終章 私の物語
陽が陰った。奇術師がコインを消す直前みたいに思わせぶりな影がもやもやと広がっていく。雲間から刃みたいな光が射して、私の肘の先にある大きな窓を鏡のように輝かせた。また妙なものが見える。顔のない天使。なにか言っている。幻聴と幻視。ちょっと前から空耳のような声が聞こえはじめて、今では姿まで加わってしまった。本格的におかしな状況になっている。その言葉は聞き取れはするけれど、知らない言語のようで内容は分からない。分からないはずなのだが、最近ではわずかに意味が伝わってきている気がして、それがすごく怖い。
「今日はここまで。みんな気をつけて帰りなさい」
先生が教科書をばたんと閉じると、わっ、と風船がはじけたみたいに教室のなかが騒がしくなる。体に磁石でも仕込まれているかのように、すぐにいくつかの塊ができあがって、私の幻聴よりも意味がなさそうな言葉たちで教室が満たされる。
私はみんなと違って磁石を持ってないらしい。それとも磁力が弱いのかも。どこにも吸い寄せられることはなく、親密に結びつけられている同級生たちの隙間をすり抜けてひっそりと教室を出ていく。目的地は図書室。勉強しないと。みんなは受験の心配がないのだろうか。それとも私みたいに必死で勉強する必要がないのかも。どちらにせよ私が気にすることじゃない。私には他人のことを考えてる時間なんてないんだから。
たくさんの参考書をぎっしりと詰めこんだ重たい鞄を抱えて歩く。肌寒い廊下を滑って転んだりしないよう慎重に。体が重ければ心も重い。なぜなら嫌な課題が残っているから。将来の夢を書け、だって。もう進学したい学校もばっちり決めてる私にとっては造作もないはず、なのだけれど全然書けない。書く気にならない。
横に引くとがたがた音が鳴る古めかしい扉を開けて図書室に入ると、濃厚な本の香りが一斉に私を包みこんできた。あんまり好きな匂いじゃない。なんとなく勉強しなきゃって気持ちに背中を押さえつけられる感じがするからだ。眼鏡をかけた図書委員がカウンターのなかでひまそうに本を読んでいる。その前を大股でさっさと通り過ぎて奥の窓際にある机へと移動する。
荷物を置くと、言葉通り肩の荷が下りた。父が買ってくれたおっきくて丈夫な鞄から課題の原稿用紙を引っ張りだして机の上に広げる。まっさらな原稿用紙。名前すら書いていない。ふで箱から取りだした鉛筆を構えて、鋭く尖った切っ先を突きつけてみる。けれどやっぱり筆は進まない。
一度立ちあがって大きく伸びをする。それからたくさんの本がおさめられた棚の間を無駄にうろうろと歩き回ってみた。クロスワードの本。クロスワードは好きだ。興味をひかれて手に取ってみたが、誰かが直接答えを本に書きこんでいたのですごくがっかりしてしまう。
ぐるりとひと回りして席に戻ってきた。再び原稿用紙と向かい合うが、拒否反応が起きたみたいに頭のなかが空っぽになる。それと同時に幻聴が聞こえてきた。無機質な感じがする女の人の声。機械音声みたいだけれど不思議と心配げなのが分かる。よおく耳をそばだたせると、ノナトハ、って言ってるような気がする。どういう意味だろう。外国語かな。
幻聴にはいくつか種類がある。遠くから聞こえるこの無機質な女の人の声や、生意気そうな小さな男の子の声。もっと近くから聞こえるふわふわした女の子の声。お化けが無理やり人の言葉でしゃべってるみたいなノイズ混じりの声。それから耳元でささやくみたいに聞こえるなぜか懐かしさを覚える男の人の声。あなたたち誰なの。そう聞いてやりたいけれど、一方的に話しかけてくるだけで私の声は届かないみたいだった。しかしそれも当然だ。だって幻聴なのだから。
