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外伝 ”眼”の世界

 俺がここに連れられてきてから、地上ではどれぐらいの時間が経っているのだろうか。空の上にあるこの”眼”の世界では、もはや愛する家族たちのことを知るすべはない。みんな元気でいるだろうか。別れの時、沈んでいた様子のノナトハは立ち直ってくれただろうか。強い心を持った子だから、決して心配には及ばないと分かってはいるが、愛ゆえに思いを馳せるこの気持ちを押しとどめることなどできない。意思が固くしっかりしてはいるが、昔からちょっと繊細なところもあった。信頼してはいるが、キレンヒミを託したのが負担になっていなければいいが。母上のことも気がかりだ。俺のことで無理を重ねさせてしまった。俺が特別な”眼”に選ばれたことで肩の荷を下ろしてくれていることを願うばかりだ。しかし頑張り屋の母上のことだ。やっぱり今も一生懸命に物事に取り組んでいるのだろうなあ。きょうだいたちにはぜひ母上を支えてあげてほしいものだが、そのまとめ役をノナトハに期待するのは酷だろうか。

 また俺は間違った選択をしたのか。俺の行動の結果といったら家族たちを不要な混乱におとしいれたぐらいなものだ。そうして望んでいたこととは真逆に愛する者たちと離れ離れになってしまった。もう会える機会は永久にないだろう。地上に建つ母上の館で転生した俺は今度こそはと思っていた。ノナトハのように前世と自我を切り離しきることができなかった。前世で失ったものはもう取り戻せない。けれど失敗を糧にして、よりよい人生を歩めるはずだと考えていた。そうすることが俺の前世や、前世で愛した人々に対する供養にもなるはずだと。新たな家族と愛を育もうと意気込んでいた。しかしそれは利己的な考えだったのかもしれない。俺の愛はいつも一方通行な気がする。だが人を愛さないことにはなにもはじまらない。俺の前世である彼は家族を失い、そこから再起する過程でそれを知った。その事実を俺に教えてくれたのだ。

 星が流れた。かつてノナトハと一緒にウルキメトコの物語のなかで見たのと似た光景だ。俺がいるのは空の上だが、その更に上を蓋のようなもうひとつの空が覆っている。宝石のようなきらめきが暗黒に浮かびあがり、えもいわれぬ美しさで満たしている。そんな星の一つひとつが彼らだ。地上の民である俺たちが”眼”と呼んでいた者たち。空の民。彼らの肉体にあたる部分が星であり、太陽や月と呼んでいたものすらその一員だった。

 星は上面が平らな岩塊のようだ。ごつごつした岩をスプーンですくいあげたような形。球を半分よりやや上で切断した半球型。表面はざらついており金属光沢がある。やや錆びついた鉱物といった風合い。星自体の大きさは千差万別だが、基本的には地表にある館などよりもはるかに大きい。まさしく星、惑星だ。星の表面にはチーズのようにいくつもの穴が空いている。そのひとつが”眼”の出入り口。”眼”は穴を通して星から出かけていき、また帰ってくる。ここにきて間もない頃、俺は星と”眼”が共存関係にある別々のものかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。共に暮らす送り子たちのなかでも、特に年長の者が語るところによると”眼”は彼らの感覚器官の集合体であり、分離していても星とつながっているのだという。

 特別な”眼”の胴体である星に、俺や、俺と同じく選ばれた送り子たちが暮らしている。特別な”眼”はそれ自体が巨大だったが、さらにそれを納める体だけあって凄まじい大きさだ。星の端から端まで行こうとすれば、何日も歩き続けなければならない。星の中央付近に空いた穴のいくつかには階段やはしご、スロープが設置してあり、地上から来た送り子たちが出入りできるようになっている。内部は蟻の巣のように入り組んだ廊下がくねくねと根を張るように広がっており、送り子たちの個室が地表に近い側に並ぶ。地下におりて星の中心に近づくほど廊下は広くなり、様々な設備が集中する街と呼ばれる地区がある。街には植物の生い茂る区画もあり、天井がある以外はまるで外と変わらない。

 空の民は自らの体の一部を、地上の民の住居として提供している。各部の意匠は地上の館と類似性があるが、地上は彼ら空の民が作りあげた場所らしいのでこちらの方が原型ということになる。

 廊下はほんのりと温かく、ほのかに塩素のような香りがする。歩かなくても念じれば高速で床が動いて運んでくれるという摩訶不思議な技術が施されている。同じ廊下で別々の方向へ向かう者がすれ違うこともあり、どういう仕組みになっているのかはまるで分からない。つぶれた矩形といった断面をしており、かすかに傾斜している場所も多いから、慣れないうちは気分が悪くなる。俺もはじめはひどい酔いに襲われたものだ。

 周期的な振動もあるので、廊下を行く時には油断をしてはいけない。この振動というのは、おそらくは心臓の鼓動。空の民の内臓と思われるものは、体の内と外がひっくり返っているように表層からいくつも頭を出している。内臓には金属光沢はなく、人間のそれと同じように生っぽい見た目をしている。それが風船が膨らんだりしぼんだりするように動いている。そしてとりわけ大きな内臓の脈動が星全体に伝わっているのだ。普段は小さな振動で、ほとんどなにも感じないぐらいだが、一定の間隔をおいて、ぼん、という破裂音と共に瞬間的に大きな揺れがやってくる。火山活動を思わせるその激しい揺れを、ここの住人は時間の基準にしている。


