病弱令嬢、溺れる
「ひ、ひぃいいーっ!!」
気付けばマリーは、崖のような所から真っ逆さまに落ちていた。
下を見れば、黒い何かが波打っているようにも見える。
川だわ!!
マリーの推測は正しかったのだ。近くに川があったのである。しかも大規模な。
マリーの眼前に川面がぐんぐんと迫っていた。
このまま水面に叩きつけられたら、ただでは済まされない。ぎゅっと目を瞑る。
やはり朝まで森の中で大人しくしていた方が良かったのか。川があるかも。と、分かっていながら何故に落ちるのか。マリーは己の迂闊さを呪った。
お父様ーっ!お母様ーっ!ショーン!!
これが走馬灯というものなのか。家族の顔が次々とマリーの脳裏に浮かぶ。そういえば、少し前にも家族の顔が浮かぶ出来事があったが、その時の比ではない。今回こそが本物の走馬灯なのだろう。
お父様、お母様ごめんなさい。決して充実した人生とは言えなかったけれど、家族と過ごした時間はとても幸せでした……。
……って、いやーっ!!ここで死ぬなんて!
―――――旦那様っ!!!
往生際悪く首をふるふると横に振るマリーの脳裏に、ふいっと、フィリクスの顔が浮かぶ。
大人として愛されてはいないけれど、それでもこれから関係を築いていけると思っていたのに。
もう……会えない?
私のことを好ましくは思っていてくれているみたいだから、私が死んじゃったら、少しは悲しんでくれるかしら。
旦那様の事を思い出したからなのか胸が熱い。
「……?」
どうしたのかしら。
いくら落ちた場所が高かったとしても、下につくまで時間がかかり過ぎではなかろうか。そもそも、落下している感覚がないような気さえしてくる。
私、落ちてるのよね?
決して落ちたい訳ではないが、そろそろ何かしらの衝撃があって然るべきでは?と、怖くてぎゅっと瞑っていた目を開けてみる。
やはり、波打つ川面がみるみる眼前に近付いて―――――来なかった。
「……はっ?!」
目を開けたマリーは驚愕した。
暗闇の中、左右には鬱蒼と茂る木々。そして、マリーのすぐ下には川面。
「私……う、浮いてる?」
穏やかな川の流れは、マリーが落ちて来ようが来まいが関係ないとばかりに、微かなせせらぎを奏でていた。
どういうこと――――――?
腕を伸ばせば川面に手が触れるほどの位置でマリーは浮いている。いや、正確には極ゆっくりと落下していた。
「な、なに?何これ??夢?あ、それとも、もしかして……私、もう死んじゃった?とか??」
もう何がなんだかよく分からない。
この状態から、どうしたらいいのかしら。
あ、身体は動くのね。
マリーはゆらゆらと揺れる川面に、ちゃぷんと手の平を浸けた。特に意味はない。
「冷たい。それに、夜の川って、なんだか怖いわ……ねっ?!」
マリーが思わず感想を呟いたその時だった。突然、身体にかかる重力が増した。と、感じたと同時に、あっ、と言う間もなく、じゃぼんっと川の中に落ちた。それはもう、カエルのようなスタイルで。
「ひゃあっ!」
しかし、カエルではないマリーの身体は、冷たい水の中に放り出され震え上がる。しかも纏わりつく服で上手く動けない上に、容赦なく川の水を飲み込んだ。
焦って上手く呼吸が出来ない。それだけで恐怖だ。
恐怖で頭が真っ白になっているマリーは、無駄に手足をバタつかせる。
「やっ、がぼっ……溺れっ、誰か、助けてっ、溺れちゃ―――――」
バタつかせていた手が何かに触れた。無我夢中のマリーは、それが何か分からぬまま必死に掴んでいた。
そして、暫しガボガボともがいた後、マリーの足の裏が川底の小石を捕える。
「――――――――わない。え、あれ?」
しっかりと両足を川底につけたマリーは難なく立ち上がることが出来た。
川の深さはマリーの腰辺りまでしかなかったのである。
やだ、浅かったのね。
思わず周りをきょろきょろと見渡す。
誰にも見られていないことは分かるのだが、なんとなく恥ずかしくなった。
そして、何か分からず手にしていたものを持ち上げる。
少し重い。