気が散って全然課題が進まない。いや、これは言い訳。邪魔がなくったって、一文字たりとも書けやしない。こんな課題、なんで必要なんだろう。夢がなければ将来に進んじゃいけないとでも言うんだろうか。嘘でもこれが夢です、って書けばいいのかもしれないが、それだと負けた気がしていやだ。先生にじゃない。お兄ちゃんに。
父も母もお兄ちゃんの夢を見ている。お兄ちゃんはもういない。私と交代するみたいにいなくなった。手が届かない遠いところへ行ってしまったのだ。あまりにタイミングが合っていたものだから、両親ふたりとも私をお兄ちゃんの生まれ変わりだって信じてるぐらい。バカみたいだと思うけれど面と向かって否定することはできないでいる。良心の呵責というやつだ。なんだかふたりが可哀そうで。そんな風に思いながら私は育った。育ってしまった。お兄ちゃんを背負いながら。
お兄ちゃんならどうするか、なにが好きでなにが嫌いか。成績がよかったから、私も成績がよくないといけない。運動が得意だったから、私も運動が得意でないといけない。お兄ちゃんが目指したであろう学校を私も目指す。けれど、これは私が両親の期待に応えたいと思ってやっていただけのこと。私は両親に夢を見せようとして、自分が夢のなかに閉じ込められてしまった。もしもいま突然、私が私自身のやりたいことを言ったとしても、両親はそれを受け入れてくれるだろう。私もいっそのことそうしたいと思っている。けれどできない。分からなくなってしまった。私はお兄ちゃんの仮面をあまりにも長い間かぶりすぎた。お兄ちゃんの考えることは分かっても、私自身が考えることがまるっきり分からなくなってしまったのだ。
ただ時間だけが過ぎていく。陽が傾いて机が端っこからゆっくりと焼け野原になっていく。茜色が原稿用紙まで届いた瞬間にチャイムが鳴った。図書委員が席を立って、私にとがめるみたいな視線を向けている。私がいるせいで図書室が閉じれないと言いたげだ。とげとげしい視線を背中に感じながら机に広げていたものを急いで鞄にしまう。そうして図書室を出ると、背後で当てつけみたいに大きな音を鳴らしながら、鍵ががちゃりと閉められた。
幻聴。ふわふわした声の女の子はどうやら、お父様、って言ってる。私に言っているのだろうか。子供なんて産んだ覚えはないのに。しかもお母様じゃなくて、お父様ってどういうことなの。すごくおかしいのに呼ばれるたびに胸がずきずきする。それに対して生意気そうな男の子の声は、クソ親父、って聞こえる。クソってなに。ひどくないだろうか。なんで幻聴からそんなこと言われなきゃならないのか。しかもこっちも親父だなんて滅茶苦茶すぎて溜息すらで出ない。けれどなんだか嫌いにはなれない。どうしてなんだろうか。
時計を見るともう日が回っている。机に向かって勉強しているうちに、うとうとしてしまったみたいだ。夜更かしすると幻聴がはげしくなって困る。半開きにしている部屋の扉にひかえめなノックの音。どうぞ、と言うと母が夜食を運んできてくれた。温かいスープだ。うれしい。がんばってね、と声をかけられると、がんばろう、って気になる。母は私の邪魔にならないようにと思ったのか、夜食を置くとそそくさと部屋を出ていった。途端にさびしくなってしまって、自然とラジオに手が伸びる。
ちょうど私の好きなラジオ番組をやっていた。聞こうと思ってすっかり忘れていたのでラッキーだ。ラジオパーソナリティが軽妙な語り口で世間話を繰り広げる。どれも面白くって、思わずくすりと笑いがこぼれる。そうしてお便りコーナーにうつり、届いたお手紙を順に読みはじめた。この頃になると私は勉強が手につかなくなって、じっと声に耳を傾ける。コーナーが終わってしまった。私が出したお便りは読まれなかった。残念だがしかたがない。私のものが読まれちゃったら別の人が読まれなかったことになる。その人に席をゆずったんだと思っておこう。
