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第1話 ”眼”がやってきた

 僕には生まれる前の記憶がある。母が僕を産み、この世界に転生した。母は転生者を産むのだ。

 魂に刻まれた前世の記憶。それは物語と呼ばれている。そして物語を持つのは僕だけでなく、きょうだいたちも同じだ。イルイジュ兄さんは前世で愛する人と結ばれなかったらしい。ウルキメトコ姉さんは果てのない旅をしていたらしい。リントロメ兄さんは世界を滅ぼしたと言っていた。どれも下の三人のきょうだいたちが生まれる前に聞いた話だ。

 当時、僕は好奇心に突き動かされて兄や姉にそんな話をねだっていた。けれどすぐに母に見つかって、こっぴどく叱られてからはやめている。だからそこまで詳しく知っているわけではないし、下のきょうだいたちの物語についてはまったく知らないままでいる。母は「混ざったら大変」と、言って僕を叱った。物語が混じり合うとどちらかが消えてしまう可能性があるのだという。そんな危険な行為だったとは僕は知らなかったのだ。それ以来僕はきょうだいたちの物語について絶対に聞くまいと心に誓い、今ではもうすっかり気にならなくなった。

 自分自身の物語についても普段意識したりすることはない。なにかの拍子にふと頭をよぎるぐらいで、だからといって感慨深い気分になったり郷愁にかられたりすることもない。僕にとっては今が現実であり、今が幸せなのだ。僕は僕、前世は前世。現世にとって前世など蛇が脱ぎ捨てた皮のようなもの。同じ形をしていても、もはや動くことはない。

 けれどそんな物語をまざまざと見せつけられる時がある。それは診察の時だ。母は時折、子供たちのひとりを診察室に呼びだす。健康診断みたいなものだが、肉体だけでなく魂の診断もおこなう。母は魂に刻まれた前世の物語をのぞき見ることができる。そして見るだけではなく変えることもある。変える、というのはそのままの意味だ。書き換えられた時には、変わった、という感覚だけでどう変わったかは分からない。僕自身には初めからそうであったとしか認識できない。分かるとすれば小さな変化と大きな変化の曖昧な違いぐらいだ。

 僕はこの診察が苦手だ。嫌というほどではないが前世を変えられるというのはなにかを否定されたような気分になる。こんな気持ちは、僕と物語が別物である、という考えと矛盾しているようでもあるがそんなことはない。脱皮した蛇だって自分が脱ぎ捨てた皮を目の前でいじくりまわされたらなんとなくいい気分はしないだろう。

 診察のことを考えると僕はすこし不安になる。母にとって僕ら子供たちはどんな存在なのだろうか、なんて疑問が頭のなかに浮かんでくるのだ。愛されているのは理解している。けれど母が見ているのは現世か前世かよく分からなくなることがある。母が愛しているのは僕らのなかにある魂、前世の物語だけなんじゃないだろうか。そんな埒もない考えがシャボン玉のように膨らんでははじけて消えていく。


 益体もない思考で重くなった頭を抱えて、僕はふらふらと館のなかを歩き回っていた。軽い運動は頭を明瞭にしてくれる。トレーニングルームを使うより僕はあてもなく彷徨う方が好きだった。

 そうして館を一周して自室へと戻ろうとした時であった。右館三階の階段から自室までの道のりに横たわる温室を歩いていると、どこからかすすり泣くような声が聞こえてきた。それは聞いたことのない声だった。家族の誰とも当てはまらない、か細く消え入りそうな声。

 以前なりそこないたちの群れをこのあたりで見かけたことを思いだし、もしかしたら歯をカチカチと鳴らしていたあの口だけのなりそこないが声を発しているのかもしれない、なんて考えが浮かんだが喉も肺もない唇お化けか入れ歯のようなアレが喋るのはあまりに荒唐無稽すぎるような気がしたのですぐに想像を打ち消した。

 誰かがいるに違いない。しかもその泣き声は沈痛で、助けを求めているように感じられた。僕は声がする方向を探し回った。そうして温室の隅で樹の枝が絡まり合って、天井付近にかごか檻のようなものを形成している場所にたどり着いた。泣き声はそのなかからもれ聞こえてくる。

「帰りたい……。帰りたい……」

 と、くり返しているように僕には聞こえた。声をかけようかどうか一息のあいだ逡巡したが、結局放っておくことなどできなかった。

「どうしたの? 大丈夫?」

 ぴたり、と泣き声がとまる。枝葉でできたゆりかごがざわめきだして、僕はなにが飛びだしてくるのかと身構えたが、梢をかき分けて飛びだしてきたのはクムモクモであった。大きな毛玉がゴムまりのように跳ねながら僕のすぐわきを通りすぎ、一目散に逃げていく。僕はとっさにあとを追った。僕がはじめて聞いたこのきょうだいの言葉らしい言葉があまりに哀切を極めていたものだから心配になってしまったのだ。

 暴れ牛のようにあちこちに体をぶつけながらクムモクモが駆けていく。俊敏だが騒がしい音がするのでどちらへいったのかはすぐに分かった。階段をおりて右館の二階へ。それから廊下の方へと移動している。どうやら私室へと戻ろうとしているらしい。


 僕が追いついた時、クムモクモはバルコニーの前で一塊の毛玉になって佇んでいた。息を切らしてそばに近寄ろうとすると全身の毛を逆立たせて警戒するようなうなり声をあげる。僕は刺激しないようにゆっくりと歩を進めたが、その途中それが僕に向けられた声ではないことに気がついた。クムモクモは僕を見ていない。その注意はバルコニーの方へと向けられている。

 僕が視線を向けるとそこには異様なものが浮かんでいた。穴だ。もしくは球体か。とにかく真っ暗な球体とも穴ともわからないなにかがバルコニーの外に浮かんでこちらを見ていた。いや、見ているかなど分かりはしない。闇を固めたような姿形なのだ。けれど僕は確かに見られていると感じた。それは母の顔のない顔にある深淵になんらかの感情を見つけた時と同じような感覚であった。

 すぐにそれに見覚えがあることに気がついた。バルコニーから見える他の館、隣人の館などの周りを飛び回っている謎のもの。それがついに僕らの館にもやってきたのだ。

「”眼”……」

 と、うめくような声が聞こえたのは背後からだった。首をひねって視線で後ろをふり向くと、そこには母が立っていた。僕は母の姿を見て膝から崩れおちそうなほど安心したが、その様子が尋常でないことに気がつくと今度は戸惑いで体が硬直してしまった。

 母は”眼”と呼んだものを見つめて手を胸の前であわせるようにしたまま、かすかに震えた。祈っているのか、恐れているのか、判然としない様子でバルコニーへと歩みを進める。クムモクモが母の足元に駆け寄ってその後ろに隠れると子犬が甘えるような安堵の声を出したが、母は呆けたように前にのみ顔を向けていた。僕の横を通り抜けバルコニーの扉を開け放つ。そうして母は”眼”を招き入れた。”眼”が館のなかへと入ってくる。母が誘うようにして翼を広げ、軽く会釈すると手のひらで僕らを指し示した。クムモクモはもはや母のそばを離れて僕の足元にまとわりつくと、怯えたようにふり乱した毛をへたらせている。

 それは真っ暗な深淵であった。子供の背丈ほどもある暗い穴がゆらゆらと宙をただよい、僕の後ろに回りこむとそこに隠れるクムモクモをじっと見つめた。クムモクモはその視線から逃れようとすぐ近くにある私室に向かって走りだす。けれどすんでのところで母に捕まって、両手で抱えあげられてしまった。クムモクモはしばらくもがいていたが、それが無駄な抵抗であることを悟るとだらんとうなだれてしまう。