 この星での生活はおおむね快適だ。館にあった設備と同じものが揃っているが、使われている技術は比べられないほど高い。館の機関室にあったものよりも精緻な機械類があらゆる場所に設置してある。ここは高度に発展した文明によって築きあげられているのだ。

 俺は両足と右手にひどい火傷を負っている。かつてノナトハやエポヌと訪れた物語のなかで負った怪我だ。地面を踏みしめることはできないし、右手で物をつかむことも難しい。館で使っていた車椅子があったが、今はこの星製のものを使っている。車輪ではなく腹足類のような足がついているので小さな段差をものともしない優れものだ。扉の開閉や物を運んだりするのは、スイッチひとつで大抵のことがこなせるようになっているので、片手でも不便を感じることはない。素晴らしいピアノもあって、片手での演奏を練習するようにもなった。ただ、送り子たちには重要な役割がふたつあるが、そのうちのひとつである記録には少々難儀している。

 記録というのは前世を書き残すことだ。石板のようなものに尖筆で記す。これに対してはなんら機械技術が使われておらず太古の方法をとっているのは奇妙ではあるが、その理由を俺が知るべくもない。俺の前世である彼がいつどこで生まれ、その時代になにが起き、どんな末路をたどったか。それを可能な限り細やかに書いていく。元々右利きの俺にとっては左手で文字を書き続けるのはかなりの重労働であり、いつ終わるともしれない作業だ。

 疲労を感じたら食堂へ行く。食堂は常に開かれており、好きな時間に利用することが許されている。ピカピカと輝く金属の檻のような寒々しい空間に、木製の温かみのあるテーブルと椅子が数百と並んでいるのは、かなりおかしな光景だ。食堂の片面の壁には三角錐を積みあげたような出っぱりがあり、そこにいくつかのスイッチがついている。そのそばには文字のような記号が書かれているが俺には読めない。スイッチを押すとそれに対応した食べ物が壁のなかから出てくる。おそらく記号が示すのはどんな食べ物がでてくるかについてだと思われるが、読めない以上は実際に押したり、先輩諸氏に教えていただいて、どのスイッチでどんな食べ物が出てくるか一つひとつ覚えていくしかなかった。

 最近のお気に入りは、懐かしさを感じる真っ赤なスープ。液体の食べ物は丸底フラスコのような透明の容器に、蓋つきの口がついたものに入れられている。心臓の鼓動による振動でこぼしたりしないようにという配慮だろう。たぶん同じ理由で固形物であっても汁気のある食べ物は少ない。これに対する不満は送り子たちの間に少しばかりあるらしい。

 生活習慣が決まっているので、食事はほとんど同じ時間にとる。席も決めている。俺が着席する頃に、彼女もやってきて向かいの席に腰をおろす。そして見るからに噛み応えのある肉とパンを食べづらそうにしながら静かに咀嚼しはじめる。

 彼女の名前はイニマ。俺より少し前にこの星に連れられてきた送り子らしい。共に食事をするようになったのは偶然だった。だが、二回、三回、と回数を重ねるうちに、今はもう必然へと変わっている。彼女はほとんどの送り子よりも長身で、背中を丸めてのぞき込むように人の顔を見る癖がある。初対面だった俺がイルイジュだと自分の名前を名乗ると、そんな風ににらみつけられたので、なにか気分を害するようなことをしてしまったのかと心配になってしまった。けれど付き合いが長くなると、強い圧力を感じるその行為に攻撃的な意味はないのだということがだんだん分かってきた。瞳がぱっちりしているから、よく見ようとすると目つきが鋭くなるのは顔のつくりからして不可避であり、のぞき込むのも彼女としては相手を怖がらせないように目線を合わせているだけらしい。

 イニマとの会話は俺が一方的に語りかけるだけで、彼女は黙ってそれを聞いている。語るのはもっぱら家族のことだ。愛する家族たちが、いかに愛すべき存在だったかということ。彼女は気だるそうにしながらそれを聞いて、鼻で笑ったり、じっとりと冷めた意見を差し挟んできたり、頭の両側で乱雑に結ばれた髪のふさを躍らせて、呆れたように首をふったりする。しかしながら、耳をふさいだり、席を立ったりすることはないので、俺は構わず話し続ける。彼女の身の上話も聞いてみたいものだが、自分のことを話すのは好みではないらしかったので、無理強いはしなかった。

 星の心臓が強く脈打つのが会話を終える合図。俺たちはどちらともなく席を離れて、それぞれの部屋へと戻っていく。イニマとの関係は奇妙ではあるが心地いい。彼女もそう思ってくれているといいが。


 俺の私室は星の表面近くで、街からは遠い。部屋の選択権はあったが、当然空いている部屋だけだった。星の心臓に近い地表ほど温暖で過ごしやすいのだが、反面振動が伝わってきやすいという欠点もある。街に近い場所は利便性に優れるが、少々肌寒い。なので、その中間あたりに人気が集中しており、いい部屋は昔から住んでいる送り子で埋まってしまっていた。俺は振動が大して気にならないたちなので、心臓にほど近い場所を選んだ。スロープになっている出入り口が近いので車椅子の俺には手間が少なくて都合がいい。街に行くより地表を散歩するほうが好きな俺にとって、この点は重要だ。それに、兆しがきた時にすぐさま祭壇へと向かえるのも利点と言えるだろう。