すっかり集中力が切れてしまって、窓辺に飾ってあるお気に入りに人形とにらめっこする。そうしていると、その後ろに広がる夜空のてっぺんに満月がかかっているのが目に入った。じっと見つめると妙なことが起こりはじめる。満月がどんどん欠けていって、ついには新月になってしまったのだ。雲は見当たらない。目を凝らすとそこには顔のない天使の顔にぽっかり空いた深淵みたいな暗い穴があった。また幻覚だ。すぐにカーテンを閉じるけれど、まぶたの裏に天使の姿がこびりついている。顔の穴は右頬あたりに寄っていて、私に向かってゆらゆらと振られていた左手のひらには浅い傷の線が刻まれていた。しかし天使のわりにはちょっと小汚い。髪はぼさぼさだし、長い旅をしてきたみたいにボロボロになった服を着ていた。かといって、翼が生えている人なんて、天使以外のなんだというのか。
幻聴や幻視といった幻覚について両親に話してはいない。心配をかけたくないというのも大きな理由だけれど、もし相談したらこれまた負けた気になるというのが私自身で自覚している私の難儀なところだ。お兄ちゃんならこんな風に心が弱くなかったろうし、これぐらいは自分で解決できたに違いないのだ。それとも友達にでも相談しただろうか。聞いた話だとお兄ちゃんは人気者で友達も多かった。それに比べて私はこっちに引っ越してきて今の学校に転校してからというもの、まったく友達ができない。だから私には両親の他に相談できそうな相手はいない。でもいいんだ。私には飼い犬のクモがいるから。蜘蛛じゃない、お空の雲。綿あめみたいにふわふわしていて真っ白いからそう名付けた。今も私のベッドの上を占領して、主人をおいてすやすやと眠りこけている。
机が散らかってきた。よくない兆候だ。乱雑に積みあげた参考書がぐらぐらと揺れているように感じる。鉛筆は先っぽが丸まったものを何本も放置しているし、消しゴムは角がなくなって、こするとノートを破りそうになった。置時計の針がチクタク鳴っているのが耳障りに思えてくる。ランプの光が瞳に突き刺さってくる。せっかく母が作ってくれた夜食のスープも半分ほどを残していて、すっかり冷めてしまった。ぐぐっ、と飲み干すと、ぶるぶるっと体が震える。
いったん休憩にしようと食器を持って居間へ行くと母がまだ起きていた。すこし暗い照明の下で本を読んでいる。
「どうしたの」
気遣うような表情を見ると申し訳なくなってしまう。きっと私が眠るのを待ってくれているのだろう。朝早くに父が仕事に出かける時にもいつも見送りをしているのに、母が寝不足にならないか心配だ。
こんな暗い夜にあんまり本を読まないほうがいいとか、もう月がだいぶ高く昇っているとか、そろそろ寝たらどうかというのを遠まわしに勧めてみても、母はまだ眠くないとか、本の続きが気になるからとか言ってするりとかわしてしまう。
「なにか温かい飲み物でもいれようか」
母が立ちあがって台所へ向かおうとしたので、私は急いでそれを止める。
「いいよ。今日はあんまり夜更かししないようにする。明日も学校だし」
「そうね。体を壊しちゃいけないものね」
うんうんと頷いて母が席に戻る。歯を磨きに洗面所に向かう私の背中を、温かいまなざしが追いかけてきた。
静かな夜。私が歯ブラシを動かす音だけが響いている。鏡には私の姿。髪はぼさぼさ、身だしなみなんて二の次の疲れた受験生の姿。そこに天使の姿が重なる。母が近くにいる時に現れるのは勘弁してほしいが、そんな私の気持ちなんて一切汲んでくれる気はないようだ。一方的に語られる言葉がはっきりと聞こえてくる。耳元でささやかれているようで、背筋がぞくぞくしてしまう。
