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序章 みんなでごはん

 僕には生まれる前の記憶がある。僕の魂には今とはまったく違う人生が刻みこまれている。そこは今僕が居るところとは遠く遠く離れた場所。それどころか全く別の世界。異世界だ。

 かつて僕は生まれ、育ち、死んだ。そう、死んだはずだ。大人になる前に死んでしまった。どうやって死んだのかは分からない。思いだせない。母は僕がそれを思いだすことを許してはくれない。けれど前世の記憶の最後に色濃い死が漂っているのは事実だ。

 死んで、また生まれた。母が僕を産んだ。産み落とされて三人のきょうだいたちと共に育った。そしてまた新しく三人のきょうだいたちが産まれて、七人きょうだいになった。

 転生、と母は言った。魂に物語を刻みつけた子供。それが僕であり転生者だ。そして転生者は僕だけではない。きょうだいたち全員だ。

 母は転生者を産む。父はいない。母は単為生殖か無性生殖といった風に、ただひとりで子供を産む。そして子供でないものも産む。魂のない子供。それは腕だけ、耳だけ、臓物だけといったただの肉片で、這いずり回るだけの子供のなりそこないだ。

 かつての人生が記憶にあるというのは奇妙な感覚だ。前世界、前人生の僕であれば頭蓋骨に納められている脳のなかに全てがあると信じ切っていた。だから肉体が滅び、また生まれるなんてことはもちろん、記憶が継続しているなど信じがたいことだった。しかし今はもう信じるしかない。そうでなければ説明できない事態に襲われているのだ。ただし前世界の僕は現世界のこの僕とはまるで別物だ。つながっているようで、つながっていない。本人のようで、他人だ。記憶のなかに細部まではっきりと分かる鮮明で長大な自分が主演の映画がある、と言えばいいのだろうか。僕が主役ではあるが、その体験は現実ではなく虚構のなかにあるように思える。

 こんなことができる母は何者なのか、それは分からない。顔のない顔にはぽっかりと穴が空いている。真っ暗な深淵だ。そして背中からは翼が生えている。それ以外はまるで人間。母に「母さんは僕とは違うなにかなの?」と尋ねてみても「ノナトハと同じだよ」と、僕の名前を呼んで納得できない答えを返してくるばかりだった。しかしながらそれは幼い日の疑問。成長すると共に僕はそんな疑問をどこかに置いてきてしまった。そもそもこの世界、この館、そしてきょうだいたち、その全てが驚嘆すべき存在であり理解の及ばないものだと悟ったのだ。この世界に馴染んだ、とも言えるかもしれない。僕にできるのはただ受け入れることだけだ。

 母と僕、そしてきょうだいたちの八人はひとつの館に暮らしている。母の館だ。僕は生まれてこの方この館から出たことはないし出る必要もなかった。出てみたいか、と聞かれれば、散歩ぐらいはしたい、と答えるかもしれないが遠く離れてどこかに行きたいとは思わない。

 そもそも外に出ることなく、バルコニーから広い世界を眺望できる。僕はこの館が好きだ。母も、きょうだいたちも、大切な家族でありずっと一緒にいたい。とは言えそもそもこの館には出入り口というものが存在しないので、こんなことは無為な想像だ。外に出れるのは翼を持っている母だけで、母にとってのみバルコニーが出入り口だ。

 バルコニーから眺めていればよく分かるが、この世界は一定ではない。常に変質している。前世界と同様に現世界にも太陽があり月がある。けれどそれらが地平線から顔を覗かせるのが西だったり、東だったり、その速度も速かったり、遅かったりだ。稀に色や形が違っていたり、ひとつではないようにすら見えるのだから一日を計ることなんてとてもできやしない。それでも確かに時間は存在している。館のあちこちに置いてある時計。文字盤とは名ばかりで目盛りも数字も書かれていないまっさらな丸や四角の板の上を大小様々な無数の針が好き放題に動き回っている。それは時計と言うよりも、板に張りつけられて回転する針鼠と言ったほうが正しい代物だが時計であるのは間違いない。その根拠を言うならば僕はそれを見ると時間が分かるからだ。今、が一日の時間においてどのあたりに位置しているのかが判別できる。教わったりしたわけではないが、これはこの世界に生まれた者が当然のように持っている感覚のようだった。

 だから僕は机の上の置時計を見て、もうじき、ごはんの時間、だということがはっきりと分かった。

 ごはんの時間には家族八人全員が食堂に会する。母が食堂のわきにある台所で料理をしている間、きょうだいたちを呼び集めるのは僕の役割だ。この役割を母が僕に任命して以来、時間に遅れる者がいなくなったと評判だ。なにせきょうだいたちは個性豊かで、てんでバラバラ。まとまりなんてありはしない。自由気ままな人たちなのだ。みんな母には従順だけれど時間を気にしたりする者はほとんどいない。それに決してきょうだい同士の仲がいいとも限らないから、誰とも中ぐらいの距離を保っている僕が適任なのだ。

 僕の部屋は右館の三階。この館は右と左に分かれており、それぞれ右館と左館と呼ばれている。いずれも四階建てで一階でつながっているが、その他の階層では直接右と左を行き来することはできない。右館の四つの階層それぞれにきょうだいひとりずつの私室があり左館も同様だ。ただし左館の三階はきょうだいではなく母の私室になっている。集合場所である食堂は左館の四階。今僕がいる右館の三階からは大分遠いが、きょうだいたち一人ひとりに声をかけて回るにはぴったりな位置だ。


 僕は鉛筆を置いて、書きかけの日記を広げたまま、ぐっと背伸びして体を軽くほぐした。さっそくみんなを呼び集めるべく椅子から立ちあがる。そうして扉をふり向いた時、不意に違和感を覚えた。

 部屋を見回す。ふたつの扉。それぞれ廊下とバスルームにつながる扉だ。それから机に椅子、棚にベッド。主な物はそれぐらい。我ながら簡素な部屋だが余計なものを置きたくないのでこれぐらいが丁度いい。その代わり机の上は雑然と色んな物が散らかっている。広げっぱなしのノートに鉛筆に消しゴム。ハサミやカッター、紙の切れ端。置時計に卓上電灯。棚は今まで僕が書いた日記で埋め尽くされている。日記を書くのは僕の趣味のひとつだ。凄まじい量ではあるが、これだけの月日を過ごしたという実感はまるでない。本当にこれだけの時間をかけて自分が成長したのか確証が持てない。一瞬で今の状態まで成長した気もするし、長い時間まったく成長していない気もする。

 天井と壁を経て床に視線を這わせる。そうしてベッドに目をやった時、違和感の正体を見つけた。青白くて細い指がベッドの下の影からはみ出している。とても人が入れるような大きな隙間ではないはずだが、そこに誰かがいるのは確かだ。ほのかにヘリオトロープのような香りが立ち昇ってきて、指が尺取虫のように蠢くと、尖った爪がカリカリと床を引っ掻いた。

 僕は腰を折って床に手をつくと、頬を床スレスレに近づけてベッドの下を覗きこむ。その隙間は握りこぶしが入るかどうかというぐらいの幅しかない。骨ばった小さな手と腕が見えたが、その先はすっぽりと闇に呑まれていて判然としない。

