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第3話 冷たい物語

――それ、は子供たちと共に旅をしていた。

――それ、っていうのはウルキメトコ姉さんの前世なの?

――はい。

――ふーん。それでどこに向かっていたの。

――どこか。

――えっ? その旅に目的地はなかったの。

――はい。果てのない旅。子供たちが安全に暮らせるどこかを探していた。

――それは見つかったの。

――いいえ。旅の途中。子供たちは全て死んでしまった。

――そうなんだ……。

――はい。

――それから旅はどうしたの。

――自己矛盾によって自ら命を絶った。

――矛盾って?

――それ、の存在する意味。

――なんだったの?

――子供たちを守ること……。


 体が浮きあがるような感覚に僕は慌てて手をばたつかせた。そばにあった細い手すりをつかんで体を引き寄せると、なんとか床に足裏を押しつける。一瞬頭のなかがぐらついたようだったが地に足をつけてみるとすぐに平衡感覚が戻ってきた。

 灰色の細長い部屋。いや、通路だ。平らな床と天井が滑らかな曲線の壁でつながっており、それぞれの境界線が曖昧になっている。すぐそこにある通路の奥は急なカーブを描いて湾曲していて、狭いチューブに閉じ込められたような息苦しさがあった。

 がちゃん、となにかが落下したような固い音が、曲がった通路の先から聞こえてきた。ぐわん、ぐわん、と鉄のトレーが落ちたような音がしばらく響いた後、すぐにしんとした静寂に包まれる。

 通路の反対側をふり返るとイルイジュ兄さんがいた。兄はぼんやりとしていて色を失ったように自分が立っている場所を眺めていた。クリーム色のきちんとした礼服と気が抜けた様子のアンバランスさは舞台裏の俳優を思わせる立ち姿だ。

「大丈夫?」

「ああ。ここはいったい」

「ウルキメトコ姉さんの物語のなかみたい」

「ウルキメトコの? なにがあったんだい?」

 僕が兄の物語から脱出した直後の一幕を話すと兄は苦々しく頬をゆがませた。

「なるほど……。ノナトハにはすまなかったと思っている。けれど俺にはああするしかなかったんだ」

「謝らないで。エポヌにすこしだけ話を聞いたから。僕だって兄さんがいなくなっちゃうのは嫌だもの」

「そうか……。ありがとう」

「お礼もやめてよ。だって僕は……」

 僕は彼、物語のなかのイルイジュの運命を想って言葉に詰まった。彼は僕が変える以前の物語より幸せな死を迎えられたのだろうか。そうだったらまだ僕も救われるのだが、とてもそんな風には思えない。

「イルイジュ兄さんはなんともない? 体とか気分とか変だったりしない?」

 兄は燃えるような赤毛を押さえつけるように頭に手をあてて、冷たい氷を噛んだような顔で自分の体を見下ろしたが、

「母上に診察された時と同じさ。なにも変わらない」

 と、平然とした調子に戻って言った。

「そう。ならいいんだけど」

 僕は小さな変化すら見逃さないように兄の姿を眺めたが特におかしな点は見当たらない。それでもなお何かないかと僕は目を光らせたが、そうしていると兄に見つめ返される。目頭に高い山が築かれており、とてつもなく強い意思が込められた兄の瞳。にらめっこに負けた僕は目をそらして今度はエポヌを探して視線を彷徨わせた。兄の物語に入った時にはすぐそばにいたはずだが、今回は目の届く場所にはいないようだ。

「ノナトハ。その手はどうしたんだい」

 突然、兄が声を曇らせて僕の手に視線を向けた。両手を目の前で広げてみる。左手のひらに真っすぐ横に線を引いたような切り傷がある。意識すると急にじくじくと痛みだしてうっすらと血がにじんだ。

「怪我をしたのか。見せてごらん」

 兄は美しい刺繍の施されたハンカチを取りだして僕の左手に巻いてくれる。僕はそんな兄の仕草にタジルワに手当てをしてもらった時のことを思いだしていた。それと同時にこの傷がつけられた瞬間のことも鮮明に浮かびあがってきた。これはシィノルトにつけられた傷だ。兄の物語のなかでシィノルトに剣を奪われた僕は剣を取り戻そうと左手を突きだした。その手を剣で払われたのだ。エポヌの助けで怪我をせずに済んだと思っていたが、その切っ先が触れていたのだろう。

「エポヌはどこにいるんだろう」と、僕は兄に言いながら通路の左右を見渡した。どちらに向けた視線もすぐに湾曲した壁にぶつかってさえぎられてしまう。

「とにかく移動するとしようか。ここにいてもなにも分からない」

 兄が歩きだす。僕がその後ろをついていこうと足を踏みだした瞬間、けたたましいサイレンが鳴り響いた。

――警告。警告。未知の生物が船内に出現。船員は避難区画に移動してください。くり返します。未知の生物が船内に出現。船員は避難区画に移動してください。

 緊急事態を知らせる放送が通路を駆け巡る。それを聞いた兄は火の粉を散らすように赤毛をふり乱して、あたりを油断なく見回した。そして僕の手を引くと足早に通路の先へと進んでいく。


 通路の両側には壁と一体化しているような凹凸のない扉が並んでいたが、取っ手などは見当たらず、開けることはできなかった。ノックしてみても誰も出てこない。扉のそばには操作パネルのようなものがあったが、僕らにその使い方が分かるはずもなかった。

 変わり映えのない風景が延々と続き、同じところを何度も行き来しているような感覚に襲われたが、通路に点在する煤けたような汚れがそうではないことを教えてくれていた。それはまるで焦げ跡のようで、炎を引きずったり、松明で壁や天井をあぶった跡のようにも見えた。薄く煙を立ち昇らせている新鮮な焦げ跡もあり、胃がひっくり返りそうな嫌な匂いが鼻についた。

 僕らがあてもなく移動している間も、何度か警告を知らせる放送が鳴り響いていた。それによると未知の生物というのはダクトのなかを通って移動しているのだという。それがなんなのかは分からないが、とにかく鉢合わせしないに越したことはないだろう。なので、あちこちの壁の上方にあるダクトの入口、そこに取り付けられた格子状の蓋にも注意を払いながら進んでいく。

 そうして、いくつかの十字路と三叉路を抜けると窓がある通路にたどり着いた。その窓の外を見て僕は驚嘆していた。はじめは窓の外いっぱいに”眼”がいるのかと思ったが違う。どこまでも続く深淵。それは”眼”ではない。そこにはたくさんの光の粒が浮かんでいた。宇宙だ。