 ”眼”はじっとりとクムモクモの毛の一本一本まで観察するようにねめつける。それは魂の奥底まで見透かすような気味の悪い視線だった。角度を変えて何度も眺め、それが終わると真っ暗な穴のなかから小石のようなものを落とした。そうするともう興味を失ったかのようにバルコニーから館を出て、雲の上、空へと吸いこまれるように消えてしまった。

 僕は呆然と立ち尽くしていた。やっと解放されたクムモクモは力なく床にへたりこむ。そして母はと言えば”眼”が置いていった小石を拾いあげ、天に掲げるようにして見つめていた。その翼は歓喜に震え、顔に穿たれた深淵のなかからは喜びがとめどなく溢れだしているようであった。

 母は小石を両手で包みこむと、とっても大事そうに胸に抱きしめた。

 この出来事があってから、母は変わった。


 母は”眼”の再来を待ち望んでいるらしかった。それが何者なのか僕には分からなかったし、母は「大事なお客様」と、言うばかりだったが、とにかく母にとって非常に好ましいなにかであることは理解できた。それからしばらく母は浮足立った様子で不安と期待をせめぎ合わせているようであったが、ある時、深淵いっぱいに決意をたぎらせて僕らきょうだい七人全員を衣装室に集めた。

 衣装室のなかには縦横無尽にパイプが伸びて、老若男女、巨人に小人に動物たち、宇宙人に妖怪変化、どんなものの衣装でもあるというように格式ばったものから奇妙奇天烈なものまで無数の衣服が吊りさげられている。棚のなかには装飾品がたっぷりと収容されており選び放題、取り放題の充実ぶりだ。

 衣装室の奥にある巨大な姿見の前で母が気合の入った腕組みをして立っている。そんな母を中心にきょうだいたちが半円を描く。テタドはいかにも優等生というように先頭に進みでて、その後ろに僕を含んだ上から四人のきょうだいたちが並ぶ。エポヌとクムモクモは見当たらないが衣装の影のどこかに隠れているだけでこの場にはいるはずだ。

 母はみんなを見回すと勢いこんでしゃべりはじめた。

「みんな。これからお着替えします」

「はい!」

 テタドが元気よく返事をする。

「これからひとりずつ名前を呼びます。呼ばれた子は私のところにきてね」

「はい!」

「そうしたら私があなたたちにピッタリのお服を選ぶから、それに着替えてもらいます。他の子たちはいい子で待ってるのよ」

「はい! お母様が選んでくれるんですか。嬉しいです」

「そうよ。楽しみにしていてね」

「とっても楽しみです!」

 テタドは素直に期待をあらわにして、はじけるような笑顔を母に向けながら「でも突然どうしたんですか」と、小さな疑問をこぼした。すると母はテタドの前でしゃがみこみ、帽子のうえからその頭を撫でた。

「”眼”がおひとりやってきました」

「お母様、”眼”って何ですか?」

 僕はあの出来事をどう受けとめたらいいのか分からなかった。だからテタドはもちろん他のきょうだいたちにも話してはいなかった。

「みんなもよく聞いておいてね。”眼”というのはとっても大事なお客様なの。私の子供たち、みんなのことを見にいらっしゃるのよ。その物語をね」

「物語を?」

 僕が思わず声をあげて一歩前に踏みだすと、母はこちらに顔を向けて「そう」と頷いた。

「それで気に入った物語を持った子供には贈り物をくださるの。……これがその贈り物。星の欠片なのよ」

 ポケットから取りだされたのは先日僕とクムモクモの前に現れた”眼”が置いていった小石だった。しかしそれはひとつではなかった。ふたつの小石が手のひらに乗せられている。母はそれがみんなの目に触れるように手を差し伸ばした。そうして全員の目に行き届いたことを確認すると噛みしめるように握って大切な宝物を扱うような手つきでポケットに戻した。

「いい? もし”眼”がいらっしゃって、この贈り物を下さったら私に届けてね。きっとよ」

「はい!」

 相変わらず威勢のいいテタドの返事が衣装室に響く。

「贈り物を貰えれば貰えるほど私はとっても嬉しい。きっとあなたたちも嬉しくなる。愛されているこれ以上ない証拠だから。だから今日精いっぱいおめかししましょう。”眼”に気に入っていただけるようにね。どう? 分かったかしら」

「はい!」と、くり返された後に「でも」と、言葉が継がれる。

「お母様。先程のお話だと”眼”は物語を見にくるんでしょう。ならボクらの服装は関係ないんじゃないでしょうか」

 この何気ない疑問は母をいささか傷つけたらしかった。母の深淵がかすかにゆれて、そこには軽い動揺が見て取れた。テタドはそれに気がつかなかったようでさらに言葉を重ねようと口を開いたが、それよりも一足早くイルイジュ兄さんが口を差しはさんだ。

「聡明なる弟よ。衣装というものは俺たちの姿をかたどって魂を映す鏡だ。美しく磨きあげられていればそこに映るものも輝きを増すをいうもの。そうでしょう愛しい母上」

 発作的にテタドはこの兄の言葉に反論を試みようとしたが、母が「……そう。そうよ」と、兄に同調する気配を見せたので途端に牙を引っ込めた。

「イルイジュは説明が上手だわ。テタドもちゃんとお話を聞いていて偉い」

「えへへ」

 テタドは妙に子供っぽくはにかんで、それ以上は疑問を口にのぼらせることもなかった。

「さあ。それじゃあ。まずはエポヌからお着替えしましょう」

 呼ばれたエポヌはどこかに隠れたまま出てこない。母は「もうっ」と、首を伸ばすと吊りさげられた衣装をかき分けてその奥の濃い影のなかへと入っていった。そうしてしばらくするとエポヌの手を引いて姿見の前に戻ってくる。

 母によるきょうだいたちの衣装替えがはじまった。いつも物陰にこもりきっているエポヌはみんなの前に引きずりだされて顔をしかめていたが、それに不満をこぼすでもなくすっかり母の着せ替え人形の役割を全うしている。母が見つくろってきた大量の服を代わる代わる着物のうえからあてられて、ある程度候補がしぼられると次は装飾品が合わせられる。それが終わると最終調整というように母は翼を大きく広げて、白い羽毛の壁を背景に角度を変えながら組み合わせを吟味しはじめた。

 翼で覆い隠されているのでエポヌが今どんな様子なのか窺い知ることはできない。頭を悩ませているように、うんうんと唸っている母の声を聞きながら、いつもの母のややズボラとも思える着古したシャツとジーンズといった服装を思い浮かべた。変な恰好にならなければいいけど、なんて心配していると「これがいい! とっても似合う。素敵よエポヌ」と、感嘆の声と共に翼が折りたたまれた。

 そこにはまるで別人のようになったエポヌがいた。髪型から靴に至るまであらゆるものが変えられている。漆黒と黄金が入り混じっていた髪は編みこまれて、黄金の輝きが全面に押しだされている。着物ではなくフリルがあしらわれた濃紺色のドレスをまとう様は、市松人形がアンティークドールに変身したといった風であった。けれどその衣装はなんだかくすんでいて古めかしい。以前エポヌが着ていた着物も古めかしいものだったので母がその雰囲気を残したのかもしれない。

