病弱令嬢をめぐる争い
一言で表すとするならば、それはまさに嵐の様であった。
「奥様は、まだ髪を乾かしているところでございますっ!」
「だから、それは私がすると言っているっ!」
マリーの部屋に、入室許可も取らずに入って来たフィリクスと、お引き取り願うカレンとの間で「どちらがマリーの髪を乾かすか」という名目の、二人の攻防がマリーの目の前で繰り広げられていた。
二人が引っ張りあっているタオルが、引き千切られんばかりに伸びている。
マリー自身を引っ張りあっていないだけマシなのか。
マリーは、この状況を最初から傍観していたわけではない。ちゃんと支度が終わる待てと伝えたのだ。しかし、そこを待てないのがフィリクスであるし、マリーの世話を絶対に譲りたくないのがカレンであった。
「カレン……もう、この際ですから、旦那様にお願いしましょう」
本来であれば、髪を拭かせるなどカレンにしてもらうのでさえ申し訳ないと思っているほどなのだ。それが、フィリクスにしてもらう事になれば、それはもう、嫌がらせの域に達する。
マリーは、何がどうしてこうなったのか分からない状況に、何かを諦めた。
「マリー!!」
嬉しそうに顔を綻ばせたフィリクスは、ぱっと手を離した。その反動で、タオルを手にしたままだったカレンは「ぎゃんっ?!」と、奇声を発して後ろへごろんと転がった。
「さあ、俺が乾かしてあげよう」
フィリクスはほくほくとした表情で、転がっているカレンからタオルを奪うと、いそいそとマリーの髪を一房取りタオルに包んだ。
「しかし……最近のカレンは反抗期なのか?」
マリーの髪をタオルでぽんぽんとしながらフィリクスが呟いている。
カレンのフィリクスへの忠誠心は、マリーの登場により分散され、九割方マリーへと傾いていることをフィリクスは気付いていない。
転がったカレンを心配して見やれば、そのカレンは不服そうにしながらも、渋々と壁際に移動していた。
それを確認すると、マリーは鏡越しにフィリクスへと視線を移す。
使用人みたいな事をしているのに。
どうして、旦那様はこんなにも嬉しそうなのかしら。
心底嬉しそうにマリーの髪に触れているフィリクスを鏡越しに見れば、どうやら嫌がらせではないらしい事が窺える。
マリーは、そんなフィリクスが不思議でならなかった。
鏡越しに思わずじっと見つめていると、不意に視線を上げたフィリクスとぱちっと目が合いドキッとする。
しかし、そのフィリクスの表情が不意に翳った。
あ、やっぱり嫌なのね。
「マリー、その……すまない。俺が浅はかだったばかりに、怖い思いをさせてしまった……メイメイの行動を予測出来なかった俺の不徳の致すところだ」
あ、違った。
突然、びしっと90度に腰を曲げ、謝罪するフィリクスにマリーは焦った。
「そんな、謝らないで下さい……私も、悪かったので、私の方こそ申し訳ありませんでした」
マリーはここで、はっとする。
知らなかったとはいえ、フィリクスの策を台無しにしてしまったのはマリーなのだ。
本来なら切腹もの案件であることを、すっぽりと失念していたマリーの顔から、さぁーっと血の気が引いて行く。
もしやフィリクスのこの行動は、自分が謝罪ひとつしない事への当てつけなのでは。と、斜め上の解答を導き出したマリーは、慌ててフィリクスを振り返った。
「あ、の……」
「君は何ひとつ悪くない。悪いのは、君にちゃんと伝えておかなかった、この俺だ……」
純粋の謝罪だったようだ。
顔を上げたフィリクスが、この世の終わりのような顔をしている。
「もし君が、許してくれないと言うなら、俺は……俺は、死んで詫びるしかない!」
「どうして、そうなります?!私は無事でしたから!大丈夫ですから!」
何がスイッチだったのだろうか。どこか虚ろな目をしたフィリクスが懐に手を伸ばしている。何を懐に忍ばせているのかは知らないが、きっとろくなものではないはずだ。
恐怖を感じたマリーは、とっさにフィリクスの手を取った。
「旦那様。嘘でも死ぬなんて仰らないで下さい」