「ごはんの時間だよ」

 僕が言うと、細い闇の奥に満月のようなふたつの瞳がギョロリと浮かんで、三日月のような口がケタケタと笑った。

「ごはんの時間だよ」

 繰り返すと燐光を放つ大きな瞳がとぼけたように瞬いて、ぷいっ、と視線をそらすと消えてしまった。いつの間にか外に出ていた手も闇のなかに引っ込んでしまっている。

 どうやってこの闖入者を闇のなかから引っ張りだそうかと隙間を覗きこみながら考えていると、突然背筋がゾクリと震えて反射的に後ろをふり返った。キリキリと金属を引っ掻くようなかすかな音が棚の影から聞こえてくる。

 そちらに意識を向けた瞬間、首筋に生暖かい息がはきかけられて、僕は思わず「わっ」と声をもらして跳びあがる。ベッドの下からは心底楽しそうな笑い声が聞こえてくる。こんなことをするのはひとりしかいない。

「エポヌ。もう満足した?」と聞くと、ひょっこりと妹が顔を出した。両手でベッドの枠をつかんで爪先をちらちらと動かすと「ノナは吃驚してくれるカラ好きだヨ」と、のこぎりで竹を削っているような濁った声でささやいた。非常に聞き取りずらいのだが、そこは家族。もう耳が慣れてしまった。そうして「爪を頂戴ヨ」と、目を見開いて耳元まで裂けた口から牙を覗かせた。威嚇しているような表情だが、彼女なりに微笑んでいるのだ。

 エポヌは上から五番目のきょうだい。僕が四番目だからひとつ下の妹だ。人を驚かすのが何よりも好きなのだが、きょうだいたちのほとんどは物怖じしないものだから、そのなかでは怖がりな部類に入る僕がもっぱらの標的になっている。

 毎度手を変え品を変え驚かされているが別に嫌ではない。それどころか次はどうやって驚かされるかほんのちょっぴり楽しみにさえしている。

 机の方にいって引き出しのなかから爪切りを探す。そうして中途半端に伸びた爪をパチンと切った。細い半月型の爪を指先でつまんでエポヌの前にぶらさげる。すると彼女は、にゅっ、と両手を伸ばしてそれを受けとった。

 僕はチャンスを逃さずにその両手を捕まえて、大根でも引き抜くようにベッドの下からエポヌを引きずりだす。彼女は猫のように伸びながら這いでてくる。古ぼけた椿の着物にしっかりと巻かれた帯の厚みを見ると、細身とはいえこんな狭い隙間に入っていたなど全くもって不思議でしょうがない。そもそも頭の時点でつっかえそうなものだが、僕が理屈と信じこんでいるものが通用しないのがこの世界であり、母であり、きょうだいたちなのだ。ただありのままを受け入れるしかない。

 立ちあがった拍子に、さらりとエポヌの髪が流れて肩に落ちる。角度によって漆黒にも黄金にも見える奇妙な髪色だが、今は吸い込まれそうな暗闇に染まって見える。挿された銀のかんざしがゆれて、先についた鈴が錆をこすったような音をたてた。

「ごはんの時間だから食堂に集まって」

「今、クムちゃんとふたりでかくれんぼシテるのヨ」

「かくれんぼか。鬼はどっちなの」

「わたし」

「クムモクモがどこに隠れてるか分かる?」

「知らナイ。探してアゲようカ」

 エポヌは言って、かつん、と首を傾げた。

「いや、僕が探すよ。エポヌは先に食堂に行って」

「ウン」と、エポヌが頷くと同時に誰かに足首を掴まれた感覚がして、驚いた僕はあごと喉がくっつきそうなぐらいに勢いよく視線をさげた。そこにはいつもと変わりない自分の足がスニーカーに差しこまれているだけだ。

 顔をあげるとエポヌは目の前から忽然といなくなっていた。いつの間にか開けられていた扉をふり返ると、チラと着物の袖が舞うようにして音もなく廊下の方へと消えていった。

 エポヌが言っていた「クムちゃん」とは上から六番目のきょうだいのクムモクモのことだ。クルクルと細かく巻かれた毛を足元まで伸ばしていて、まるで羊の毛を大量に集めて丸めたような姿をしている。僕はこのきょうだいが弟か妹かすらいまだ知らない。この子は獣のような唸り声を発するばかりで、言葉らしい言葉を喋らない。けれどこちらの言葉が通じないわけではなかった。食いしん坊で、とりわけ「ごはん」という言葉には敏感なので、行く先々で「ごはん」と呼びかければ、おそらくはすぐに見つかるはずだ。


 部屋を出て廊下を抜けると温室がある。右館の三階にはこの広々とした温室と、様々な運動ができるトレーニングルームがある。僕はとりあえずこの階層全体に聞こえるぐらいの大声で「クムモクモ。ごはんの時間だよ!」と叫んでみたが、まったく反応はなかった。

 温室にはねっとりと絡みつくような空気が充満しており、青臭い植物と土の匂いが混じり合った香りが鼻をつく。我が物顔をした太い樹々が地面、壁、天井を問わず根を張って破れた傘のような葉を広げている。階段の方へと梢をかき分けながら進む。好き勝手に植物が枝葉を広げて見渡す限りが緑に覆われているものだからとても室内とは思えない。まるでジャングルに放りこまれたようだ。風がないにも関わらずザワザワと藪がゆらめいて、今にも猛獣が飛びでてきそうな風情がある。

 そんなことを考えていると、本当に藪のなかからなにかが飛びだしてきた。

「ぎゃっ」と叫んで後ろに飛びのく。なにかが顔に張りついている。両手で顔をかきむしるようにして引きはがすと、それは”手”だった。なりそこない、だ。

 僕につかまれたやや肉付きのいい”右手”が逃れようと身悶えする。なりそこないはただのゴミだ。その名の通りの存在で、動いてはいるけれど形を成せず生きてはいない。魂がない。母にそんな風に教わった。だからこれも捨てるべきなのだが、そのためだけにダストシュートのある自室まで戻るのは面倒だった。

 逡巡していると藪が突然震えるやいなや、たくさんのなりそこないたちがうぞうぞと這いだしてきた。カチカチ歯をうち鳴らす口もいれば、びたんびたんと小さく跳ねる足や、コツコツとぶつかり合っている尖った骨もある。掃除道具がないと怪我をしそうな面々だ。

 温室は物陰が多いから、なりそこないがたむろしてしまって困る。基本的に館を徘徊しているだけで害はないが、こうして群れはじめると動きが活発になって厄介なのだ。またそのうち大掃除をしないとけないが今は構っている暇はない。

 僕は”右手”をなりそこないの群れに投げいれると、さっさとその場を立ち去ることにした。


 小走りに温室を抜け、階段まで辿りつく。上と下に続く階段。僕は上に続く階段に足をかけて暗い四階へと一歩一歩のぼっていく。

 四階には使っていない食堂がある。現在使っている食堂は左館のものだけだ。右館と左館はほとんど同じ構造になっていて、鏡写しのように同じ設備が備えられている。左右の館は双子のように似通っているのだ。だからこうして使われていない設備もあって無駄が多いようにも感じるが、リントロメ兄さんが言うには「この世界に無駄なものなどなんにもない」らしいので、これもいつか役に立つことがあるのだろう。