「これは……」

 兄が息を呑んで窓辺に近付いた。僕もその横に並んで外を眺める。大小様々な宝石のような光が闇のなかに浮かんでいた。窓の縁辺りに目をやると、遠くに巨大な建造物の一部が見て取れた。幾何学的な美しい曲面がいくつも連なり、その表面には精緻な彫刻のようないくつもの線が走っている。それはおそらく僕らが今いる場所、船の一部に違いなかった。僕らは恐ろしく大きな宇宙船のなかにいる。そして宇宙を飛んでいるのだ。

「宇宙船だったんだ」

 そうひとりごちた僕の隣で、兄は食い入るように宇宙を眺めていた。

「これが、宇宙」

「僕、はじめて宇宙にきたよ」

「俺もさ」

「お話とか映像では知ってるけどさ」

「ノナトハはそういうものに中々熱心だったね。俺はあまり詳しくないんだ。しかし……これが空の上なのか?」

 妙に感慨深そうにしている兄に「感動した?」と、聞いてみると「いや」と、ぽつりと言って「ここが”眼”の世界なんだろうか」と、兄は眉間に皺を寄せた。僕は答えることができなかった。なにも分からなかった。言われてみればそういう事になる。”眼”は空の上からやって来て、空に帰っていくのだ。”眼”が宇宙船を作ってそのなかに子供たちを収容している愉快な絵面を思い浮かべたが、頭をふって打ち消した。UFOにアブダクションされる人間は架空のものだが、”眼”に連れていかれる子供たちは現実の話なのだ。そもそも館のある世界、僕ら世界の空の上が宇宙だなんて限らない。この異世界と同じであるはずがない。館の書室にある本やシアタールームの映像のほとんどは転生者の物語由来のもので、それらは僕らにとっては虚構でしかない。だからこの物語のなかから僕らの世界のことを読み解くことなどできるわけはないのだ。

 兄の何気ない言葉から思考の迷宮に囚われはじめた僕の鼻先にツンと嫌な匂いがただよってきた。じゅう、じゅう、というなにかが焼けるようなかすかな音が聞こえる。兄もそれに気がついたようだった。同時にふり向くと通路の先に異様なものが立っていた。それは、蛙、に見えた。人間と同じぐらいの大きさをした蛙。背筋を曲げて、腕を垂らし、ふらつきながらも二本の足で通路に立っている。頭頂部にはふたつの大きな目玉がギョロリと出っ張り、それぞれがまるで別々の意思を持っているかのように宙を見つめている。長い舌がだらんと口のはじからはみ出して、垂れおちる粘性の液体が触れた床から煙が立ち昇った。焦げた匂い。焼けて、さらには溶けている。溶解液だ。

 全身が腐葉土のようにぶよぶよと膨らんでいる薄汚れた青灰色の風船人形のような蛙が、緩慢な動作でのそのそと向かってきた。僕は理解が追いつかずに呆けたようにそれを見つめていたが、兄に手を引かれるとハッと正気を取り戻した。蛙を刺激しないようにじりじりと後ずさる。そうして角まで引き返した時、兄が「ノナトハ。後ろからもきている」と、うめいた。

 ふり返って自らの目で確かめる。兄の言う通りそちらにも蛙の姿があった。しかも一体ではない。三体の蛙が通路を塞ぐようにして向かってくる。三筋の焼け焦げた線がゆっくりとこちらへと伸ばされる。再び前方に視線を戻すと、通路の奥からもう一体の蛙が顔をのぞかせた。

 動きはのろまだが横をすり抜けられるかは分からない。そばに寄った瞬間に飛びかかってくるということも考えられる。それに見るからに危険な溶解液の存在もある。あれに触れれば軽い火傷程度では済まなさそうだ。

「どうしよう兄さん」

 僕とイルイジュ兄さんは背中合わせで通路の真ん中に追い詰められていた。

「しゃがんで足元を通り過ぎるのはどうだろうか。目が上にしか向いていないようだし」

 兄がそれを指摘した瞬間、目玉がぐるんと回ってこちらを見た。

「ダメそうだよ」

「そうみたいだ。壁沿いに通り抜けるしかあるまい。ノナトハ。俺の背中に隠れるんだ」

 兄は僕を壁に押しつけて自分の体を盾のように前に置いた。

「これだと兄さんが危ない」

「愛の力を信じてくれ。愛するきょうだいを守ってみせる」

「横に並ぼう。厚みを減らした方がいいよ」

「ダメだ。俺の後ろにいるんだ」

 兄は後ろ手に僕を押さえつける。そんなやり取りの間に蛙はあと数歩といった距離にまで近付いていた。僕は身じろぎすら忘れて兄を後ろから抱きしめて、すこしでも壁側に引き寄せようとする。蛙がくる。だらだらと溶解液が垂れおちて、焦げ跡から立ち昇る煙が濃くなっていく。焦げた匂いに混じって肉が腐ったようなすえた匂いも入り混じる。近くで見ると蛙はその溶解液で自身すら溶かしてしまっているように肌がただれて皮は裂けていた。

 目が合った気がした。まん丸に膨れあがった瞳。その瞳孔が僕らの姿を映している。兄の大きな背中から緊張が伝わってくる。僕は兄に守られながら身を固くすることしかできなかった。

 急に背後の扉が開いて僕と兄はそのなかに引っ張りこまれた。僕らが背中から室内へ倒れるようにして転がりこむと、扉はすぐさまスライドして、なだらかな平面となって閉じられる。

「エポヌ!」

 僕が喉を震わせるようにしてひそめた声で叫ぶと、なぜかこの室内にいたエポヌは獣のような動作で部屋の隅へといって、頭を抱えてうずくまった。

「どうしたんだい。愛する妹よ」

 イルイジュ兄さんが丸まった背中へ心配げに手を伸ばすと、エポヌは牙をむき出すようにして「ココ嫌いヨ」と、木の根を引きちぎるような声で不満をもらした。編み込まれた黄金の髪が解けかけて、その裏にある漆黒が染みだしている。

「影がなくッテ、イライラすル」

 エポヌは古ぼけた濃紺色のドレスのフリルを引きちぎらんばかりに握りしめると、耐えかねたように壁を這いのぼってダクトのなかへと入っていってしまった。ぽっかり空いたダクトの口を塞いでいたはずの金属の格子は床の上に落ちている。拾いあげて見てみると留め具部分が鋭い牙のようなもので噛み砕かれた形跡があった。どうやらエポヌがやったらしい。ダクトを移動する未知の生物。警報で言われていたのはエポヌのことだったのだろうか。それならばあの蛙はなんなのだろう。この世界では既知の生物、ありふれた生き物なんだろうか。

 背伸びしてダクトの奥を覗きこんでみたが、木の洞のなかのように暗くて、空気が流れる幾重もの低い音が反響していた。エポヌのように狭い隙間に入りこむ才能があれば別なのだろうが、僕やイルイジュ兄さんにはとても通れそうにない。