「今はこっちの方が流行りだからきっと気に入る”眼”が多いと思うわ」

 流行りと聞いてもピンとこなかったが、バルコニーのポストに最近大量の郵便物が届けられていることを思いだした。のべつまくなしに伝書鳩たちが行き交っていて、近頃のバルコニーは戦場のようだ。おそらくは母はそんな伝書鳩からもたらされる情報で流行というものを勉強しているのだろう。

 エポヌはじっと姿見を覗きこんで本物の人形になってしまったかのように立ち尽くしている。その硬直っぷりはウルキメトコ姉さんといい勝負だった。母はそんなエポヌの肩を抱えて姿見のわきに押しのけると次のきょうだいの衣装を選びはじめた。

 次に呼ばれたのはリントロメ兄さんだった。元々まとっていたボロ布は取り去られ、厚手の布に細かな刺繍が施された僧衣のような衣装に交換される。漂白されたように真っ白な髭や眉は綿のようなちぢれを残して撫でつけられ、禿げあがった頭が磨きあげられた。そうして整えられた髭の間から覗く断崖めいた皺は悠久の時を経た大樹のような威厳を発散していた。

「ほっほっほっ」と、リントロメ兄さんが仙人のように笑うと、母は「いい感じ。いい感じよ」と、くり返しながら兄の頭を撫であげた。

 続くウルキメトコ姉さんの衣装選びは難航していた。今まで着ていたようなシャープでキレのいい衣装と、紙を幾重も折りたたんだような複雑で重量感のある衣装の間で母は散々に迷っていた。

「どっちのほうが”眼”に好まれるかしら」と、似合うかどうかよりも”眼”の好みに一致するかどうかで頭のなかが埋め尽くされているようだった。色々な装飾品を合わせてみたり姉の半透明の髪をいじり回していたが、やがて「決めた!」と、声をあげると一気に衣装を組み立てはじめた。出来上がったのはデコレーションされた宇宙服とでもいうような代物だった。衣装が層をなして膨れあがっていて、金属板のような装飾品がついている。僕には非常に不格好に見えたが母は満足気だ。姉はいかにも重そうなその衣服を軽々と着こなしているが、気に入ったのかどうかよく分からない相変わらずの無表情をふりまいている。

 テタドの順番がくると意気揚々と姿見の前に出ていった。けれど母は首を傾げたまま衣装を選ぼうとはしなかった。そしてしばらくすると「これは、変えない方がいいかも」と、言いだした。テタドはいつもかぶっている大きな耳当てがついた鹿撃ち帽に目がくらむような複雑な模様の外套をまとっていて、そのしたにはきっちりとした詰襟を着ている。書生のような風体だ。

「ボクもお母様が選んでくれた服が着たいです」

「そうねえ。でもテタド。今のあなたの恰好があまりにばっちりなんだもの」

「本当ですか」

「うん。素晴らしいわ」

 不満が滲みそうになっていたテタドも、母にほめられると鼻高々になって引きさがった。普段のままが母の好みと一致したという事実が嬉しかったようだ。けれど母がついでのように「ノナトハもそのままでいいからね」と、言うと伸びた鼻が折られたようなしょげた顔をちらりとのぞかせた。

「どうして?」

 僕が聞くと母は言葉を探すように宙を眺めた。姿見に映る僕の姿は使い古した動きやすさ重視のシャツとズボン。髪はぼさぼさ。姿勢も悪い。顔には右目のしたに泣きぼくろがあって、まるでそいつは自分が顔の中心でございと言わんばかりに主張が激しい。ほくろにばかり目がいって顔なんてないも同然だ。自分の姿を改めて見ると母のことをズボラだなんてとても言えはしない。

「そうねえ。だってどんな格好をしていても意味ないもの」

「それはどうして?」

 僕が再び問うと母は答えに窮したように目を瞬かせて「うーん」と、天井を見上げた。

「なんて言えばいいのかしら。……とにかくノナトハはありのままでいて欲しいの。これ以上はうまく言えないわ。お母さんを困らせないでちょうだいね」

 そうしてもう話すことはないと言うように母はイルイジュ兄さんを呼んで衣装を選びはじめた。


 なんだかすっきりしない気持ちのまま衣装室の隅へ移動する。そこには衣装替えを終えたきょうだいたちが集まっていた。リントロメ兄さん、ウルキメトコ姉さん、そしてテタド。エポヌはどこにいったんだろう、とあたりを見回すとまだ姿見のそばに棒立ちになったままだった。

 イルイジュ兄さんの衣装選びはすぐに終わったようで兄もすぐにこの集まりに加わった。飾紐やブローチで彩られた気品あふれる礼服を着た兄はどこかの国の王子のような雰囲気をまとっていた。

「疲れたかい?」

 兄が僕の顔を見て言った。僕は母のあまりの熱心さにあてられて確かにすこし疲れていた。

「そんなに”眼”にきてほしいのかな」

 ぽつりとこぼすと兄は僕の隣に立って「そうだね」と、母へ視線を向けた。母はクムモクモの衣装選びという困難極まる課題に挑戦している真っ最中だ。

「愛されたいと思うのは当然のことだろう」

「僕らがいるじゃない」と、言ってからなんだか恥ずかしい台詞だと気づいて目を伏せた。

「俺たちは愛される側で、愛する側じゃないのさ」

 普段家族に誰彼構わず愛をささやいている兄が言うにはおかしな言葉だ。と思ったことをそのまま口にすると兄は自傷気味に笑った。それからこの場にいるきょうだいたちの顔をぐるりと眺めた。

「テタド、愛してるよ」

「気持ち悪」

「ウルキメトコ、愛してるよ」

「異常な執着」

「リントロメ、愛してるよ」

「ああ? なんだって?」

 次々に言って最後に僕に目を向ける。

「ノナトハ、愛してるよ」

「……ありがとう」

 僕も、とは言えなかったがきょうだいとして兄のことは大好きだ。けれどそれが兄の持つ感情と同等なのかは分からなかった。

「人を愛するのは難しい。俺もまだ考えている最中だ。それに比べてあの”眼”の愛し方はなんとも効率的で分かりやすい。空からやってくる彼らに星の欠片を贈られれば、俺たち地上人はそれが至上の愛であることが分かる。これほど明瞭で確実な愛はないよ。そして俺たちへの愛はその生みの親である母上への愛と同義だ」

「そういえば」兄の話をのみ込む前に気になっていたことを思いだした。「どうしてあの小石……星の欠片はふたつあったの? ひとつは僕とクムモクモの目の前で贈られたものだけれど、もうひとつあるってことは前にもきたことがあるの?」

「そうだね。でもそれを説明するには俺では力不足かな。リントロメ。昔話をしてくれないか。”眼”がきたときの話を聞きたいんだ」

 リントロメ兄さんは呼ばれていることに気がついて僕らの前にでてきたが、その内容は分かっていないようだった。もう一度イルイジュ兄さんがお願いすると過去を思い返すようにしてぽつり、ぽつりと語りだす。

「そうじゃのう。だいぶん昔のことじゃから、ちょーっとばかし曖昧での。はじめに”眼”を見かけたのは、ううん? ウル嬢ちゃんが生まれてからじゃったか? のう?」

 リントロメ兄さんはウルキメトコ姉さんに目線を向けて眉根をあげる。姉は足裏に車輪でもついているかのように床の上を滑りながらそばにやってきて「いいえ」と簡潔に答えた。