 兆しがくる。虫の知らせというのに近いだろうか。心がざわめくような感覚。これは空の民に呼ばれている合図。念じれば動く廊下といい、空の民は俺たちの思考を読み取ったり、逆に思念めいたものを送り込める技術があるらしい。かといって意思疎通が可能なわけではない。それほどまでに在り様が違う生命ということなのだろう。

 送り子たちに課せられた重要なふたつの役割。記録と、もうひとつは儀式だ。兆しがくれば儀式に向かわなくてはならない。地表へと向かい、祭壇に登るのだ。逆らうことはできない。誘蛾灯にさそわれるように、呼ばれたものは自然と祭壇へ向かう。聞いた話によると、以前、自らの体をがんじがらめに縛りつけて、儀式を拒もうとした送り子がいたらしい。なにがその送り子をそんな行為に駆り立てたのかは不明だが、よほど好奇心が強かったのかもしれない。とにかくその方法で祭壇に登ることを回避できた。けれど待っていたのは追放。空へと放りだされたというから処刑と変わらない。その送り子の姿を見ることは二度となかったという。

 行かなければならない。急ぐ必要はないが、あまり待たせるのは申し訳ない。部屋を出てすぐそこに地表への出入り口がある。俺はまだ数度しか呼ばれていないが、頻繁に兆しがやってくるような送り子は廊下の行き来で大変だと聞いた。とはいえ祭壇までの距離を考慮してくれているのか、そういった送り子には早めに兆しが送られるようだ。

 星の内部と外部には仕切りがあるわけではないので空気は同じなのだが、視界が一気に開けるとやはりすがすがしい気分になる。送り子たちが出入りできる穴は星の地表の中央付近に固まっているが、そこから少し離れた位置に心臓があり、逆方向にしばらく行くと祭壇だ。

 祭壇はゆがんだ楕円を積み重ねたような形。上にいくほど楕円が小さくなっており、ゆるやかな階段状の背の低い楕円錐と言うこともできる。段は丸みがあり、角がなく、高さは下の方ほど薄く、頂上付近はやや分厚い。材質は分からないが弾力があって、明るい赤青黄緑といった原色のマーブル模様。そして高原のような香りがする。この祭壇に関しては空の民の体の一部ではないらしい。廃棄されて新たなものが設置されるのを何度も見ている。

 麓に到着するといったん車椅子を止めてあたりを見回す。儀式には何人かの送り子が呼ばれることがある。大抵ひとりかふたりだが、多い時には十数人が呼ばれることもあるそうだ。すこし様子をうかがっていると、もうひとり送り子がやってきた。他には見当たらない。どうやら今回は俺とその送り子のふたりで儀式を行うらしい。

 近づいてきた送り子を見て、おや、と思った。相手も同じように感じたらしく、足を止める。イニマだ。食堂以外で会うのははじめてだ。声をかけようとしたが、その瞬間、顔をそらされてしまった。挨拶を断念して登りはじめると、彼女がとぼとぼと後ろからついてくる。

 この星製の車椅子なら段差も問題なく登れる。麓のあたりは粘着力の低い粘着テープような感触で軽い不快感があるが、祭壇の頂上へ近づくとつるつるとした感触へと変わる。頂上付近は段差がやや分厚くなるので登りにくいが、勢いよく進むと車椅子ごと一気に乗りあげることができた。

 先に登頂した俺はイニマに手を貸そうと腕を伸ばしたが、彼女はそれが見えなかったのか、さっさと自力で頂上へと登ってくる。行き場を失くした手を引っ込めて、祭壇の中央へと進む。そこは少しだけくぼんでいて、縁に腰かけられるようになっている。

 俺は車椅子のままくぼみに入り、近くにイニマが腰をおろした。彼女はまだ話しかけられたくなさそうだったので、俺も黙っていた。そうしてしばらく待っていると”口”たちがやってきた。

 ”口”というのは送り子たちが呼んでいるだけで、本来は尻尾の民と言うのだと、一番年長の送り子が語っていた。空の民の”眼”と同じく、これは尻尾の民の一部にすぎないらしい。尻尾の民は空の民たちとは絶対的に違う存在。”口”はストローのような透明の細長い管で、太さはまちまちだが、おおむね片手で作った輪っかほど。銃口にも思えるその先端が俺たちの頭に向けられている。空の彼方から伸びてきているという以外にはなにも分からない。根本は見えないほど遠く、視線でたどろうとしても透明なのですぐに見失ってしまう。中空から突如として現れているようにも思えるので、異次元からやってきているのだという送り子もいるが、真実は分からない。

 おびただしい数の”口”たちが俺とイニマの頭の周りに勢ぞろいすると、一斉に吸いこみがはじまる。髪の毛が筒のなかに引きこまれるが、それほど強力ではないので引っ張られる痛みなどはない。少々強めの春風が吹きあげてくるのに似ている。長髪のイニマはばたばたと荒れ狂う毛先を押さえながら、ひどく迷惑そうに”口”たちを上目遣いににらみつけている。

 吸いこみが唐突に終わると、音楽が流れだす。筒の奥から震える笛とも、呼吸音とも思える音色がとろとろとこぼれだしてくる。それは実体を持った音であり、排水溝にたまった細雨がたれ落ちるように”口”から流れて俺たちの顔を伝い、体の表面をたどって足元のくぼみにたまる。祭壇はそれを受けとめると、表面のマーブル模様が歓喜を示すようにぐるぐると動きだす。音楽たちはするすると一滴残らず落ちていって、くぼみの底に染みこむように消えていく。