「大丈夫かな」

「エポヌにはこの明るさが辛いのだろう」

 この部屋は誰かの個室のようだ。床がせりあがったベッドのような台と壁がくぼんだ形をした空っぽ戸棚がひとつ開いている以外は出っ張りというものが極力排除されている。壁を観察すると、その向こうにさらにいくつかの戸棚が埋めこまれているようだったが開け方は分からなかった。余計なものが置かれていないから影はほとんどなく、丸みを帯びた壁に反射した光がただでさえ少ない影をさらに薄めている。

「最近は平気なのかと思ってた」

 ごはんの時間にも机の下に隠れたりせず、きちんと椅子に座っている。兄の物語のなかでも煌びやかなパーティにまぎれて平気そうにしていた。

「あれは生まれ持っての性質だ。変わることはないし、変えるものでもない」

「けど前より光のなかにいる時間は増えてるんじゃないの」

「いいや。あれは裏返しになって裏側の影に隠れていただけだ。ところがこの場所はその裏側すらも照らしだしてしまうらしい」

 僕には兄の言うことがよく分からなかったが、その言葉から裏と表にエポヌの顔がある人形を思い浮かべた。市松人形とアンティークドールが一体となったリバーシブルの人形だ。そしてそんな人形の内部を見通すレントゲン装置。そういえばエポヌはウルキメトコ姉さんが苦手だった。まん丸で硝子玉のような瞳から放たれる正確無比な視線からできるだけ逃れようとしていたっけ。そんな姉の物語のなかともあれば居心地が悪くてしょうがないのかもしれない。

 エポヌが去っていったダクトを見上げながら「これからどうしようか」と、半ば途方に暮れつつ兄に相談する。

「まずはエポヌを探すことにしよう。それから、この物語から脱出しないといけないな。ノナトハはどうやって俺の物語から出てきたんだい」

「それは……」

 僕とエポヌは兄の物語の完結と同時にはじき出されるようにして脱出した。物語の完結は主人公の死以外にないのだろうか。もしそうならばこの物語の主人公、ウルキメトコ姉さんの前世である誰かが命を落とす場面に立ち会わなくてはいけなくなってしまう。イルイジュ兄さんの前世である彼の死は僕の心に大きな傷跡を残した。もう一度あれに耐えなければならないのかと考えると憂鬱になってしまう。できればこの物語の終わりに、幸せな死があることを願うばかりだ。

「ウルキメトコ姉さんの前世に会わないと分からない」

 僕は結論をうやむやにしたままつぶやいたが、そうしながら今の状況をすこしでも把握できるかもしれない方法を思いついた。硝子盤だ。ポケットを探るとまだそこにあってくれた。兄の物語のなかではその過去をのぞき見ることができた。今回も同じことができるかもしれない。

「兄さん。危なそうだったら僕を呼び戻してね」

 つやつやと輝くその表面と向かい合う。硝子盤のなかに靄のような影がゆらめく。宇宙船のどこか、巨大な空間、そこに植えられた木々、優しい木陰に包まれながら会話している誰かと誰か。


――工場区に増員が必要なんだ。

――循環効率が落ちてきたって聞いたよ。いつまで持つのかな。

――当初はこんなに長く旅をするとは考えられてなかったんだ。もっと少ない回数で済むはずだった。

――そうなんだろうね。耐久テストで試された回数を優に超えてるもの。

――劣化によるエネルギーの損失は仕方ないんだ。そのものについても、薬品の不足も、装置の老朽化も、色んな原因が重なってる。

――こっちもバグの対処にてんてこ舞いだよ。

――そっちも大変そうだな。

――ごまかしてきたけど負担は初めから目に見えていたからね。馬に目隠しして走らせていたようなものさ。背中に何が乗っているかも分からない状態で細い鉄骨の上を走せていたけれど、そろそろ目隠しがボロボロに破れはじめたって感じだ。

――そっか……。うーん、頭が痛いな。順番に増員を選ぶしかないけど納得してもらえるかな。

――みんな分かってるよ。受け入れてるんだ。この旅をはじめた時から。

――そうかな。

――そう。だからそんな顔するなよ。それに新しい命だって生まれる予定だ。希望はあるよ。

――ああ。無事に生まれるかな。

――想定外ではあるけど準備は万全さ。きっとうまくいく。うまくいかないといけないんだ。

――新しい命、か。なら乗員登録してやらないと。

――そういえばそうだ。忘れたら大変なことになる。

――もう誰かが手続きしているかもしれないが、念のため確認にいってくるよ。

――分かった。頼んだよ。

――任せとけ……。


 バッと顔をあげるとイルイジュ兄さんが僕の頬に手をあてて「なにをやったんだい?」と、僕の顔と硝子盤に視線を往復させた。

「ちょっと。物語の、いつかのどこかを、のぞいただけだよ」

 兄が手をあてている部分。右頬がやけに引きつってしゃべりにくい。

「そんなことができるのか。それでどうだった?」

「ちょっと理解ができない部分が多かったけれど、なにかを心配していたみたい。木がたくさん生えている場所に人が集まっていたよ」

「ふうん。なるほど」

「でもいま役に立ちそうなことは分からなかった。ごめん兄さん」

「ノナトハが謝る必要なんてないんだ。気を落とさないでいい。……ではエポヌと船員を探すことにしようか。船員たちのなかにウルキメトコの前世もいるだろう」

「……うん」


 部屋の扉が開くのか不安だったが、扉のわきにあるパネルに手をかざすだけでよかった。室外からはびくともしなかったが内側からだと簡単に開けられるらしい。エポヌはきっと通路のどこかからダクトに入ってこの部屋のなかにたどり着いたのだろう。

 そっと扉の外をのぞく。蛙たちはいなくなっている。溶けてめくれあがった畦道のような焦げ跡が残されているだけだ。

「あの蛙みたいなやつはなんだったんだろう。エイリアンかな」

「蛙か、確かに蛙みたいだったな。エイリアンというのはなんだい?」

「えっと。宇宙人って分かる? 宇宙のどこかに住んでいる僕らとは違う生き物」

「空の上に住む人か。あの蛙君は”眼”のお友達というわけかな」

 兄の思考はどうしても”眼”の方にいってしまうらしい。話が変な方向へとそれそうだったので僕は軌道修正も兼ねて、

「母さんは今もこの物語を見てるんだろうか」

 と、天井を見上げた。

「きっと俺たちを見守っていくれているに違いないよ」

「……母さん! 僕らを帰して!」

 蛙に聞かれないように小声で言ってみたがなんの反応もない。曲面の壁を伝って僕の声がぐるぐると小さく反響しただけだ。

「ダメみたい」

「俺たちでなんとかするしかないか。この世界にやってきてすぐに放送があっただろう」

「警告、警告ってやつだね」

 たぶんエポヌが原因の放送だ。

「うん。それで避難区画と言っていたように思う。とりあえず人の集まっているであろうその場所を目指すのはどうだろうか」

「そうだね。そうしよう」

 僕らは慎重に通路に出て、その先に進み始めた。明るい金属のチューブのような曲がりくねった通路がどこまでも伸びている。迷わないように窓に沿うようにして進む。通路の片側には扉、扉、扉。もう片側には窓、窓、窓だ。扉は相変わらず外からは開かない。これだけ部屋が密集しているということは、ここは宇宙船のなかの居住区ということだろうか。窓の外に見える宇宙船の外観は圧倒される程に巨大だ。僕らの住む館の数百倍はあるかという規模。もしかしたら館のバルコニーから見える風景全てがすっぽりと入るぐらい大きいかもしれない。