「そうじゃったか。儂、ウル嬢ちゃんに話したことがあったかの?」

「はい」

「何回ぐらいきたんじゃったか」

「四回、最新のものを含めれば五回」

「そんなにきとったか。ひい、ふう、みい……。うん?」

 リントロメ兄さんはつららのように垂れさがった髭を撫でながら、記憶を探っているようだったが、いつの間にか僕らの輪に加わっていたテタドが業を煮やしたように「枯れ木に花を咲かせようとするような真似しないでさ、ロボ姉が話せばいいじゃん」と、つっけんどんに言う。

 ウルキメトコ姉さんが僕を見た。多分この話の発端が僕の質問にあるからだろう。これ以上テタドが剣呑な態度になると困るので僕はリントロメ兄さんには悪いと思いつつも、目で頷いて姉に回答をお願いした。

「ワタシの誕生前については情報が不足している。データからの類推では”眼”の来訪は1回。ワタシの誕生後、母は24のなりそこないを産み、20が廃棄される。二度目の”眼”の来訪。その後、母は31のなりそこないを産み、17が廃棄される。三度目の”眼”の来訪。この”眼”が贈り物を置いていった」

 ウルキメトコ姉さんは抑揚のない声でよどみなく情報を吐きだす。その横で「おお。思いだした」と、リントロメ兄さんが声をあげた。

「そうじゃ。そうじゃ。ふらふらーっとやってきた”眼”がウル嬢ちゃんに贈り物を置いていったんじゃ。それに母はいたく感動してのう。それまでは”眼”がきても、なーんも興味がないっちゅう感じで、つゆほども気にしとらんかった。けどその時は違って心をゆさぶられたようじゃった。それから特別な”眼”を招こうっちゅう話になったんじゃ」

「なに? その特別な”眼”って。”眼”にも色々あるの?」

 聞いたのはテタドだ。リントロメ兄さんは記憶が明瞭になってきたようで、はきはきと語りだした。

「最近はめっきり口にしとらんかったが昔の母は”眼”のことをよう話しておっての。これはその時聞いた話じゃ。普通の”眼”は見るだけ。物語を見て満足する。しかしのう。特別な”眼”は連れていく」

「連れていくって。ボクらを?」

「そうそう」と、リントロメ兄さんは何度も頷いて「バルコニーから見える塔を知っとるかな」と、遠くに目をやった。僕はあの地面と空をつなげているような壮大な塔を思い浮かべた。僕とテタドが同時に頷くと兄は話を続けた。

「特別な”眼”はでっかくってのう。気に入った子供をあの塔に連れていくんじゃ。連れていかれる子供は送り子と呼ぶらしいわい。塔を通ってあの空の上、”眼”の世界へといくんじゃと」

「どんな所なの」

 僕が聞くとリントロメ兄さんは「そこまでは知らん」と、首をふった。

「使えないジジイだな」

 テタドが一切飾らない罵倒を口にしたがリントロメ兄さんは気にした様子もなく、飄々と綿のような眉をつまんではひっぱりながらイルイジュ兄さんに顔を向けた。

「それでの。母は特別な”眼”を呼ぶためにこのイル坊やを産んだんじゃ」

 全員の視線がイルイジュ兄さんに集まった。それに動じることもなく「興味深い話だね」と、イルイジュ兄さんは居住まいを正した。

「特別な”眼”に気に入られる特別な子供を産むんだと意気込んでずいぶんと頑張っておった。それで苦労してイル坊やを産んで、その溺愛ぶりは今とは比べられんかったよ」

「へえ」と、言ったテタドの目には敵愾心の炎が宿っている。

「イル坊やが立派に育つと今日みたいに衣装替えもしたのう。イル坊やのために特別な”眼”を呼ぶわけじゃが、もしかしたら儂やウル嬢ちゃんが目に留まることもあるかもしれん、とな」

「それで」と、先を促すとリントロメ兄さんは、うん、と頷いた。ウルキメトコ姉さんは無表情のままでなにを考えているのか分からないが、イルイジュ兄さんは当時のことを思い返しているのか目を細めて神妙な表情をしている。

「けど、のう」という一言で僕は全てを察した。そもそもイルイジュ兄さんはここにいるのだから、その結果は明らかだ。

「この館を訪れた特別な”眼”は見向きもしなかったんじゃよ。ちょっとやってきてイル坊やを一瞥するとすぐに帰っていきおった。その時の母の落胆ぶりは見ておれんほどじゃった」

 重苦しい沈黙が場を支配した。リントロメ兄さんはその時の衝撃を追体験しているかのように目を固く閉じて、瞑想するように手を合わせた。僕は話の続きが気になっていたがそんな兄に促すのも気が引けてウルキメトコ姉さんに「それからどうなったの?」と、聞いた。

「母は私室にいる時間が増大した。なりそこないを産む間隔も増大していた。そして8のなりそこないを産み7が廃棄されるとノナトハを産んだ。それからは復調した」

 自分の名前が話題にのぼり、なんとなく感慨深い気分になった。僕が生まれるまでに普通の"眼”が三回、特別な”眼”が一回訪れ、そして時を経てまた先日”眼”がやってきた。そして三番目と五番目にやってきた”眼”が贈り物を置いていったから、今ふたつある。小さな疑問から思わぬ話を聞くことになった。

「特別な”眼”は俺の物語のどこが気に入らなかったんだろうか」

 イルイジュ兄さんがぽつりと言った。それに答えられる者はこの場にはいなかった。テタドは一瞬、憎まれ口を叩こうとしたようだったが母も関わっていることだけになにも言わず口をつぐんだ。僕の心のなかで不安の影がじっとりと膨らんでいた。もしまた母が特別な”眼”を呼ぼうと考えたら……。そして同じ結果になってしまったら母は深く落ちこむだろう。しかし違う結果であればきょうだいの誰かが連れていかれることになる。どちらにしても僕にとっては大きな苦痛をともなう結果だ。家族が悲しんだり家族を失ったりするのは嫌だ。

――いっそ”眼”なんてこなければいいのに。

 そんなことを考えていると僕の顔面に柔らかいものが勢いよくぶつかってきた。フワフワとしたそれをつかもうとした瞬間、するりと勝手にはがれていった。それはクムモクモだった。毛をすっかり梳かされて羊の毛玉から高級な筆、もしくは膨らんだ馬の尻尾といった風貌に変わっている。さらにはあちこちにリボンが結びつけられており、服を着せるのを諦めて飾りつけに舵を切った母の奮闘ぶりがうかがえた。

 クムモクモは僕らの輪の中心でイヤイヤするように体を震わせて、ぴょんぴょんと跳ねてはリボンをとこうと躍起になっている。

「誰かその子を捕まえて!」

 母が叫ぶと同時にリントロメ兄さんが大きく手を広げた。山が立ち塞がるような威圧感が放たれていたが、クムモクモは兄の禿げあがった頭を踏み台にして難なく飛び越えていった。慌てて僕とイルイジュ兄さんが飛びかかったが、それが全く同じタイミングだったものだからお互いの頭をぶつけて目を回すことになってしまう。そんな僕らを押しのけるようにして、テタドがクムモクモの後を追いまわし、さらにそれに母も加わった。母が翼を広げて通せんぼして反対側からテタドが迫る。これにはクムモクモも戸惑ったように足をとめたが、隙をついて母の足の間を抜けると包囲網を脱出してしまった。

 けれどクムモクモの快進撃もそれまでだった。待ち構えていたウルキメトコ姉さんにがっしりと捕らえられてしまったのだ。クムモクモは姉の腕のなかから脱出しようと試みたが、余程強い力で捕まえられてしまっているようで雑巾が絞られるようにねじれると、流石に観念して大人しくなった。