 右館の三階と四階の間で足をとめ、階段の途中から背伸びをして四階を覗きこむ。四階は明かりひとつなく真の暗闇に沈みこんでいる。エポヌの私室が奥にあるが彼女にはもう呼びかけたのでそこへ行く必要はない。

「クムモクモ。ごはんの時間だよ」

 僕の声は余韻すら残さずに呑みこまれて、闇の奥からは痛いぐらいの静寂が跳ね返ってきた。ここにも隠れてはいないらしい。僕はすぐに踵を返して今度は右館の二階へと向かう。ちょうどクムモクモの私室があるので、そこが次の目的地だ。もしかしたらかくれんぼのことを忘れて部屋に戻っている可能性もある。


 右館二階にはクムモクモの私室の他に創作工房と衣装室、それにバルコニーがある。二階は右館と左館の設備が少し異なっていて、あちらは弟のテタドの私室の他にシアタールームと展示室がある。バルコニーがあることだけは共通で、どちらも館の前面に向かって張りだしている。

 クムモクモの私室に向かう途中、工房の扉が開いていたので覗いてみたが誰もいないようだった。念のため呼びかけようと息を吸いこんだ瞬間、がさりと物音がしたのでそちらに目を向ける。隅に立てかけられているカンバスから布がずり落ちて絵があらわになっている。僕の描きかけの絵だ。しかもその足元には、なりそこないがのそのそと動いている。どうやらそのなりそこないが布を引っ張ったらしい。

 絵が無事か心配になった僕は、慌てて駆け寄ってなりそこないを拾いあげた。”心臓”だ。どくん、どくん、と脈動が手のひら全体に伝わってくる。のみにでも引っかけたのか、その表面には大きな爪痕のような傷ができていた。”心臓”のなりそこないは珍しい。大抵は人体の末端部分で中心に近いパーツのなりそこないは滅多に見かけない。けれどなりそこないはなりそこない。その事実に変わりはない。僕は無造作に”心臓”をダストシュートに放りこんだ。ゴミは地下へと送られて、自動的に処理される。

 布をかけなおす前に絵の状態を確認する。汚れたりはしていない。絵を描くのは日記を書くのと同じ僕の趣味。描くのは前世の世界、夢のなかの光景、想像上の風景、そして家族。今描いているのはウルキメトコ姉さんの肖像画だ。姉はどんな姿勢でもピタリと静止して瞬きもせずに硬直することができる。だからとても優秀なモデルだ。

 絵のなかのウルキメトコ姉さんは無表情のままピンと背筋を伸ばして椅子に腰掛け、ぱっちりと開けた硝子玉のようなまん丸の瞳で遠くを見つめていた。シャープなシルエットをした灰色のスーツを身にまとい、幾何学的なデザインのブローチと髪飾りがアクセントになって凛とした印象がより強調されている。透き通るような、と言うより実際透き通っている髪は光を孕んで虹色に輝いており、この部分を描くのが一番大変だった。確かこの時は、笑って、と注文したのだがどうやっても聞きいれてもらえなかった記憶がある。一応完成しているとも言えるがなにかが足りないような気がして、後で手直ししようと思ったまま放置していた作品だ。

 しばらく絵を眺めて、そこに足りないものについて思いを巡らせていたが、ハッと今の自分の使命を思いだした。みんなを呼び集めないといけない。それからクムモクモを探さないと。

 絵に布をかけて工房を出る。そうして廊下を抜けてクムモクモの私室の扉の前に立った。すぐ近くにバルコニーに出るガラスの扉があるが、外は風が強いらしく、バンッ、バンッと誰かが叩いているかのようにゆれている。

 ノックして「ノナトハだけど」と名乗ったが返事はない。もう一度ノックしてみると扉がゆっくりと開いた。けれどクムモクモが開けてくれたわけではないようだった。元々扉が半開きになっていたようで、僕がノックした拍子に開いてしまったのだ。

 部屋のなかには小さな大自然が広がっていた。三階にある陰鬱とした雰囲気の温室とは違って、色とりどりの花が咲き乱れ、可愛らしい実をぶらさげた樹が部屋の真ん中に鎮座している。そのわきを小川がさらさらと流れており、蝶すら舞い踊っているという不可思議な空間だった。

 爽やかで柔らかな空気が部屋のなかから吹きだしてくる。僕は夢の野原につながる扉を開けてしまったかのような感覚がして戸惑ったが、すぐに気を取りなおしてきょうだいの名前を呼んだ。けれどやはり不在のようだ。

 廊下に出て大きな声で「クムモクモ。ごはんだよ」と、今日何回目になるか分からない呼びかけをおこなったが、なんの手ごたえも得られなかった。

 一応バルコニーにも出てみることにした。扉を開けるとバルコニーに設置された郵便ポストから空色をした伝書鳩が飛びたつところだった。投函された手紙は一階にある受け取り口に届くようになっている。母宛ての手紙しかないので、子供の僕らには特に関係のないものだ。

 手すりから身を乗りだすと、館の正面方向が遠くまで見渡せる。景色の大部分は森だ。樹というよりは巨大な芽のように見えるものが生い茂っている。遥か遠くの切り立った山の稜線で世界が切り取られており、その向こう側を窺い知ることはできない。森には大量の館があり、真新しいものもあれば、打ち捨てられ、朽ち果てたようになっているものもある。そのそれぞれに僕らのような家族が住んでいるのだと思うと妙な気分になった。他に見えるのは巨大な槍のような塔だ。塔の先は空に吸いこまれていて、地面から空に伸びているのか、空から伸びてきて地面に突き刺さっているのかも判然としない。塔をたどって空を見上げると、月が星々を引き連れて空の上で煌めいている。

 一息ついて空を眺めていると星がちらちらと瞬いた。そうしてまた別の星が瞬いたかと思えば次々に星が現れては消える。けれど実際に星の光が明滅しているわけではない。星の光をさえぎるようになにかが横切ったのだ。それはとてもたくさんの数存在していた。真っ暗な球体とも穴ともわからないなにか。それが空の上からやってきて地表近くに降りたつと、森の各処に点在する館の周りを飛び回っている。綺麗な館、汚れた館、古い、新しいの見境もなくそれらは館を巡っていく。

 僕らのいる館にはやってきた試しがないので、それを間近で見る機会は今までに一度もなかった。だから一体なにをやっているのかはまったく分からない。この館から一番近い場所にある隣人の館にもたくさんのそれがまとわりつくようにして飛び回っているが、特に害はなさそうだということが見て取れるだけだ。

 そうして眺めていると、隣人の館の窓に楽し気に行き交う人影が見えた。あちらでも楽しいごはんの時間がやってきているのかもしれない。そんな風に考えながら手すりの向こうに両手を垂れさげるようにしてもたれかかっていると、突然猛烈な風が吹きあげてきて足裏がわずかに浮きあがる感覚がした。危ない、と思って手すりにつかまるが、さらに風が煽ってきたものだから僕は背中を押されたように体を乗りあげてしまう。足をばたつかせるが、そうしているうちにも遠すぎる地上が真っ暗な闇となって目の前に広がった。墜落したらとても命がないような高さだ。