流木か何かだと思っていたが、それはぐっしょりと濡れた白い毛玉の様な塊であった。
「ひっ!……あっ、猫ちゃんっ?!あなたも落ちちゃったのね!」
その塊が得体の知れない物に見えたマリーは一瞬怯んだが、すぐにそれが猫である事に気付いた。
一緒に落ちてしまったのであろう白猫の首根っこを必死で掴んでしまっていたようだ。
首根っこを掴まれ、恨めしそうにマリーを見上げている。ぷらーんと伸びた手足からはぽたぽたと水が滴っていた。
「可哀想に……なんだか、あなたとは縁があるわねぇ」
マリーは濡れ雑巾のような残念な姿になってしまった白猫を抱き上げた。
白猫は体をぶるぶると震わせ水を飛ばしてくる。マリーの顔に、容赦なく水飛沫がかかった。
「冷たっ!このままじゃ凍えてしまうわね」
真冬ではないとはいえ、水は冷たい。このままではマリーも猫も風邪を引いてしまう。
きっと、川岸は浅瀬だろう。
そう思ったマリーは浅瀬を目指して川の中を歩き出した。
水を存分に吸った服は重く、川も流れが緩やかとはいえ、気を抜くと流されてしまう。同じ様に水を吸った猫を抱え、ふらふらとしながらもなんとか岸辺に辿り着くことは出来た。
案の定、岸は浅瀬で河原があった。
水がないところがあるのは助かる。
小石がごろごろしていて何度も足を取られたが、比較的平らになっているところを見つけると少し大きめの石を椅子にして腰を掛けた。
「つ、疲れた……」
木登りやら水浴びやら、子供であれば大喜びしそうであるが、間違っても夜中にするものではない。
すっかり疲労困憊である。
白猫はぐったりとしているマリーの腕から抜け出すと、本格的にぶるぶると水を飛ばした。
マリーも服はびしょ濡れ。頭から足の爪先まで、もれなく濡れている。とはいえ、猫のように身体を震わせても大した変化はみられないだろう。
マリーは出来るだけ早く乾くように服の絞れるところだけ絞った。
どうしてかは分からないけれど、助かったわ。
助かったけれど……さて、これからどうしよう。
マリーは息を吐くと上を見上げた。どの辺りから落ちて来たのか分からないほど木が生い茂っている。
目を凝らして河原の先をみると、上っていけるような気がしない崖っぷりだ。
今度こそ、夜が明けるまで大人しくしていた方が良いかもしれない。
ただ、このままだと身体が冷えてしまう心配がある。
「……?」
そこでマリーは首を傾げた。
水は冷たかった。凍えてもおかしくないのではと思うほど。現に今だって時折吹く夜風で指先は冷え切ってしまっている。
それなのに。
なんでこんなに胸が熱いのかしら。
そういえば、小屋から逃げ出す時も妙に身体が熱く感じていた。川に落ちた時も。
そこまで考えて、はっ、とマリーは両手で頬を押さえた。
身体が熱くなったのは旦那様を思い出した時ではなかったかしら。
もしかして、これは……ときめきというやつでは?
私、自分でも知らないうちに、こんなにも旦那様の事を好きになっていたのかしら。
想うだけで、身体が、胸が熱くなるなんて―――――……
会いたい。
マリーは、ぎゅっと胸を掴むように手を当てた。
「……ん?」
胸に当てた指先に、ころんと温かい何かが当たる。
フィリクスから貰ったペンダント。
マリーは、ごそごそとそれを服の中から取り出した。
真っ暗闇の中、雫の形をした青いペンダントは、不思議な光りを放ち、仄かに輝いているようにも見えた。
「……温かい。そっか、石ってカイロにもなるんだっけ?」
どうやら、マリーのフィリクスに対する想いで胸が熱くなっていたわけではないらしい。
その事にがっかりしている自分に驚く。
マリー自身の体温で石が温まっていたのだと思うが、不思議な事にこのペンダントは、まるでマリーを包むかのように温かさを放っているように感じる。
ふと視線を感じて顔を上げると、白猫がマリーを見上げていた。
「これはね。旦那様から頂いた物なのよ。ふふ、お守りなんですって」
猫に話しかけながらペンダントを服の中に仕舞う。
服は濡れていても、ペンダントのほんわりとした温かさは失われていない。これならば、なんとか過ごせるのではないだろうか。