 そうして全身くまなくリボンまみれになったクムモクモが完成するときょうだい全員の衣装替えが完了した。母はやりきったという達成感を顔の深淵いっぱいにたたえたが、これで終わりというわけではなかった。

「次はみんなを診察しましょう。あとは掃除もしなくちゃダメかしらね。なりそこないを全部片付けちゃいたいわ」

 手を打って頷くと衣装室の外へと僕らを連れだす。次は診察室に行かなくてはならないらしい。部屋を出ようとしてふと振り返ると、エポヌが姿見のそばに取り残されていた。身じろぎもせず無感動にじっとこちらを見ている。また新しい驚かし方法かと思って用心しながら近づいてみたがなにも反応はない。

「エポヌ。次は診察室だよ」

 言っても動かないので手を引いてやるとやっと動きだした。衣装室のすぐ外ではイルイジュ兄さんが僕らを待ってくれていた。妙に思いつめた表情がその顔のうえを掠めた気がしたが、僕らが近づくとふっと笑って、

「さあ、皆のところへ行こうじゃないか」

 と、手を差し伸べた。僕はその手を握ると、右手をエポヌ、左手をイルイジュ兄さんとつないで三人で母と他のきょうだいたちが待つ診察室へと向かった。


 僕とエポヌ、イルイジュ兄さんの三人が到着するまでに既にテタドが診察室に入っていたようで、僕が廊下の長椅子に腰をおろすと同時に部屋から出てきた。なんだかいつもと様子が違う。こんな風に全員が集められて診察をすることは今までになかったので、診察直後の他のきょうだいのことを見るのははじめてだ。テタドはなにかを噛みしめているようだった。心のなかに煮えたぎる熱い鉄を流しこまれたみたいに苦しそうで、必死に痛みをこらえているという風に見えた。そんな状態のまま私室の方へよろよろと歩いていってしまう。

 衣装室の時と同じように、ひとりずつ名前を呼ばれて診察室のなかにいる母の元へといくようだ。きょうだいたちは部屋の外の長椅子に腰をかけたり、立って壁にもたれかかっていたり、廊下にかけられた絵画や観葉植物を眺めたりして思い思いに順番を待っている。

 身魂の診察。”眼”が見るという魂に刻まれた前世、その物語を母は今から調整しようとしている。僕らの体を衣装で飾ったように魂の物語も整えようということなのだろう。

 次に呼ばれたクムモクモは診察が終わって外に飛びだしてくると、めそめそと泣きながら大量の小さなリボンをふり乱し、逃げるように走り去ってしまった。僕は泣きじゃくるクムモクモを見て、先日「帰りたい」と、嘆いていたあの声を思いだした。僕らに帰るところなどない。この館で生まれ、育って、一度も外に出たことはない。だからどこに帰ると言うのかと思っていたけれど、それは前世のことだったのかもしれない。僕は前世に未練などないが、あの子にとっては違うのだろう。その感覚は共感し難いものだけれど、ぼんやりと理解することはできて、なんだかいたたまれない気分が湧きあがってきた。

 エポヌは母に呼ばれると静々と診察室に入り、出てきた時も変化はなかった。診察が終わったというのに特に私室へ帰るでもなく僕の隣に座った。そうしてじっと虚空を見つめているかと思えば、くすくすと笑いだした。僕はそんな様子に不安になりながら欠けた月のようなもの寂しさを宿した横顔を眺めた。本当に別人のようだ。以前のように物陰に隠れたりはしないし青白かった肌は薄紅色の血色を帯びている。衣装を替えた時に感じた市松人形がアンティークドールへという印象は、その内側にまで忍び寄って心をも変質させているようであった。もしくは物語を母が書き換えたことがなんらかの影響を与えているのかもしれない。

 僕は度々考えていた。前世と現世は別物だと。母が物語を書き換えたとしてそれが今の自我に影響を与えることはないと。それは僕が毎日書きつづっている日記を書き換えられたとして、僕自身が変わることがないのと同じく明瞭なことのように思っていた。けれど今更になってそう思いたかっただけなのかもしれないと思いはじめていた。僕の考えにはなんの根拠もともなっていなかった。テタド、クムモクモ、エポヌ、みんな前世に囚われているのかもしれない。そう考えると僕は自分の診察の番がやってくるのが途端に怖くなってきた。

 ドレスを着たエポヌはなんだか存在感が増していて妙な威圧感がある。ドレスが古ぼけているのが原因かもしれない。そんな分析で自分を落ち着かせようとしていると、エポヌの首が唐突に直角に曲がってこちらを向いた。そうしてつかみかかろうとするように両手を顔の横で広げ、目玉をむきだし、舌をだらんと垂らすと「バア!」と、叫んだ。

「わあっ!」

 ビックリ箱から飛びだしたおもちゃのような表情。僕が心底驚いて椅子から転げおちそうになるとエポヌはケタケタと愉快そうに笑った。すると僕は突然安心してしまい、緊張していた喉が弛緩して笑いがこぼれでた。驚かし好きなところはまるで変わっていない。そんなことをしている間にリントロメ兄さん、ウルキメトコ姉さん、イルイジュ兄さんが次々に診察室に入っては出ていった。上のきょうだいたちは流石に慣れているのか下の三人のような変化は見られなかった。


 いよいよ最後、僕の番がやってきた。診察室のなかはひんやりとしていて薬品の匂いがただよっている。奥にある机の前に母が座っており、机の上には大量のカルテが積みあげられ、聴診器や注射器といった器具が乱雑に置かれている。そばの棚には今までのカルテが僕の部屋の日記棚と同じようにみっちりと詰められていて、その合間をぬうようにしていくつかの救急箱が置いてあった。

「ノナトハ。いらっしゃい」

 言われて僕は母の前の椅子に座る。診察室にはカーテンで仕切られた手術室が隣接しており、つやつやした分厚いカーテンのしたから冷たい空気が吹きだしてくるような気がした。そこは僕や、きょうだいたちや、なりそこないたちが産まれた場所だ。

 母は僕の肉体に異常がないか軽く確認すると硝子盤を取りだした。手のひらからすこしはみ出るぐらいの大きさをした硝子盤は診察室の強烈な電灯を浴びてぎらぎらと輝いている。硝子盤を目の前にかざすと透かし見るようにして母は僕を観察する。僕からも硝子盤を通した母が見える。翼の先がかすかに震えて集中しているのが分かった。顔のない顔の深淵のなかに僕が満ちて、鏡を見ているのかと錯覚してしまう。

 硝子盤を通して母は僕を、僕の魂、その物語を見つめている。母が手を伸ばすと僕の体に触れた。けれどそこに僕の体はなかった。体を通り抜けてさらに伸ばされる。内臓をくすぐられているような居心地の悪さがして僕は歯を食いしばってまぶたを固く閉じた。魂に、前世に、その物語に触れられている。体が裏返りそうだ。脱皮した皮に着られる蛇のような気分になる。僕は過去に思いを馳せた。いや、僕はその物語の主人公の未来ではない。だからそれは過去ではない。僕という存在から切り離された記憶。今生きる僕には関係のない世界。誰かの物語。


 その子は生まれた。優しい両親に温かく育てられた。きょうだいはおらず。ひとりっ子だった。きょうだいというものにかすかな憧れを抱いていたが、それ以上家族が増えることはなかった。ただしきょうだいはいたらしい。いたけれど死んでしまった。その子が生まれる直前のことだ。だから両親はそれ以上家族を望まず、たったひとりの子供に全ての愛情を注ぐことに決めたようだった。