 次に風が吹いたら最後、もう助からないと思った時、背中をぐっと引っ張られる感触がした。僕は手すりの内側に足を思いっきり踏ん張って、なんとかバルコニーの床に着地することに成功する。荒い息をはきながら誰が助けてくれたのかと救世主の姿を探したがどこにも見当たらない。かわりに三階の窓の隙間を通り抜けて温室からバルコニーの上まで垂れおちている樹の枝が目についた。その鋭い枝の先に僕のシャツの切れ端がついている。着ているシャツの端が破けていることから察するに、どうやらその枝に引っかかって助かったようであった。

 室内に戻って息を整える。ふっ、と甘い香りがただよってきて顔をあげたが、影がかすかにゆらめいた気がしただけで長い廊下のずっと先まで誰の姿もなかった。ドキドキとうるさい心臓を落ちつけると、僕はふうとため息をついて一階へと向かうことにした。


 一階は館のなかでも特に広い。そして天井がすごく高い。中央には右館と左館をつなぐ長い廊下が横たわっており、右館側には巨大な倉庫とイルイジュ兄さんの私室。左館側には書室と診察室、そしてリントロメ兄さんの私室がある。特筆すべきは劇場で、右館と左館をまたぐつくりとなっている。右館側に舞台、左館側に客席、ちょうどその間に右と左のふたつの館を隔てる溝が位置しており、その天井部分がそのまま開口部になっている、というだいぶん変わった構造になっている。中央にある開口部の下は雨風にさらされるわけだが舞台と客席との間には距離があるのである程度は大丈夫だ。

 まずはイルイジュ兄さんの私室を訪ねようとしたが、劇場からピアノを奏でる音がもれ聞こえてきた。すぐにピンときて右館側にある舞台につながる扉へと向かう。そうしてなかに足を踏み入れると、予想通り舞台上には激しく鍵盤と向かいあうイルイジュ兄さんがいた。舞台の中央に置かれたピアノと燃えるような赤毛をふり乱す兄がいくつもの照明に照らしだされている。深緑色の礼服を着た兄は音楽に没頭しているようで、舞台袖からのぞく僕に気づく様子はない。うすく滲んだ汗をキラキラと輝かせながら真剣な表情で情熱的なメロディを奏で続けている。

 イルイジュ兄さんはきょうだいの上から三番目、四番目の僕のひとつ上の兄だ。愛情深く、思慮分別のある素晴らしい人だ。ただ、その愛が大きすぎるのが玉に瑕ではある。

 荒れ狂う炎のような音楽を息を呑んで聞き入っていると、ピタリと演奏がやんだ。僕が怪訝に思っていると兄は不意に席を立ってハンカチで汗を拭う。そしてくるりと見事なターンを披露すると僕の方へと振り返った。

「どうしたんだいノナトハ」

 良く通る声が劇場のなかに朗々と響いた。気づかれていないと思っていた僕はドギマギしてしまいながらも舞台袖から舞台の上へと半歩踏みだす。

「気づいてたの?」

「もちろんさ。愛しのきょうだいの熱い視線には敏感なたちでね」

 面映ゆくなるような台詞と共に、カツカツと靴音高らかに兄がこちらへとやってくる。先程までほとばしっていた情熱はどこに身を隠してしまったのか、その表情には爽やかな微笑みだけをたたえている。

「そろそろ、ごはんの時間かな」

「そう。呼びにきたんだよ」

「いつもありがとう。愛しのノナトハ」

 ねっとりと歯の浮きそうな愛のささやきと共に瞳の奥をのぞきこまれる。そうするとバラのようなコロンの香りがツンと鼻の奥に響いた。僕がいつものように返答に窮していると、兄は僕の頭を撫でて、舞台袖へと向かう。劇場から出ていこうとする兄の背中をただ眺めていた僕は探し人のことを思いだして慌てて声をかけた。

「イルイジュ兄さん。クムモクモを見なかった?」

「いいや。どうかしたのかい」

「エポヌとかくれんぼしていたらしいんだけれど、見つからないんだ」

「うーん。残念ながら、見かけてないな」

 兄は申し訳なさそうに目を伏せて。ややあって顔をあげると「そうだ、リントロメが客席にいる。俺の演奏を熱心に聞いていてくれたのだよ」と、舞台へ戻ってくると芝居がかった動作で客席の方を指差した。

 明るい舞台の上から薄闇のなかに目を凝らす。イルイジュ兄さんの指先をたどってよく探すと、客席の真ん中にリントロメ兄さんを見つけた。

 リントロメ兄さんはややうつむいており、もじゃもじゃの白鬚と綿のような眉毛が顔の上で混然一体になっている。つるりと禿げあがった暗褐色の頭に向かって「おーい。リントロメ兄さん。ごはんの時間だよ」と、大声で呼びかけると、どうやらうたた寝していたらしい兄はピクリと身じろぎをしてゆっくりと頭を持ちあげた。

「ふわぁぁぁ」と、気の抜けた欠伸と共に、骨が引っかかっているようなぎくしゃくとした動作で兄が伸びをする。肩にかけられていたボロボロの袈裟がずり落ちて、胸元から痛々しい傷か断崖のような深い皺がのぞいた。

 リントロメ兄さんは一番上のきょうだいだ。と言ってもその姿はいささか高齢すぎるように見える。母よりも年下、あまつさえその子供には思えない。きょうだいたちのなかでも特にのんびり屋で悠々自適。けれど年長者らしい威厳もあり、大自然に腰を据える巨岩のような雰囲気をたたえた人だ。

 すっかり体がほぐれた様子のリントロメ兄さんが「坊や。なんだい」と、ささやいた。かすかな声だが舞台と客席という距離を隔てていても不思議とはっきり聞こえた。

「ごはんの時間だよ」

「はあ?」

「ごはんの時間だよ!」

「なんだって?」兄は手を耳にあててこちらへと向ける。兄の言葉はよく聞こえるのに僕の言葉は向こうに届いていないらしい。

「ご、は、ん、の、じ、か、ん、だ、よ!」

 僕が叫ぶようにして伝達すると兄はうんうんと頷いて「ごはんだね。分かったよ」と、了解してくれた。

 リントロメ兄さんは席を立って鉤のように背を曲げながら、のっしのっしと床を踏みしめて客席側の出口から劇場を出ていく。必死で叫んでぜえぜえと息をはいていた僕はすっかりクムモクモの行方を聞きそびれたことに気がついた。しまった、と思ったがもう遅い。けれどずっと客席で眠っていたのならおそらくは知らないだろう。それに現状でだいぶ範囲は狭められている。今まで通り地道に探していけば見つかるはずだ。

 声をかけていないのはあと三人。ウルキメトコ姉さん、クムモクモ、テタド。けれど、ウルキメトコ姉さんは僕が呼ばなくても、いつも時間ぴったりに食堂の席についている。時間に正確できっちりした人なのだ。だから実質あとふたり。クムモクモとテタドだけだ。テタドに声をかけるまでにクムモクモが見つからなかったら、この末弟に探すのを手伝ってもらおうと僕は心のなかで決めていた。


