第2話 恋い焦がれる物語
――彼は貴族だった。彼が生きた世界ではあまり人が長生きできなかった。絶えずどこかで争いが起こっていた。彼の父は製鉄工場を経営していたんだが、時代に必要とされて巨万の富を築いていた。そして金で爵位を買った。元は貴族とは無縁の人だったのにね。父が死んでなにもかもが彼のものになった。母は早くに他界していたから天涯孤独の身の上さ。多くの使用人がいたが彼の孤独を埋め合わせてはくれなかった。ただ金だけは腐るほどある。それで毎晩パーティを開いて騒いでいた。けれどそんな時、命を懸けてでも愛さなければならない人と出会ったんだ。
――どんな人だったの?
――そうだなあ。真に愛される才能に恵まれた人だったかな。愛らしい人だった。
――へえ。イルイジュ兄さんがそこまで言うなんてすごい。それだけ素晴らしい人だったんだね。
――いや。それは分からない。いい人でもあったし悪い人でもあった。その人だけじゃない。あの世界ではいい人であると同時に悪い人でもなければ、とても生きていけなかった。
――そうなんだ。
――そうなのさ。
――イルイジュ兄さん、じゃなくて彼はどうやって死んだの?
――ノナトハはどうしてそんなことが知りたいんだい?
――物語はどうやって終わるのかな、ってことに興味があるんだ。
――欲望に忠実なのは素晴らしいことだ。業を満たす結果にならなければね。うん。そうだなあ。彼は親友の剣に胸を刺し貫かれた。
――えっ!? どうしてそんなことになったの?
――愛のため、かな。彼と決闘をしたんだ。
――決闘……。
――そう。剣と剣での一騎打ち。
――その相手の人、強かったんだ。
――強かった。本当に強かった。
――……その時に愛していた人を今でも好きだったりするの。
――もちろんだ。記憶のなかではね。けどそれは俺じゃない。彼の話だ。俺が愛しているのは母上ときょうだいたちだけさ。心配しなくてもいい。
――してないよ。
――そうか。ハッハッハ……。
あまりのまぶしさに僕は思わず目をつぶった。ゆっくりとまぶたを開くとそこは煌びやかなパーティ会場だった。グラスや食器がぶつかり合う鈴のような音がそこかしこで鳴り響き、無数とも思える人々の話し声が渦を巻いていた。
突然海のなかに放りこまれたようだった。破裂しそうなほど満ち満ちた音と光に押しつぶされそうだ。遠い天井には巨大なシャンデリアが輝き、壁は一部の隙もなく細やかな装飾で彩られて、剣や剥製、絵画や旗などが飛び石のように配置されている。暖炉には真っ赤な炎が燃え盛り、巨大な窓の外にある美しい庭園を夜闇のなかから浮かびあがらせている。そして大広間の真ん中では鮮やかな模様の石材が敷き詰められた床のうえでドレスを身にまとった人々が滑るように舞い踊っていた。
そんな会場の片隅に僕は立っていたのだった。
「ノナなら出来ルと思ッテた」
見ると隣にエポヌがいた。細かく編みこまれた黄金の髪の間から漆黒の髪の房が垂れおちている。パーティの参加者たちとドレスという服装は同じだが、彼女の着ている濃紺色のドレスはひどく古ぼけているから、この会場には相応しくなさそうに思える。けれどそれを言ったら僕のシャツとズボンにぼさぼさ髪という出で立ちの方がよほど浮いている。これでは遊園地とパーティ会場を間違えて乱入してきた子供だ。
僕はまだ手に握っていたままだった硝子盤をポケットにしまった。人々の熱気が勢いよく押し寄せてきて肌が焼かれそうだ。こんなにたくさんの人のなかにいるのははじめての経験だからめまいがしてくる。
頭を休めるために僕は視界をエポヌで覆ってその小さなつむじを見つめることにした。
「ここって。イルイジュ兄さんの物語のなかなの?」
「そうヨ」
「これは、……なんなの?」
僕の質問は多くの意味を含み過ぎていて、エポヌは返答に窮したように首を、かつん、と傾げた。
「イルお兄ちゃんのオネガイ聞いてあげテ」
ここにやってくる直前にイルイジュ兄さんが言っていたのは、物語を壊す、だったはずだ。しかしその言葉が意味するところはよく分からない。
「壊す、っていうのは母さんがしてるように物語を書き換えろってことなのかな」
エポヌが頷いた。
「どうしてなの?」
「イルお兄ちゃんは特別な”眼”にツれていかれタクないのヨ」
エポヌの言葉を一瞬のみ込みかけたが、僕はすぐにそれを吐きだした。
「でも食堂で母さんのためになんでもするって言ってたじゃないか」
愛する人のためならなんでもするつもりだ、と母に返答していたはずだ。
「ママじゃなくてキレンヒミのためヨ」
「えっ、と。なに? だれ?」
「キレンヒミ」
エポヌは聞きなれない言葉、おそらくは名前をくり返した。そして「わたしタチのきょうだいヨ」と信じがたいことを言った。僕はそんなきょうだいのことは知らない。聞いたこともない。僕の困惑を横目にエポヌは続ける。
「キレンヒミが教えテくれタノ。コウすれバ、物語にハイれるッテ」
「……どうして、キレンヒミ、はそんなことを知ってるの」
僕はとにかく浮かんだ疑問をひとつずつ地道に解消していくことにした。エポヌが答えてくれるかは別として今はそうするしかなさそうだ。
「隣人さんのトコロに行ッテ覗いてきタノ」
「館を出たの!?」
衝撃的な話ばかりでもう頭がパンクしそうだ。僕の驚きようを見たエポヌはケタケタと笑って「キレンヒミは空を飛べルのヨ」と、また首を傾げる。
「隣人さんは子供をツレて、物語に入ッテいたらしいワ」
僕は額に手をあてて遠い天井を見上げた。火花のような光をまき散らすシャンデリアはパーティ会場を動き回る人々よりはずっと目を慰めてくれる。キレンヒミのことは今は置いておこう。と言うより今ここで深く聞いてもしょうがない。母でなくとも物語に干渉できるのかという疑問にも今は目をつぶろう。エポヌはキレンヒミというきょうだい? を通して知識を得ているようだし、また聞きで正しい答えがもたらされる保証はない。それにこんな質疑応答で長大な時間を消費している場合ではない。大事なのはこれからどうすればいいのかだ。エポヌと一緒にイルイジュ兄さんの物語に入りこんでしまったのは分かった。そしてイルイジュ兄さんがその破壊を願っているらしいことも。
「どうやったら僕らの世界に戻れるのかな」
「知らナイ」
エポヌはさらりと言ってのける。
「そんな……」
思わず気弱な声が出てしまう。そんな僕に追い打ちをかけるようにエポヌは再び「イルお兄ちゃんのオネガイ聞いてあげテ」と、僕の目を真っすぐに覗きこんだ。
頭のなかがとても混乱している。人の声、靴の音、暖炉で薪が爆ぜる音、それらが奔流になって僕を苛んだ。思わず、うるさい、と叫び出したくなった時、ふっ、と静寂が訪れた。周りを見回すと人々の視線が一点に集中している。誰もが息を呑んでなにかを待っていた。
音楽が聞こえてきた。ピアノの音だ。そして歌。その音色、その歌声はイルイジュ兄さんのものだった。
ゆっくりと壁沿いを移動していく。エポヌも僕の後ろをついてきている。人の山が途切れる場所を探していると、人々の視線が集まる中心にまで近寄ることになった。僕らはカーテンの影に身を隠すようにして小さな舞台のようにせりあがったフロア、そこに置かれた大きなピアノを奏でる人物を見た。
炎のような赤毛がウェーブを描き、爽やかな笑顔から朗々と歌が紡ぎだされている。赤白黒に彩られた豪華な礼服を身にまとったその人物は、イルイジュ兄さん、かと思ったがすこし違う。僕が知っているイルイジュ兄さんがもうすこし歳を取ったらこんな風になるに違いないというような姿であった。
曲が終わっても会場の人々はしばし余韻に酔いしれているようだった。一拍置いて滝のような拍手と歓声が送られる。赤毛のその人が立ちあがって称賛を全身に浴びるようにして手をあげると、顔中を火照らせた女性たちが一斉にその元へと集った。そうして大きな花束のように一塊になると、賛辞にほんのちょっぴりの隠し味を潜ませたような、蜜の香りでもしそうな言葉が降り注ぐ。赤毛の人は会場を見渡して、カーテンの裏に隠れていた僕らに気がつくと、すこし驚いたように瞳を瞬かせた。人垣を後ろに背負いながら大股でこちらへと歩み寄ってくる。