 これで儀式は終わりだ。”口”は来た時と同じように唐突に帰っていき、一瞬で影も残さず消え去ってしまう。イニマはすぐに立ちあがって、顔をしかめながら音の雫になでつけられた髪を何度も手ではらった。

 この儀式について俺なりに解釈していることは、地上の民と”眼”の関係に近いのではないかということだ。地上の民は転生者の子供を差しだし、”眼”はそれに対して星の欠片を与えた。空の民は送り子を差しだし、”口”はそれに対して実体のある音楽という対価を与えている。なんとなく事実とそう遠くないのではないかと考えているが、根拠のない想像でしかない。ただ、そうなると素晴らしい技術を持った空の民たちが、なぜ地上の民から送り子を連れてくる必要があるのかという疑問が浮かびあがる。これに対する答えに値するものは、まだ俺のなかにはない。


 儀式が終わって星の内部へと戻る。俺の部屋はすぐそこなのでイニマをお茶に誘ってみると、意外にもその首が縦にふられた。

 自慢の紅茶を淹れたのだが、彼女は香りを楽しむことなく、ぐびぐびと飲んで、おかわりを要求してきた。まあ楽しみ方は人それぞれだ。味が気に入ってもらえたならよしとしよう。

 二杯目の紅茶を渡しながら、ふと思い浮かんでいた疑問を彼女にぶつけてみる。

「なぜ空の民たちは送り子が必要なんだと思う?」

「それは”口”にご褒美をもらうためでしょ」

 彼女はさも当然という態度で、なぜそんな質問をするのか分からないという風に眉を寄せた。

「送り子のようなものを自ら産むことはできないんだろうか」

「そりゃあ。できたらこんなことしないでしょうね」

「こんなに素晴らしい技術を持っているのに?」

 自分の腰かけている星製の車椅子を見下ろす。彼女もそれに目をやって、熱い紅茶を一口味わった。

「技術は関係ないんじゃない。地上でだって、親は親、子は子だったでしょ。できることが違う。それと同じだと思う」

 さっぱりした考え方だが、あまり深く考えてもしょうがないというのは事実だ。彼らも万能ではないのだと考えるのが一番しっくりくるのかもしれない。

「それより」と、彼女が身を乗りだした。

「気になってたんだけど、地上にいた時、イルイジュってもしかして隣の館に住んでた?」

「どういうことだい?」

 隣人とは会うことはもちろん、目にする機会すらなかったので、そう言われてもなんの心当たりもない。バルコニーから見えていた隣館の窓の影を思いだそうとするが、じっくりと眺めたこともないので、ぼやけた輪郭は彼女のそれと重ならない。

「いや、うちに隣の館の主が来たことがあったの。女の人。それで父になにかお願いしてたみたい。その時に子供の話をしてたのが聞こえてきて、イルイジュって言ってたような気がするんだよね」

「それなら、確かに母上が隣の館の主に”眼”についてお願いにあがったことがあった」

 当時を思い返しながら答える。母上が子供たちに衣装を選んでくれた後だ。あの時の衣装はここまで持ってきているし、今も大事にしている。

「ほら。じゃあやっぱりそうかも。ずっと引っかかってたのよね。なーんか聞いたことあるなあって。……でも”眼”に関して父に頼んでもしょうがないかったんじゃないかな」

「いや。どうだろう。俺が暮らしていた館にはほとんど”眼”がいらっしゃることがなかったんだが、母上がそうやってお願いにあがってからすぐに来訪があった」

「へえ。偶然じゃないの。父は特になにもしてなかったし」

 あっけらかんと事実がひっくり返されると、なんとも複雑な気分になる。

「うーん。そう言われると分からなくなるな。だとしたら、隣の館を訪れたことで、母上の姿を見かけた”眼”たちの興味をひくことができたということなのかもしれないな」

「まあ、そんなところでしょうね。父にそんな力はないもの」

 イニマは父親に対していくつかの意見をずけずけと言ったあと、珍しく自身の家族のことを話しはじめた。館を出たときには俺と同じく七人きょうだいだったのだそうだ。彼女は特にウシンミジという妹のことを気にかけていた。体が弱くて恥ずかしがりや、引っ込み思案な性格。ジオーメ、タハロコといった名前の乱暴者のきょうだいたちにいじめられていないか懸念しているらしい。

「君の父上が守ってくれるんじゃないのかい?」

「まさか。あの人ほど滅茶苦茶な親はいないと思う」

「そうなのか」

「ええ。だって信じられる? イルイジュも親から魂の診察をされてたと思うけど、父は自分自身が魂に入って、前世の物語のなかで好き放題するのよ。うちには時々、他の館からの来客があったけれど、他の館の主たちは誰ひとりとしてそんな方法はしないって言うの。あの人ちょっと頭のネジが外れてるのよ」

 つらつらと語る彼女の話を聞いていて、紅茶を吹きだしそうになってしまった。

「それは、そんなにおかしな方法なのかい?」

「そりゃそうでしょう。あなたの親はそんなことする?」

「……いや、硝子盤を通して前世を眺めながら少しずつ診察するかな」

「ね。それが普通なの。他の館の人は危ないからそんな方法はやめた方がいいんじゃないかって父をやんわりと説得してたけど、聞く耳持たないのよ。ものすごく危険だって言われてもやめない。しかも、自分の子供を連れていって巻きこんだりもするの。私も何度か連れていかれたことがあるわ。ほんと、まともじゃない」

