかったが、母の顔に空いた深淵の穴には、絶対にその数が足りていないのだ、という確信がみなぎっていた。

「エポヌ。あなたじゃないわよね」

 言ってから母は自分自身の言葉にショックを受けたかのようにのけ反った。エポヌは僕の後ろから首を伸ばして室内の様子を窺っていたが、疑いを向けられると牙をむき出して、威嚇するようにがちがちと鳴らした。

 なくなった。盗まれた。と、すれば母がきょうだいのなかで疑うのはエポヌしかいないであろうということは僕にも理解できた。このところエポヌは母に反抗的な態度をくり返している。母の選んだ衣装を着ないことにはじまり、温室を荒らしたり母の作った食事を乱暴に食い散らかしたりしている。

 けれど僕は「エポヌはそんなことしないよ」と、いうことを分かっていた。母もそれを分かっているのか、自身の顔の穴から飛びでた言葉を呑みこもうと探すように視線を宙に泳がせた。

 物語を持つ子供たちが一ヶ所に集まっているので、館を訪れていた”眼”たちも展示室に集まってきた。もしくは騒ぎが気になって覗きにきたのかもしれない。

 リントロメ兄さんは展示室に散乱している自分の作った壺のなかを覗きこんで、そこに入りこんでいないかと探しているようだった。ウルキメトコ姉さんはケースをじっと眺めて星の欠片の数を確認している。クムモクモは母を遠目に見ながらウルキメトコ姉さんの足元で身を丸めて、よりまん丸な毛玉に成り果てている。そしてテタドはと言うと、母のそばに立って腕組みをしながら鋭く尖らせた瞳で巨大な金魚鉢みたいなケースの上から下までをじっくりと観察していた。

 展示室の中央。腰ぐらいの高さの台の上に透明なケースが置いてあり、そのなかに星の欠片が納められている。上部にあるケースの口は波を描いてひだを作っており、天井にまで届いている。そこには体が滑り込めるほどの隙間はない。かなりの重量があるケースを床に降ろすことなど不可能だし、脚立などの足場を用意して上部のひだの隙間から手を突っこんだとしても底に積まれた星の欠片までは届かないだろう。もちろんケースの側面に穴など開いていない。

 しばらくするとテタドはなにかに気がついたように外套をひるがえして、展示室の扉付近に立っている僕の方をふり返った。けれどその視線は僕を捉えているわけではないようだった。僕の後ろにいるエポヌでもない。さらにその後ろには”眼”たちが集まって僕らに注意を向けている。

 母は肩を震わせて溢れでる嘆きを抑えこもうとしていたようだったが、やがて耐えかねたように翼を広げて私室の方へと飛び去ってしまった。

 真相は不明のまま調査を諦めたきょうだいたちがひとり、またひとりと展示室を出ていく。テタドは展示室の壁際にあるダストシュートに頭を突っこんでその奥を覗きこんでいたが、大きく首をひねって他のきょうだいたちと同様に展示室から出ていった。


 それからも度々、星の欠片盗難事件は発生した。星の欠片を失うたびに母の心には深い哀傷が刻まれているようだった。体は痩せ細っていき、翼もつやを失っていた。そしてその顔の深淵は徐々に混沌で満たされようとしていた。

 きょうだいたち全員でなくなった星の欠片を探したが、その行方はようとして知れなかった。テタドにはなにか思い当たることがあるようだったが、僕がいくら尋ねても、まだ断定できない、とくり返すだけだった。誰かが展示室で張りこんでみても、ちょっと目を離した隙に盗られてしまっている。それも後になって減っていることに気がつくのだ。こうなってはもうお手上げであった

 そうして僕もなくなった星の欠片を探していたが、そんな時、以前テタドに教えてもらったトレーニングルームでキレンヒミに足りない最後のピース、脳の一部、右前頭葉のなりそこないを発見したのだった。

 キレンヒミにそれを届けるため、僕は地下室を訪れた。そして呼びかけようと小さく息を吸った瞬間、暗がりの奥からささやくような声が聞こえてきた。それは独り言のようにも会話のようにも聞こえた。