会ってしまった瞬間に取り返しのつかないことになる気がした。僕はその場を離れようとしたがエポヌに腕をつかまれて釘づけにされてしまう。
「君たちは誰かのきょうだいかな? 家族と離れてしまったんじゃないのかい」
「えっ、と、大丈夫、です」
兄に敬語を使うなんて妙な気分だが、これは兄のようで兄ではないと思い直す。僕が歯切れ悪く答えると彼は「うむ」と、なにかを考えるようにあごに手をそえて会場に視線を走らせた。コートに施されたきめ細やかな刺繍が躍り、胸元の大きなブローチがゆれる。間違いなくこの会場で最も豪華な衣装だ。
彼の取り巻きたちは手に持った扇を口元にあてて口々に「どこの子?」「あなたの妹?」「なにあの恰好」「きっと貴族の子じゃないわ」などとささやいていた。そして誰かが「イルイジュ様優しいわ」と、言ったのを僕は聞き逃さなかった。イルイジュ。やはり彼がまぎれもなくイルイジュなのだ。
パチンと指が鳴らされるとグラスを運んでいたボーイがすぐにそばにやってきた。
「この小さなお客様たちにテーブルの用意を、あの部屋に、うん、それから……」と、ボーイに奥の部屋を指差しながら指示すると、僕らに向きなおって「君たち喉が渇いてないかい。お酒ばかりで困っただろう。紅茶はいかがかな」と、尋ねた。
僕がどう返答しようか思考を巡らせていると隣のエポヌが進みでて「ゼヒくださいナ」と優雅な動作でお辞儀をした。彼は「そうか」と、微笑むとボーイに紅茶とお菓子を用意するように言って「こちらに」と、僕らを誘って歩きだした。
パーティが催されている大広間の横に小さなくぼみのような空間がいくつかあり、喧騒に疲れた人が休憩できる小部屋になっていた。そんな小部屋のひとつに僕らは招き入れられる。僕らが到着すると既に小さな椅子とテーブルが用意されており、着席すると同時にボーイが紅茶とクッキーを並べてくれた。すごい早業だと感心してしまう。
「それじゃあ、楽しんでくれたまえ」
去りゆくイルイジュの背中に僕は声をかけようとしたが、すぐに彼は人混みにのまれてしまって声の届かない場所にまで離れていってしまった。
腰を落ちつけて、とりあえず紅茶を口に運ぶ。ここにくる前に兄が淹れてくれた紅茶の方がおいしかった。この場所からは大広間全体がよく見渡せる。すこし視線を横にずらすとバルコニーに出る扉があり、その向こうにある広大な庭園が目に入る。遠い昔にイルイジュ兄さんから聞いた前世の話を思いだす。パーティに明け暮れていたと言っていた。きっとここはイルイジュ兄さんの前世である彼の屋敷に違いない。
「あれってイルイジュ兄さんだよね」
「チガウ、けどソウ」
エポヌの言う意味は分かった。僕だって理解している。そうだ。彼は兄ではない。兄の前世、その物語の主人公だ。
「この物語を変えないといけないのかな」
「モウ変わってル」
エポヌはバリバリと行儀悪くクッキーをかみ砕いて、一気にカップを逆さにすると紅茶を口に流し入れた。
「どういうこと? 会っちゃったから?」
「モット前。イルイジュって呼ばれてたデショ。そんなハズないモノ。ノナが変えたんダヨ」
言われてみれば確かにそうだ。転生前と転生後の名前が一致してるなんておかしい。それにまったく僕の知らない異世界のはずなのに意思疎通ができている。それも物語が既に変わっているという証明なのかもしれない。試しに目の前のクッキーに向かって、ケーキになれ、と考えてみた。けれどなにも変化はない。そもそも僕にはできないのか、それともやり方を知らないだけなのか分からない。物語に波紋が立ったのが事実だとしても、そこに投げ入れられた石が僕なのか、僕が石を投げ入れたのかでまるで意味が違ってくる。
出口のない考えを巡らせて途方に暮れていると遠くで歓声が沸きあがった。視線を向けると彼、イルイジュが女性と踊っている。相手は髪も、ドレスも、佇まいも、その全てが柔らかな人で、ふたりの踊りは野に咲く花が風に吹かれて舞っているようにあでやかだった。ふたりが移動すると誰もが道を開け、そこだけはぽっかりと穴が空いたように人の波が引いていく。イルイジュとその女性は笑いあい、熱のこもった視線が絡みあう。ダンスにも情熱的な色が宿り、その足さばきも激しさを増していった。そうしてパーティは最高潮を迎えようといていた。
そんな時、突然会場に不協和音が響き渡った。人々は首を竦めたり耳を覆ったりしながら、先程イルイジュが演奏をしていたピアノに尖った視線を突き立てていく。そこにはワインボトルを片手に持ち、獣のような乱暴さでピアノを叩く女性の姿があった。
「ばっからしい!」
吐き捨てるように言うとワインボトルに直接口をつけて飲みはじめる。そうして「はあ」と、深く息を吐いて髪をふり乱した。けばけばしい化粧のうえからでも頬が上気しているのが分かる。目はだらしなく垂れさがり、色あせたドレスは髪と同様にぐしゃぐしゃに乱れている。その女性は明らかに酔っぱらっていた。
「くだらないパーティね!」
寒波が吹きつけられたように一気に会場の空気が冷えこむのが感じられた。見るに堪えないというように目をそらす人や、やれやれというように嘆息する人たちが彼女に背を向けて離れていく。そんな人々のなかから「いつもの……」「例の人……」といった声がもれ聞こえてきた。
人の波に逆らってイルイジュが彼女の元へと近づいていく。悲しそうに目を伏せ、唇は固く結ばれている。そうして足元もおぼつかない彼女のそばへと近寄ると、そっと手を差し伸べた。
「タジルワ。大丈夫かい? そんなに酔って……。いま水を持ってこさせよう」
「うるさい! 放っておいて!」
イルイジュの手はすげなく振り払われて、彼女は子供のように床のうえで身を丸めた。邪険な態度を取られてもイルイジュはひたすら優しいまなざしを崩さず、タジルワと呼んだ女性を抱えあげた。そうして暴れる彼女にてこずりながらバルコニーの扉のわき、僕らのいる小部屋の正面にある大きなソファーに横たわらせる。それからバルコニーの扉を開け、涼やかな夜の風を酔い覚ましとして屋敷に招き入れた。
タジルワは額に手をあてて外から吹きこむ風が髪を撫でるのに任せていた。ボーイが持ってきた水の入ったコップをイルイジュが受け取りタジルワに渡すと、彼女はそれを乱暴につかんで水が飛び散るのも構わず荒々しく飲み干す。
投げ捨てられたコップが割れて、しんと沈んだ会場の空気に棘のような音が響いた。イルイジュがタジルワを宥めようとするようにソファーのそばで膝を折った時、後ろから歩み寄る男女の姿が見えた。
「イルイジュ。シィノルトのことを放っておいたまま、そんな人の世話を焼いていたら、彼女が連れ去られてしまうよ。……このぼくにね」
鋭く尖った剣のように鋭利なシルエットをした背の高い男性が、先程イルイジュと踊っていた女性を伴ってふたりのそばへとやってきた。
「マーダブン。ふざけないでくれたまえ」
「ふざけてなんていないさ」と、マーダブンと呼ばれた男性は手で髪を撫でつけて見下ろすようにイルイジュを見る。
「そうでなければ決闘なんて申し込む訳がないだろう。君が明日の夜もそんな調子だとぼくが勝った後に弱った獣にとどめを刺しただけのように言われかねない」
「手負いの獣ほど恐ろしいものはないよ」
「そうだといいがね」
ふたりの視線が激しくぶつかり合う。そんなやり取りを目の前にして僕は、決闘、という言葉にひどく動揺していた。話の内容から察するにシィノルトというあの柔らかな雰囲気の女性を巡っての決闘。たしか彼は決闘で親友の剣に胸を刺し貫かれて……。しかもその時は明日だというのだ。