 劇場を出ようとすると扉のそばでイルイジュ兄さんが僕を待っていた。いつの間にか衣装が明るいクリーム色の礼服に変わっており、すぐ近くにある私室で着替えてきたらしかった。

 僕が近づくと兄は「クムモクモを探すのを手伝わせてくれないか」と、申し出てくれた。

「じゃあ、お願いしていい?」

 僕はそれをありがたく受け取って、ふたりで一緒に一階を見て回ることになった。

 右館の一階はほとんどが倉庫になっているが、そのどこにもクムモクモはいないようだった。地下へと続く階段の前を通りがかり、まさかここに入ったんじゃないだろうか、と頭を過ったが流石に探しにいくのはためらわれた。地下は右館と左館の下部を横断する一個の大空間となっており、この館の機関部だ。電気、水道、空調などを管理するあらゆる機械がひしめきあって唸りをあげている。ゴミを処理する機械などもあり、非常に危険なので立ち入らないようにと母から厳命されている。

 地下はいったん保留として僕らは左館の方へと向かうことにした。けれど左館一階でもクムモクモを見つけることはできなかった。なので僕らはクムモクモの探索を一時中断して先にテタドを呼びにいくことにしたのだった。


 左館の二階。その廊下の奥。バルコニーのそばにテタドの私室がある。

 扉をノックするとすぐに返事が聞こえて、うすく扉が開けられた。大きめの耳当てがついた鹿撃ち帽のしたから鋭い視線が投げ放たれる。部屋のなかからほのかにお香の匂いが漂ってきて、煙った室内に置かれた小さな机の上に大量に積まれた本が見えた。

 テタドは一番下のきょうだいで、とにかく人当たりが強く、口が悪い。目付きも悪くてとっつきにくい雰囲気をまとっているがまだ子供らしい人懐っこさも残っている。きょうだちたちには辛辣だが母にはどこまでも従順だ。

 テタドの視線は僕の顔のあたりをしばらくただよって、その後ろにいるイルイジュ兄さんに向けられた。その途端扉が閉じられて、向こう側から「ごはんの時間でしょ。もうすこししたら行くから」と、そっけなく言い捨てられてしまう。

「ごはんの時間でもあるんだけど、ちょっといいかな」と、僕が扉越しに言うとまたうすく扉が開けられて邪険にゆがめられた口元がのぞいた。

「なに? ボク忙しいんだけど」

 テタドは警戒するように後ろのイルイジュ兄さんへ、ちらと視線を向ける。弟はこの兄に対して特に険悪な態度をとる。兄の熱烈な愛のささやきに冷笑を返して、くだらないこと、としてぴしゃりとはねのけるのはもはや見飽きた光景となっている。

「クムモクモを見かけなかった?」

「ないけど。あのケモノどっかにいったの?」

「エポヌとかくれんぼをしたまま行方不明なのだよ」

 イルイジュ兄さんが大仰に手を広げながらしゃべると弟は眉をひそめた。それは兄の芝居がかった動作が気に障ったのか、その言葉の内容に興味をひかれたからなのか、僕はおそらくその両方だろうと思った。

「探すのを手伝ってくれないかな」と、僕がおずおずと切り出すと「ふーん」と、弟は息をはいて僕らの全身を舐めまわすように観察した。

「いいよ。教えてあげる」

「ありがとうテタド」

 テタドは謎解きが大の得意なのだ。探し物を頼むとたちどころに見つけてくれる。弟もこうして謎を持ちこまれるのは大歓迎のようで、こうした時には若干態度が軟化するようにも思える。

 僕が今までの探索状況を伝えようとすると、弟はこれを制して「後ろの色ボケがどこにいたのか教えてくれるだけでいいよ」と、棘のある言葉を放った。兄はその言葉にすこし肩をすくめたが「愛しのきょうだいが俺に興味を持ってくれて嬉しいよ」と、顔をほころばせて前向きに胸を張った。

「うるさい。早く教えなよ」

 イライラした口ぶりに兄は悲し気に目を伏せたが、すぐにしっかりテタドを見据えて「今日は日がな一日劇場のピアノに抑えきれない愛の衝動をぶつけていたのさ。メロディに乗せて俺の愛が家族みんなの元へと届くようにね」と、胸を震わせるようにしながらしなやかな手を天に向かって差し伸べた。

「気持ち悪いことしないでよ。じゃあふたりが会ったのは劇場の舞台だね」

「そうさ」と、兄が頷くと「本当にずっと劇場にいたの」と、テタドは疑わし気な視線を向けた。

「もちろん本当さ。ずっと劇場にいたよ」

「地下へは行かなかったの」

 この問いには僕も兄と一緒に首をひねった。母ですら滅多に行くことのない場所に兄がわざわざ足を踏み入れる理由があるとは思えなかった。

「地下? いいや」

 兄は首を横にふる。

「嘘つき」

 それは突き刺さるような響きを帯びていた。

「本当は行ったでしょ。靴に機械油がついてるよ」

 言われてイルイジュ兄さんの足元に目を向けると、確かにつややかな革靴の側面に黒っぽい泥のような汚れが付着している。

「……ああ。そういえば行ったよ。忘れていた。すまないね。劇場の照明の具合がおかしくってね。なにか不調があるんじゃないかと見に行ったんだ」

 兄が急に思いだしたというように語ると、テタドは、ふんっと鼻を鳴らす。僕は館の設備の不調など今まで聞いたことがなかったので、内心で驚きながら「大丈夫だったの?」と、兄に尋ねた。

「心配ない。気のせいだったようだ。なにも異常はなかったよ。愛しいきょうだいよ。不安そうな顔をしないでおくれ」

 僕の頭に軽く触れた兄に対して「そんな嘘、すぐばれちゃうのにさ」と、テタドは意地悪な笑みを浮かべた。そして扉をバタンと開くと目がくらみそうな複雑怪奇な模様が描かれた外套をひるがえした。

「馬鹿な兄ちゃんたちのかわりに、ボクがケモノを見つけてあげるよ」

 言い放って僕と兄の間を颯爽と通り抜けると、階段の方へとずんずん歩いていく。あまりに確信めいたその足取りにやや呆気にとられつつも、僕らは置いていかれないように小さな背中を追いかけた。


 テタドに導かれてやってきたのは劇場だった。弟は舞台の上を一直線に移動してピアノのそばでぴたりととまる。そうしてあちこちから照らしつける照明に目を細めながら、小さな手で天井を指し示した。

 僕とイルイジュ兄さんが揃って見上げると、高い天井付近、照明が取りつけられた大きな梁の中央に丸々として巨大な毛玉がくっついていた。その姿形は確かにクムモクモだった。

「あんな分かりやすいところにいるのに気がつかなかったの。本当に馬鹿だなあ」

「すごい。どうして分かったの?」

 僕が感嘆して聞くと、弟は自慢げに口の端をあげて帽子に覆われた自分の頭を指先でつついた。

「こんなのは観察力の問題で推理ですらないんだよ。そこにぼけっと立ってる色ボケの頭を見てごらん」

 あごで指されたイルイジュ兄さんの赤毛をじっくり観察してみるが特におかしな点は見当たらない。いつも通り燃えあがるような赤毛が幾重ものうねりを作っているだけだ。兄も怪訝な表情をして自分自身の頭を確認しようと上目遣いで毛先を見たが、流石にそれは無理があるようだった。

