病弱令嬢は回想する
ブックマーク登録ありがとうございますm(_ _)m
定期的に投稿出来るように頑張りますので宜しくお願いします。
うろ覚えの呼吸法だったが、なかなかどうして。一週間を過ぎる頃には効果が見え始めていた。
血液循環が良くなったのか、常に身体が冷えていたマリーだが、手足が冷たいと感じる事が少なくなった。
それと関係しているのか、それまで食事をしてもなかなか消化されず、常に胃が重い感じだったのがすっきりしている気がする。
きちんと消化されれば、その栄養もきちんと身体を巡るわけで。
如何にも病人といった青白いマリーの肌は、年相応の潤ってハリのあるぴちぴちとしたものに変わり、顔色も格段に健康的になっていった。
何より今までより身体が軽く感じる。
静加さん。本当に呼吸は基本ですわね!
素晴らしいですわ。
そもそも、その呼吸法があっているかどうかも正直分からない。気の所為と言われてしまえばそれまでなのだが、気の所為であっても良い方へ向かっているならこのまま正しいと思い込んでいた方が良い。
それにこの頃には、他に思い出した呼吸法や柔軟体操なども併せて行っていた。
身体が硬いと気の巡りも悪くなる。
それもあるが、柔軟を始めたのは茉莉が習っていた空手をマリーもやってみたいと思ったからだった。
後ろ飛び回し蹴りで板を割る茉莉がとても格好いいと思ってしまったのだ。
演舞の1つである板割り。
板を持った屈強な男性たちが四方に立っていて、その板を次々と突きと蹴りで割っていく。そして最後、より高い位置に構えた板を後ろ飛び回し蹴りで割る。
―――――格好いいですわ。
ある意味、自画自賛である。
だが蹴りをマスターするには股関節の柔軟性が不可欠になる。
試しにベッドの上で開脚してみたのだが、マリーの柔軟性は絶望的であった。
体力、筋力、柔軟性。
色んな意味でマリーが茉莉のようになるには気が遠くなる話だった。
―――――――そんなこんなで一ヶ月。
狭いながらも屋敷の庭をジョギング出来るまでになっていた。最初の頃は筋肉痛が酷かったが、この頃にはそれも落ち着いている。
柔軟体操やらなんやらはメイリンに見られないように行っていたが、流石にジョギングはそうもいかない。
ジョギングする為に薄手で軽めのシンプルなワンピースを着ることに「風邪を引きます」と、渋い顔をしたメイリンだったが、屋敷の周りを10周した時には目を丸くさせていた。
本当はジャージみたいな物があったら嬉しいのだけれど。
乗馬がしたいとかお願いして、パンツとかタイツを用意してもらおうかしら。
スカートで走るとどうしてもブーツに絡まる。
マリーは乱れた呼吸を整えながらスカートの裾に付いた土を払った。
呼吸は乱れるが運動して息が上がったという単純なもので、今までのように倒れるような苦しさはない。
本当に呼吸なんかでこんなにも劇的に変化するのかと不思議に思う。
もしかしたら、茉莉だった時の記憶を思い出したことも関係するのかしら。
実際にその記憶を思い出してから、毎日が楽しいのだ。
具体的にどう、というのではないが、平坦で色のない世界が急に色付いた感じ。
庭師が咲かせた花を見て、「ああ、この花はこんな色をしていたのか」と、初めて認識し、感動した。
記憶を思い出した当初は、その情報量の多さに混乱することもあったが、人生を諦めていたマリーにとって、茉莉の人生はそれだけ刺激的だった。
「それにしても、お嬢様は急にどうしたのです。別人みたいですよ?」
メイリンが首を傾げながらタオルでマリーの顔周りの汗を拭く。
「本当に苦しくないんですか?」
マリーは顔を覗き込んでくるメイリンから逃げるようにそのタオルを受け取ると曖昧に微笑む。
「ええ、もしかしたら体質が変わったのかもしれないわね」