 進んでいくと窓がぷっつりと途切れて、閉じた通路を進むことになった。もう移住区は抜けたようだ。等間隔で並ぶ扉たちから解放されて、以前よりは道が分かりやすくなる。通路を行く間、運よく蛙には出くわさなかった。蛙たちは不思議とどこかに消えてしまったようだ。蛙が通ったことを示す焼け焦げた跡は床中を覆い尽くしているからどちらに向かったのかは判然としない。けれど複数の蛙たちが同じ場所を通ったということだけは確かなようだった。

 幅の広い通路を選んで進んでいくと、道が束ねられて一本道に変わった。その先にはきらきらと明るい空間が見えてくる。なんだか懐かしい匂いがする。音もだ。さわ、さわ、と薄い紙がこすれるような音。それは植物の気配だった。


 到着したのは木々が生い茂る大空間であった。僕が硝子盤で見た場所だ。中央を巨大な木が貫いていており、その周りには上の階層の通路が空中を横切って伸びている。清浄な空気が充満しており、僕とイルイジュ兄さんはそろって深呼吸をした。館の温室に比べたら、こちらは隅々まで手入れが行き届いている感じがする。どこまでも明るくて爽やかだ。柔らかな木陰があちこちに憩いの空間を作りだしており、人々が伸び伸びとくつろぐ様が目に浮かぶようだった。

「ノナトハ。誰かいる」

 兄に言われて目を向けると中央の巨木の下に人影があった。蛙ではない。きちんとした人間だ。

「声をかけてくるよ」

 やっと見つけた人間に嬉しくなった僕は兄を置いて小走りにその人影に近付いていった。まったくもってイルイジュ兄さんの物語とは大違いだ。あそこはあんなにも人で溢れていたのに、こちらではたったひとりに会うためにひどい大冒険を強いられた。

「すみませーん」

 言いながら心地いい木陰をくぐり抜ける。僕の声が届いたらしくその人がふり返った。笑顔。その笑顔に僕は驚いてしまった。なぜならそれはウルキメトコ姉さんだったからだ。姉と同じ顔をしたその人が目尻を下げ、口角を上げて、満面の笑みをたたえている。あのいつも無感情で無表情な顔に浮かんだ笑顔は僕を驚愕させるにの十分だった。

「どうしました?」

 梢の影からその人が踏みだしてくる。落ち着いた銀色のシャープな服と頭につけられたアンテナのような装飾が照明を浴びて鈍く輝いた。

「あっ。ウル、キ……」

「はい。ULLRにどういった御用でしょう?」

「えっと、あの……」

 彼女が目の前までやってきても僕の動揺はおさまってはいなかった。そうして言うべき言葉を探していると背後からイルイジュ兄さんが「上っ! 危ない!」と、叫んだのが聞こえた。

 あごを思い切り持ちあげる。エビのように腰を曲げた木の幹とその先で揺れる枝葉。そこに蛙の姿があった。蛙が木に登っているのだ。僕の頭上で葉っぱにまぎれて、自分をサナギとでも勘違いしているみたいに、両手で頼りなく枝につかまっている。背中に頭がくっつきそうなほどに首を後ろにねじ曲げており、その舌の先からあの危険極まりない溶解液がとろりと垂れおちた。それと同時に体が支えきれなくなったらしく、溶解液のしずくを追いかけるように蛙自身も落ちてくる。

 僕は後ろに逃れようとしたがあまりにも真っすぐに上を見上げていたものだから、その背後は床であった。弓を引いたように膝から崩れおちてしまい、目の前を腕で覆うことぐらいしかできない。兄が駆け寄ってくるはげしい靴音がする。しかしそれは僕よりもずっと離れた場所だ。視界いっぱいに蛙が迫ってくる。人間大の蛙。青灰色をした体はいびつに膨れあがっている。衝突すればその体は弾け、腹のなかに詰まった溶解液が飛び散り、僕の全身を焼くだろう。そんな怖ろしい想像が頭のなかを一気に駆け巡った。

 湿った衝突音と「ぐぇ」と、いう間の抜けた声が同時に響いた。瞬きすらできなかった。雷のように機敏で正確な動作だった。姉の姿をした人が僕の上に降ってきた蛙の喉元をつかんで横に引っ張ると、地面に仰向けに叩きつけたのだ。滴り落ちていた溶解液も同時にその手で払われ、彼女の服の袖と分厚い金属の手甲が煙を上げていた。

 駆けつけてきた兄が僕を蛙から遠ざけようと、両手で抱くようにして引き寄せる。そして彼女を見て、その姿がウルキメトコ姉さんとあまりに酷似していることに気がつくと小さく息を呑んだ。

「ああ……、君。弟を助けてくれて礼を言うよ」

「いいえ。どういたしまして」

 そう言って彼女はまたお手本のように輝かしい笑顔を浮かべた。慣れた手つきで蛙を持つと、引きずりながらどこかへと立ち去ろうとする。蛙はまだ動いていたが、喉を押さえられているから溶解液が口からもれ出してくることはない。かすかに喉からこぼれた空気が溺れているような音をたてるだけだ。

 兄は彼女の笑顔に僕と同じような衝撃を受けたようで、なにか言いたげに僕の顔をまじまじと見た。けれど結局なにも言わず、黙って彼女の後をついていく。蛙は壁際に設置されているダストシュートのような場所に放りこまれた。それが終わると彼女がこちらに向きなおった。

「あの」

「はい。なんでしょう?」

 明るく朗らかな口調。安心感を覚えるべきものだが、ウルキメトコ姉さんの普段の所作に慣れている僕には不気味に感じてしまう。彼女の透き通った髪がゆれて、硝子玉みたいな瞳が向けられる。その瞳はそれ自体が発光しているかのように奥底がちらちらと輝いている。