シィノルトは祈るように手を胸の前で合わせてイルイジュとマーダブンのふたりを包みこむように眺めている。おっとりして大人しそうな雰囲気をした人だ。長いまつ毛が美しい瞳に影を落とし、口元は小さく結ばれている。その表情は困っているようにも悲しんでいるようにも見える。
「タジルワ嬢。あまりイルイジュに迷惑をかけるものでもなかろう。イルイジュの誠実さに付け入ろうというのならぼくも容赦しないよ。君の家に恩があったのは昔の話。彼はもう十分に報いたよ。これ以上の見返りを要求しようというのならそれは非道だ」
マーダブンの刃を突きつけるよな毅然とした叱責も響いた様子はなくタジルワはうるさそうに手をひらひらと振っただけだった。そうして彼女は錆ついたおもちゃのような動作で半身を起こすと、頭が痛むというように眉をひそめて手を耳にあてた。
「ああ。うるさい。うるさいわ。みんな帰って頂戴」
「君の客ではないだろう」
「いいんだマーダブン」
「しかし……」
「いいんだ」
かたくななイルイジュの態度にマーダブンは口を閉ざした。シィノルトがそっとイルイジュのそばに寄りそって胸を支えるようにしながらその顔を見上げる。それに対してイルイジュは、心配ない、というように太陽のような笑顔を返した。
僕は四人から視線を外して大広間の方を見た。イルイジュとシィノルトという中核を欠いたパーティは途端に薄い帳に覆われたように精彩を欠いていた。あちこちで交わされる密やかなささやきは虫の羽音のようで、あんなに煌びやかだったパーティは今や怪しげな集会に変質してしまったかのようだった。そんな光景を眺めながら、僕はいよいよ心を固めていた。兄の面影を持った彼を救いたい。死の運命から逃れて欲しい。そんなことを考えていた。
気持ちを整理するために隣に座るエポヌへと言葉を吐きだす。
「変えてみようか」
エポヌは首を傾げて僕を見る。
「むかしイルイジュ兄さんから聞いたことがあるんだ。前世で彼は愛する人と結ばれなかった。彼女を巡る決闘で親友の剣によって命を落とすことになるんだ。それを止めたい」
「そんナ小さな変化ジャ、特別な”眼”に気に入らレテしまうかモ」
「僕には十分すぎるほど大きな変化に思えるけど……。それにたしかに兄さんは、バラバラにぶっ壊してほしい、なんて言ってたけれど、それが本当に連れていかれない最善の方法とは限らないんじゃないかな。エポヌは特別な”眼”がどんな物語を好むのか知ってるの? バラバラな物語が好きかもしれないじゃないか」
返答はない。言い訳じみていることは分かっている。けれど僕は怖かった。ここしばらくで現世と前世が全くつながりのない別の存在だという僕の考えがゆさぶられはじめている。兄の物語を大きく傷つけてしまったとして、それが僕の兄、イルイジュ兄さんそのものを傷つけることになるんじゃないかと思えてしょうがなかった。
「僕はせめていい物語にしたいんだよ」
「ソレはノナにとッテいい物語なんデショ」
指摘されて僕は口を閉じかけたが、結局開きなおって「そうさ」と、言い切った。
「答えが分からない以上は自分がいいと思えることをやるしかない。すくなくとも今の物語が”眼”たちに気に入られてイルイジュ兄さんはきょうだいのなかで一番贈り物を貰ってるんだ。どんな方向であろうとも、変えること自体に意味があるはずだよ」
それでもエポヌが不満そうに「ぐちゃグチャにしちゃいタイ」と、こぼすので僕は「それなら僕にやらせようとせずにエポヌがやればいいじゃないか」と、突き放してやった。それを聞いたエポヌがうつむいてしまったので、僕はすぐに気勢をそがれて、すこし自分勝手に言い過ぎたかもしれないと心配になってしまう。そうして僕が影に隠れたその顔を覗きこもうとした時、エポヌはすっくと立ちあがって「そのタメにツいてきたんだモノ」と、ささやくと同時に大広間へと飛びこんでいった。
絹を裂くような悲鳴があがった。蜘蛛の子を散らすように人々が逃げ惑い、なんだなんだと状況を確認しようとする人垣とぶつかって砕けるように押し倒される。僕は突然の暴挙に驚いたがエポヌを止めるすべなど持ち合わせていなかった。
「怪物!」
「噛まれた」
「目が光って」
「テーブルの下」
「幽霊、怨念だ!」
「暖炉の炎の中から」
「口の裂けた化け物が」
情報が錯綜してたちまちのうちに凶暴で強大な怪物が形作られる。物陰を移動する怪物が暖炉の炎に照らされて巨大な影が壁に映しだされた。人々は恐れ慄いて、次々に外へと飛びだしていく。大騒動のなかシィノルトはマーダブンに守られるようにして連れだされていった。タジルワはソファーの後ろに隠れて尻尾を踏まれた猫のように伸びた姿勢で目だけを忙しなく泳がしている。イルイジュは事態の収拾に奔走し、客たちが安全に外に出られるように出入り口近くで誘導をしていたが、人の波が落ち着くと大広間へと戻ってきた。
壁に飾られていた細身の剣を手に取って、怪物の行方を探して勇ましく目を光らせる。しかしいつの間にかエポヌはどこかに消えてしまっていた。そこには踏み荒らされたがらんどうの空間だけが残されている。
「さあ! 出てこい怪物よ! このイルイジュが相手になる!」
イルイジュの声が高らかに響き、天井にぶつかって大広間の隅々にまで届いた。その迫真ぶりに僕はなんだか申し訳なさを感じてしまって、おずおずと進みでると彼に声をかけた。
「……あのう。もうどこかに行ってしまったみたいです」
「君、残っていたのか。怪我はないかい?」
イルイジュは肩の力をすこし抜いて、こちらに駆け寄るとあたりを見回した。
「……置いていかれたのか。どこの家の者だね。送っていこう」
「それは……」と、僕がどう答えていいものか迷っていると、バルコニーの扉のそばにあるソファーから軋むような音がして、その後ろからタジルワが顔を出した。髪はさっきよりも大きく乱れ、ソファーに顔を押しつけていたらしく、化粧が半壊している。
「タジルワ! 大丈夫か!」
イルイジュがそばに寄るべく足を踏みだそうとすると、それを制すようにタジルワは「大きな声を出さないで頂戴」と、声を張りあげながら立ちあがった。足が震えているようだったがソファーの背もたれを杖代わりにしてなんとかヒールで床を踏みしめる。
「別にちょっとびっくりしただけよ。あーあ。人がいなくなってさっぱりしたわね。清々するわ。あたしももう帰りますから」
言い捨てて意外にしっかりとした足取りで大広間を横切っていく。イルイジュはその背中に小走りに駆け寄ってなにか声をかけていたようだったが、タジルワはふり返りもせず、後ろ手をふって屋敷を出ていった。
「いやはや……」
戻ってきた彼は、再び僕のそばに立って大広間を見渡すと、流石に疲れをにじませていた。エポヌは帰ってこない。本当にどこかに行ってしまった。大広間に居るのは僕と彼、そして片付けに勤しんでいる屋敷の使用人たちだけだ。
「……それで、君はどこの家の子だったかな」
「帰る場所がないんです。今日だけでいいので泊めていただけないでしょうか?」
僕はつい今しがた思いついたお願いを口にした。明日の決闘までにそれを止める方法を考えなければならない。そのためには彼のそばにいるのが一番だと思ったのだ。それにこの世界に帰る場所がないのは本当のことだった。
彼は僕の言葉を聞いて息を呑んだ。その態度がなにを意味するのか分からなかったが、重い物が胃の腑に落ちたようにな顔をすると「そうか……」と、ぽつりと息をもらす。
「君、名前は?」
「えっと、ノナトハです」
「一緒にいた女の子はどうしたんだい」
「……帰りました」と、言うしかない。今どこにいるのか僕の方が知りたいぐらいだった。
「そうかノナトハ。明日、君のような子供たちが集まって暮らしているところへ行くんだ。今日は俺の屋敷に泊まるといい。そうして明日の朝、一緒に出掛けよう」
一度言葉を切って彼はまた大広間を眺めた。使用人たちの努力の甲斐あってすっかり荒れ果てていた屋敷のなかが美しい姿を取り戻しつつある。