マリーは基本的にマリーのままだが、茉莉の記憶により考え方などが変化しているようにも感じる。
体調を崩すことがなくなったこともあるが、それ以上に言動が別人のように思わせるのかもしれない。
前世を思い出して、その人生で学んだ健康法を実践しているとは流石に言えなかった。
今度は頭がおかしいとかでドミニクを呼ばれてしまったらたまったものではない。
部屋に戻り、汗を流すためにお湯を沸かしてもらおうとしたマリーだったが、「そうだ」と、ぽんと手を打つと、徐ろに床に両手をついた。
いわゆる腕立て伏せをしようとしたのだが、腕を伸ばしたままぴくりとも身体を動かせない。肘を曲げて身体を落とさなくてはいけないのだが、このままではただの腕立てである。
「あ、あれ……?肘を曲げられませんわ」
呟く声も伸ばした腕と同様に、ぷるぷると震えてくる。暫く頑張ったが、床に突っ伏す形でぺしゃんと潰れてしまった。
調子に乗ってしまいましたわ。
筋トレはまだ早かったですわね。
ナイフとフォークより重い物を持ったことのないマリーには、自分の体重を支えることさえも難しかった。
でも目標が出来た。
先ずは腕立て伏せ三回を目標に頑張りましょう。と、決意を新たにしていると、メイリンが部屋の扉を開いて息を呑む気配がした。
「……お嬢様。今度は何を?」
顔を上げると、メイリンのじっとりとした視線と目が合った。
……だから、ノックしてってば。
床に寝転んだままのマリーは申し開きのしようがない気持ちだった。倒れたのではない。と、理解してもらえているだけ助かった。
――――――そして、さらに一ヶ月が経過。
今ではすっかり午前中の日課となっているジョギングと筋トレを終え、身を清めたマリーは庭のテーブルでメイリンとランチをしながらほくそ笑んでいた。
ふふ。腕立て伏せも、腹筋も背筋も十回は出来るようになりましたわ!
茉莉だった時は、どれも五十回は軽く出来ていたので、本当に大したことない回数なのだが、マリーにとっては物凄いことなのだ。
骨と皮だけだった身体も、こころなしか筋肉がついてきた気がする。
この調子で元気になれたら、両親と一緒に隠居しなくても済むかもしれないわね。
そしたら……領地を手伝うのも良いけど、外国に行くのも良いかもしれないわ。
まあ、それにはお金が掛かるから、働かないといけないけど。
トレイス王国のある大陸から西北に海を隔てた先にある大陸にドラゴニアン共和国という国がある。
かつてはその国も王国で、国民の多くが魔力を持ち、魔法というものが存在していたらしいが、今では魔力を持つ人間はほとんど誕生せず、魔法はすっかり廃れていると聞く。
その代わり今では教育や学問に力を入れており、この国に行けば老若男女問わず多種多様な学問が学べる。
そして何より、この国では女性でも男性と同じように仕事に就くことが普通なのだという。
トレイス王国では、そもそも貴族の女性が働くという概念は薄く、女性の働ける職種も少ない。
マリーはドラゴニアン共和国に行けば、その国で学び、その知識を活かした職に就くことが出来るのではないかと、まだ見ぬその国に思いを馳せた。
私にしか出来ない事がしたいなんて大きな事は言わないわ。
でも、私でも出来る仕事はあるかもしれない。
そうすれば、私の存在価値も生まれるというものですわ。
「ぼんやりして、何をお考えですか?」
メイリンが訝しげな視線で正面のマリーを見つめながら、ランチのサンドイッチをもぐもぐしている。
メイリンは使用人だけれど、マリーと二人だけの時は同じテーブルに着いてもらうこともある。と、いうか、そんな事に文句を言う家格でもないので、割と普通に使用人との距離は近い。