 幼い頃は砂遊びが大好きで色んな物に興味を持っていた。石を積んだり、山を作ったり、そんな遊びは工作遊びに変わっていった。子供用の科学雑誌を買ってもらうと付録の宇宙船の模型を作って喜んでいた。けれどある時工作に夢中になるあまり怪我をしてしまった。血がいっぱいでて、心配のあまり顔面蒼白になった両親に病院へと連れていかれた。それ以降はその雑誌を買ってもらえなくなった。両親はすこし行き過ぎた過保護と言えたが、それが愛情であることはその子もよく分かっていたから反抗するようなことはなかった。

 その子はピアノを習いはじめた。両親は怪我をしない遊びとして音楽を与えたのだ。その子はピアノが大好きになった。けれどちょっとだけよこしまな気持ちがあった。ピアノの先生に恋をしていたのだ。幼さ故に恋の自覚などなかったが、その先生の為に一生懸命習い事にはげんだ。

 別れは突然だ。引っ越しすることになってしまった。それは父親の仕事の都合でどうしようもないことだった。引っ越しのために荷物をまとめていると、古い人形がでてきた。あちこちが痛んでいて、いわゆる呪いの道具のような禍々しさがあるその人形はおしろいの匂いがした。両親はそれを見るとはっと息を呑んだ。それは死んだきょうだいの遺品らしかった。どこかに失くしていたのをその子が見つけたのだ。その子が人形をもらっていいかと聞くと両親は戸惑いながらも頷いた。その人形があるとその子はなんだかひとりじゃない気がしたのだった。

 引っ越してからはうまく学校に馴染めずに、その子はひとりでいることが多かった。だから両親は犬を買い与えて、すこしでも寂しさを紛らわしてやろうとした。大きな毛むくじゃらの犬はその子の大の親友になり、落ちこみがちだったその子もやがて明るさを取り戻していった。 

 それから受験が近づいてくると、その子は勉強にいそしんだ。勉強し過ぎて疲れた時にはクロスワードパズルで頭をほぐすのがお気に入りの休憩だった。夜遅くまで勉強していると母親が温かい夜食を差し入れてくれて、その子はとっても嬉しい気分になりながら夜を過ごした。勉強のお供にラジオを聞いて、そこで募集されていた小さな物語をお便りとして送るのが密やかな楽しみだった。一通も読まれたことはないけれど、それでも物語を作るのが楽しかったのだ。

 ある時その子は学校の図書室で勉強をしていた。参考書を探して本棚の影のなかを彷徨っていると、ふと一冊の本が目にとまった。本の題名は”私へ”。その子は引き寄せられるようにして本を手に取った。それは”私”が”私”に向けて書いたという物語だった。その子は陽が沈むのにも気がつかないぐらい熱中して読み耽った。

 それから、それから……、どうなったんだろう。分からない。その子は死んだはずだ。なぜそんなことになったのか必死に記憶を呼び起こそうとするがその先は靄に覆われたようにして消えてしまっている。よく見るとそれは霞ではなく翼だ。大きな翼が記憶をさえぎっているのだ。翼の幕の向こうで物語は完結した。おそらくは死によって終焉を迎えているはずだ。翼は断固として立ちはだかっている。翼はなにかを迷っているようだった。けれど意を決したようにゆっくりと羽ばたきはじめると、魂をかき混ぜた。

 そう。そうだ。その子にはきょうだいがいた。死の淵にいたが一命をとりとめたのだ。引っ越ししたあとにもたくさんの友達ができた。ラジオに送ったお便りは百発百中で取りあげられた。その子は幸せだった。


 目を開けると母がすこし疲れたように翼をしおらせて、硝子盤を机に置いた。

「終わりよ。よく頑張ったわね。偉いわ。お部屋でよく休みなさい」

 大きな変化があったような気はするが、それは紙一枚よりも薄いかすかな感覚だ。記憶を探っても遥か昔から同じだったようにしか思えない世界が広がっているだけだった。

 診察室から出るとエポヌはもういなくなっていた。誰もいない廊下を歩いて自室へと戻ろうと歩きだすと観葉植物の影から「バア!」と、飛びだしてきたものがあった。

「うぎゃあ!」

 みっともなく叫んでしまうと、反射的に飛びのいて腕で顔を覆う。そろそろと腕をどけるとそこにいたのは四つ目の怪物だった。裂けた口から鋭い牙を覗かせて今にも僕を呑みこもうとするように引きちぎれんばかりに体を伸ばしている。……かと思ったらそれはエポヌだった。両手になりそこないの目玉を持って顔にあてながら精いっぱい背伸びをしている。

 タネが分かればなんてことないのだが自分でも情けないぐらいに驚いてしまった。笑いながら走り去るエポヌの後姿をちょっと悔しい気分になりながら見送る。そういえば衣装室で母がなりそこないの掃除がしたいと言っていた。母が産んだものだけれど子供ではないなりそこない。魂のない肉片。見かけたらダストシュートに放りこむようにはしているけれど、どうにも数が減っている気がしない。それ以上のペースで母が産んでいるのか、もしくは他のきょうだいたちが掃除をさぼっているということも考えられる。きっとウルキメトコ姉さんに聞けば分かるだろう。姉はいつも念入りに館の見回りをしている。軽微な変化であってもこの几帳面な姉が見逃すことはない。衣装室での話しぶりでもなりそこないの数の変動すら覚えているようだった。

 今度姉に聞いてみようと思いながら僕は自室に戻った。机に向かい、今日の出来事を日記に書きこむ。事細かに、詳細に、零細な文字で書き連ねる。何があり、誰がどんな事を話し、僕はどう考えたのか。書きだしてしまうともうそれは僕の心から日記のなかへと移り住んでしまったかのように他人事に感じる。そうして姉へ質問しようと考えていた疑問ですら僕の疑問ではなくなっていた。


 それから数日間は大掃除に明け暮れた。母が家中の物の整理をして、子供たちはほこりを拭きとったりなりそこないたちを始末する作業を割りふられた。きょうだい総出で館中を綺麗にしていく。けれど真面目に掃除しているきょうだいは僕とウルキメトコ姉さんぐらいなものであった。イルイジュ兄さんまでもが姿をくらましてサボり組の仲間入りするなんて予想外であった。しかしながら実際掃除に関してはウルキメトコ姉さんひとりで他のきょうだい全員分を上回る作業をこなしてしまうのでみんながいなくても問題はない。僕も手伝ってはいるものの姉の凄まじく効率のいい作業に比べると雀の涙といったところだ。

 右館一階にある巨大倉庫のなかをボクとウルキメトコ姉さんのふたりで掃除していると僕の掃除する範囲だけ明らかに作業がとどこおっている。それがなんだか申し訳なくてこれでは自分がいない方が掃除がはかどるのではないかと思えてしまう。じくじくとそんな気分に苛まれた僕は掃除を姉に任せてそっと倉庫を抜けだしてしまった。

 右館と左館をつなぐ渡り廊下の方へと行くとクムモクモが向こう側からやってきて右館の階段をのぼっていった。手伝う気はないようだが歩くだけで体がモップ替わりになっているので他のサボり組よりは貢献していると言える。ぴょんぴょん跳ねる毛玉を見送っていると地下からケタケタと笑うかすかな声が聞こえてきた。どうやらエポヌがいるらしい。