「今日はそこへの寄付を求めるためのパーティだったんだが、すっかりそれどころではなくなってしまったなあ」
彼は僕の立場について一人合点しているようだった。孤児だと思われているらしい。僕はその誤解を訂正せずに利用させてもらうことにした。とりあえずは泊めてもらえるようなので、ひとつ肩の荷が下りたような気分だ。
寝室に案内されると使用人のひとりが一着の服を持って待ち構えていた。イルイジュが服を受け取ると使用人は音もなく去っていく。
「もう夜も更けている。店も閉まっているから俺の古着だがサイズが合いそうなものが他になくてね」
イルイジュは僕に寝間着を渡して「おやすみ」と、巨大な屋敷の廊下の奥へと消えていった。
すべすべとした肌触りの寝間着をまとうと一気に疲れがやってきた。自分の体の数倍はあるベッドに寝ころぶ。体重をかけなくても体が自然と沈みこんで、柔らかい綿に包みこまれているような感触だ。なんとなくクムモクモのことを思いだしてしまう。
「ゼンゼン似合ってナイ」
半身を起こして声のする方へ目を向けると、エポヌがカーテンの影からこちらを覗いていた。
「どこにいってたの」
「わたしはズット影のなかにイタヨ」
「すごい暴れっぷりだったけど僕に頼まなくてもエポヌひとりで物語を変えればいいんじゃないの?」
僕が大広間で感じていた疑問をぶつけるとエポヌは二枚のカーテンの端を引っ張って首元で合わせると、その上に頭を乗せた。首が宙に浮かんでゆらゆらとゆれる。
「それダトわたしの物語になっチャウもの。ノナがやらナイと」
「その理屈だと僕がやった場合は僕の物語になるんじゃないの」
「ソウはならナイわ」
エポヌは断言し、満月のような大きな瞳でじっと僕を見つめた。穴が空きそうな強烈な視線になんだかむずがゆくなって、右頬をかきながら顔をそらす。
「ノナは語らレル側じゃナクて語る側だワ」
僕には自分とエポヌの違いは分からなかった。けれどエポヌはなにか根拠でもあるかのようにハッキリと言い切る。
「どうして?」
眠くなってきた頭を抱えて、欠伸が出そうになりながらも単調な質問を投げかける。
「だッテ、ノナはママそっくりだモノ」
イルイジュ兄さんもそんなことを言っていた。もはや考える力が失われつつあって「そんなことないと思うけど」と、思ったままを口にすると「そっくりヨ」と、残響のような答えが返ってくる。
ついに耐えかねて大あくびをすると、エポヌはカーテンの裏から消えていなくなっていた。小さくひるがえったカーテンのひだがゆれて「おやすミ」と、いうささやきが耳に届くとそれきり静寂が訪れた。
僕は再びベッドに横になって枕に頭を預けるとすぐに眠りに落ちてしまった。
翌朝。長大なテーブルで僕とイルイジュは向かい合って朝食をとっていた。他の家族は見当たらない。以前聞いていた通り、天涯孤独の身の上なのだろう。
昨日着ていた僕の服はピカピカに洗われて皺ひとつない状態にされていた。寝間着から元通りに着替えたが着心地が良くなりすぎていてなんだか動きずらい。そうしてぎくしゃくと食事を口に運びながら、僕はテーブルを挟んでぽつりと食事に耽るイルイジュを見る。その姿に共に館で暮らし、家族みんなでごはんを食べていた兄の姿を重ね合わせて、なんだか胸が締めつけられる思いに襲われていた。
「昨日はよく眠れたかい」
一通り食事が終わって口元を拭うと、彼が僕に爽やかな笑顔を向けた。
「はい。ありがとうございます。イルイジュ、さん」
兄の姿がちらついてどうにも話しづらい。僕は決闘のことを聞きたくて仕方がなかったが、突然そんなことを聞いてもいぶかしがられるだけだ。だからとりあえず遠回りだけれど不自然じゃなさそうな話題を選んだ。
「昨日のあの、タジルワさんはいつもあんな風なんですか。僕びっくりしてしまって」
「ああ……。まあ、そうだね。悪い人ではないんだよ。彼女とは幼馴染でね」
イルイジュは紅茶を一口飲むと「そうだなあ」と、カップの底を見つめながら語りだした。
「俺の父上が製鉄工場、彼女の父上が加工工場を経営していてね。それでビジネスパートナーだったわけなんだが、そんな関係を超えた家族ぐるみの付き合いがあった。けれどある日この屋敷で俺や彼女の父上、そのほか商売上の付き合いがあった方々が集まっての会談があったんだ。その日、彼女の父上は死んでしまった。事故でね。大広間にある階段の上から転落してしまったんだ。それからは随分落ち込んでしまって俺に対しても強くあたるようになってしまったんだ。家族を亡くした悲しみは君にも分かるだろう」
「……ええ」
僕は曖昧に返事するしかなかった。けれど特別な”眼”に家族が連れていかれたとすれば、その時はとっても悲しく、寂しい気持ちになるだろうと思った。
「俺にも分かる。だから彼女の慰めになるなら、受け止めてやりたいと思ってるんだ。ただ敵を作らないかちょっと心配しているけどね」
彼は本当に心配そうに憂いに満ちた目を瞬かせた。そして僕を見ると「次に彼女に会った時には友達になってあげてくれないか」と、真剣な表情で切願した。それは死にゆく者の末期の願いのようにも思えて、僕はただ頷きを返すしかなかった。
「ありがとう」
彼は目礼すると、表情を崩して「なんだか今日は弟ができた気分だよ。久しぶりに家族で食事をしている気分だ」と、はにかんだ。
「あの時、話されていたおふたりも幼馴染なんでしょうか」
僕は彼の孤独感に付け入っているような罪悪感を覚えながら質問の輪を狭める。
「シィノルトとマーダブンか。ふたりは違う。背の高い男性の方、マーダブンは学友でね。来る日も来る日も共に訓練に明け暮れていた。学校を卒業すると俺たちは然るべき場所へと行かなくてなはならなかったんだが揃って親に呼び戻されたんだ。彼の父上は裁縫工場を持っていてね。俺の家と同じで時代の波に乗って富を築いていた。本来全うすべき役割を金の力で免除させたのさ。……すまないね。君に話すようなことじゃなかったかもしれない」
「いえ。僕も興味がありますから」
「そうか。それならいいんだが。君にとって辛い話ならすぐにでも言ってくれ。なんだか君には話しやすくてつい口が軽くなってしまうんだ。……それとも今日みたいな日だから誰かに自分のことを知っておいて欲しいと思ってしまっているのかもしれないな」
言葉の後半はひとりごちるように言って彼は紅茶を一息に飲むと、温まって靄のようになった息をゆっくりと吐きだした。
「ええっと、それで、シィノルトのことがまだだったね。彼女はマーダブンが連れてきたんだ。どこかのパーティで知り合ったらしい。昔は、と言っていいのか分からないが俺はやんちゃばかりしていてね。昨日のようなパーティを毎夜開いていたんだ。そんな時、彼女に出会った。シィノルトは俺に教えてくれた。富める者のあるべき姿をね。目が覚めるような思いだった」
「……シィノルトさんのことが好きなんですね」
「うん」
照れた風でもないすっきりとした肯定。
「君にも好きな人はいるかい」
僕は言われて兄のこと、家族みんなのことを思い浮かべた。それが表情に出ていたのか僕がなにも言わないうちに彼は「それはとても素晴らしいことだ」と、微笑んだ。
「さて……」と、彼が時計を見て腰を浮かそうとしたので、僕は慌てて、
「決闘、するんですか」
と、単刀直入に切りだした。彼は虚を突かれたように目を丸くして、ややあって「ああ」と、突き放すように答えた。その瞳は決して何者も寄せつけない決意に満ちて、朝日を浴びた彼の赤毛が太陽のように燃え盛った。僕は目が焼かれるのではないかと思ってまぶたを閉じたが、再び開いた目に映ったのは穏やかそのものの彼の姿であった。
「それでは出かけようか」と、言われても僕は拒否もできず、それ以上なにかを聞くこともできなかった。踏みこめない領域をまざまざと見せつけられたような気がしたのだ。
「楽しい食事だったよ」と、言う彼に対して辛うじて「僕もです」と、返答したのが精いっぱいだった。