「ウル、さん?」

 確かめるように聞いてみる。先程、彼女自身が言っていた名前だ。

「はい、ULLRにどういった御用でしょう?」

「他の人はどこにいますか?」

 蛙のことについて聞こうかと迷ったが、とりあえずはこちらの質問を優先することにした。

「避難区画へと集まっています。おふたりもすぐに向かってください」

「その、道が分からないんです」

「ご案内しましょう」

「それじゃあ、お願いします」

 ウルは踵を返して木々のなかを進んでいった。僕とイルイジュ兄さんは置いていかれないように光彩を放ちながらゆれる透き通った髪を追いかけた。


 複雑に絡みあう通路をきびきびと迷いなく進んでいくウルについていくのは大変だった。道中、何度か蛙に出くわしたが全てウルの手によって瞬く間に排除されていった。ダストシュートに放りこまれる蛙たちはなんだかなりそこないを彷彿とさせる。母が産んだ魂のない肉片たち。館で暮らしている時にはなんの疑問も持たずに捨てていたゴミだったけれど、同じように処理されていく蛙たちの姿にはなんだか憐れっぽさを感じた。イルイジュ兄さんも僕と同じように感じているのか、捨てられていく蛙の姿に悲しそうな視線を向けている。

 僕はウルを見て、過去に姉から聞いた物語についての話を思い返していた。姉の話によると、それ、は子供を全て失って自ら命を絶ったのだという。

「ウルさんには子供はいますか?」

 僕の質問に、姉の物語について聞いたことがないであろう兄は怪訝そうにした。ウルはふり向いてその顔ににっこりした表情を形作った。彼女の唇の動きが妙にはっきりと分かる。

「ええ。この船の乗員みんながウルの子供です」

「みんな?」

「そうです。うふふ」

 その笑い声には抑揚がなくて乾いた風が吹いたようだった。みんな、というのが言葉の通りの意味なのかはよく分からない。

「それって、どういうことですか」

 僕は質問を見失ってただ漠然とした言葉をもらした。

「ウルによって産まれた。ウルの子供たちです」

「何人ぐらいいるんですか」

「現在はひとりです」

 なんだかおかしな具合だ。たくさんいるような風でもあったが、たったひとりだと言う。そんな矛盾を含んだように感じる彼女の答えを頭のなかでかき混ぜていると、また蛙が通路の角から姿を現した。こう何度も遭遇していると蛙についてすこし分かったことがある。蛙には個体差がある。はじめの方に見かけたのはまさしく蛙に似た姿であったが、目が小さくて正面についており、体はあまり膨らんでおらず、背筋がしっかり伸びている個体もいた。それが僕には人間に似ているように思えてしょうがなかった。そして今まさに目の前にいる蛙も人間に近い姿をしていた。襲ってくるわけでもない。今までも積極的に襲いかかられたことはない。ただ徘徊しているだけだ。木が植えられた広場でのことも、気まぐれに登って落ちたというだけで、僕を狙ったのではないように思える。蛙からは意思というものがまるで伝わってこない。

 溶解液を垂れ流しているとはいえ、無抵抗な蛙をウルは捕まえてダストシュートへと運んでいく。その蛙が落ちていく一瞬、

「どこ?」

 と、言った気がした。

「いま喋らなかったかい?」

 兄が僕に同意を求めながらダストシュートに近付いて、そのなかを覗きこもうとした。

「危険です。さがって下さい」

 ウルが兄を押しとどめて、にこやかながら断固として立ちはだかる。

「ウル。あなたはさっきの生き物がしゃべるのを聞かなかったかい?」

「再形成数が少ない個体は言葉を発します。胃酸の濃度が高まりきっておらず、気化の程度も軽微なので喉へのダメージが深刻なレベルに達していないのです」

「あれは何なんですか?」

 慌ただしく移動していたので聞けていなかった質問を僕はようやく投げかけた。ウルは笑顔を張りつけたまま僕の方を見たが、その時ピカピカと硝子玉のような瞳の奥でちらついていた光がピタリと消えた。その瞬間、見慣れた顔が目の前に現れた。無表情、無感情、そんな表情だ。

「データベースの照合が終わりました。あなたたちふたりのデータが乗員リストにありません。IDを提示して下さい」

「あいでぃー?」

 兄が壁際でウルの背中越しに困惑した視線を僕に向ける。IDの意味するところを身分証明するためのものだろうと察しはしたが、当然そんなものは持っていない。

「あの。僕らは元々この船に乗っていたわけではないんです」

 僕は弱りながらもなんとか穏便に説明できないかとウルの前に進みでた。

「うわっ!」

 兄が声をあげた。兄のそばにあったダストシュートから手が伸びていた。青灰色の手。一瞬エポヌかと思ったが違う。あの蛙の手だ。先程ウルが放り込んだ蛙がなかで引っかかっていたのか、這いあがってきたのだ。

 ダストシュートに兄が引きずり込まれる。兄の手が床を引っ掻いてなんとかこらえようとしたが、滑るようになかに呑まれていく。ウルは兄の方に首を曲げたがその足元は微動だにしていない。そしてそのわきを通り抜けて兄に駆け寄ろうとした僕の全身を突然、電流が走った。ウルに触れられたのが分かった。膝に力が入らない。体が床に打ちつけられる。暗い。意識が朦朧としていく……。


 目を覚ましてはじめに見たのはまばゆい照明だった。体が動かない。しかしそれは電流の痺れが残っているわけではなく拘束されているからだ。両手両足、そして首にゴムのような帯が巻きつけられて縛りつけられている。首を捻じ曲げようとすると拘束する帯によって息が苦しくなった。目だけを動かしてあたりを見回す。僕は小さな部屋の真ん中に置かれたベッドに寝かされているようだ。視界の端にかすかだが銀色の台が見えた。その上にはトレーが置かれて、はみ出している注射器の針の先がギラギラと輝いている。他には複雑な図形と数字を描き出している装置があるのが見て取れた。

「だれかいませんか!」

 僕の声は小さな部屋のなかに、うわん、うわん、と反響して閉塞感を強める結果になっただけだった。

「助けて!」

 無駄と分かっていながらも、もう一度試みる。手足を動かして強引に拘束を外そうとしたが余計に縛りを強めることになってしまった。強く締めつけられすぎて血が止まりそうだ。それでもしばらくは何とか脱出できないか奮闘していたが、僕はやがて疲れ果ててぐったりとベッドに背を預けた。

 僕はこれからなにをされるのだろう。それともなにかされた後なのだろうか。兄はどうなったのか。あのダストシュートはどこにつながっているのか。どこにつながっていようと、あの蛙と一緒に落ちてしまったのならばただでは済まないだろう。そう言えばエポヌはどこにいったのか。安穏な影を探してまだダクトのなかを移動しているのだろうか。