 そんな僕らの様子をもどかしそうに見ていたテタドがイルイジュ兄さんのそばに近づくと、手招きするように指先をちょいちょいと動かした。そのジェスチャーの意味するところを読み取った兄は膝を折ってテタドと視線を合わせるようにしてひざまずく。

 テタドはイルイジュ兄さんの赤毛のなかに手を入れて数本の毛をつまみあげた。それは赤毛ではなく淡い緑色をした柔らかい毛で、くるくるとバネのように小さな渦を巻いていた。誰の目にも明らかにクムモクモの毛だ。

「この毛がついてたのはこっちの色ボケの頭だけ。それに気がつけば、ふたりの行動範囲の違いを照らし合わせて頭上に足場がある場所を考えるだけでいいんだよ」

「さすがはテタドだ。愛すべき聡明な頭脳に称賛を送ろう」

 イルイジュ兄さんが大袈裟に手を打ち鳴らすとテタドはうっとうしそうに眉をひそめたが、すぐに瞳をぐにゃりと歪めて「そんなものはいらないよ」と、ふり払うように言って「それよりどうして地下に行ったのかな。照明の不調っていうのが本当なら天井を見上げてあのケモノがいることに気がついたはずだよ」と、攻めたてるように言葉を並べた。

「さあ。どうかな。あまりに熱を込めて演奏していたものだからね。疲れていたのかもしれない」

 兄は物憂げに表情を陰らせたが、すぐに照明を全身に受けて瞳を輝かせた。

「ああ! すまなかったねクムモクモ。愛するきょうだいが愛の調べを受けとめていていたことに気がつかなかったなんて」と、声高らかに頭上へと呼びかけた。

 それから謝罪の言葉を延々と述べるイルイジュ兄さんにテタドは追及する気が失せたように「馬鹿の相手はもう疲れたから、先に食堂に行ってるよ」と、舞台袖の方へ歩いていった。そうしてテタドが袖幕を手でどけた時だった。弟は「うわっ!」と、叫ぶやいなや横っ飛びに後ずさった。その声に驚いて視線を向けると袖幕の下に青白いなにかが引っ込んだように見えた。袖幕の端のヒダが膨らんでいる。そこになにかがいるようだ。

 テタドが乱暴に袖幕をめくったが、そのなにかは別のヒダに素早く移動して「ケケケ」と、布が擦れたような笑い声を漏らした。

「クソッ! オバケ姉、今に見てろよ!」

 テタドは軽く地団太を踏むと、ぶつくさ不満をこぼしながら扉を叩きつけるようにして劇場から出ていった。

「エポヌ?」

 呼びかけてみたが袖幕のヒダはいつ間にかどれも均等な波を描いており、そのどこにも人の気配は見当たらなかった。ヘリオトロープの甘い香りだけがかすかにただよってくる。

 僕が舞台袖に意識を向けていると、イルイジュ兄さんが「どうしたものかな」と困ったようにつぶやいた。僕はその声で最優先事項を思いだして、ピアノのそばに立っている兄の元へと戻った。天井を見上げると梁の上の毛玉はゆっくりと膨らんでは縮んで、縮んでは膨らんでいる。

「寝てるのかな」

「そのようだ」

 ついさっきイルイジュ兄さんがあれほどやかましくしていたのに熟睡し続けているなんて、なんとも図太いと言わざるをえない。けれどそんなクムモクモが確実に目を覚ますであろう一言がある。

 僕が息を吸い込んで、「ご」はん、と呼び掛けようとした瞬間、イルイジュ兄さんはそれを手で制して、しっ、と指先を口元へやった。

「見てごらん。ずり落ちそうだ」

 確かにまん丸な毛玉は梁の中心軸から横にずれて半身を乗りだしている。

「今起こしてしまうと墜落してしまうかもしれない」

 兄の心配はもっともだったので僕は危うく口にしそうになった言葉を呑みこむ。もう一度目を凝らして見上げると、毛玉は梁の端で今にも落ちそうに、ぐらぐらとゆれているように思えた。

「梁にのぼって寝ているクムモクモをそのまま抱っこして持っておりようか」

 僕が提案すると兄は「うん。それは名案だ」と、頷いてさっそく舞台裏に向かおうとしたので、僕は慌ててそれをとめた。

「ちょっと待って。僕が行くよ」

「この兄を信頼してくれたまえ。愛するきょうだいのため、あのぐらいの高さはなんでもないさ」

「そうじゃなくってさ」

 僕が言うと兄は首を傾げる。

「その……、イルイジュ兄さんがつけてるコロンの匂いで、びっくりさせちゃうかもしれないよ」

 兄は、あっ、という顔をしてその香りを確かめるように鼻をひくつかせた。クムモクモは匂いに非常に敏感なのだ。兄からただよってくるコロンの香りはほんのかすかだが、抱っこするぐらいに近づいたら流石に嫌がる可能性がある。暴れた末にふたりして落下するということも容易に想像できてしまうのだ。

「匂いを落としてくることにしよう」

「それだと時間がかかっちゃうから、ここは僕に任せてよ。高い所は得意だからさ」

「ああ、心配だ……」

「大丈夫。へっちゃらだよ」

 僕はイルイジュ兄さんを押しのけるようにして舞台裏へと入っていく。舞台裏の左右には螺旋階段がひとつずつあり、どちらからでも梁にあがることができる。背中に心配げな視線が突き刺さるのを感じながら僕は階段をのぼっていく。

 梁の上にでるとピアノのそばから僕を見守っている不安そうな兄の顔がはっきりと見てとれた。それに軽く手をふると僕は一歩ずつ慎重に梁を渡っていく。

 梁には手すりはない。肩幅よりもすこし広いぐらいの幅はあるが、足元を確かめながら進まないと危険だ。しかしそうすると遥か下にある舞台がどうしても目に入る。兄に言った通り高い所は平気なのだが、バルコニーから落ちかけたばかりということもあり、もし落ちたらという不安を完全に拭い去ることはできなかった。

 足元にうすく溜まっているほこりの上にクムモクモが通ったとみられるモップを引きずったような跡が残されている。それをたどってそろそろと進んでいくと、呑気に眠る毛玉の元へと到着した。

 近くで見ると思っていたよりも危機的状況だった。あと指数本分ぐらい横にずれればバランスを崩して真っ逆さまになってしまうだろう。僕はクムモクモを起こさないようにそっと手を広げた。毛玉はちょうど僕の手で抱えられるぐらいの大きさなのでなんとかなりそうだ。と思った矢先、舞台と客席の間の天井にある開口部から強い風が吹きこんできて、クムモクモの長い毛を逆立たせた。

 ぶわっ、と毛が広がったはずみにクムモクモが目を覚ました。

「くぁぁ」と子猫が喉を鳴らすような声がしてクムモクモは体を伸ばそうとしたが、その拍子にぐらりと体が傾く。まん丸だった毛玉が舞台に吸いこまれるように楕円形に伸びる。反射的に足が前にでて、手はクムモクモを捕まえようと開かれていた。ふわふわの毛に僕の手が呑みこまれる。羊のような巻き毛は弾力性があり弾き返されそうになるが、ぐっと力をこめてその内側にある芯のような部分を捕まえることに成功した。