 鋭利な言葉の数々が自分に向けられているような気がして心が痛む。そうだったのか。キレンヒミに聞いて、そういうものが一般的な方法としてあるのかと思っていた。となるとノナトハには相当無茶なことをさせてしまったことになる。あの時はキレンヒミの今後を心配するあまり視野が狭くなっていて、性急な手段をとってしまったが、もうすこしよく考えるべきだったかもしれない。今更詫びても遅いがノナトハには悪いことをした。

「イニマの父上はどうしてそんな方法をとるんだろうか」

「そうねえ。ただ楽しんでるだけじゃないかな。魂をこね回すことが父の生きがいらしいから」

「生きがいか……」

 何気なく彼女の言葉を反復すると、それに噛みつくようにして彼女は「イルイジュの」と、俺を見据えた。

「生きがいって何?」

 急な質問に様々な感情が頭のなかを駆け巡る。けれど俺の人生において重要なのはいつもひとつだけだった。

「愛、かな」

「説明して」

 教師のような態度で彼女は居住まいをただした。

「そんな大それたことを考えてるわけじゃないが。愛こそ人を豊かにするもっとも強力な手段だと思う。人と人のつながりだ。その輪が広がり、伝播して、俺自身を取り囲む世界になればいいと考えている。そのために切磋琢磨し、自身を高め、相手を尊重する。それが生きがいだ」

「変なの。イルイジュって時々気持ち悪いね」

 はねのけるようにぴしゃりと言って、彼女は俺の言葉に納得できなかったというように肩をすくめた。

「私、考えるの。地上にいる時からずっとずっと考えてた。ここに来てからもね。いろんな人の話を聞いたし、自分で調べてみたりもした。地上の民のなかで親たちは”眼”に認められるために色々やってる。空の民たちはこっちはこっちで”口”に認められるために色々やってる。でも私たちはどう? 地上に産まれた子供。転生者たち。親に利用され、次は空の民に利用される。記録のお役目では私自身のことじゃなくて、前世のことを書く。私ってなんだろうって思っちゃうよ。知ってる? 地上の館には出入口がなくて、翼がはえている親しか外に出て交流できない理由」

「いや。知らないな」

 この世界に生まれた時からの当たり前の環境であり、特に疑問には感じていなかった。そういうものなのだと受け入れていた。

 彼女は重大な秘密を打ち明けるように顔を寄せて声をひそめる。

「それはね。子供同士が出会わないように。転生者同士で交わって子供を作って、新しい魂を呼びこまないように。あの顔のない親たちからしか生まれないようにするためなのよ」

「よく分からないな。本当かい? どうしてそんなことを?」

 俺が首を傾げると、彼女はそんな疑わし気な態度は心外だというように眉をあげた。

「なーんて言えばいいかなあ」彼女はちょっとだけ勢いを落として考えながら訥々と語る。

「地上の民の親っていうのはみんなどこかしら似通ったところがあるの。そういう魂たちが集められたのよ。空の民によってね。そうして、同じように似た魂を呼び寄せる装置として親が使われてる。親は同質の子供を産めるようにあんな風に顔に穴が空いた体になるの。自然とね。ふたりが混ざるより、ひとりで子供を産む方が同じ性質の子供が生まれやすいでしょ。そうなるように”眼”が時間をかけて地上を作りあげたんだから」

 興味深い話だが、かなりの眉唾物だ。彼女の語り口は強硬さを帯びていて、妄想に取りつかれた人のそれのように思える。俺が黙って聞いていると、彼女は再び勢いこみはじめた。

「空の民は悪魔なのよ。極悪人……じゃなくて極悪星? そうやって種をまいて、育てて、送り子っていう果実を収穫してる。そしてそれを”口”に捧げてるんだわ。送り子は飼い殺されて星で一生を終えるの」

 さすがに悲観的すぎる態度に俺も承服しかねて、口を差し挟む。

「飼い殺しとは言うが、ここは地上の館よりもはるかに広いし、たくさんの人がいる。送り子たちの社会と呼べるものすらある。さっき言っていたような転生者同士で交わるというのも禁止されているわけじゃない」

 他意はなかったのだが、彼女はいぶかしむように俺を見て、少し身を引いた。

「まあね。流れ子になるってこともありえるしね。でもその先にもきっと同じような隷属が待ってるのよ」

 流れ子というのは”口”に連れていかれた送り子だ。”口”も”眼”と同じように、気に入った者を連れていくことがある。すこしばかり興奮状態にある彼女をどうやって宥めればいいものか。そんなことを考えながらゆっくりと言葉を紡いでいく。

「人というのは限られた世界で、限られた生活をするしかないものだ。その世界が狭い部屋の一室だろうが、星全てだろうが、空一面だろうが変わらない。その人生の価値を決める大きな要因にはならないと俺は思う。俺みたいな人間にとってはより広くって混雑した場所が好ましいが、考え方次第だ。この一室で君とふたりきりで語らっているこの時も、広場に大勢集まって言葉を交わしているのも、かけがえのない人生の一部だ」

 精いっぱい頑張った励ましだったのだが、彼女の心には響かなかったようで、大きな瞳が瞬き、憂鬱そうに伏せられた。

「イルイジュって能天気っていうか、気ままな人だね。知ってたけどさ。ここでの生活にもなじんでるみたいだし。私もそんな風に考えられたらいいけど。ここにいるよりは”口”に選ばれて流れ子になった方がいいって考えてる」