 とりとめのない思考が頭を支配していた。考え続けること以外に僕にできることはなかった。そうして長い長い時間が経ったように感じた後、誰かが部屋の扉を開けて入ってくる気配がした。

「誰ですか?」

 答えはない。首が動かせないのでその姿を確認することはできない。その人物はそばの装置でなにかを確認していたようだったが、しばらくすると僕の枕元の方にやってきて頭の上から僕の顔を覗きこんできた。強烈な照明が濃い逆光を作りだしており、その顔は良く見えない。しかしその頭についたアンテナのような飾りの形には見覚えがあった。

「ウル、さん?」

「あなたは誰ですか」

 抑揚のない平坦な声。ウルの声だ。

「僕はノナトハです」

「データベースに一致する項目がありません。ID番号を言って下さい」

「……ありません」

「ではあなたを密航者と認定。規定により処理されます」

「処理?」

「処理方法は船外廃棄が推奨されています」

「廃棄って、宇宙に?」

「はい」

 僕は思考力を失った頭で聞き返して、それに対するウルの答えが耳の奥で反響した。宇宙に捨てられる。それが死を意味していることぐらい僕にも分かった。物語のなかで死ねばどうなるのだろうか。それを知る機会など決して訪れて欲しくはない。けれど少なくともいま分かっていることがある。僕の左手に刻まれた傷。イルイジュ兄さんの物語のなかでシィノルトにつけられた傷は残っているということだ。

「やめてください」

「IDの提示があれば、この処理は一時中断されます」

「ないんです」

 僕は半ば泣き出しそうになっていた。ウルがそばのトレーに乗っていた注射器を手に取った。そのなかのものを今から僕に注射しようというのだろう。どういったものかは分からないが、僕の処理を円滑にするなにかであるのは間違いなさそうだ。

――この物語の誰か、なにか、なんでもいい、助けて、助けて!

 僕の祈りは声となってもれ出した。

「助けて!」

 僕は叫んだ。右頬が痛い。ここだけがまだ痺れているようだ。

「助けて!」

 ちらりと見えたウルの顔は、ウルキメトコ姉さんのそれと同じように無のみが張りついていた。

「助けて!」

 針の先がまとった冷たい空気が僕の肌に触れた。もう一刻の猶予もなくその切っ先は僕の肌を貫いて死を招く何かが流し込まれてしまう。

 その時、声が聞こえた。泣き声だ。僕ではない。赤ん坊だ。どこかで赤ちゃんが泣いている。おぎゃあ、おぎゃあ、と声が響いてきた。ウルは手を止めて部屋の隅、壁の上方へと顔を向けた。近付いてくる。赤ちゃんの泣き声が凄まじい勢いで近付いている。そしてそれは壁一枚隔てた位置でピタリと止まった。

 僕はもどかしく首を動かそうとしたが、ウルの注意が赤ちゃんの声に向けられている以上のことは分からなかった。大きな蓋のようなものが落下する音がした。それとは別に海鳴りのような音も聞こえてくる。

「返しなさい」

 ウルが誰かに言った。赤ちゃんの泣き声が室内に入ってきた。赤ちゃんに言っているのだろうか。次の瞬間、ウルは赤ちゃんの声がする方へと俊敏な動作で駆けだした。ウルと入れ替わるようにして、なにかが跳んでくる。それと同時に壁際では水がはげしく流れだす音と、蜂の羽音のうなりのような異音が鳴り響いた。

 跳んできたのはエポヌだった。僕の体のうえに乗っかって顔をのぞき込むと、僕を縛っていた拘束を噛みちぎる。慌てて体を起こすと、視界に飛びこんできたのはダクトから吹きだす液体と、その下で液体を全身に浴びるウルの姿だった。

 物凄い異臭だ。ウルの全身から黒煙が立ち昇り、それが部屋のなかに充満していく。その液体は蛙が絶えず垂れ流していた溶解液のように思えた。ウルは滝のように流れでる溶解液から逃れようと扉の方へと後ずさったが、その姿はすでに陰惨なものに変わり果てていた。

 そこには機械仕掛けの体があった。ウルはロボットだったのだ。体の表面が焼け落ちるようにしてはがれて、その隙間から複雑な内部構造が顔を出している。僕は姉と同じ姿をしたものが無慈悲な破壊に見舞われているのを目にして、大きな衝撃を受けずにはいられなかった。

「ウル!」

 思わず呼んだがウルはもはや返答もできないようでバチバチと不穏な電気音を鳴らすのみだ。体はまだ動いており両足でなんとか立ってはいるが、その姿は羽をもがれた蝶のように儚く崩れる寸前だった。ベッドの足元の方に乗っているエポヌに視線を移すと、エポヌは左手でドレスのスカートの端を握って、スカートで作った籠のなかに包みこむようにして赤ちゃんを抱えていた。

「あの流れでてるのはなんなの!?」

「ニンゲン」

 エポヌの言葉を理解する時間はなかった。ダクトから吹きだし続ける溶解液は床に溜まりはじめ、閉じられた小さな部屋を満たすのは時間の問題だった。湯気のように立ち昇る煙で喉が焼かれそうになる。袖で口元を覆ったが、咳と目の傷みをやわらげることはできなかった。

 部屋から出るには扉を開けなければならないが、そこへ行くまでの足の踏み場は既になくなっていた。必死で足場を探す僕の顔に溶解液の飛沫が小さく跳ねて、ひりつくような鋭い痛みが走る。瞬く間に部屋に溜まった溶解液の水位が上がり、ベッドの足元が焼かれて溶かされていく。灼熱の海に浮かぶいかだに乗せられた僕らはただ身を寄せ合うことしかできなかった。

 不意に扉が開いた。外に流れでる溶解液の波に乗ってベッドのいかだで僕らは運ばれていく。

「その子を守って……」

 部屋から流れでる一瞬、ウルが言った。ウルが扉を開けてくれたのだ。そして僕が目を向けた時には既に水中に没してしまっていた。通路にも既に溶解液がたっぷりと溜まっていた。その水上をベッドで流されていく。溶解液の波に呑まれてウルと同じ姿をしたロボットが何体も溺れているのが見えた。その一体にエポヌが手を差し伸ばす。助けようとしているのかと思ったら、ちぎれたロボットの腕を取りあげて、それで溶解液のなかを漕ぎはじめた。僕もエポヌにならって手の届く位置にあった手すりの残骸らしい棒を拾いあげ、溶解液が飛び散らないように注意しながらいかだが進む補助をした。