「ノナトハ!」

 イルイジュ兄さんが下から僕を呼ぶ声がする。視界が妙な具合だ。その刹那、自分が空中に大きく身を乗りだしていることに気がついた。足を踏ん張ろうとしたがもはや手遅れだ。片手でどうにかクムモクモを抱えてもう一方の手を梁へと伸ばす。けれど僕の指先は梁の側面を撫でただけで手は空をつかんだ。

「ノナ!」

 今度は上から僕を呼ぶ声がした。片手に毛玉を抱えたまま、首をひねってそちらへ視線を向けると、僕とは反対側の階段の方からのぼってきたらしいエポヌの姿が見えた。

 伸ばされた青白い腕に向かって僕も腕を伸ばした。しかし手と手が絡まった瞬間、とてもこの細腕では僕らを支えきれないことに思い至った。だからつかんだ手を離して助けを拒もうとしたが、エポヌは僕の腕をしっかりとつかんで決して離そうとはしなかった。

 ピンと骨ばった細腕が張り詰めて、エポヌの肩がぎしりと音をたてた。そしてやっぱり僕とクムモクモのふたり分の重量を支えることはできず、三人一緒に梁の上からこぼれ落ちてしまった。

 エポヌの黒と金の髪とクムモクモの淡い緑色の毛が空中で踊って混沌模様を描いた。天井に凝る闇を背景にして枯れた紅葉が散るようにエポヌの着物がひらひらと舞う。僕はエポヌを力いっぱい引き寄せて、きょうだいたちを夢中で抱えた。けれどクムモクモは堪え性のない子犬のように僕の腕のなかからぬるりと逃げだしてしまう。どうにか捕まえようとしたがそれは叶わない。天井が急速に遠のいていく。僕はすぐそこに迫る衝撃を予期すると、ぎゅっと目をつぶって身をちぢめた。

 凄まじい音が劇場に響き渡った。しかしそれは衝突音というより、がむしゃらにピアノの鍵盤を叩いたような不協和音であった。恐る恐るまぶたを開くと遠のいていた天井が今はぴたりと止まっていた。背中にはふんわりとした毛足の長いぬいぐるみのような感触があり、草と獣の匂いが入り混じったような心地いい香りが僕を包みこんでいる。舞台に墜落した衝撃はまるでなく、体のどこにも傷むところはない。

 僕はすぐにクムモクモが下敷きになっているのだと気がついて半身を起こしたが、当の毛の塊はなんでもなさそうにするりと僕の下から抜けだしてピアノの影に潜った。クムモクモの下にはさらにイルイジュ兄さんがいたらしく、ピアノの鍵盤に背中を打ちつけるような体勢のままエポヌを抱えた僕を受けとめてくれた。

「……無事でよかったよ」

 兄が苦しそうにしながらも微笑んだ。どうやら落下する僕らをピアノのそばの兄が受けとめようとして、兄の腕のなかにクッションのような毛の塊のクムモクモが着地し、さらには僕とエポヌがその毛に受けとめられたということらしかった。

「ありがとう兄さん。クムモクモも。それにエポヌもありがとう」

 抱きとめていたエポヌの顔を覗きこむと、するりと僕の腕から抜けだしてクムモクモの毛のなかに器用に潜りこんだ。エポヌの姿はすっぽりと隠れてしまってクムモクモも別段それを非難する風でもなく受け入れている。毛玉の上に丸い塊がもうひとつ増えて雪だるまのような恰好になる。

 毛玉から目だけを出したエポヌが「クムちゃん見つかってヨカッタね。ノナ」と、言うと「クムちゃん、ごはんヨ」と、クムモクモにささやいた。ごはん、という言葉を聞いたクムモクモはふんふんと荒々しく鼻を鳴らしてエポヌを頭に乗せたまま食堂へと駆けていった。

 毛玉から、にゅっ、とエポヌの手が出てぷらぷらとふられる。僕がそれに手をふり返していると、頭を押さえながら辛そうに身を起こしたイルイジュ兄さんが、体の具合を確かめるようにコキコキと肩を鳴らした。

「大丈夫? 怪我してない?」

「なんのこれしき。愛の力があればなんてことはない」と、兄は背筋を伸ばす。僕は本当に大丈夫なんだろうかとその姿を眺めたが、兄はもう元気を取り戻したようにきびきびと歩きだした。そうして劇場の扉の前で足をとめると、

「俺たちも愛する母上の料理が待つ食堂へ、いざ参ろうではないか」

 と、扉を開け放った。


 食堂に入るとすぐに美味しそうな料理の匂いがただよってきた。ウルキメトコ姉さんは思った通り既に席についている。

 ウルキメトコ姉さんは上から二番目のきょうだい。何をするにもきっちりとしていて、生真面目で几帳面。家族のなかでも一番のしっかり者だ。ただ、四角四面で融通がきかないところもある。姉の私室はこの食堂と同じ左館四階にあるが、たとえ最遠の場所である右館の四階にあったとしてもこの姉ならば時間ピッタリに席についているだろうという確信がある。

 僕が呼びかけた他のきょうだいたちも食堂に勢揃いしていた。長方形の細長いテーブルの短い一辺が母の席、そこから向かって左側に上のきょうだい三人の席、右側に下のきょうだい三人の席、正面が僕の席になっている。母の席を出発点にして、右回りで生まれた順にきょうだいたちの席が並んでいるような具合だ。

 イルイジュ兄さんと僕が席につくと、ちょうど台所から母が料理を持ってやってきた。母はシャツとジーンズというラフな格好の上からエプロンをまとっている。髪はぼさぼさでエプロンも皺だらけ。なんだかだらしない印象だが、いつも一生懸命で僕らを愛情いっぱいに育ててくれている。それに背中から翼なんてものが生えているからそれが邪魔であまり凝った服装はできないのだろう。

 母が台所と食卓の間を行き来きして次々と料理を並べていく。全ての料理を並べ終わると、母も席について子供たちみんなの顔を見渡した。母の顔には顔がない。そこには穴、真っ暗な深淵があるばかりだ。僕らはそんな母の顔を見返して覗きこむ。

「さあみんな。たくさん食べてね」

 母の言葉を皮切りにしてみんな思い思いに食事に耽りはじめた。母は食事をせずテーブルに両肘をついて、両手の上にあごを乗せるようにしてニコニコと僕らが食べる様を見守っている。顔がなくとも僕にはその表情が分かる。何故かと聞かれても答えられない。親子だからという以外に理由はあるのだろうか。これもこの不思議な世界において説明ができないことのひとつだ。

 料理はそれぞれのきょうだいの好みに合わせた特製のものだ。一人ひとりの個性に合わせて調理されており、そこには深い愛情を感じる。リントロメ兄さんには皿一杯に盛りつけられた土の塊。ウルキメトコ姉さんにはコップ一杯の赤黒いドロドロとした液体。イルイジュ兄さんにはオムレツと激辛スープ。エポヌにはまだ生きているぷりぷりとした芋虫。クムモクモには色鮮やかな木の実の山。テタドにはクリームたっぷりのパフェ。そして僕には肉汁たっぷりのハンバークとオレンジジュースだ。