 地下は陰鬱な空気が充満しており、奇怪な音を立てる巨大な装置たちがひしめき合っている。危ないからと母に入るのを禁止されている場所だ。幼い頃に怖いもの見たさで一度だけ覗きこんだことがあるが、僕はその一回で十分に怖気づいてしまった。一言エポヌを注意してやろうかとも思ったが地下へつながる階段の奥に凝った暗闇と目が合うと途端に足が引けてしまった。それに自分もウルキメトコ姉さんに掃除を任せて抜けだしている身でありエポヌのことを注意できる立場でもないような気がした。

 結局、僕はその場を立ち去り、自室に戻るのも気が引けて左館へと向かった。


 なんとなくたどり着いたのは左館の二階にあるバルコニーだった。風にあたるとささくれ立った気分がすこしは落ちつく。郵便ポストに空色の伝書鳩たちがたむろしていたが僕がバルコニーに出ると同時に一斉に飛び去っていった。遠い空にのみ込まれていく鳥たちを眺めていると隣人の館が目に入る。あちらには今日もたくさんの”眼”が訪れている。

 隣人の館はずっと昔からあんな様子だ。さぞたくさんの星の欠片を贈られていることだろう。あのなかに特別な”眼”はいるんだろうか。隣人の子供はもう送り子になって空へと連れていかれたりしているんだろうか。特別な”眼”は大きいとリントロメ兄さんが話していたがそれはどれぐらい大きいのだろうか。よくよく観察すると”眼”たちの大きさは同じではないようだったが目を引くほど大きなものは見当たらなかった。

 僕が手すりの外側で腕をゆらしながらぼんやりしているといつの間にかテタドが隣に立っていた。テタドの私室はすぐそばだが、出てきたのには全く気がつかなかった。テタドは棒のついたキャンディを口のなかで躍らせながら、僕と同じように隣人の館を眺めている。

「兄ちゃんはさ。”眼”にきてほしいわけ?」

 テタドが突然そんなことを言いだした。その言葉は詰問するような調子で、僕は追い立てられるように正直な気持ちを吐きだした。

「あんまり、きてほしくない、かもしれない」

「ボクはお母様が喜ぶのであればきてほしいよ」

「特別な”眼”に連れていかれても?」

「お母様が喜ぶのであれば」

 テタドは単調にくり返したがその言葉は風に呑まれるようにして消えてしまった。

「僕らが連れていかれても母さんは悲しくないのかな」

 僕の疑問にテタドは考えこむようにして帽子を目深にかぶりなおした。しばらくして答えを得たのかテタドが口を開きかけたが、その口はそのまま大きく開かれて「あっ」と、驚きがこぼれた。キャンディがバルコニーの遥か下、地面を覆うように広がっている闇のなかへと落ちていく。テタドは手すりを抱きしめるようにして身を乗りだした。その視線の先は隣人の館のバルコニーに向けられている。

 目を凝らすとそこにはふたつの人影があった。ここからだと小指ほどの大きさにしか見えないが、一方はバルコニーのなか、もう一方は外。そのどちらにも翼が生えている。バルコニーの外で羽ばたいているのは間違いなく母。なかにいるのはおそらく隣の館の主だ。

 母と隣人は話をしているようだった。母はしきりに恐縮している様子で頭をさげたり、両手を前に押しだしてなにかを遠慮していたり、そんなことをしながら隣人に手を引かれて館のなかへと消えていった。

 僕らが食い入るように見つめていると、隣人の館の周りを飛び回る”眼”が空へと去っていき、またやってくる。入れ代わり立ち代わりその来訪がとまることはなかった。そうして三度ほど”眼”の総入れ替えがあったあとに母がバルコニーから出てきた。

 母はまた何度も頭をさげており、隣人は困ったように手を小さくふる。それからすこし言葉を交わした後、大きく翼を広げてバルコニーから飛び立った。母が僕らの住む館の方へと戻ってくる。隣人は飛び去る母の後姿に長い間、手をふってくれていたが、ふたりの距離が離れていくと館のなかへと帰っていった。

「何があったんだろう」

 誰に聞くでもない疑問であったがテタドは「詮索はよくないよ」と、普段は謎を暴きたがるこの弟らしからぬことを言った。

 母が隣館とこの館の中間地点を越えたあたりで、不意にその横を掠めて飛ぶものがあった。隣人の館を訪れていた”眼”がこちらに向かってやってくるのだ。母が「わお」と妙な感嘆の声をあげるのがかすかに聞こえた。慌てて翼を羽ばたかせると、その”眼”に追いつこうとするように速度をあげる。”眼”は母をふり切って、投げ放たれた剛速球のように真っすぐに飛んでくると、僕らのいるバルコニーの前で急停止した。真っ暗な球体とも穴とも分からないなにか。それが僕らを見つめている。肉体ではなく魂、前世、その物語を見られているのだと知ってしまうと、より気味が悪く感じる。

 心臓を打ち鳴らしながら狼狽えている僕の隣でテタドは平然として「あと二体来る」と、遠くに視線を向けていた。そのうちのひとつは館の周りを回って、窓からなかを探るように覗きこんでいる。もうひとつは右館と左館の間にある隙間から劇場の天井にある開口部を通って館のなかに入ったようだ。母はその”眼”を追って劇場の方へと飛んでいく。

 僕らを見ていた”眼”は贈り物もなくすぐに空へと去っていった。僕は肺のなかに押しこめられていた空気を一気に吐きだすと、安心したような悲しいような気分に襲われた。イルイジュ兄さんが言っていた、愛されたい、という言葉がすこしだけ心に染み入ってきたような気がする。横を見るとテタドはいつの間にかいなくなっていた。

 僕は他のきょうだいたちが急に恋しくなって、館のなかに戻ると一階へと向かった。そうして劇場の前を通りがかった時、なかから母の歓声が聞こえてきた。

 左館の客席側から劇場に足を踏み入れる。舞台上は照明で輝き、はしゃぐ母のそばにイルイジュ兄さんが立っている。

「うれしい!」

 母は全身から喜びを溢れさせてイルイジュ兄さんの手に乗せられた小石のようなものを眺めまわしていた。それは星の欠片、贈り物に違いなかった。イルイジュ兄さんはひざまずいてそれを母に捧げた。母は歓喜に震える手を伸ばし、指先でそれに触れると、一瞬の逡巡の後そっと手に取る。そうして天高く掲げると深淵から激しい感情を解き放った。

「ああ。なんていい日なの。……イルイジュ。あなたは素晴らしい。親としてあなたを誇りに思います」

「愛する母上に喜んでいただけて欣快の至りです」

 そう言って目を伏せた兄の声は母とは対照的に冷静な響きを帯びていた。僕はそれが気になってしかたがなかった。

 僕は心を落ち着かせようと客席に腰をおろした。母と兄が舞台に立っている。母は照明を全身に浴びて踊りださんばかりだ。兄はその影に深く沈みこむようにして、じっとなにかを考えているようだった。それを眺める僕の心は落ち着くどころかいつまでもやかましく喚き続けていた。


 それから”眼”は時折やってくるようになった。まれにだが贈り物を置いていくこともあった。”眼”にもそれぞれ好みがあるようで、一番注目を集めていたのがイルイジュ兄さんだった。星の欠片を貰った数もこの兄が一番だ。