――母さんが去りゆくクムモクモの魂を助けようとしたってことは分かってる。その魂ごと僕らを呑み込んだのは事故だったって。
この声だけは、母さん、という言葉を使う。お父様と親父、ノナトハとノナ。他の四つの声はそんな風な誰かに語りかけている。脳みそのなかで幻聴と同居する時間が長くなってくるとそれが分かってきた。そして、母さん、と言うこの声の主はおそらくいま鏡のなかにいる天使。こんな風に色々と結びつけはじめるときっとよくないだろうとは分かっているが、どうしてもそうやって理解できる領分に持ってこようとする気持ちが働いてしまう。
――僕の魂は母さんの前世だったんだよね。自分で自分を産むなんて。そんな無茶をしてまで自分を変えたいと思うぐらいに追い詰められていたなんて僕は知りもしなかった。気づいてあげられなかった。
わけの分からないことばかり言っている。耳を貸しちゃだめ。目をつぶって、口のなかに充満する歯磨き粉のミントの香りにだけ意識を集中させる。さっさと歯を磨き終わって急いで口のなかをゆすぐ。それにしても天使にも親がいるんだという妙な疑問が湧きあがったりする。
――偶然とはいえ一度取り出して書き換えた僕の魂をまた自分のなかに戻してしまったものだから、ふたつの世界が相互干渉を起こしてしまっている。このままだと危ないんだ。
世界の危機ということだろうか。それとも私だけの危機なのか。いや、幻聴に同調なんてしてはいけない。けれど心理学的にはこれは自分の心の奥底が自分自身に警告を発しているという状態なのだろうか。抑圧された精神が、というような感じの。やっぱり疲れているに違いない。あの課題のせいだ。将来の夢だなんて。
幻の天使を洗面所に置き去りにして居間に戻ってくると、読書を再開していた母が伏し目がちな視線をこちらに向けた。
「あまり無理しないようにね。今日は早めに寝なさい」
「母さんもね」
「お母さんはいいの」
横暴なことを言いながら母は微笑んで軽く手をふった。そうすると私はなにも言い返せなくなって、ただ「おやすみ」と、だけ言って階段へと向かう。背中に母の「おやすみなさい」の声が掛け布団のようにやさしく覆いかぶさってくる。
部屋に戻るとクモがベッドから抜けだして私に鼻先を向けてきた。頭を撫でてやると満足したのか部屋を出ていってしまう。なんとなく、ベッドを温めておいたから寝なさい、とでも言われているような気がした。机に向かうとすぐに幻聴が聞こえてくる。今度は無機質な声の女の人だ。入れ代わり立ち代わり本当になんなの。でもこの人の声は好きだ。聞いていて心地いい。ノナトハ、起きて、と誰かの目を覚まさせようとしている。起きて、という言葉に反して、聞いていると眠気を誘われる声だ。しかたないので今日はもう勉強をあきらめて眠ることにする。
また図書室で原稿用紙と向き合う。強敵だ。将来の夢。私の将来、だったらまだ書けるのに、夢、という一語が加わるとたちまち筆が進まなくなる。
「うわっ」びっくりして声をもらしてしまった。私の反応を面白がっているように、どこからかケタケタと笑う声が聞こえる。図書委員がカウンターから身を乗りだして怪訝そうにこちらをのぞき込んだ。すごく恥ずかしいけれど図書室には私しかいないので隠れようがない。
幻聴のせいだ。あのお化けみたいなざらざらした声が驚かしてきたのだ。こいつだけはなにがしたいのか本当にわからない。他の幻聴はぼそぼそとしゃべってるだけだから気にしないようにすればできる。けれどこいつは驚かしてくるから無視しようとしても無意識に反応してしまうことがあるのだ。