街を歩きながら目的地の説明をされた。親がいない子供たちが暮らす場所。教会を改修したというその孤児院はシィノルトが管理、運営している施設なのだという。
街は荒廃していた。無傷の建物はひとつとしてなく、半壊している建物にはまだ使えると言わんばかりにたくましく生活する人の姿が見て取れた。道と建物が混然一体として、ボロ布を木の棒の上に張った簡易的な商店がそこかしこにあった。街を歩くイルイジュは昨日のような派手な出で立ちではなく、地味で薄汚れた衣装をまとっている。僕は館から着てきた服装のままでうろついているのでなんだか複雑な気分にさせられた。使用人は付き添っておらず彼とふたりきりだ。エポヌは昨日の夜、寝室で会って以来見かけていない。
僕はこんな状況にも関わらず自分が少し浮かれているのを感じていた。記憶の世界、館の書室やシアタールームで触れた世界たち、そのどれよりも現実感のある異世界、物語なのだ。僕は館から出たことがないし、出たいとも思っていなかったがこうして外に踏みだしてみると大いに惹かれるものがあった。好奇心が刺激され、視線があちこちに吸い寄せられてしまう。しかしそんなささやかな高揚も長くは続かなかった。陰惨な街を歩き、絶望を抱えた人々のなかを進むと胸が詰まるような思いになった。やがて飛び回っていた視線は地面ばかりを這うようになって、そうしているうちに目的の場所へと到着した。
孤児院の周りの壁は打ち砕かれていて入口などあってないようなものだった。けれどイルイジュはわざわざ入口の方へ回り込んでなかに入り、元は教会であったという建物の礼拝堂を通ってその裏手へと抜けた。裏庭には院長らしき老人とたくさんの子供、そして子供たちに囲まれたシィノルトがいた。シィノルトは僕らに気がつくと一緒に遊んでいた子供たちの輪から離れてこちらへとやってきた。それから僕を院長に紹介するとイルイジュとふたりで礼拝堂の方へと向かっていった。
孤児院の子供たちは皆、はつらつとしていて新参者の僕を明るく受け入れてくれた。僕はこの施設のなかでも年長にあたる部類のようで、すぐに小さな子供たちにまとわりつかれて引っ張り回されることになった。そうして綱引きの綱のようになっていると、見かねた院長が、きたばかりだから休ませてあげなさい、と助け舟を出してくれて、葡萄のように連なった子供たちを引きはがしてくれた。
僕はこれ幸いとばかりに脱出して、裏庭のわきに落ちる木陰のなかに入ると、壁沿いに移動して礼拝堂をこっそりと覗きこんだ。そこではイルイジュとシィノルトのふたりが祈るように礼拝堂のステンドグラスを見上げ、色とりどりに染められた光を浴びながら、まぶしそうに目を細めていた。
「気になさらないでください」
「また次の機会があればその時に呼びかけるよ」
「お願いします」
「お願いされなくてもさ」
「まあ。イルイジュ様はずいぶん変わりましたね」
「そうかな。自分では分からないけれど」
イルイジュがシィノルトの目を見つめると彼女も見つめ返した。どうやら昨日のパーティのことに話していたらしい。
「でも」と、シィノルトが目を伏せて「まだ厳しい状況が続きそうです」と、苦し気に言った。
「悲しいことだね」
「ええ、日に日にここで生活する子供たちが増えています」
「……いっそ全員、俺の養子にしてしまおうか。屋敷に部屋はあり余っているからね」
「ふふっ。イルイジュ様に育てていただけるなんて幸せでしょうね。けれどそれで全ての子が救えるわけではありません」
シィノルトは柔らかく微笑んだがその言葉は悲しみにゆれていた。
「そうだね。確かにそうだ。俺の自己満足になってしまうな。それに屋敷もいつ踏みこまれるか分かったものじゃないからね」
「やはり、工場のことを……」
「工場か。手放す、というのはどうも心配だな」
「ダルーロ様は信用できませんか」
「父上の友人としては信頼したいものだが、商売人としてはどうだろうね」
「でもこのままではイルイジュ様が処罰を受けるかもしれないんでしょう」
「製鉄の量を減らしてるのがばれるのは時間の問題かな。というより、もう嗅ぎつけているれど俺の立場を鑑みて手を出す方法を模索しているってところか。ダルーロ氏ならこういった追及を天才的にかわせるんだろうね」
「なら」
「あと一日、考えさせてくれないか」
シィノルトは思案するようにじっとイルイジュの瞳の奥を覗きこんだが、すぐに花が咲いたように顔をほころばせた。
「無理を言ってごめんなさい。イルイジュ様おひとりだけのことではありませんものね」
「ありがとう。あの方が俺と同じく心から世界を変えたいと望んでいるとはまだ信じ切れないんだ」
「それでいいんです」
イルイジュがシィノルトの肩を抱くと彼女は身を預けるようにして寄り添う。礼拝堂のなかを風が吹き抜けてイルイジュの燃えるような赤毛を巻きあげ、シィノルトの雲のような髪を大きく膨らませた。
「このまま世界が暗雲にのまれてしまったら私たちもこうして会うことができなくなるのかもしれませんね」
シィノルトがしみじみと言ってイルイジュの顔を見上げた。イルイジュは更にその上、ステンドグラスへ目を向けて、その裏側にある太陽を透かし見ているようだった。
そんな時、礼拝堂の裏口側にいた僕は、対角線上にある入口側の人影に気がついた。誰かが僕と鏡合わせのような位置でふたりの様子を観察している。ボロの布を頭からかぶっていてその顔を窺い知ることはできないが死神がイルイジュのそばへと忍び寄っているかのような不吉さがあった。しばらくすると入口の柱をつかんでいた手をそっと離して去っていく。誰なんだろうと思った僕は礼拝堂の外周を回って崩れた壁を乗り越えると、その人物を追った。謎解きが得意な弟のテタドが言っていた。謎を解くカギというのは往々にして影のなかにあり、後ろに回って眺めれば簡単に見つかる。僕はその教えに従い、彼の背後に忍び寄ってきた何者かを探ってみようという気になっていた。
不審な人影は人混みにまぎれてするすると離れていく。そこら中に行き交う人々が似たようなボロ布をまとっているので、ともすれば溶けこんでしまいそうになるが、その人物の布はすこしだけ毛色が違うようだった。大きなお屋敷の使い古された絨毯といったような、ちょっとだけ高級そうな滑らかさがあるのだ。
相手の体格は大人で、子供の僕とは歩幅にずいぶん差がある。けれど追われている自覚がない者を全力で追いかければ追いつかない道理はなかった。そうして相手が角を曲がり、僕もそれに続こうとした瞬間、大きな衝撃を感じてお尻を地面に打ちつけてしまった。
「大丈夫?」
ぶつけた鼻をこすりながら顔をあげると僕が追いかけていた人物がそこに立っていた。勢い余った僕は間抜けにもその人物に衝突してしまったのだ。頭からかぶっていたボロ布がまくられると、そこから顔を出したのはタジルワであった。なんだか普通の村娘といった出で立ちで、昨日のようなトゲトゲしさはまるでない。だから誰だかすぐには分からなかった。
「立てる?」
言われて地面を押さえていた左手を持ちあげようとして背筋が震えた。手のひらを舐めあげられたような感触がしたのだ。反射的に手をあげて大きく開いてのぞき込むと「きゃあ」と、タジルワの悲鳴があがった。
「大変だわ」
深刻そうなタジルワのつぶやきに対して、僕は呆けたように手のひらを眺めていた。紅に染まった手。血だ。血みどろの手のひらからぽたぽたと赤い雫が垂れおちている。自分が手を置いていた場所に目を向けると、そこはちょうど露店の影が落ちていた。そのなかで蠢くものがあったようにも思えたが、目を凝らして観察しようとしたのと同時に、僕の視界はタジルワの差しだしたハンカチで覆われた。
「これで傷口を押さえて。近くにあたしの家があるから。そこで手当てさせて」
渡されたのは美しい刺繍がほどこされたハンカチで、とても血で汚していい物には思えなかったが、僕の躊躇などお構いなしにタジルワは僕の左手ごとハンカチを手のひらの血だまりに押しあてた。