「ノナトハが俺たちを呼びにきてくれた時に、ちょっとした冒険があったのですよ」

 食事の合間にイルイジュ兄さんがおもむろに言うと「そうなの?」と、母が身を乗りだした。

「ええ」

 兄は優雅な手付きで口元を拭って「めくるめく冒険でした。エポヌとクムモクモがかくれんぼをしていたところから話ははじまります」と、吟遊詩人のように朗々と語りだした。

 兄の話はだいぶ誇張されているように感じたが大筋では合っているのでなんとも指摘しづらく、僕は口出しせずに耳を傾けていた。母は「それで、それで」と、無邪気に話の続きをせがんで、兄はもったいぶったり勢いよく話しこんだりといった緩急をつけながら話の佳境へと導いていく。

 エポヌは机の下に潜りこんで手だけをテーブルの上に伸ばして芋虫たちを競争させて遊んでいたが、自分の名前が話題にのぼると、ちらりと顔を出してまたすぐに遊びに戻っていった。クムモクモの方は我関せずでテーブルに顔を突っ伏した体勢で、皿ごと木の実を毛玉のなかに取りこんで固い木の実をかじる音を響かせている。

 やっと話がテタドの元を訪れたあたりにやってくると「ボクが見つけてあげたんだよ」と、まどろっこしいイルイジュ兄さんの話をさえぎるようにして、テタドが隣に座る母を上目遣いに見た。母は「まあ。すごいわ。とっても偉い!」と、感嘆してテタドの頭を撫でる。テタドは心底嬉しそうに母だけに向けた笑顔をこぼした。テタドは頬についたクリームを母に優しく拭きとってもらうと「ありがとう。お母様」と、行儀よく言ってパフェをスプーンですくっては口に運ぶ作業へと戻っていく。テタドはパフェの食べ方に並々ならぬこだわりがあるようで規則正しく一定の手順と比率でクリームと果実を減らしている。

 そんなやり取りの間にイルイジュ兄さんは最後に残ったオムレツのひとかけらをスプーンに乗せていた。そこにはケチャップでハート形が描かれている。母のお茶目な飾りつけだ。兄は満足気にそれを味わうと、口元を拭ってふうと一息ついた。

 そうしてまた母に向きなおると、中断していた話の続きを語りだした。

「天高く幽閉されたクムモクモを救おうとノナトハが勇気ある軽業師となって死神が棲む小道の奥深くへと歩みを進めたのです。そうしてようやく出会った愛するものをその腕に抱こうとした瞬間、ああ、運命の車輪が気まぐれに回りだし、その風車によって吹き荒れた風によって、ふたりの体は宙を舞いました。死神の小道をエポヌが走ります。そうして今まさにこぼれ落ちようとするふたりに向かって可憐な手を精いっぱい伸ばしました。だが、なんということだろうか。こんな悲劇があっていいのか。三人は混然一体となり、舞台は憐れな獲物を呑み込もうと牙をむき出し……」

「あら……、それは大変だわ……」

 イルイジュ兄さんの語りは迫真の色を帯びて、その脚色ぶりも激しさを増しながら紡がれていく。母はそんな話に真剣に耳を傾け、手のひらを閉じたり開いたりしていた。

 僕は主要な登場人物として流石に気恥ずかしくなってきて「母さん心配しなくても大丈夫だよ」と、横から口出ししてしまった。

「クムモクモがクッションになってくれたから全然怪我しなかったんだよ。その下でイルイジュ兄さんが受けとめてくれていたし、エポヌが上から引っ張ってくれたおかげで勢いよく落ちたりもしなかった。全然衝撃がなかったから僕のほうがびっくりしたぐらいだよ」

「本当によかった。あなたたちになにかあったらと思うと、私……。とにかく危険なことはしちゃダメよ。なにかあったらまずお母さんを呼びなさい」

「うん」

 僕は頷いたが「でも急がないといけなかったから」と、すこし言い訳めいた言葉を口のなかで転がした。けれどイルイジュ兄さんが「愛する母上。分かっております。次からはそのようにいたしましょう」と、僕の言葉に重ねるように言って母に軽く頭をさげると、この話は終わりとなった。

 その途端、待っていたかのようにリントロメ兄さんが「おかわり!」と、母に皿を差しだした。母は「うれしいわ」と、その皿を持って立ちあがると「ウルキメトコもおかわりどう?」と、姉さんに尋ねた。姉はいつの間にかコップの中身をストローで吸い切っていたが、その間なんの音も動作もなかったので食べ終わっていることに気がつかなかった。

「いいえ」と、姉がポツリと言う。

「そう。欲しい時は遠慮なく言ってね」

 母は台所の方へ引っこむと、山のように土を盛り付けた皿を持って戻ってきた。リントロメ兄さんは土の山を手づかみで食べ崩していく。

「みんなが美味しそうに食べてくれるのを見るのが、私の一番のご馳走よ」

 母が幸せそうに笑う。笑っているのだと思った。顔のない顔の深淵に喜びが浮かんでいるように感じとれたし、深淵の奥から聞こえる母の声はそんな響きを帯びていた。

 食事を終えたクムモクモがぴょんと席から飛び降りると、母の元へと駆け寄ってその膝の上に飛び乗った。

「まあ、甘えんぼさんねえ」

 両手いっぱいに抱えられた大きな毛玉が、わしゃわしゃと撫でまわされる。もしクムモクモに尻尾でも生えていたらそれはぶんぶんと振り回されていることだろう。ぎゅう、と母が力をこめて抱きしめると毛玉のなかに存在するはずの人型の輪郭がかすかに浮きでた。それはテタドとそう変わらないぐらいの背丈をした小さな子供の輪郭だ。隣に座るテタドは母が独占されているのが気に入らない様子で、机の下からクムモクモの毛を引っ張って引きずりおろそうとしている。けれどクムモクモはびくともせずに母に甘え続けるのだった。


 全員が食事を終えると、母に挨拶をしてひとりずつ私室へと去っていく。先程までの一家団欒が嘘のようにしんと静寂が訪れる。嵐の目のなかに入りこんでしまったかのようだ。

 母は去りゆく子供たちの後姿を眺めている。その深淵には今はなんの感情もたたえられていない。ただ真っ暗なだけだ。それはなんだかバルコニーで見た真っ暗で球体とも穴とも分からない空を飛び回るあの物体とそっくりなように思えた。しかしそう思ったのも一瞬のことで、すぐにそんな考えは煙のようにかき消えてしまう。

 僕だけが残ったテーブルの上からお皿を片付けて、母が台所の方へと運んでいく。しばらく食器を洗う水音が響いた後、それを戸棚にしまう音が聞こえた。それから母が台所から出てくると「また明日ね」と、僕に声をかけて、とん、とん、と階段をおりていった。

 ひとりになった僕はがらんどうになった食卓を見つめた。そうして、明日も、明後日も、その次の日も、ずっとずっとこんな風に幸せな日々が続いていくに違いない、なんてことを考えながら、過去とも現在とも未来とも分からないものに思いを馳せたのだった。

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