とにかく授業中じゃなくてよかった、なんて思っていると、不意に図書委員が立ちあがり、私のところへとやってきた。角ばった眼鏡が蛍光灯の光を反射して厳めしく輝いている。怒られるのかと思ったが、向かいの席に座って私の白紙の原稿用紙にちらりと目をやると、にやりと笑いかけてきた。
「そんなの書かなくていいよ」
毎日のように図書室で顔を合わせているけど、勉強に来ているだけで本を借りたりはしないから話すのははじめてだ。なのに開口一番、唐突に変なことを言う。書かなくていいわけはない。だってお兄ちゃんならきっちりと課題をこなすだろうから。
「なんで?」
思わず警戒心をむき出しにしてにらみつけると、眼鏡の奥にちょっと愛嬌のある丸っこい瞳が見えた。
「だってどうせ明日になったら、したいことなんて変わってるでしょ」
同意を求められても答えようがない。私は生まれた瞬間、お兄ちゃんと入れ代わった瞬間にもう将来は決まっていたようなものだったから、そんな風に考えたことはなかった。
「……じゃあ、今したいことを書けばいいだけでしょ。それすらないの?」
尋ねてみると図書委員は手に持っていた本を透かし見るように掲げて、
「旅がしたいなあ」
と、いう答えを返してきた。その本は美しい写真で彩られた旅行記のようだった。
「さっきの話だと明日には旅がしたくなくなってるってこと?」
「違うよ。また別の場所へと旅立ちたいって思ってるだろうね」
「なら、旅に出たいっていうのが、その……夢なんじゃないの」
図書委員は本を置いて眼鏡を外すと、遠い目をしてその表紙の写真を眺めた。そこには荘厳な峰々にかかる雲の隙間から見えた御来光を拝む旅人の後ろ姿が映っていた。眼鏡を乗せていた鼻の頭を指先で揉んで、眉根にかすかに皺を寄せる。なんだか老人みたいな表情だ。
「旅に出るのは夢じゃないよ。目的地というものがあるからね。旅立っただけで満足してられないよ。到着するのも夢じゃない。目的地に到着しても、そこが次の出発地点になるだけだから。夢を携えなくても旅はできる。夢を見る必要はないと思う」
「でも、じゃあ、旅をし続けるのが夢だってことじゃない」
私は躍起になって図書委員の夢をつかまえてやろうとしていた。だって馬鹿にされているような気がしたのだ。こんなにも悩んでいるのに、ずっと探しているのに、夢が必要ないなんて言って仮面を捨てる機会を私から奪おうだなんてたまったものではない。目的地を巡ればどこかに果てがあるのだ。結局はどこかに夢が落ちているに違いない。そしてそれを見定めて早い段階から目指さないと到着できないに決まってる。物事には順序がある。だから行き当たりばったりだと迷子になってしまう。夢は必要で、私にも夢があるはずなのだ。
私の指摘に対して「どうかな。そうかもね」なんて、図書委員はいい加減なことを言いだした。そうして眼鏡をかけ直すと「落ち込んでるみたいだったから」と、私の手元の原稿用紙に視線を落とした。
反発しようとしたが、思い浮かんだ言葉たちはどれも言い訳めいているような気がして喉に引っかかってしまった。そうして、ぱくぱくと小さく口を開いたり閉じたりしている私に図書委員は本棚を指差して「実際に旅に出られなくても、旅をする方法があるよ」と、言って立ちあがるとカウンターに戻っていった。
図書委員が示した先には旅行記が並ぶコーナーがあった。その隣が小説、反対の隣が数学、科学のコーナー。