肩を抱かれるようにして支えられながら裏路地を何度か曲がると寂れた屋敷の裏口に到着した。なかに入ると手入れされていないジャングルのような庭を抜けて、庭に面したキッチンの裏手に置かれた椅子に座らされる。
タジルワが、水を持ってくる、と言ってそばを離れている間、僕は屋敷を見上げてその余りにも荒廃しきった姿に驚いていた。彼女はここが自分の家と言っていたが人が住んでいるようにはとても見えない。野党に荒らされたかのように柱や壁の装飾すら引きはがされていびつな断面をさらしている。イルイジュが彼女の父親はすでに亡くなったと話していたが、それから没落してしまったという想像がぼんやりと頭に浮かんだ。
しばらくしてタジルワが戻ってきた。彼女が持ってきてくれた水で手を清めると傷一つない手のひらが現れた。まったく痛みがないのでおかしいと思っていたが、つまりは血糊だったに違いない。こんな悪戯をする者に心当たりがある。そういえばエポヌはどこにいってしまったのだろうか。
「あれ? 怪我してないみたいね」
タジルワは僕が座っている椅子の隣にある小さな石階段に腰かけると、怪訝そうに言って手のひらをつぶさに観察した。
「でも念のため薬を塗っておきましょ。あなた名前は?」
「ノナトハです」
「そうノナトハ。あたしはタジルワ。いちおう名乗っておくわ」
指先で軟膏を広げられるとくすぐったくて身がよじれる。ぐりぐりとまんべんなく塗られて、ギブアップしようとした瞬間にようやく終わった。
「ありがとうございます」
「いいのよ。あたしがぶつかったんだから。あたしのせいだわ」
そんな風に言うタジルワは、昨日パーティで散々騒いでいた人と同一人物とは思えないしおらしさがあった。僕が不思議に思いながら彼女の化粧っ気のない顔を眺めていると不意に、
「昨日どうしてイルイジュのパーティに居たの?」
と、聞かれて言葉に詰まってしまった。彼女は酔っぱらって僕のことなど覚えていないだろうと思っていたのだが、案外意識は鮮明だったらしい。
予想外の質問に僕がしどろもどろになっていると彼女は目を瞬かせて質問を変えた。
「あなたどこの子なの?」
「僕は、孤児で……」
現状の立場としては間違っていない。
「ああそういうこと」
彼女は納得したように頷くと「例の孤児院の子だったの。抜けだして走り回ってたってわけ」と、僕の顔を見つめながら愉快そうに笑った。
「あなた、あの孤児院は長いの?」
「いえ。今日来たばかりなんです」
「それで飛びだしてくるなんてとんだ不良ね。気に入らなくても居場所があるだけありがたいと思わなきゃだめよ」
彼女は真剣な表情で僕を見据えて、諭すように言う。僕はなんだか気圧されてしまって「……そうですね」と、視線を逸らして空を縁取る崩れかけた屋敷の軒を見上げた。
「昨日はどうしてあんなに怒ってたんですか」
僕はふと浮かんだ疑問を彼女にぶつけてみた。この短い時間のあいだに僕のなかの彼女の印象は大きく変わっていた。力強い人ではあるけれどあんな無茶を押し通そうとする人には思えなかった。
「怒ってなんかいないわ。ちょっと酔っぱらってただけ」
彼女からは昨日のお酒の匂いがほのかにただよっている。とぼけているのか本心からなのかよく分からない。
「僕とお友達になってくれませんか」
今朝イルイジュと話していたことを急に思いだして僕はそんなことを言った。
「友達? なんで?」
これには彼女も驚いたようで僕を探るように視線を躍らせている。
「イルイジュ、さん、にタジルワさんとお友達になって欲しいって言われたんです」
「言われたからって友人を増やしてたら沼の底に沈められる世の中よ。用心しなさい。それはそうとどうしてそんな話になったのよ」
僕は今朝のことをかいつまんで説明しようとしたが、彼女の細かな質問に答えていると詳細のほぼ全てをさらけ出すことになっていた。
「……ふーん。なるほどねえ。イルイジュそんなこと言ってたんだ」
彼女は立てた膝に片肘を乗せて頬杖をついた。こんな大きなお屋敷に住む令嬢にはあまり相応しくないポーズで荒れ放題になっている庭を眺める。
「今日決闘があるんですよね。イルイジュさんとマーダブンさんの」
「そうらしいわね」
「止められませんか」
「なんで? 馬鹿には馬鹿やらしとけばいいのよ」
冷たくあしらわれて思わず「そんな」と、声がもれた。
「イルイジュさんはその決闘で死んでしまうような気がするんです」
僕が事実を推測として話すと、彼女はピクリと眉を動かして体をゆっくりと起こした。
「大丈夫じゃないの。二人とも剣の達人だし、それに親友同士。加減ぐらい心得てるでしょう。多分ね」
「でも」と、僕がすがりつくように言うと彼女はふうと息を吐いた。
「イルイジュにはやめるように何度も言ったけど一度だって聞いてもらえなかった。あんな女のために命を張る必要はないってね」
「シィノルトさんになにか問題があるんですか」
彼女の言い草には僕に不審を抱かせるのに十分な響きが込められていた。
「だって、あの子の父親は……」と、言いさして僕を横目に見る。
「僕はイルイジュさんのことが心配なんです」
「変な子。まあいいけど。シィノルトの父親はダルーロってヤバイ奴なのよ」
ダルーロ。さっき聞いたような名前だ。イルイジュが製鉄工場を譲り渡そうとして決断を踏み止まっている相手。
「どんな人なんですか」
「どんな、って悪い奴かな。敵とも味方とも取引して儲けることしか考えてない。あたしの父親が死んだのも多分あいつが殺したのよ。だって父さんが持っていた工場はすぐにあいつに乗っ取られたんだもの。それにあんたの住んでる孤児院だって持ち主はダルーロ。献金なんてしたら全部あいつの懐に入る」
「それってイルイジュさんは知ってるんですか」
「もちろん教えたわよ。でもね。あいつは聞く耳持たないの。知らんぷりしてシィノルトと接してさ。あたしもシィノルトのことは嫌いじゃないわよ。いい子だと思う。けれど許されない悪い子でもある。父親に利用されてお金集めをしてるんだもの。それで死んだ人もたくさんいる」
僕は考えこんでしまった。この世界全体の争いのことは僕ひとりにはどうしようもない、途方もなく大きな問題に思えた。それに押しつぶされそうになりながらもいま自分がやるべき使命にしがみついてなんとか目的に向かって思考を巡らせた。
「マーダブンさんはどうでしょう」
「マーダブン?」
「その、シィノルトさんの父親のことを知ってるんでしょうか」
「さあ。知らないかもね」
「教えたら身を引いてくれるかも。そうしたら今夜の決闘もなくなるはず」
「まあそうかもしれないけれど。……それってあたしがマーダブンに説明しなくちゃダメ?」
「お願いします」
僕は深く深く頭をさげた。彼女はやれやれというように溜息をつきながら立ちあがって、
「じゃあ、やりましょうか」
と、僕に手を差し伸べた。
マーダブンの屋敷はイルイジュの屋敷に負けず劣らない大豪邸だった。小汚い恰好の僕らは門番に止められて追い返されるところであったが、出掛けていたらしいマーダブンがたまたま戻ってきてタジルワを認めると客間に通してくれた。
「どういう風の吹き回しだいタジルワ」
「あたしだってこんなところ来たくなかったわよ。……それにしても、マーダブンあなた大丈夫なの?」
タジルワがマーダブンの姿を見て、いったん構えた矛を引いた。マーダブンのコートの裾は赤く染まっており、血しぶきが飛び散ったようになっていた。
「ぼくが怪我したわけじゃない。馬車の前に飛びだしてきた子供がいてね。世を儚んだのかもしれないが、助け起こそうとしたらどこかに走り去ってしまった。その時ついた血の跡さ。こんな格好で会合に出席するわけにはいかなかったので辞退させてもらって、すぐに引き返してきたんだ。あの子のことは心配だが元気に走っていたから大丈夫だと思いたいね」