「あと、どれくらい、必要なの?」

「もっと? ちょっと? たくさん? いらない?」

「食べちゃっていいの? 吐いちゃっていいの?」

「星は、いつ、完成するの?」

 大量の疑問符が飛び交っている。唸りをあげる巨大な機械の影から覗くと、キレンヒミのそばに破眼が浮かんでいた。

 なりそこないには魂がない。なりそこないを集めて作ったキレンヒミにも当然、魂がない。前世がない。物語がない。だから”眼”がキレンヒミに興味を持つなんておかしなことだ。そう思って見ていると破眼の体からにょろにょろと蛇のような闇色の触手が伸びて、ダストシュートの出口の下に積みあげられたゴミのなかに突っこまれた。そうしてゴミを漁って取りだされたのは小石、星の欠片であった。

 星の欠片がキレンヒミの目の前に差しだされ、受け渡される。その光景を見た僕は真相と思えるものにたどり着いていた。星の欠片を盗んだ犯人は”眼”、破眼だったのだ。空を飛べるうえに長い触手を持った”眼”であればケースの上部から触手を差し入れて、星の欠片を掠め取ることも可能だ。さらにダストシュートに放りこめば持ちだす手間も必要ない。それに破眼にぶつかった時になすりつけられた汚れ。今思えばあれは機械油だった。破眼が以前から地下室に入っていた証拠だ。もしかしたらダストシュートのなかを直接通って地下室と展示室を行き来していた可能性もある。

 テタドは犯人が”眼”であると薄々気づいていたに違いない。けれど母と”眼”の関係を思って疑惑を口にすることに慎重になっていたのだ。母にとって”眼”は愛をもたらす使者。それに裏切られたとあってはそのショックは計り知れないだろう。それにテタドは母の言いつけを生真面目に守って決して地下室に近寄ろうとしなかった。なのでキレンヒミのことを知らなかった。だから”眼”がなぜ星の欠片を盗むのかという動機の点でまだ犯人を特定するには迷いがあったのかもしれない。

 とは言え僕もなぜキレンヒミが星の欠片を欲しがって”眼”が与えているのか、その理由はまったく分からなかった。

 星。そして完成。とキレンヒミは言っていた。

――星の欠片。星の完成。星の欠片が集まれば星が作れる?

 考えていると不意に背筋に悪寒が走った。キレンヒミの五つの目が影のなかにいる僕の姿を捉えていた。見つかってしまったようだ。破眼が遅れて僕に視線を向けると、俊敏な動作で背後に回りこんでくる。犯人に銃口を突きつけられた探偵の気分だ。破眼が乱暴に僕の背中を押してくるので、なすすべもなく僕はキレンヒミの前に進みでた。

「ノナトハ。どうしたの? お顔を落っことしたの?」

 キレンヒミの左頬の口から先の分かれた舌が垂れて炎のようにちらちらとゆれた。

「キレンヒミ。どうして星の欠片を盗んだりするの?」

 僕は率直に尋ねた。今までキレンヒミの世話をしていて、いつも噛み合わない会話をしながらも、その心にはイルイジュ兄さんが愛するような温かさが宿っているものと信じていた。

「干からびて、カラカラにならなきゃ、燃えないぜ」

 キレンヒミは意味の分からない答えを口にしながら五つの目で僕の全身を眺めまわしていたが、僕が手に持っているものに気がつくとピタリと視線をとめた。

「ほほほ、トーストが焼けます」

 キレンヒミが身を起こした。二本分の長さの足を伸ばして立ちあがると、その体は巨人のように大きい。背中から生えた無数の手が天井を撫でまわす。覆いかぶさるようにして腰を曲げると、僕の手からなりそこないを奪い取った。キレンヒミに欠けていた最後のピース、右前頭葉。

「ひひひ」と、キレンヒミが笑った。自らの頭を鍋の蓋を持ちあげる気軽さで開けると、右前頭葉のなりそこないをあるべき場所にはめ込む。瞬く間にそれは一体となり、完全な形を成した。

「ミミズになった気分!」

 ばさり、とマントをひるがえすように背中から生えた無数の手を顫動させる。飛ぶ気だと分かった。実際に目にしたことはないが、キレンヒミが空を飛べることはエポヌから聞いている。網のように交差してつながっている手たちは大量の蝙蝠の羽が連なっているようにも見えた。

 一度、二度、大きく羽ばたく。キレンヒミの虹色の髪が螺旋を描き、つぎはぎのローブが大きくはためく。吹きつけてくる激しい風に、僕は床に手をついて飛ばされないようにこらえる。