ぼんやりしながら棚を眺めていると、不意に子供の頃に好きだった絵本を思いだした。確か石が主人公で、やさしく科学の教養を身につけられるような内容だった。感化された私は綺麗な小石を拾ってはその種類を調べたり、磁石で砂鉄を集めたりしていた。それからちょっと成長すると子供用の科学雑誌を買ってもらって読んでいた。付録を組み立てようとして怪我してからは買ってもらえなくなったけど。そんな好きだったものたちも今はもう過去。いくら思い出をすくい上げても指の間からさらさらとこぼれ落ちるだけ。
私は私を捨ててしまった。私はどこにいったんだろう。ずっと探してるけどもう見つからない。どこかに行ってしまった。捨てるんじゃなかったなんて今更思っても遅い。やっと見つけたと思っても、それはいつもお兄ちゃんの後ろ姿なのだ。お兄ちゃんならこういう時どうするんだろうか。お兄ちゃん……。
鉛筆の先が動きだした。きっと動かしてるのはお兄ちゃん。私じゃない。なぜならいま書かれているのは私の夢なんかじゃないから。いったん解放されると止まることなく文字がつづられる。そうして、あっという間にマス目が埋め尽くされると、輝かんばかりの大層立派な夢が完成していた。
どっと疲労が全身に降り積もってきた。こういう時に限って気を紛らわしてくれる幻聴が聞こえてこない。だから私はいやおうなしにお兄ちゃんの夢と向き合わされる。原稿用紙を手に取ってじっと読みふけっていると、私はあることに思い至った。
進路を定めてしまえば私は完璧にお兄ちゃんになる。そうならないといけなくなる。もう一切の寄り道は必要なくなる。必要なくなってしまう。私はお兄ちゃん。お兄ちゃんはもういない。だったら……だったら、私もいなくならなければならないんじゃないだろうか。
立ちあがって走りだす。後ろから図書委員の声が追いかけてきたが、止まったりはしていられない。私は行かないといけない。橋だ。お兄ちゃんは橋から落ちた。そうして溺れて、死んでしまった。
冷たい風が吹いている。水気を帯びた空気が全身にまとわりついてきて、陰鬱な匂いをなすりつけてくる。今にも空が泣きだしそうだ。きっとお兄ちゃんが落ちた時もこんな天気だったに違いない。全力で走ってきたから呼吸ができないぐらいに息が苦しい。心臓が打ち鳴らされて、ものすごい音をたてながら胸のなかで暴れ回っている。
すこし歪んだ手すりから身を乗りだして水面を覗きこむ。両親は教えてくれなかったけれど、私は当時のニュースを探したから知っている。スリップした車がお兄ちゃんの体を手すりの向こう側へと運んだらしい。けれどそれもきっと嘘。きっときっとお兄ちゃんはこうやって自分から川に飛びこんだ。だって私が今からそうするのだから、そうでないといけないのだ。
――よく聞いて。
幻聴だ。遠い水面に顔のない天使の姿が小さく浮かびあがっている。
――君はお兄さんじゃない。それは僕。君の前世。
それならやっぱり私がお兄ちゃんの生まれ変わりだってことになる。
――君は僕とは違う。僕は君で、君の兄でもある。そんな僕が言うんだから間違いない。
矛盾している。結局、私がお兄ちゃんだと言ってるも同然じゃないか。
――母さんの思いこみが激しさと、すぐ暴走するところなんかは前世譲りだったんだね。
急に苦言を呈してくる。母さんって誰なんだろう。私? 私に言ってるの?
――ありのままでいい。思ったことをしていいんだ。
そんなことが分かっていれば苦労しない。自分の考えが本当に自分のものだってどうして分かるのだろうか。お兄ちゃんとは違うってことの証明はどうやってもできないのだ。
――さいしょはグー。じゃんけん……。
突然なんだろうと思ったけど反射的にグーを出す。
――僕もグーだからあいこ。あいこで……しょ!