「マリー……では、許してくれるのか?」
フィリクスは感無量といった表情で、マリーの手を握り返した。恋人つなぎというやつだ。
「許すも、何も……」
寧ろ、許してもらうのは、勝手な行動をしたマリーの方なのだが。
そんな事より、恋人つなぎにされている事の方が気になる。
マリーが意識しすぎなのだろうか。
マリーはぎこちなく視線を床に落とした。
「マリー!ありがとうっ!!」
しかし、フィリクスにはマリーの繊細な心の機微は理解されなかった。
手は離されたが、次の瞬間、マリーは椅子の背もたれごとフィリクスに抱き締められていた。
「あ、あの、ちょっと……」
「ああ、やはり君は女神だな!もう危険な目には合わせないから安心してくれ。そうだ!今日のお詫びに何か贈らせて欲しい。ドレスでも、宝石でも何でも好きな物を言ってくれ」
先程までの死にそうな表情は何処へやら。打って変わってフィリクスはうきうきとしている。
「それは、申し訳ないです。今後、今回のような場合の時には、私にもお話してくださるとお約束して頂ければ、それだけで十分です」
ドレスも宝石も購入したばかりだ。それに、マリーには物欲はない。
マリーのにべもない返事に、フィリクスがしゅんと項垂れた。
情緒……不安定なのかしら。
先程からフィリクスの表情は、明るくなったり、暗くなったりと忙しない。
そっとフィリクスの顔を窺えば、今は耳を垂らした仔犬のような困り顔だ。
かわいいっ!!
どうしよう。旦那様が可愛いわ!
抱き締められて、どうして良いか困っていたマリーだったが、可愛らしく見えるフィリクスが何故かマリーのツボにハマり笑いたくて仕方なくなった。
だがしかし、今笑うのは遠慮したいところ。マリーは、ぎゅっとお腹に力を入れた。
「それだけでは、俺の気がすまない。何でも良いんだよ?」
フィリクスは諦めなかった。マリーの顔を覗き込んでくる。笑いたいのを悟られたくないマリーは逃げるように俯いた。
しかし、フィリクスのこの様子だと、何か言わないとこの話は終わらなそうである。
そこでマリーは考えた。
これは、好機なのではないだろうか。
「何でも……ですか?」
「ああ、何でもだ!男に二言はない」
「物でなくても良いですか?」
「もちろんだとも!」
「では、私もカレンたちと同じ訓練をしても良いですか?」
「もちろ……んっ?」
「ありがとうございますっ!今回の事で、嫌というほど自分の非力さを痛感したのです」
「んんっ?!」
「カレンは身体を鍛える訓練もしていると聞きましたものですから、仲間に入れてもらえたらと常々思っておりましたの!」
「はっ?!いやいやいや!待て待て待て!どうしてそうなる?!」
「ですから、身体を鍛えておきたいと思いまして」
ついでに剣術なんかもやってみたい。と、いう願望は黙っておいた。
何にしても、先ずは筋力と体力をつけることを目的にするつもりだ。
「いや、違う。そうじゃなくて……ぁぁあ……なんで……マリーがそんな事をする必要なんてないんだよ!君が非力でも俺が守るから!もう絶対に危険な目には合わせないと約束する。だから……それは駄目だ」
予想以上にフィリクスが反対してくる。確かに貴族の奥方が身体を鍛えるなど、憚られるものなのかもしれない。しかしマリーとしても守られるだけの存在は嫌なのである。
……と、いうのは建前で、何より身体を動かしたい。
「駄目……ですか?」
マリーが上目遣いにフィリクスを見上げると、フィリクスの喉が「ぅぐっ」と、鳴った。
「だって……鍛えるって……怪我をするかもしれないじゃないか」
「筋力と体力をつけるだけですから、怪我なんてしません!」
体力がついたら、組み手の相手をカレンに頼もう。なんて思っている事も、ここでは黙っておいた。
「旦那様。『男に二言はない』のではなかったのですか」
「そうは言ったが――――ん?」
苦言を呈したのはマリーではない。
振り返れば奴がいる。フィリクスは振り返った。