 物語は終わらない。ウルがウルキメトコ姉さんの前世だと思っていたが、それは何体もいるロボットの一体だった。その全てが活動を停止するまでは物語は終わらないのだろうか。とにかくこの物語は危険すぎる。なんとしても早急に脱出しなければならない。エポヌやイルイジュ兄さんを守るために姉の前世の本体というべきものを手にかける覚悟が必要なのかもしれない。死こそが物語の確実な終わり。そして物語が終われば外にはじき出されるのは前回で体験している。兄は無事だろうか。行方は分からないが、その命がまだつなぎ止められていることを願うしかない。

 ベッドの底はかなり分厚いようだったが溶解液の川を流されるうちに徐々に溶けている。そう長くはもたないだろう。

「その赤ちゃんはどうしたの」

「拾ッタ」

「どこで」

「人間がいッパいイルところ」

「……人間、って。このどろどろは人間なの?」

 僕は溶解液をのぞき込んで、自分の顔すら映りこまないヘドロのような表面を見つめた。

「そうナンだッテ」

「誰に聞いたの?」

「人間」

 話が堂々巡りになりかけている。

「それは、ちゃんとした人間なの?」

「ちャンとした人間ッテ何」

「……あの、蛙みたいな生き物は人間?」

「カエル? ……そうヨ。循環しテルみたイ」

「循環?」

「ソウ。人間を潰シテ、人間を作ッテた」

「なんのためにそんなこと……」

「エネルギーを作ッテるんだッテ」

 人間を作り、エネルギーに変換し、さらには余剰エネルギーでまた人間を作っているということだろうか。想像を絶する技術だが僕に感じられたのはおぞましさだけだ。

「その子も?」

「知らナイ。けどひとりダケ別の部屋に入レられテタ」

 ひとりだけ。ウルが乗員全員が子供でありながら、子供はひとりだと言っていた。守って、とも。ならこの子があの時ウルが言っていた、たったひとりの子供なのだろうか。頭が混乱してくる。ここでは命の取り扱いが、僕の感覚とかけ離れ過ぎている。密航者はあっさりと宇宙に捨てられ、人間は潰しては作られる。けれどウルキメトコ姉さんの話ではその人間、子供こそを守っていたのではなかったか。守って、と言ったこの赤ちゃんもエネルギーになるべき運命なのではないのだろうか。矛盾しているように思える。けれどこの世界では矛盾ではないのだろうか。守るべき対象はただの循環するエネルギーとして扱われているが、それでも守れているということなのだろうか。矛盾。そうだ。姉は矛盾により命を絶ったと言っていた。ウルの態度からこの赤ちゃんとそれ以外の循環する人間の間になんらかの区別があるのは明白だ。きっと最後のひとり、赤ちゃんを失えばその論理の軋轢のようなものは激しさを増すのかもしれない。

 僕は赤ちゃんを見た。エポヌのドレスのスカートに包まれて、今は泣き疲れて眠っているようだ。早くも決意がゆらぐのを感じた。赤ちゃんの命を奪う? 危険な物語から脱出するために? だめだ、できそうにない。まだ決断するには時間がある。岸が見えてきた。まだ僕らは生きることができる。イルイジュ兄さんを探そう。きっとまだ生きているはずだから。


 ベッドが溶けきる前に岸に到着することができた。降り立ってふり返ると、いよいよベッドが溶解液に呑みこまれて細い黒煙を上げて消えていった。水かさはまだ増えているように感じる。

「これはどこから溢れてきているの」

「人間が潰されタリ、作られタリするところの方から流レテきた」

「どこか壊れたのかな」

「たブン」

 それ以上のことはエポヌも知らないようだった。エポヌは僕らがはじめにいた居住区のダクトから人間を作ったり潰したりする工場のような場所にたどり着き、その近くで赤ちゃんを見つけ、それと時を同じくして工場の方角から溶解液が溢れてきたらしい。そして僕の、助けて、という叫びをたどったのだという。ウルが蛙、循環人間を放りこんでいたダストシュートのような穴はその工場につながっている気がしてならない。ならば兄もそこに、と考えるが、そうだとすればとても命が助かる状況とは思えない。

 僕は迷った。どうすればいいのかもはや道しるべを失っていた。そうして通路を見回した時、その一本に避難区画という文字が見えた。もしかしたらやっぱり蛙になり果てていない人間がいるのではないだろうか。ウルも他の人が避難区画に集まっていると言っていたではないか。そんな一縷の希望にすがるようにして僕らはそこへ向かってみることにした。


 開いたままになっている分厚い扉の影からなかを覗きこんだ。そこには大量の蛙、循環人間が蠢いていた。彼らが放送に従い行動していると知った僕はますます頭が混乱しだした。この事実は人間たちが循環するエネルギーとなるのを受け入れ、宇宙船を推し進めるために協力しているということ示しているように思えた。それは僕の瞳には狂気としか映らなかった。

 息を潜めて避難区画の様子を窺っていると、タイミング悪く眠っていた赤ちゃんが目を覚まして、おぎゃあ、おぎゃあ、と泣きだしてしまった。エポヌがあやすように赤ちゃんをゆらし、目を見開いて裂けた口から牙を覗かせる。ビックリ箱から飛びだしたみたいな笑顔を目の前で見せつけられた赤ちゃんは当然ながら余計に泣きだしてしまう。

 無数の視線が集まってくるのが分かった。そして今まで積極的に向かってこなかった循環人間たちが一斉にこちらへと足を向けはじめた。

「逃げよう」

 僕は赤ちゃんを抱えたエポヌの手を引いて走りだした。どこに行けばいいかなんてまるで分からない。だが後ろからは地響きのような足音が近付いており、とにかく足を止めることは許されなかった。

 でたらめに通路を進むと巨大な扉の前にたどり着いた。しかしそこは行き止まりだ。扉はぴったりと閉じている。何度も叩いたり、そばにある操作パネルのようなものを触ってみるが髪の毛一本程の隙間すらできやしない。泥のような塊となって巡回人間たちが迫ってくる。

「イルお兄ちゃん!」

 エポヌの声に僕は驚いてふり返った。巡回人間たちは少し離れた位置で人垣を作って、堤防にぶつかったように立ち止まっている。それから、海が割れるようにその中央に道ができると、イルイジュ兄さんが姿を現した。

「ノナトハ。エポヌ」

 兄は右手と両足が焼きただれていた。残った左手で銀色の棒を支えにして尋常ではない苦労を伴いながら前へと進みでてくる。

「兄さん、早くこっちへ!」

「大丈夫だ。彼らに害はないよ」

 そんな姿でよく言うよ、と思ったがその言葉は喉に引っかかって口から出ることはなかった。

「その赤ちゃんを渡してくれないか」

「どうして?」

「その子はこの方の子供なんだ」

 兄が目線で指し示した場所に立っていたのはなんとなく見覚えのある循環人間だった。ダストシュートに投げこまれ、兄の足を引っ張って落ちていった人だ。人間らしい面影がかなり濃いのでよく分かる。