今度はチョキ。
――君の勝ち。簡単でしょ。違うことの証明なんて。
自分の手を見下ろす。カニのハサミみたいにちょきちょきと動かす。なんだかバカみたいで力が抜けてしまった。橋の手すりにぐったりともたれかかって、両手を向こう側に投げだしてぶらぶらゆらす。遠い水面から顔のない天使がじっと見返しているが、問いかけるような視線を向けたままもうなにも言ってこない。
何度もじゃんけんをくり返せば、失くしてしまった私のおぼろげな輪郭ぐらいは見えてくるのかもしれない。そんなことを考えた。そんな私の頭のなかを読み取ったみたいに、天使が優しく微笑んだ気がした。
がつん、と大きな音がした。体が浮きあがる。視線を横に滑らせるとスリップした車が橋の手すりにぶつかって黒煙をあげていた。手すりが川のほうへとひしゃげて、強い振動が私のところまで伝わってきた。私の体は背中を押されたように向こう側へと運ばれてしまう。体をひねって必死に手を伸ばす。なんとか手すりをつかむことに成功するが、こぼれ落ちようとしている体を支えるには私は非力すぎた。
「おいっ!」
腕をがっちりとつかまれる。見覚えのある眼鏡の奥には真剣な表情が張りついていた。力いっぱい歯を食いしばり、手すりの向こう側で宙ぶらりんになった私を持ちあげようと奮闘している。でもその腕は細っちょろくて頼りなく、とても私を助けるあげるなんてことはできそうになかった。
「はなしてっ!」
私は叫んだ。もう手に力が入らない。私に引っ張られて相手の体まで手すりから乗りあげてしまっている。道連れになんてしたくない。タイミング悪く雨まで降りだして、私の体を川へと引きずり込もうとするように、じっとりとまとわりついてきた。暴れて手を離させようとするが、どうやっても離すつもりはないようだ。眼鏡が顔からずれて川に落ちていったが、図書委員は気にもとめず、満月のようにまん丸に見開かれた瞳で一心に私を見つめている。
でも、やっぱり無理だよ。はなしてって言ったのに。ふたり一緒になって、真っ逆さまに落ちていく。水面では顔のない天使が待ち受けている。いま思うとあれは天使なんかじゃなくって、死神だったのかもしれない。
これから私は溺れる。なぜならお兄ちゃんが溺れたからだ。
おかしいな。まぶしい。ここは天国か、それとも地獄なのか。父の声。母の声。私の顔を覗きこんだ両親が泣きながら一斉に覆いかぶさってきた。重たい、けれどあったかい。
白衣を着た人がやってきた。急に意識がはっきりしてきて耳の奥で喧騒が渦巻きはじめる。病院のようだ。お医者さんが私の手を持ちあげたり、目の奥をのぞき込んだりした後、両親になにか言ってすぐに去っていく。もう大丈夫です、とか、今日中に帰れます、とかそんな言葉が聞こえた気がする。
すっかり頭が覚醒する。真っ白い天井に細長い電灯が何本も並んでいて線路みたいだ。ほんのりと薬の匂いがする空気を吸いこむ。体は冷え切っているけれど父と母が触れている場所だけはぬくもりを感じた。
体を起こそうとするとふたりとも大慌てになって、母が近くの看護師さんを呼んだ。看護師さんの助けを借りて上半身を起こすと、母がそれを引き継いで私を支えてくれる。
「大丈夫か?」
父が私の顔をのぞき込んでで、泣きそうな顔を力いっぱい、しゃんとさせている。
「ぜんぜん平気みたい」
体はよどみなく動かせるし、頭のなかは明瞭だ。痛む部分も一切ない。あえて言うなら全身が湿っている感じがするのがちょっと気持ち悪いぐらいだ。
ふたりから聞いた話だと私は川で溺れたけれど同じ学校の生徒が助けてくれたのだという。河原で一度目を覚ましたらしいけれど、その記憶はない。助けてくれた人の特徴を聞く限り、一緒に落ちた図書委員だ。気絶している私を抱えて岸まで泳ぐなんて、すごい体力の持ち主だったらしい。頼りない腕だなんて思ってしまって申し訳ない。さすが旅に出たがっていただけのことはある。そんなよく分からない感想が頭に浮かんだ。
「私、したいことがあるの」
不意にそんな言葉が口をついて飛びだした。ふたりはすこし驚いたような顔をして、目を見合わせるとゆっくりと笑みを広げて私を包みこんでくれた。
その後、私はしっかり自分の足で立って家に帰った。次の日になると心配する母をよそに学校にもちゃんと出席した。そして授業が終わるとすぐに図書室へと向かう。