「何だ、イーサン。邪魔をしに来たのなら出て行ってくれ」
やはり部屋の入口には、ひんやりした表情のイーサンが立っていた。
「旦那様。もう十分、奥様の顔は見られたと思うのですが……」
「今はマリーの説得に忙しい。後にしてくれ」
表情だけでなくイーサンの周囲の空気までが「すん」と、冷えた。気がする。
「ひと目だけでもと仰るから時間を取りましたのに、ひと目どころではないではないですか。旦那様は二言も三言もあるのですか。男ではないのですか。ああ、そうですか、そうですか。分かりました。では女性なのですか。ああ、そうですか、そうですか。分かりました。この国では同性婚は認められておりませんから、そうなりますと、お二人の婚姻は無効になりますね!」
「……すぐに行く」
静かに捲し立てるイーサンに気圧され、フィリクスは名残惜しそうにマリーから離れた。
が、すぐに振り返り、再びマリーを抱きしめると両手でその頬を包み込む。
そのフィリクスの動きはゆっくりなのに、何故だろう。「あ」と、言う間もなかった。
マリーの顔に触れるほど近付いたフィリクスの顔は、口唇にその余韻を残してすぐに離れた。
「すぐに医者が来るからね。そしたら、しっかり休むんだよ」
「……はぃ」
マリーが何とか絞り出した声は、それでも反射的に出たもので、何が起きたのかまでは理解が追い付いていなかった。
そんなマリーを知ってか知らずか、頷くマリーをフィリクスは満足そうに見つめると、今度こそマリーから離れて行った。
壁際のカレンは口を押さえて、声なき奇声を発していた。
イーサンは白けた目をしていた。
マリーの髪は……乾いていなかった。
そんなこんながあり。マリーがベッドに入った時には、既に空が白々としていた。
『―――――しっかり休むんだよ』
フィリクスは言った。
休めるかぁーっ!!
マリーは興奮していた。何しろ結婚しているのに生娘。純粋無垢なのである。
「……眠れない」
布団に包まり、もぞもぞとしてみる。眠れないのは空が明るくなってきた所為だけではないはず。
目を瞑ると、フィリクスの顔が鮮明に浮かんでくる。
あの金色の瞳。
あの通った鼻筋。
薄いピンクの口唇。
マリーの口唇に触れる吐息―――……
……柔らかかったな。
「く、くちーっ!!」
ここで、ぅわぁあー!と、布団を巻き込みながら、ごろごろと悶えるまでがセットになっていた。
もう何度それを繰り返しているか知れない。
最後は、そのまま布団ごと、ごろごろと勢い余ってベッドから落ちた。
「ぅうっ」
奇しくも、身体に巻き付けた布団がクッションとなり、痛みはなかった。
少々、情けない気持ちになりながら、もぞもぞと布団から這い出したマリーは、先程まで無かった違和感に動きを止めた。
「………?」
視線を感じる。
カレンでもグレンでもない。
空が白み始めたとはいえ、まだ使用人たちも動き出していない時間である。こんな時間にマリーの部屋に入室してくる者などいないはず。
この屋敷に来た当初、早々に賊に侵入された事を思い出し、慎重に部屋の中の気配を探る。
でも、変ね。敵意の様なものは感じられないわ。
マリーは、ベッドに戻ろうとした中腰の姿勢のまま、ちらっと天井を見やる。
グレンの気配はそこに在る。
グレンが動かないということは……私の気の所為かしら。
まあ、何かあっても、グレンもいるし大丈夫よね。
マリーは、ひとつ欠伸をすると床に落ちた布団を持ち上げた。やけにふんにゃりとしている。
ん?
……ふんにゃり??
「っ!!ぅわっ?!」
マリーが手にしていたものは、布団以外の何かだった。
驚いて、思わずそれを放り投げる。
放り投げられたそれは、空中でくるんと一回転すると、しゅたっと床に着地した。
「へ?……猫ちゃん?」
自分が放り投げたものをよく見ると、それは白い猫だった。白猫は、驚くマリーを尻目に、どこかドヤ顔でマリーを見上げていた。
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