 俺の自己認識とはだいぶ齟齬があるが、彼女から見た俺の印象というのはそうらしい。俺は心配性のわからずやで、色々と考えすぎるからこそ、やっきになって暴走しがちなのだが、幸いここに来てからはそのような機会は訪れていない。

「この星はそんなに悪いものじゃないと俺は思う」

「そうだね。そう。それに、そもそも”口”に選ばれる条件なんて知りもしないけど」

「年長の者たちに聞いたところによると、なにか傑出した技術を持っていた者がほとんどらしい。例えば計算能力がずば抜けてたとか、ボール遊びで連戦連勝だったとか。あとは記録を終えていない者は連れていかれないという話もある」

 噂に聞いたままのことを口にすると、彼女は深い溜息をついて、

「なにか勉強するかあ」

 と、疲れた顔をして立ちあがると、カップの底に残っていた紅茶を一息に飲み干して、「ごちそうさま」の一言と共にすたすたと部屋を出ていった。

 なんとなく落ち着かない気分になって彼女の後を追うように廊下に出てみたが、その姿はもう見えなくなっていた。部屋に戻るのも億劫になって、街へと向かうことにする。ピアノの練習でもしよう。左手だけでの演奏もだいぶん上達した。かなりはっきりと音が出せるようになってきている。ペダルは送り子のなかでも特に工作が得意なものにお願いして、右ひじで操作できるように改造を施してもらった。もちろん以前の演奏技術とは比べるべくもないが、それでもいい。これが今の俺なのだから。


 空の上の空には昼も夜もない。いつだって暗く晴れ渡っていて、秋の香りを感じさせるほの温かい風がどこからか吹いている。星の内部にいると、ふとこんな外のことを忘れてしまいそうになる一瞬がある。窓がないという以外、その生活自体は地上とあまり変わっていない。愛する家族たちが共にいないというのは致命的な違いではあるが。

 頭上には無数の星たちが浮かんでいる。星の地表の端まで到達できれば地上が見下ろせそうだが、そううまくもいかないらしい。かつて送り子のなかにそれに挑戦した者がいたと聞く。何日も歩き続けて、旅の末に外周にたどりついた。けれど待っていたのは分厚い雲。そこでさらに数日を過ごしたが、一向に雲が晴れる気配はない。結局、落胆だけを抱えて戻ってきたということだ。その行動力には敬意を表するが、結末には同情を禁じえない。

 ぼんやり空を眺めていると、空高くから別の星が近づいてきた。見上げるとその底部が見える。星の裏側からはツルのようなものが何本も垂れ下がっている。糸のように細くて今にもちぎれそうなものもあれば、煙突かそれ以上の太さのものもある。共通してその先端はやや膨らんでいて、平らなヘラ状だ。ヘラの表面は波状になっており、洗濯板にも似ている。全体として頭足類の触腕といった印象がある。それらが彼ら空の民の手にあたる部位らしい。

 つい、と触腕が伸ばされる。こちらの星の底部からも触腕が持ちあげられて、それに応える。そうして触れあうと、がっしりと握手を交わした。波状のでこぼこがぴたりと噛みあい、伸縮している。どうも会話をしているのではないかと思われるが、あくまで根拠のない推論にすぎない。

 なにかあったのか、と数名の送り子が地表に出てきて星同士の握手を眺めはじめた。イニマもやってきて、俺の後ろに立つと車椅子にもたれかかるように片手をそえた。

「なにごと?」

「俺にもよく分からないよ」

 答えてふり返った瞬間に、星が動きだした。星同士の手は握られたままだ。やって来た星に手を引かれるようにしながら、どんどん速度を増していく。風が強くなってきて、野次馬の何人かは星の内部へと避難した。イニマは俺の車椅子が風で押されたりしないように、両手でしっかり支えてくれている。

「どこに行くのかな」

 雲より高く雄大な空を横切っていく。空に浮かぶいくつかの星たちも同じ方向へと移動しはじめた。移動する星に乗って同じ方向へと進む星を見ていると、方向感覚がおかしくなりそうで気分が悪くなってくる。会話を交わせるような状態ではなく、イニマとふたりでじっと耐え忍んでいると、ゆるやかに星が動きを止めた。

 到着した場所には数十もの星が集まっていた。それが水平に並んで輪を描いている。

「集会みたいだね」と、言った彼女と同じ印象を俺も抱いていた。これから話し合いでもはじまりそうだ。固唾を呑んで事態を見守っていると、輪の外側からひとつの星が真ん中へと押しだされた。他の星たちに小突かれて、ためらいがちな動作で進みでる。その星には大きなひび割れが入っていて、地表部分には断層がずれたような段ができている。

 ひび割れた星を取り囲んだ他の星たちが両隣の星と触腕同士を絡め合わせ、輪を狭めたり、広げたりしながら回りはじめた。彼女が「かごめかごめみたい」と、感想をもらし、俺が聞き返すと子供の遊びのひとつだという。他の送り子に教わったのだそうだ。確かに規則的な動作は遊びめいているかもしれない。けれどどこか厳粛な雰囲気もただよっている。輪が狭まったり、広がったりするたびに逆方向に風が吹くので、俺とイニマは支え合うようにして踏ん張らなければならなかった。