「あ、えっと、外国に留学するのもいいなあと考えていたの」
「ご結婚しないでですか?」
ごくんと派手な音を立てサンドイッチを嚥下したメイリンは、次のサンドイッチに手を伸ばしながら不思議そうに聞く。
「……結婚」
これまで、病弱を理由に全く考えていなかったせいか、元気になっても全く結婚のけの字も考えなかった。
この国において、成人した女性が結婚もせず、考えずともなれば、それだけで瑕疵に当たる。
つまり、問題のある女性。
まあ、少し前まで実際にマリーは健康的に問題のある女性だったわけで。
適齢期の貴族子女には、もう既にお相手がいらっしゃるわけで。
今から相手を探すとなると、なかなかに難しいわけで。
「……お相手の方がいませんわ」
「お慕いする方もですか」
メイリンは何を言っているのだろう。マリーが屋敷に引き籠もっていることを一番よく知っているだろうに。
たまにお客様が息子を連れて屋敷を訪問することがあっても、必ずといっていいほどマリーは寝込んでいた。
出会い自体がないのだから慕うも何もないものだ。
「ばあやったら、私は同年代の男性だけでなく、女性の知り合いさえいないのですよ?」
過去を振り返ってみても、一度お会いしたことがある方はいても、それが知り合いと呼べるかどうかはあやしい。
「おや。ばあやは昔、お嬢様からお慕いする殿方のお話を聞いたことがある気がするのですけどねぇ」
「……あ」
によによと笑みを浮かべたメイリンが言いたいのはマリーが六歳の頃の話だと思う。マリーの初恋と言ってもいい。
マリーが六歳。ショーンは一歳。
この頃には既にマリーはベッドとお友達だった。
なのだが、マリーの母親のダリアは子育ては自分でしたいという信念を持つ女性で、まだ産まれたばかりの幼いショーンの育児に付きっきりになってしまっていた。
これに関してマリーが捻くれてしまった。と、いうことは一切なく。
寧ろ父親のフィーノはベッドに寝ていることの方が多いマリーを不憫に思い、よく構ってくれていたので寂しい事等はなかった。
そんなフィーノが、マリーの調子が良くなった頃合いをみて隣の領地にある海に連れ出してくれたのだ。
その海まで馬車で二日はかかる。
今思えば、なぜ誰もフィーノを止めてくれなかったのかと悔やまれるが。
フィーノと二人で馬車に揺られ、最初は楽しかったが一日目の宿屋に着く頃にはマリーはぐったりしてしまっていた。
それでも、父フィーノと一緒にいられる嬉しさの方が勝って、頑張って平気な振りをしていたのだった。
今思えば、子供の不調くらい気付けよ。と、思わなくもないが。
そんな試練を乗り越えたご褒美のように、海は美しかった。
どこまでも広がる水平線。太陽の光りを浴びてきらきらと眩い波と白い砂浜。
透明な青と深い青。青は一色ではないのだとこの時に知った。
今思えば、この頃のマリーは子供らしく、未来への希望に満ち溢れていた。
『おとうさまー。うみはきれいなのですね』
『そうだろう。ここでお父様はお母様にプロポーズしたんだよ。だから見せておきたかったんだ……いつか、マリーも……』
マリーの花嫁姿でも思い浮かべたのか、フィーノの目は潤んでいた。
今思えば、この頃にマリーは長く生きられないかもしれないとドミニクに言われていたのかもしれない。
この時のフィーノの心情を推し量ることは出来ないが、少しでも多くの思い出を作ってくれようとしたのか、それとも作りたかったのか。
今は全くその心配はないのだけれど。多分。
さて、前置きは長くなってしまったが、この海に感動してはしゃいだマリーはフィーノを置き去りにして、砂浜を一人足早にとてとてと歩いていた。
寄せては返す波が不思議で見入っていると、日除けの為に被っていたつばの広い帽子が風で飛ばされてしまった。