「それって濃紺色のドレスを着た女の子じゃありませんでしたか」
僕が聞くとマーダブンは記憶をたどるようにして「ああ。そうだったかもしれないな。知り合いかね」と、僕に視線を向けた。
「いえ。ちょっと以前に見かけた気がしたので」
「危ないことをくり返しているなら注意が必要だ。次に見かけたら教えてくれたまえ」
「はい……」
「それで、ぼくになんの用なんだ」
剣のような鋭い視線と声がタジルワを刺し貫いたが、彼女は慣れっこになっているのか平然としている。
「今日の決闘、やめない?」
「君が口を出すことじゃあないだろう」
「まあね。でもあなたシィノルトのことどこまで知ってるの?」
「彼女のことはなんでも知ってるさ」
彼は前髪をピンと弾いて気取ったポーズを取ると自信満々に言った。
「父親のこともですか」
僕が思わず横やりを入れると、彼は初めて僕の存在に疑問を感じたように、僕のつむじから爪先までを眺めまわした。
「そういえば君は誰かな?」
「ノナトハよ。あたしの友達」
「ほう?」
彼は奇妙そうに僕とタジルワを見比べていたが、やがてふんと鼻を鳴らしてソファーに沈みこむように腰をおろした。
「シィノルトのお父上がダルーロ様だって話かい?」
「知ってたんですか」
「そりゃあそうさ。ぼくの父上と商売上の親交があってね。ダルーロ様から娘だと紹介されたのが彼女だ」
「ダルーロがどんな奴か知らないわけじゃないんでしょ」
タジルワが目を尖らせて詰め寄った。
「もちろん知ってるさ」
「なら」
「シィノルトは素敵な人だ。その事実は変わらない。親がどうであろうとね」
「でもあなたやイルイジュが彼女と婚約したりすれば、なにもかもがむしり取られて不幸が蔓延する手助けをすることになるわ」
「そうかもしれない。けれど小さな幸せに満足して大きな幸せから目を背けるのは罪なんだ。我々は追及すべきだ。それこそが未来を形作るんだからね」
「あの……」
僕はこれ以上の交渉は難しいと感じて、別の方向から彼を動かせないか試すことにした。
「マーダブンさん。今日の決闘でイルイジュさんを殺すつもりですか?」
彼は深く眉根を寄せて、殴られたように顔をしかめた。
「本気の決闘だ。どちらかが命を落としてもおかしくはない」
答えではない答えだ。何かを隠している風にも思える。けれどそれは固い意思によって覆われて決して表には浮かんでこない。
マーダブンが時計に目をやった。とうに昼は過ぎ、太陽が撃ち落とされたような性急さで地平線の向こう側に隠れようとしていた。時間がない。いざとなったら力ずくでも。いや無理だ。僕にイルイジュとマーダブンというふたりの剣の達人を止めれるような力はない。
ここでマーダブンになにかあればとりあえず先送りにはなるんじゃないだろうか。そんな危険な考えが浮かんだ。一本の藁に過ぎないその考えにとりつかれた僕は無意識のうちになにか道具がないかポケットのなかを探っていた。そして指先に固く冷たい塊が触れた。取りだすとそれは硝子盤だった。そう言えばこの世界にきてすぐにポケットに入れたまま忘れていた。
それを覗きこんだのには深い意味はなかった。ただ傷がついたり壊れたりしていないか確認しようという意識が働いただけだ。けれど硝子盤を通した向こう側にイルイジュとマーダブンの姿が見えて、僕は息を呑んだ。吸い寄せられるように硝子盤を見つめる。そこに実際に彼らがいて、声や空気の感触、匂いまでもが感じられるようだった。
――マーダブン。やっぱり愛だよ。
――イルイジュ。まだそんなことを。
――いや。愛さ。
――……分かったよ。君にはまいったな。
――シィノルトは愛を知らない。愛される才能に恵まれ過ぎて愛することを知らないんだ。
――なるほどね。
――ダルーロ氏も彼女のことを深く愛している。彼女が変われば彼も変わる。それこそがこの時代の推移方法として最も正しい道だ。
――ダルーロ様はぼくがどんな提案をしても強固な意志ではねのけるお方だ。そんなにうまくいくのだろうか。
――うまくいくに違いないよ。
――何を根拠にそんな……。
――俺はシィノルトに愛することを教わった。そうすれば俺を取り巻く世界の全てが変わった。今度は俺が彼女に教える番だ。
――しかしどうする。愛をささやくなんて当たり前のことには既に飽き飽きしてるだろう。
――それが悩み所だ。今まであらゆる手段を講じたがうまくいかない。
――お手上げってわけかい。
――いや、最後の方法がある。
――奥の手、だな。
――人というのは愛さないわけにはいかない生き物だ。無意識のうちにはその方法を知り、実行しているはずさ。愛するものを喪失した時、その存在と方法を自覚し前に踏みだすだろう。
――なるほど。それで彼女は何を失うんだね。
――俺だ。
――はあ? 自信満々じゃないか。呆れるよ。全く!
――笑わないでくれたまえ。俺は本気だ。
――君が本気じゃない時をぼくは知らないよ。ぼくになにかさせたいんだろう。
――俺がいなくなった後、彼女を導いてほしい。
――そんな大役が、ぼくに務まるかな。
――できるさ。そのためにもうひとつ頼みたいことがある。辛い役目だが君にしかできないことだ……。
僕は硝子盤のなかに呑みこまれそうになっていた意識を引きあげた。いつの間にかマーダブンとタジルワの交渉は決裂したようだった。憤慨した様子のタジルワを尻目にマーダブンは決闘の準備に行ってしまい、彼が離席してすぐに僕とタジルワは放りだされるようにして屋敷を追いだされた。
「まったく、わからずや!」
タジルワがマーダブンの屋敷の門に向かって叫ぶが、威容をまとった門はびくともしない。
「タジルワさん。決闘がおこなわれる場所って知ってますか」
「イルイジュの屋敷でしょ」
言われて道を思いだそうとしたがなにぶん昨日きたばかりの世界。それにあちこち歩き回りすぎたからまるで場所が分からなかった。
「あの、すみませんが連れていってください」
僕が頼みこむとタジルワは呆れ顔のなかにお節介な諦めをにじませて近道を案内してくれた。
イルイジュの屋敷の門番はマーダブンの屋敷とは違ってタジルワを見るとすぐになかへと通してくれた。どうやらイルイジュは決闘の準備をしているらしく、会うことができないまま僕らは大広間に通された。見回すと大広間のわきにある小部屋のひとつでシィノルトが佇んでいた。さらにはその隣にエポヌの姿も見える。
タジルワはシィノルトと面と向かい合うのはばつが悪いらしくイルイジュに挨拶してくると言ってその場をそそくさと離れてしまった。僕はエポヌに目線で訴えかけたが、それが届いたのかエポヌは大きな瞳を瞬かせると、シィノルトの手を引いて僕の元へとやってきた。
「あら、あなた今日きた子ね。いなくなっちゃったから院長先生がすごく心配してたのよ」
「……ごめんなさい」
「謝れてえらいですね。私や院長先生に相談してくれたらお力になります。いいですか?」
「……はい」
シィノルトはのんびりとした調子で言う。ふんわりとしていて包みこまれるような雰囲気には逆らい難いものがあった。
「この子も今日入ったの。エポヌちゃんって言うの。仲良くしてあげてね」
「エポヌよ。ハジメマシテ」
「……ノナトハ」
手を差しだされてエポヌと握手する。白々しいやり取りになんだか恥ずかしくなって寒気がしてきた。心配してたのにどこいってたんだ、という気持ちを込めてにらみつけると、エポヌはおどけたように目を見開いて裂けた口から牙を覗かせた。いつものゆがんだ笑顔だ。今はエポヌに構っている時間はない。これこそ最後のチャンスかもしれない。これが上手くいかなかったら体を張って止めるぐらいしか手段は残されていなかった。
「あの。シィノルトさん」
「なんでしょうか」
「決闘をやめるようふたりに言ってくれませんか」
「私もう何度も言いました。けれどおふたりは聞いてくれません」
シィノルトは悲しそうに目を伏せる。
「どちらかが死んでしまうかもしれないんですよ」