 母は子供たちに贈られた星の欠片を左館二階にある展示室に飾って毎日のように眺めていた。そしてある日のごはんの時間に料理を並べ終わった母が、

「特別な”眼”を呼んでみようと思うの」

 と、言いだした。

「ママ。特別な”眼”ってナニ?」

 聞いたのはエポヌだ。エポヌは衣装室で僕がみんなと会話していた時、ひとり離れて姿見のそばに立っていたから知らないのだろう。ドレスを着るようになってから机のしたに潜りこんだりはせず、エポヌは行儀よくに椅子に腰かけるようになった。ただし食事は相変わらずの芋虫で、ぷりぷりした胴体をフォークでつつき回している。

「私の自慢の子供たちを審査してくれるの。お眼鏡にかなえば選ばれた子は送り子として”眼”の世界に行けるの。そうしたらこことは比べ物にならないぐらいのたくさんの”眼”に見てもらえるのよ」

「”眼”の世界ってどんなところなの?」

 僕が聞くと母は「うーん」と、首を傾げた。

「お隣さんなら知ってるかも。お隣さんの子供は三人も送り子に選ばれてるの。すごい人なのよ。お願いしたら私の館を”眼”に紹介してくれて、とっても、とってもいい人。なにか恩返ししなくちゃ。とにかく私はあなたたちがたくさんの”眼”に愛されることになればとってもうれしい」

 母は熱っぽく語るとどこか夢を見ているように深く椅子に体を沈ませた。はじめに質問したエポヌは目を閉じてしまっていて、聞いていたのかいないのかよく分からない。微動だにしない彼女の手のうえをごはんである芋虫たちが這いあがろうと頑張っている。クムモクモにとってもはじめて聞く話だったはずだが耳に届いた様子は微塵もなく、いつもと変わらぬ勢いで木の実を貪っている。

 僕は他のきょうだいたちがどう考えているのか気になったが、みんなの表情からはなにも読み取れなかった。リントロメ兄さんはあるがままを受け入れる人だし、ウルキメトコ姉さんは何事にも動じたりはしない。テタドもバルコニーの会話では受け入れているような口ぶりだった。イルイジュ兄さんはどうだろうか。この兄なら家族のためならどんなことでもやってのけそうだ。連れて行かれたくない。そう思っているのが自分だけかもしれないと思ったらなんだか寂しさが募った。

 母は食卓を囲む僕らの顔を自らの顔の深淵に映しながら見回している。それは物語を眺める”眼”を彷彿とさせて、食事が喉につっかえそうになる。母はイルイジュ兄さんへ顔を向けて、そこでぴたりと停止した。

「イルイジュ。あなたは一番たくさん贈り物を貰っているわ。きっと特別な”眼”も気に入ってくれるはず。前はダメだったけれど心配しないで。前よりもずっとあなたの物語は洗練されているもの。だから自信を持って胸を張って迎えるのよ」

 兄は厳かにこうべを垂れて、

「俺は愛する者のためならどんなことでもするつもりです」

 と、染み入るような声で言った。母はその答えに満足したように「ありがとう」と、頷いた。


 食事が終わり、去っていくみんなの背中を見送る。最後に残った僕は母の言葉を思い返しながら食堂でぼんやりしていた。突き刺さりそうな夜気が足元から忍び寄ってくるとハッとして席を立ち、食堂を出ていく。

 左館四階の食堂から右館三階の自室への道のりをとぼとぼと歩く。距離は遠いが腹ごなしにはちょうどいい距離だ。そうして一階にある左館と右館をつなく渡り廊下を越えたあたりでイルイジュ兄さんとばったり出会った。

「えっ。あっ。イルイジュ兄さん」

 僕が言い淀んだのは気がそぞろだったからではない。あまりに意外な場所から兄が出てきたからだ。それは地下へと続く階段であった。

「やあ。ノナトハ」

 兄は僕の動揺など気にもかけないように爽やかに挨拶をする。兄の靴にはかつてテタドに指摘されていたのと同じ泥のような機械油の汚れが付着していた。地下室にいたのは間違いないようだ。

「どうしたの?」

 僕の曖昧な質問をはぐらかすように兄は目を伏せて「すこしいいかな。俺の部屋で話をしたいんだ」と、廊下の奥へと体を向けた。

「別にいいけど」

 兄の後ろを黙ってついていく。その背中はなんだかいつもより広く感じる。なにかを背負っているように肩をそびやかして風を切るようにして兄は進む。


 イルイジュ兄さんの部屋に入るとバラのようなロマンチックな香りに包まれた。兄の部屋は優美な調度品で彩られ、中央には猫のような足の丸いテーブルが置いてある。同じく猫のような足の椅子に誘われると僕は腰をおろした。

「紅茶はいかがかな?」

「じゃあもらうよ」

 僕の私室とは異なり、この部屋には小さな給湯室がついている。兄は水を入れたポットを火にかけて、棚から茶葉を取りだすと慣れた手つきで準備をする。それから紅茶が注がれるまでの間、兄は一言も口をきかなかった。話をしたいと言ったのは兄の方なのにそれをためらっているような緩慢な動作で、時間稼ぎをするようにゆっくりと紅茶が運ばれてくる。

 薫り高い液体を一口飲んで、僕の方から「話ってなに?」と、口にした。

「ノナトハ。君は母上に似てるね」

 唐突に兄はそんなことを言った。

「そうかな?」

「そっくりさ」

 確かにちょっとずぼらなところや、すこし世話焼きな部分は似ているかもしれない。けれど兄の言い方は断言するようなはっきりとしたもので、僕が考えているような、似ている、とは違うような気がした。

「ノナトハ。俺を見てどう思う」

「どう、って」

 言葉に詰まって首を傾げると兄は上着のポケットに手を入れた。そうして取りだしたものを僕に差しだす。

「これを通して見てくれないか」

 硝子盤。母が診察する時に使う物だ。

「これどうしたの」

「診察室にいくつか予備があったのでね。持ってきた」

「母さんに怒られるよ」

「分かってる」

 僕が硝子盤を手に取ると、兄は僕の肘を支えるようにして目の前にかざさせる。硝子盤を通すと兄の肉体は溶けて消えたみたいになくなって、霧のように形のないなにかの奥に朧な風景が透けて見えた。

「ノナトハ。手を伸ばして」

「手を?」

 言われた通りにする。左手には硝子盤を持っているので右手を伸ばす。僕の手は空をつかむように彷徨い、そこにあるはずの兄の体を突き破っているようだった。怖くなって手を引こうとしたがその手は兄にがっちりと捕まえられてしまって前へ、前へと突きだすことしか許されなかった。

「やっぱり。ノナトハならできると思っていたよ」

「やめてよ。どうなってるの」

「母上がいつも診察でしてることさ」

「それって」物語に何かしている、ということなのかと聞こうとしたが、手を引き抜こうと必死になるあまり言葉にはならない。

「ノナトハ。お願いがあるんだ」

 僕の額を汗が伝った。とてもよくないことをしてしまいそうになっている気がした。

「俺の物語をバラバラにぶっ壊してくれ」

 不意に後ろから手が伸びてきた。兄の手は僕の左手と右手をつかんでいる。兄ではない誰かの手だ。ほっそりとした手が僕の右目のした、ちょうどほくろがあるあたりを撫でた。首をねじ曲げてその手の主を確認すると、僕を呑みこもうとするように開かれた大きな口に並んだ牙が閃いた。エポヌだと気がついたがそれが分かってもどうすることもできなかった。

 後ろから抱きつかれて、思いっきり押しこまれる。兄の物語のなかへ。

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