 輪を狭めた状態で星たちが動きを止めた。地鳴りが聞こえる。自身の足元がゆれているのかと思ったがそうではない。ひび割れた星から聞こえてくるようだ。ぎし、ぎし、という不穏な音が徐々に高まっていき、虫の羽音のように細断された音色になる。それから、突然、星が真っ二つに割れた。

「わあ」と、イニマが声をもらし、俺も「おお」と、感嘆をこぼした。それは筆舌に尽くしがたいほどに美しい光景だった。とてつもなく大きな花火が打ちあがったように、星が粉々に砕け、光の粒となって拡散していく。

「なにか飛んでくる」彼女が身構えた。風切り音と共に暗い色をした球のようなものが飛んできた。ぼんっ、と僕らにほど近い地表にぶつかって跳ねあがったかと思うと、地表に空いた穴のひとつに転がり落ちていった。

「”眼”だ」と、俺が言うと、彼女も「たしかに”眼”だった」と、答える。

 ”眼”が落ちた穴の方へ行ってみたが、俺たちがついた時にはすっかり閉じてしまっていて、平坦な地表が広がっているばかりだった。

「この星の”眼”がふたつになったのか。さながら同居人というわけだな」

 俺は単純にそう解釈したが、イニマは難しい顔をして「あの”眼”に見覚えがある」と、うなるように言った。

「”眼”の違いなんて分かるのかい?」

「質感みたいなのがよく見るとそれぞれ違うのよ。今の”眼”はひび割れたみたいな輪郭してたでしょ」

「星が割れた拍子に”眼”も割れたのかな」

「そうかもしれないけど、大きさといい、きっと知ってる”眼”だと思う」

 彼女は確信を得たように頷いた。集まっていた星たちはもうやるべきことは終わったというように、空のあちこちへと散っていく。

「私の住んでた館に時々来てたけど、嵐みたいに飛び回ってた。きょうだいが怪我することがあったから私は嫌いだったけど、父はその”眼”のことをすごく気に入ってたみたい。予想できない感じがいいんだって。想像力が刺激されるって言ってた」

 語りながら彼女は俺の車椅子を星内部への出入り口へ押して運んでいく。

「でもやっぱり危ないことはだめだよ。空の民にとっても送り子になるかもしれない子供に怪我させるなんて言語道断でしょ。だから、制裁されたんじゃないかと思うな。あの星は割れたんじゃなくて、割られたんだよ」

 確かに彼女が言う通りの不遜な輩であったのなら、穴に閉じ込められて、処罰を受けていると考えることもできるかもしれない。砕けた星はなおるのだろうか。それとも永久にあの”眼”は体のないままで生き続けなければならないのか。そこまでの罪とも思えないが、空の民の情緒ともなるとまったく想像もできない領域だ。

「”眼”にも色々あるんだなあ」と、彼女がしみじみ言うものだから、俺はおかしくなってしまった。

「笑わないでよ」

「いや。すまない。……そうだ”口”の判別方法を知ってるかい」

「”口”って全部同じような見た目じゃない。どれがどれなんか分かるの?」

 ”眼”については後れをとったが、”口”については俺の方が詳しいようだ。

「音さ。儀式の時、音色が聞こえるだろう。奏でられる音がひとつひとつ違う」

「へぇ。今まで聞き流してたけど、次からはちゃんと聞いてみる」

「耳を澄ますと面白いよ。調子っぱずれの音が混じってたり、妙に荒々しいのがあったりね」

「そうなんだ」

 すこしだけ肩の力が抜けたような微笑み。坂をくだり、星のなかへと戻ってきた。彼女は俺の部屋の前で車椅子を止めて立ち去ろうとしたが、俺はもうちょっとだけ押していってくれるように頼んだ。

「どこまで?」

「街までお願いできないかな」

「通路は動くんだから、私が押さなくてもよくない?」

「いや、君を連れていきたいんだ。ピアノのところまで」

「ピアノ?」

 彼女は怪訝そうにしながらも、街の方へと一緒に移動していく。急に彼女に俺の演奏を聴いてほしくなった。なぜだか自分でも分からない。まだたどたどしさが残っている自覚はある。もっと練習が必要だ。人前で弾くのはかなり先だろうと考えていたが、今がその時であるのだと、魂が訴えかけていた。


 街の隅にある空き部屋。私室にピアノを運び入れてもよかったのだが、音の反響が気になったので勝手ながらこの場所を借りている。ほどほどの広さがあり、天井が丸みを帯びているのが気に入っている。それに記録室にも近いので、作業に疲れた合間に息抜きとして練習できるのもいいところだ。

 イニマは俺の火傷の痕に、ちらと目をやって心配するような表情をしたが、俺は大丈夫というように火傷している右手の方をふる。そしてその肘にペダルと連動している器具を装着すると、左手で鍵盤に触れた。