「不幸な事故でもない限り」と、彼女は大広間の階段を見上げて「おふたりともお強いので大丈夫でしょう」と、楽観的な言葉をつづる。
「それにあくまでも決闘。ルールが決まった競技のようなものです。この場にはエポヌちゃんやノナトハくんのような子供もいます。その目の前で本気の殺し合いはいたしません。あの方たちはそんな人ではないんです」
こう言われてしまうと反論しづらい。僕があまりに強く言うと彼らの人格に対する冒涜になりかねない。そういえばエポヌはどうしてここにきたのだろうか。エポヌが望んだのかシィノルトが連れてきたのか。おそらくは前者だろうが、それでシィノルトが子供を連れてくるぐらいにはこの決闘のことを軽んじているということに他ならない。
自分というおもちゃを取り合う子供の遊びの延長線とでも思っているのだろうか、と僕はやや攻撃的な気持ちが高まるのを意識した。しかしそんな心もシィノルトが発している柔らかで温かい雰囲気に触れると途端にひしゃげてしぼんでしまう。僕は意を決して本当のことを話してみることにした。それ以外の方法はもはや思いつかなかった。これからおこなわれようとしている儀式めいた決闘は、そうする他にシィノルトを変えるすべがないと悩み抜いてのことだろう。僕がここで話したとしてなんの意味もないかもしれない。これからおこなわれることを茶番にしてしまう可能性だってある。けれどこのまま傍観していることなど僕にはできなかった。
「あなたのためにイルイジュは死のうとしています」
「なぜ?」
シィノルトは本当に分からないというように、首を傾げて柔らかな髪をゆらした。
「あなたに誰かを愛する方法を教えたいんだと思います」
「どういうことでしょう」
「シィノルトさん。あなたはイルイジュを愛していますか?」
「いいえ」
ずいぶんはっきりした答えだった。けれど拒絶ではなく、授業で先生にあてられた生徒が分かりませんと答えるような、ほんのすこしの後ろめたさが込められているように思えた。
「じゃあマーダブンは?」
「いいえ。よく分からないんですそういうことは」
「それじゃあダメなんです」
「どうして?」
彼女の瞳はどこまでも無垢に輝いていた。僕は答えを探して彼女の瞳の奥の隅々まで観察したがどこにも求めるものは見つからなかった。
「シィノルトさんの父親はダルーロという人なんでしょ。悪いことをしてるって聞きました」
「ダルーロ様のことはよく知りません。それになにが悪くて良いかなんて誰が決めるんでしょうか」
「それは……」
僕は彼女の言ったことに確かな答えを持っているわけではなかった。しかしイルイジュのことを思えば、そうであって欲しいという願いと共に言葉が紡がれた。
「……世界をより良くしたいと心の底から願っている人なんじゃないでしょうか」
「では私が決めます。ダルーロ様はいい方です。私を大事にして下さいます。大事にしていただいた分、私も気持ちをお返ししています」
「あなたはイルイジュや、マーダブンや、孤児院の子供たちみんなが大事じゃないんですか」
「大事です」
「なら止めて下さい。イルイジュのことを」
「でもイルイジュ様がそれを望んでいるんでしょう?」
「大事なものを失ってもいいんですか」
「大事なものがなくなれば、それは大事じゃなくなります。だからなにも失うことはありません」
まるで山に向かって問答しているようだ。けれどなんとなく分かったこともある。彼女は鏡だ。彼女は虚像だ。返ってくるのはこだまだけ。このゆがんだ鏡を直せばイルイジュが言っていた通り、それを覗くダルーロという人も居住まいを正すことになるのかもしれない。
僕は壁にかけてあった細身の剣を手に取った。イルイジュがパーティに現れた怪物を退治しようとして手に取った剣だ。僕はこれで今まさに怪物を退治する必要があった。
「僕があなたの命を奪う、と言ったらどうします」
不格好に剣を構えて彼女に突きつける。彼女は答える代わりに一歩前に踏みだして、剣の切っ先の己の胸に突き刺した。ドレスに血がにじみ、怯んだ僕は思わず刃を引っ込めてしまった。この人は自分自身のことすら愛していない。それを知った僕はいよいよどうしていいか分からなくなってしまった。
変われ、と願った。物語よ変わってくれ。そう願った。彼女が愛することを知るように。イルイジュの望みを叶えてくれ。暗い穴が空いたような心のなかに願い続けた。
どこかにヒビが入ったような音がした。僕が見上げるとそれは階段が軋む音だったようだ。大広間の階段からイルイジュとタジルワが並んでおりてきた。タジルワはぎりぎりまでイルイジュを説得しているようだったが彼は聞く耳を持たないというように毅然と前だけを向いている。しかし熱のこもったタジルワの最後の一言を聞いて、ふっ、と顔を向けた。その表情は階段の下にいる僕のところからよく見えた。おそらくシィノルトにも。
マーダブンがやってきた。いよいよ決闘がはじまるのだ。階段の上と下。彼らが目と目を見合わせる。そんな時、僕は握っていた剣を突然誰かに奪われた。なにが起こったのか分からないまま、剣を取り返そうと手を伸ばす。しかしそれは剣によって斬り払われそうになる。エポヌが僕を後ろから引っ張ってくれていなかったなら僕の腕は体から切り離されてしまっていただろう。
シィノルトが駆けていく。イルイジュの元へ。輝く剣を携えて。
命が零れ落ちる音がした。
「イルイジュ様。あなたは私を愛してなんかいなかったんですね」
「何を言うんだい?」
「だって、タジルワ様を見るあなたの瞳があまりにも美しいんですもの」
「そうか……、そうかもしれない」
「私、分かったような気がします」
「……」
「人を愛するってこと」
「……この世界も愛してくれるかい」
「今までも、これからも、同じように愛していますよ」
「それは、よかった。……愛して、くれ……」
そして幕が落ちた。物語が完結したのだ。それと同時に僕とエポヌは異物がはじき出されるように館に舞い戻っていた。目の前に倒れているイルイジュ兄さんは苦しそうに瞳を閉じて、なにかに耐えるように胸を押さえていた。そこはちょうど彼がシィノルトに刺し貫かれた場所であった。
エポヌも疲れたのか、うなだれたようにして僕の背中にもたれかかっている。愛と嫉妬は同じものなんだろうか。似ているけれどちょっと憎しみのトッピングが強すぎるようにも思える。彼の望みは叶ったのか。僕にはそれを知るすべはない。
時計を見ると僕が兄の部屋を訪れてしばらく経った後のようだった。母の診察ではほんのわずかな時間で一生が過ぎ去ることを鑑みれば、向こうで過ごした一日はこちらでの一瞬にすぎなかったのだろう。
声をかけようと兄に手を伸ばした時、
「すごいわ」
と、背後から声がして、僕は驚いてふり返った。その拍子にエポヌが背中からずり落ちてカタンと音を立てて床にぶつかる。母とウルキメトコ姉さんが開け放たれた部屋の扉の向こうに立っていた。僕はすぐに状況を理解した。ウルキメトコ姉さんがいつも通り館の巡回をしていて異常に気がついたのだろう。そして母を呼んだのだ。姉は相変わらずの無表情で、まん丸な瞳から放たれる視線がサーチライトのように僕らを照らしだしている。
「物語が物語を成長させるなんて。こんな方法考えたことなかった」
母は感激の至りというように声を震わせて僕ら三人に顔の深淵を向けると、
「今すごく色々なことを試してみたい気分なの。創作意欲がかき立てられてる。協力してくれるわよね」
と、僕らの返答などまるで待てないというようにポケットから硝子盤を取りだした。硝子盤は光を受けて薄く輝き、構えられるとナイフのようにも見える。それがウルキメトコ姉さんの胸に突き立てられた。そして真っすぐに切り裂かれた姉の魂から物語が溢れでて、部屋のなかへと勢いよく流れこんできた。
僕、エポヌ、イルイジュ兄さん。三人はとめどなく押し寄せるウルキメトコ姉さんの物語に溺れるようにして、そのなかへと呑みこまれてしまった。