 一気に舞いあがったキレンヒミだったが、ここが地下であるのを忘れていたのか勢いよく天井にぶつかった。水風船が叩き付けられたような音を立てて床で平べったくなったが、すぐに平然と顔をあげる。それからイグアナみたいに四つん這いのまま物凄い勢いで走りだした。両手と四つの足裏で床が打ち鳴らされる。その前を破眼が飛んでいる。地下室の外へ向かって、誘うように。僕にはそれが、キレンヒミを扇動しているように見えた。

 暴走機関車のように荒ぶるキレンヒミが体のあちこちを機械にぶつけながら破眼の後ろを追って駆ける。大きな地響きが館の地下から屋根の上までを貫いた。僕は立ちあがると、両手をシャツで乱暴に拭いながらキレンヒミの後を追いかけた。


 左館二階にある展示室に到着した時にはキレンヒミが星の欠片が入った透明のケースに張りついて、その上部の隙間から舌を伸ばそうとしていた。しかし、ゾウの鼻のように伸びた舌もケースの底までは届かなかったらしく、今度は無数の手を使って豪雨が降りしきるが如くにその表面を乱打しはじめる。

「キレンヒミ。やめるんだ! やめなさい!」

 僕の声は嵐のような暴力にかき消されてキレンヒミの四つの耳には届かない。足を前に進めてみたものの、迂闊に近寄ればうなりをあげる剛腕に吹き飛ばされてしまう。

「星が欲しいわ。うひひ。星、星、欲しい」

 キレンヒミが笑う。その様子を破眼が展示室の天井の隅で眺めている。瞬く間にケースにヒビが入り、無残に砕けて大きな穴が空いた瞬間、母が上階から飛んできた。星の欠片を無造作に手づかみにしてザラザラと口に流しこむキレンヒミを見た母は、爪先から羽根の一枚一枚までを驚愕で満たしていた。

「あ、あ、あ、あなた、誰なのっ!? 何してるのっ!!」

 混乱を極めた母の叫びなどまるで聞こえていないかのように、みるみる星の欠片の小山が崩されていく。僕はやっと腕をふり回すのをやめたキレンヒミの元へと駆け寄った。その背に生える無数の手、その上に落ちる虹のような長い髪を両手でかき抱くようしながら「やめてっ! やめるんだっ!」と、くり返したがキレンヒミはまったく意に介さずに星の欠片を呑みこみ続けている。

「このっ!」

 母が硝子盤を取りだす。そして小さなナイフのように固くにぎりしめた。高まった感情がその手をぶるぶると震わせて、かすかに血すらにじんでいる。

 翼を広げて母が飛ぶ。一直線にキレンヒミの元へ。その刃を突き立てようと。

「待ッテ! ママ!」

 影から飛びだしてきたエポヌが手を広げた。母は翼をひるがえすと、空中で急停止して床にどすんと着地する。

「キレンヒミを傷つケナいデ」

 エポヌの訴えを聞きながら、母はエポヌとその背後にいるキレンヒミを見比べるように顔を動かした。

「キレンヒミはわたしたちノきょうダイよ。ママの子供なのヨ」

 母にすがるようにエポヌの言葉が紡がれる。そのたびに母の震えが激しさを増して、顔のない顔の深淵からは靄のようなものが溢れはじめた。はじめはゆるゆると上がっていたそれは、突然、地面の底が抜けて間欠泉が噴出したように勢いを増した。

「邪魔っ!」と、母が叫ぶ。僕が、あっ、と声を漏らした時にはもうエポヌは母の深淵に頭から呑みこまれていた。エポヌが母に食べられてしまったのだ。

「母さん……、エポヌを……」

 喉をふり絞るように投げかけた僕の声は、キレンヒミの笑い声と、母の「分からないっ! 分からないっ!」と、くり返される絶叫でかき消えてしまった。

 キレンヒミの背中を離れて母の元へと向かおうとしたが、いつの間にか僕の体には無数の手と長い髪が絡みついていて身動きが取れなくなっていた。

「はなして! キレンヒミ!」

 僕の目の前で最後の星の欠片がキレンヒミの口に放りこまれる。それと同時に母は再び硝子盤を構えた。それでキレンヒミの腹を裂いて奪われたものを取り戻そうとしているようだった。