「気楽にしてくれ。別に演奏会をやろうってわけじゃない」

 演奏しながら俺がしゃべりだすと、彼女はちょっと拍子抜けしたようにそばにやってきて、ピアノの脇に立つと、鍵盤をのぞき込んだ。

「これイルイジュが弾いてたんだ」

「外まで聞こえてたのかい」

「ちょっとだけね。近くを通ったら聞こえたってだけ。この星だと音楽に興味がある送り子はほとんどいないみたいだから珍しいなって」

 俺の指の動きを追うように彼女の視線がゆらめく。そうしてトントンとリズムを取るように、指先でピアノの枠を軽くたたいた。

「俺たちはせっかく隣に住んでたというのに、地上にいるうちは顔も知らなかったなんて不思議なものだ」

 俺が遠い目をすると、彼女も過去に思いを馳せるように瞳の奥を沈ませた。

「ちょっともったいなかったかもね」

「手紙のひとつでも出してみればよかったかもしれない。母上に頼めば伝書鳩を使わせてもらえただろう」

「それは今だから言えることで、当時だったら見知らぬ誰かに手紙を届けることになるのよ」

「それでもいいじゃないか。未知への探求だ。新たな愛、絆を探して」

「なんか恥ずかしいよそれって。軽薄っていうかさ。地上にいた時にそんな手紙が来たとして、私は絶対返信しなかったと思うな」

「それは残念だ。だが今こうして認め合えているのなら問題ないさ」

「……こんな小さな世界でお互いを認め合うなんて惨めじゃないかな」

 イニマは不安そうに目を伏せて、そのまま閉じてしまった。そうして口をつぐむと、黙りこんだまま俺の演奏に耳を傾ける。

「世界が外じゃなくて内にあると思えばいい。実際、物語なんてものが俺たちの魂のなかには納まっている。その物語を小さいと考えるか、大きいと考えるかは君次第さ」

 小さな溜息。そうして俺から離れていく。悲しみが指先を通して音色として溢れだしそうになった時、彼女が戻ってきた。部屋の隅に積みあげてあった椅子のひとつを運んできて、俺の右隣の置くと、そこに腰掛ける。それから、両の手をゆったりと伸ばし、おもむろに鍵盤に触れた。

 三つの手が鍵盤の上で踊りだす。ゆっくりとテンポをあげて、情熱的なダンスになる。体温を帯びた旋律が次々に紡ぎだされていく。”口”の音と同じく、今この瞬間においては、俺たちの音も確かに実体を持っていた。イニマに視線を向けると、驚いた? と言わんばかりの得意げな表情が返ってきた。驚いた。驚いたさ。そう瞳に込めると、彼女が頬をゆるめた。俺たちは語る言葉すら不要になって、ただひとつの音楽に包まれた。たった一粒の音が世界の全てに感じられた。


 車椅子を引きずるようにして部屋の前まで戻ってきた。こんなに充実した気分は久方ぶりだ。イニマとはまた、ああして連弾する機会があるだろう。すでにその時を夢見ながら少々上の空でいたものだから、部屋のなかで待っていた小さな来客が視界に入っていなかった。

 テーブルのそばに近づいてから、その上になにかが乗っていることに気がつく。誰だ、と聞こうかどうか迷った。けれど結局なにも言わず、封筒を手に取る。じっと”眼”が封筒を開ける俺を見ている。握りこぶしほど大きさしかない、非常に小さな”眼”だ。この”眼”だけは俺にも判別できる。たしかいつもノナトハのそばにくっついて回っていたものに違いない。封筒のなかには一通の手紙。その差出人はとても懐かしい人物だ。俺の愛する……。


――キレンヒミだ。やあ。イルイジュ。久しぶりだね。我々のことを覚えてくれているだろうね。小さな友に託すこの手紙がきっとあなたの元へと届くだろうと信じて、我々はこれを書いている。

 ノナトハが必要な我々を全て揃えてくれた。今ではこうして立派に手紙を書くこともできる。褒めてくれるかい。我々はもうすぐ星になる。”眼”の仲間入りだ。そうするとキレンヒミという我々の意識がどうなってしまうかは分からない。だからその前にこうして手紙をしたためておこうという次第だ。それに、今は緊急事態が発生していて、あなたに連絡をとらなければならない理由もあった。

 こちらの現状を色々と説明したいところではあるが、あなたを混乱させるばかりだと思うので、そうはしない。もし我々が星になり、空であなたと再びまみえて、語らうことが可能であったならば、その時にゆっくりと言葉を交わそう。そうなることを切に願っている。

 簡潔に伝えると家族が危険な状態だ。母上が何人かの子供たちを食べてしまった。その魂を取り込んだ。そして、特にノナトハを呑み込んだのが良くなかったらしい。我々は隣人に助けを求めた。隣の館の主はそれに応えてくれた。彼によると母上の症状は禁忌を犯した者に見られるものらしい。自分の前世を書き換えたんだ。前世が現世を変質させ、現世が前世を書き換える循環機構が形成されてしまった。

 母上の体は崩壊し続けている。前世と現世が浸食しあってるんだ。このままでは呑み込まれた家族も危ない。ノナトハを引っ張りあげることができれば、全員が助かるだろうと隣人は言っている。そのために必要なのが言葉だ。我々、家族たちには呼びかけることしかできないが、ノナトハを呼び覚ます言葉さえあれば、こちらに向かわせることができる。しかし、今のところ全てが失敗に終わっている。そこであなたの力が必要なんだ。

 イルイジュ。ノナトハへ向けた言葉をくれないか。小さな友人に渡せば、その手紙をこちらに届けてくれるはずだ。急なお願いだがよろしく頼む。あなたは我々に道を示してくれた。ノナトハもきっと導けるものと信じている。


 追伸。

 実を言うとこの手紙をしたためている時点では小さな友人への交渉はまだなんだ。星という同質の存在になったあかつきには交渉できると考えて手紙を用意しているのさ。無茶なのは誰に似たんだろうね。

 それではまた必ず会おう。


 我々の愛する父親、イルイジュへ。

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