「頼む。この方に我が子を抱かせてやってくれないか」

「そんなこと言われても……」

「彼らは俺を助けてくれたんだよ。たくさんの人が閉じ込められた箱のような場所を内側から壊してくれた。俺を助けるために何人かが犠牲にまでなっているんだ。俺にせめてもの恩返しの機会をくれないか」

 親だという循環人間は他の者と変わらず溶解液を絶えず垂れ流している。けれど「お願……い……だ」と、確かに言葉を発した。

「ヤダッ!」

 エポヌは拒絶して赤ちゃんをぎゅっと抱きしめている。赤ちゃんを渡せばそこで物語が終わる、そんな気がした。しかしこれでいいのだろうか。兄の物語のなかでも僕は考えていた。幸せな終わりを、と。これはこの物語にとって幸せな終わりなのだろうか。どちらにせよ行き止まり。もう行くべき場所などない。考える余地などないように思えたが、それでも視線は周りを彷徨い、なにか手段を探していた。

 高い場所にダクトがある。エポヌならあそこを通ってまだ赤ちゃんを抱えて逃げられるだろう。けれどその後どうすればいいのか。そんなことを考えているとダクトのなかに動くものがあった。

「エポヌっ!」

 僕はエポヌの手を引く。ダクトの枠から黒煙が上がり、その格子状の蓋が落ちてくる。次の瞬間、ひとりの循環人間が溶解液を飛び散らせながら飛びだしてきた。自分の背にエポヌを隠そうとした刹那、がんとして開かなかった巨大な扉が音もなく開いた。ちらりと見えたその室内は操縦室のようだった。そしてその部屋のなかから銀色の腕が伸びてくると、これまで何度も見た精密な動作で循環人間の喉を押さえ、地面に引きずりおろした。床に叩き付けられた循環人間は気絶したように動かなくなる。

 巨大な扉の奥から出てきたウルが僕らの前に立ち、エポヌが抱いている赤ちゃんへと顔を向ける。そのウルの手には見覚えのある焼け跡があった。僕が木の生い茂る広場ではじめに会ったのはこのロボットに違いない。縛りつけられていた部屋にいたのは別のロボットだったらしい。

 兄や集まった循環人間たちはウルを見て騒然としている。

「返しなさい」

 それはエポヌに向けられた言葉。エポヌはウルの背後にある真っ暗に口を開けたダクトを見ている。ウルの手をかわしてそこに入れるか思案しているらしい。

 はじめに動いたのはウルだった。僕の横に滑るように回りこんで、その背後にいるエポヌへと腕を伸ばす。エポヌは僕から離れるように飛びのいて、それをウルがまさしく人間離れした動作で追った。エポヌは操縦室へ飛びこもうとしたが、その寸前に扉が閉まり、前を阻まれたエポヌはあっさりとウルにつかまってしまった。赤ちゃんを奪われると同時に床に押さえつけられてしまう。エポヌはがちがちと床に牙をつき立てたが、そんな威嚇めいた行動も、ウルには一切効果がないようだった。僕が以前やられたのと同じく電流を流されて、エポヌはすっかり伸びてしまった。

「その赤ちゃんをどうするの」

 僕はどうしようもない無力を自覚しながらウルに尋ねていた。ウルは僕を見てにっこりと笑う。本当に笑っているのか、ただのプログラムされた感情なのか僕には区別がつかない。

「工場区の損傷は修復不能。メイン炉は停止しました。航行は不可能です。この子のエネルギーは必要なくなりました」

 ウルは赤ちゃんを抱いたまま僕の横を通り抜けて循環人間たちの元へと向かう。

「バグの増大による自己破壊を防止するため、間もなく監理AIは機能を停止します」

 ウルが赤ちゃんを扱う動作は、なぜだか僕には慈しみに溢れているように見えた。循環人間の集団から、あの親だという者が前に進みでる。よろよろと足元が危うくてすぐにも転びそうだ。そんな様子を見かねてか、自分も満身創痍にも関わらず兄が焼け焦げた右手で背中を支えてやる。僕はそんな兄の元に駆け寄って反対側から循環人間を支えた。兄が僕の行動を見て呆れたように微笑んだ。お節介はお互い様なのに。

 ウルと循環人間が向かい合い、赤ちゃんが受け渡される。循環人間は愛おしそうに赤ちゃんを抱きしめて、けれど決して自分の溶解液を浴びせないように顔を背けた。そんな親子の様子をウルは眺める。その表情は冷たくはない。温度があるような気がした。


 ぷつり、と機械の電源が落ちたように物語が終わった。管理AIと呼ばれていたものこそウルキメトコ姉さんの前世だったらしい。それがウルというロボットや宇宙船を動かしていたのだろう。

 館に舞い戻ったのはいいがイルイジュ兄さんは重傷を負ったままだった。右手と両足が焼きただれて、皮膚の表面が溶けたようにうねっている。

「まあ! 大丈夫!? イルイジュ!」

 母が取り乱した様子で駆け寄ってくる。兄の傷を見て、それから硝子盤を通して隅々まで診察しだした。

「どうして、助けてくれなかったの……?」

 僕は自分でも意識しないまま大粒の涙を流していた。動けなくなっている兄の横で電流が残っているのかエポヌも倒れている。ウルキメトコ姉さんは扉のあたりに直立不動になっており、流れでた物語は全て魂のなかに再び納まったようだった。

「だって知らなかったんだもの! 他の人が触れている物語を書き換えられないなんて!」

 子供が駄々をこねるように母が言う。

「ウルキメトコ! なにか……、なにかイルイジュを運べるものを持ってきて!」

 姉はかすかに体を震わせると、迅速に部屋を出て倉庫の方へと向かっていった。そうして戻ってきた時には足元に車輪がついた移動式のベッドを引いてきた。それは姉の物語のなかで僕が縛りつけられていたベッドに似ていて、あの溶解液の嫌な匂いが鼻の奥で蘇った。

 兄はベッドに乗せられて診察室に運ばれていく。そして診察室に隣接する手術室へと担ぎこまれた。僕はエポヌを背負って診察室の前まで運び、廊下にある長椅子に寝かせて、母が兄の治療を終えるのをじっと待っていた。姉はそのあいだ僕の隣に立ったまま、硝子玉みたいな瞳を診察室の扉へと向け続けていた。


 イルイジュ兄さんの右手と両足が完治することはなかった。

 生活するのに車椅子が必要になった。

 もうピアノは弾けなくなってしまった。

 それからしばらくして、兄は特別な”眼”に連れていかれた。

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