 母がキレンヒミに躍りかかる。ぐるん、と振り返った体に合わせて僕の視界が急激に回転する。目が回って頭がふらふらする。

「ぎゃっ」と、悲鳴があがった。キレンヒミの脇腹から血が流れている。母の硝子盤は魂のないキレンヒミにとっては純粋な凶器となりえるようだった。

 身をよじりながらキレンヒミが跳躍した。キレンヒミの背から生えた無数の手はナメクジの足のようなぬらぬらとした絨毯となって天井にくっついた。僕はキレンヒミの身体と天井の間で押しつぶされそうになる。キレンヒミはそのまま手のひらを波打たせるようにして器用に天井を這って移動した。

 翼をはためかせる音。また母が突っ込んでくる。キレンヒミはその攻撃をぬるりと避けて四肢で着地すると、展示室の出口へと猛烈な勢いで駆けはじめた。

 勢いのまま天井にぶつかって頭を押さえている母の姿が見える。それがどんどん遠ざかっていく。そしていよいよ展示室の扉から飛び出ようという所まできて、急にキレンヒミが足をとめた。絡まっている手と髪を振りほどこうともがきながらキレンヒミの視線が向けられている先を見ると、展示室の外の廊下にはウルキメトコ姉さんが立っていた。

 姉ははじめて目にしたであろう異形の姿をしたキレンヒミにも気圧されることなく、真っすぐに向かってくる。物語のなかで見た動きだ。迅雷のように精密で素早い動き。ばしん、と音がしてキレンヒミの顔が平手で叩かれた。ぐらり、と体が傾く。そのまま姉が両肩を押さえつけようとした時、僕と姉の目があった。

 姉は僕がいることに気がついていなかったらしい。キレンヒミの背中にある無数の手と虹色の髪の海のなかで溺れている僕が浮かびあがった瞬間、姉の表情にかすかな動揺が走った。

 追突音。キレンヒミが猪のように頭を振りあげて姉をタックルで吹き飛ばすと、ローブをなびかせながら廊下に躍りでた。後ろには廊下の端に倒れている姉と、展示室から飛びだして滑空しながら追ってくる母の姿。キレンヒミが床を手足で蹴るたびに、その背中には巨大な杭を打ちつけているような凄まじい振動が伝わってくる。勢いのまま走り続け、階段の方へと向かうと一階へとおりていく。

 階段の下に着くとキレンヒミの体がびくりと震えた。

「きゃんっ」と、声がしたかと思うと逃げていくクムモクモの背中が視界の端に映った。全身の毛を針鼠みたいに逆立たせて、一目散に右館の方へと逃げ去っていく。キレンヒミはその反対側へと方向を変えて廊下を滅茶苦茶に進むと、リントロメ兄さんの私室へと飛びこんだ。

 巨大な体を扉の枠に擦りつけながらキレンヒミが室内に入りこむ。呑気に床に敷いたござの上でうたた寝をしていた兄は、目を覚ましてちらりとこちらを見たものの、またすぐに夢のなかへと戻っていってしまった。そのそばにキレンヒミが近づいたので、僕は巨体がリントロメ兄さんを踏んづけてしまわないか心配でならなかった。

 すぐに母が追いついてきた。室内に入ると後ろ手に扉を閉めて、真っすぐにキレンヒミを捉える。すっかり逆上して我を失っている。キレンヒミ以外のものが視界に入っていないようだ。背中に僕がいることも、その後ろでリントロメ兄さんが眠っていることも、まるで意識の外だ。

「母さん! キレンヒミも! 落ち着いて!」

 僕は声をあげながら体に絡まる手や髪をほどこうとがむしゃらに暴れ回る。ちょっとずつ緩んでいるものの太い銅線のような髪がどうしても離してくれない。

 硝子盤を低く構えた母が打ちだされた砲弾のように飛んでくる。高く掲げられた硝子盤が真っすぐにふり下ろされる。キレンヒミはすんでの所でそれを避けると、足を強力なバネにして天井に体当たりをぶちかました。二階の床が抜ける。穴から雪崩のように流れ落ちてくる大量の本のなかを泳ぐようにして真上の部屋にキレンヒミが這いあがる。

 そこはテタドの私室だ。読書していたらしいテタドは目をむいて突然現れた怪物を見上げた。足元に空いた穴の下ではキレンヒミの後ろにいたリントロメ兄さんに勢い余った母の刃が突き立てられて、その魂が分断されていた。ウルキメトコ姉さんがかつてされたのと同じくその中身、物語が噴水のように溢れだしている。