『聖女様の魔力が込められている。きっとマリーを守ってくれるはずだ』
フィリクスはそう言っていた。
「……まさかね」
いくらなんでも、この小さなペンダントが奇跡のような事を起こすとは考えられない。
では、先程の出来事はどう説明するのか。
あれは、そう、きっとあれよ……。
極限状態の時にスローモーションになったりする。あれ。
疲れているマリーは考える事を放棄した。とにかく今は休みたい。
「猫ちゃんおいで、寒いでしょ?こっちの方が少し温かいよ」
こんな時、人肌を重ねて暖を取ると聞く。この際、猫肌でもいいんじゃないか。
マリーは白猫に向かって両手を広げた。
しかし警戒しているのか、白猫はなかなか寄って来てくれない。
猫を抱いて暖を取ろうとしていることに気付かれたのかもしれない。
「もう、おいでってば」
半ば強引に白猫を胸に抱く。
白猫の体は、やはりひんやりとしていたが、次第に温まっていくのが分かる。
なのに、この状況に納得していないのか、白猫は不満気に歯茎を剥き出しにした。
「やだ。猫ちゃん、怒っているの?……ちょっと、面白い顔になってるわよ?」
猫も変顔をするんだな。と、思いながら宥めるように白猫の背中をぽんぽんと撫でた。
こうしていると、子供の頃を思い出す。その頃はマリー自身が背中を撫でられる側だったが。
「何かしら……猫ちゃんを抱いていると懐かしい感じがしてくるのだけれど……あ!匂いだわ!あなた、メイリンと同じ様な匂いがするのよ!」
マリーは白猫のお腹に顔を埋め、すぅはぁと匂いを嗅ぐ。
やっぱり!メイリンの匂いに似てる!
……あ、そういえば、最近どこかで同じ様な匂いを嗅いだ気がするわね。
どこだったかな?
匂いを確認した後も、マリーは白猫のお腹に顔を埋めていた。こうしていると、なんだか癒やされる気がするのが不思議だ。
「あ、メイリンていうのはね、私のばあやで……「だーれが、加齢臭じゃ」……っ、きゃぁあっ?!」
突然、自分以外の声がした。驚いたマリーは飛び上がり立ち上がる。
「だ、誰っ?!……誰かいるの?」
暗闇の中、目を凝らして辺りを見渡す。
返事を返すものはいない。
視界に入るのは鬱蒼とした木々のシルエット。風で葉がさわさわと揺れている。
川に視線を移せば、滔々と水が流れている。
だが、暗闇の中では川の水も、木々も『黒い何か』にしか見えないのだ。
まるで黒い何かが自分に向かって来るようだ。そんな恐怖と不安に駆られたマリーは、ごくっと唾を飲む。
暫く動けずにいたが、周りを警戒しながらゆっくりと腰を下ろす。
「絶対、人の声がしたわよね……ねぇ、猫ちゃん。お化け……お化け、かな?ねぇ、猫ちゃん!」
白猫はマリーに強く抱きしめられ、ぐえっ、となっていた。
「どうしよ……お化けが出て来たら……そしたら、私……食べられちゃうのかな……ねぇ、猫ちゃん……」
暫くぷるぷるとしていたマリーだったが、静かになった。白猫がもぞもぞとマリーの腕から逃れるように這い出す。
「……寝とる。……この状況でよく寝られるな。ある意味豪胆じゃ。それにしても……ふぉっふぉ。化け猫を抱きながら、化け物を恐れるとは……面白いことをしよる。これも、豪胆だからか?」
マリーの体力に限界が来ていたのだ。仕方がない。
座ったまま、すぅすぅと寝息を立てるマリーの顔を白猫が覗き込んだ。
「美味しいところを持っていきよって、こんにゃろめ。ふぉっふぉ……しかし、これをカトレシアが知ったら騒ぐじゃろうのぅ」
白猫はマリーの服の上から、マリーが首に下げているペンダントをてちてちと叩いた。
マリーが起きる気配はない。
白猫はするりと地面に下り立つ。
「途中で起きると面倒じゃが……しっかり寝とるのじゃぞ?」
そう呟くと小さな白猫の体は、いつのまにか大きな白い獣の姿に変わっていた。
白い獣はマリーの首根っこを、はぐっ、と咥えると、まるでそこに階段があるかのように夜空を駆け上って行った。
お読み頂きありがとうございました。