図書室の扉を開けると相変わらず図書委員がひまそうに本を読んでいた。けれど今日は眼鏡をかけておらず、見づらそうに眉間に皺を寄せながらページの間に顔をうずめている。
「あのっ」声をかけるとこちらに視線を向けて目を細めたり開いたりする。そうして私が誰だか分かったようで「ああ」と、気怠げな声をもらしながら二三度深く頷いた。
「昨日はありがとう」
返答の代わりにひらひらと手がふられる。
「怪我とかしてない?」
「してないよ。鍛えてるから」
図書委員が本を閉じてこちらへ体を向けたけれど、私はこれ以上なにを言ったらいいのかまったく準備していなかった。
「……おすすめの本とかある?」
思わず出たのはそんな言葉。すると図書委員は立ちあがり、すたすたと本棚に向かって歩いていく。その後ろについていきながら「眼鏡、ごめんね」と、声をかけると図書委員は「おかげでなんにも見えない」と、嫌味ったらしく言ってふり返ると、冗談めかした笑みを浮かべた。
図書委員は棚と棚の細い隙間を迷いなく進み、ろくに見もせずにぎっしりと詰まった本のなかから一冊を引き抜いた。
「はい」
手渡される。
「ちゃんと選んだの?」
「こういうのは適当がいいの」
渡された本の表紙には”私へ”と書かれていた。ページをめくろうとすると、本の隙間から二つ折りの便箋がはらりと滑り落ちた。拾いあげて、開いてみる。白紙だ。けれど、それを開いた瞬間に空の上から降り注いでくるような音楽が聞こえてきた。
ピアノの音。そういえば昔、ピアノの教室に通っていたことがあった。引っ越しと同時にやめてしまったけれど。当時はそれはもう熱心にピアノを練習していた。けど今思うとあれはピアノの先生のことがちょっと好きだったからだ。熱心さの裏にはそんなちょっと不純な動機があった気もする。最後の授業で先生と連弾したのはいい思い出だ。そういえば、このピアノの音も連弾。誰かと誰かが一緒にピアノを弾いている。
――僕はもう帰るよ。帰り道が分かったから。
幻聴がまた聞こえる。ばいばい。もうこないでね。
――君の前世は精いっぱい生きた。来世の僕も精いっぱい生きる。だから、君だけさぼったりしないでね。
失礼な幻聴だ。そんなこと言われなくても分かってる。前世とか来世とかは知らないけれど、そんなもの関係なく、私は私の道を歩くまでだ。
――この物語の結末が幸せでありますように……。
それきり幻聴は聞こえなくなった。ピアノの音も止んでいる。図書委員が私の手から便箋を取りあげて「忘れ物かな」と、不思議そうに何度もひっくり返しては、まっさらな中身を確認した。
「ねえ」
「なんだ?」
「旅にはいつ行くの」
私はさっきのピアノの連弾を聞いていて、ふと思いついたことがあった。
「次の休みにちょっとした旅に出る予定。日帰りだけど」
「私も行ってもいい?」
瞳が瞬く。沈黙にどきどきしてしまう。それから、すっと踵を返してカウンターに戻っていく。私はその後ろについていく。カウンターの内側に置いてあった鉛筆を手に取ると、図書委員は白紙の便箋にすらすらとなにかを書きはじめた。そうして書き終わったものを、私に手渡す。
「なに?」
「招待状」
開くと、大雑把な旅の予定が書かれている。よく読むと、いい加減な性格がにじんでいて、出発時刻や到着予定地など、全体的にだいぶん適当だ。私はカウンターの内側に入って、鉛筆を借りると予定をどんどん書き足していった。隣からは不満の声も聞こえるが、私がきっちりしていないと、きっと寄り道ばかりの旅になってしまう。けれど結局たくさんの寄り道をしてしまうだろうという確信めいた予感があった。
お兄ちゃんは旅に出たことがあっただろうか。もしあったとしても、こんな変な友達と一緒ではなかっただろう。お兄ちゃんの友達はもっとしっかりしてそうだ。
私はこれから私になる。きっとこの旅がその第一歩になるに違いない。
ここまでお付き合いいただき誠にありがとうございます。読んでくださった皆様には感謝の気持ちでいっぱいです。
評価やコメントなどいただければ励みになりますので、よろしければお願いいたします。
あとがきは活動報告の方へ投稿します。こちら私のマイページの活動報告から2023/2/27付けのものをご確認ください。
それではまた別の作品でも出会えることを心より願っております。2023/2/27の井ぴエetcでした。