 足元に溜まっていく物語には目もくれず、自分のしていることを認識していないかのように母はキッとキレンヒミを見上げ、上階に向かってまた愚直な突進を試みた。

「母さん! 母さん!」

 いくら呼びかけても母は耳を閉ざしてしまったかのようだった。キレンヒミは母の攻撃をひらりとかわして天井を這う。室内に充満するお香の匂いをかき混ぜるように動き回り、積みあげられた本の影に身を潜めた。

「お母様。これは……」

 テタドが状況を確認しようとその翼の元へと近寄ると、母は木の葉をふり払うようにテタドを硝子盤で薙ぎ払い、その魂をも切り裂いた。もはや母は忘我の極致にあるようだった。キレンヒミが物陰を伝って部屋から脱出しようとしたが、母は素早く扉の前に回りこんで立ちはだかる。

 目まぐるしいやり取りに僕の頭は追いつけないでいた。テタドの魂からこぼれ出た物語が床を伝って穴に集まり、階下に流れ落ちている。そして下の階のリントロメ兄さんの物語と混じり合ってマーブル模様が描きだされていた。

 母の顔の深淵からは言葉ではない音が聞こえてくる。なにかが煮立っているような、溺れているような、苦し気なごぼ、ごぼ、という濁った音。キレンヒミは床を流れる物語にのみ込まれないように注意して、壁に張りついたまま母を見据えた。

 母とキレンヒミが対峙する。張り詰めた空気が充満している。母は絶対に逃がさないというように翼を大きく広げたが、不意にその羽の先がぶるぶると震えだした。次の瞬間、突如胸を押さえたかと思うと、硝子盤をとり落とし、両手で自分の喉をかきむしるような仕草をしはじめた。顔にぽっかり空いた深淵に手を差し入れる。そうして、なかにあるなにかを取りだそうとするように激しく腕をふり回す。

 キレンヒミは母の様子におののいたように少し距離を取ったが、ややあって好機と見て取ったのか壁を蹴って全身で母の胸に飛びこんでいった。その衝撃で扉が開き、母は廊下の壁に打ち付けられて動かなくなってしまう。

 緊張が解けたようにキレンヒミの髪が柔らかくへたりこんだので、僕はやっと解放してもらうことができた。急いで母の元に駆け寄る。慣れない手つきで容体を確認したが、どうやら気絶しているだけのようだった。手の裂傷以外には怪我もしていない。

 キレンヒミは後ろに立って、僕の真似をするように母の肩をつついている。

「あれ、なに? どれ?」

「お母さんだよ。キレンヒミも母さんから産まれたんだ」

「怖い」

「ちょっと、怖かったかもしれないね……」

 テタドの私室のなかをふり返ると、横たわるテタドの体から刻一刻と物語が流れだしていた。僕はエポヌのことを想った。そしてイルイジュ兄さんのことも。それから、家族を失うのは嫌だ、という強い思いが湧きあがった。

 室内に戻り、扉のそばに落ちていた母の硝子盤を拾う。その表面は二輪の椿の花が描かれたように母の血で濡れていた。キレンヒミは僕の隣に並んで不思議そうに五つの目をゆらしながら、ばったりと倒れたまま動かないテタドの帽子や外套の端を指先でつまんで持ちあげたりしている。

――混ざったら大変。

 かつて母に聞いた話。物語が混ざり合うとそのどちらかが消えてしまうかもしれない。

 硝子盤を通して物語を観察する。そこでは、ぐるぐる、ぐるぐる、と風景が渦を巻いて混然一体となっていく。母が意識を失っている以上は僕がやるしかない。やらなければならない。こうしている間も物語は混ざり続けている。

「僕、行ってくる。キレンヒミはウルキメトコ姉さんを探して何とか事情を話してくれないかな。このままだとふたりがいなくなってしまうかもしれないんだ」

「泳ぐの? 飛ぶの? これが、たましい?」

「うん」

 僕はふり返らず階下を見つめる。穴の下。リントロメ兄さんの私室に広がる物語の海。そうして、ごくり、と唾をのみ込んで穴へ身を投じようとした瞬間、背中に衝撃が走った。キレンヒミが勢いよく僕の背後に抱き着いてきたのだ。

 そのままふたり一緒に穴へと飛びこんでいく。

 リントロメ兄さんとテタドの物語。

 混じり合う物語のなかへ。

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