慌てて帽子を拾おうと振り返ると、ころころと岩場の方へと転がっていくではないか。
その時着ていた薄いピンクのワンピースとお揃いの、マリーのお気に入りの帽子。
岩場に引っ掛かってくれたお陰で海に落ちずに済んだ。
「よかった」
ほっとしたマリーが帽子に手を伸ばしたが、帽子を拾ったのは別の手であった。
マリーが顔を上げると、どこから現れたのか見たことのない男の子がマリーの帽子を手に岩場に立っていた。
この頃のマリーからしたら青年に見えたが、今思えば、少年とも青年ともいえない。微妙な年頃に思える。
金髪の真っ直ぐな髪を風になびかせ、驚いたように目を丸くさせて無言でじっと幼いマリーを見つめている。その青い瞳はまるでこの海の色で、光りの加減で薄くも深くも変化して見えてマリーはどきっとした。
揺蕩うように色の濃さを変える彼の青い瞳は、本当はどんな色なんだろうと、マリーも無言でじっと彼を見つめ返してしまっていた。
「……マリー!」
遠くからフィーノのマリーを呼ぶ声が聞こえ、二人とも我に返った。
その男の子が素早く帽子をマリーに被せる。
「可愛い天使。……またね」
帽子のつばで彼の姿が見えなくなり、マリーがお礼を言おうと顔を上げた時にはその姿はどこにもなかった。
フィーノが迎えに来ても、暫くマリーは惚けていた。
天使と言われた事もさることながら、彼はとても見目の良い顔立ちをしていたのだ。
「……まるで王子さまみたい」
絵本でしか王子という存在を知らないが、この時のマリーにとって、格好いいと王子様は同意語だった。
その後マリーは熱を出して予定よりも長く宿に留まることになってしまい、屋敷に帰れるようになるまで一週間もかかってしまった。
屋敷に帰るとダリアはかんかんに怒っていて、結果としてマリーに専属の侍女を付けることで落ち着いたのだ。
そして紹介されて屋敷に来てくれたのがメイリンだった。
フィーノもダリアもメイリンを侍女として扱おうとしたが、当の本人がマリーに対して「ばあやですよ」と、挨拶したので、「まあ、どっちでもいいか」と、今に至る。
幼い私は舞い上がっていたけれど。
よく考えたら「可愛い天使」なんて、子供に向けてよく使うような台詞よね。
きっと彼からしたら特別な意味なんてなかったのだわ。
初恋っていうか……初めて会った家族以外の男の子。
……って、ところかしらね。
まあ、そういうのも含めて初恋というものなのかしら。
回想していたマリーはここで、変わらずによによとした笑みを向けてくるメイリンに気付いて「こほん」と、気を取り直すように軽く咳払いした。
「そんなんじゃなかったのよ。それに、もう十年も昔の話ですし、相手はどこの誰だかも分からないのよ?」
そう言いながらもマリーの顔に熱が集中しているのは、あの彼が成長したらさぞや美丈夫になっていることだろうと想像してしまったからで。
結婚がどうこうとかではなくて、純粋にもう一度だけ彼に会ってみたい。などとちょっぴり思ったりもした。何しろマリーにはそういったロマンスは塵ほども縁がない。
「……あの海に行ってみようかしら」
ぽつりと呟く。
今のマリーだったら二日の馬車移動も余裕で耐えられるのではないだろうか。
あそこで出会ったとはいえ、彼がその辺りに住んでいるとは限らない。マリーのように、他の地から遊びに来ただけかもしれない。
だから、どうしても会いたい。と、いうものではない。会えたら良いなぁ。くらいだ。
「そろそろ旦那様と奥様が帰って来ますからお願いしてみては?」
メイリンが五つ目のサンドイッチを飲み込んだ。
メイリンは年齢の割によく食べる。と、言ってもマリーはメイリンが何歳なのかは知らないが。
母親のダリアよりは間違いなく歳上だろう。
「では、お父様が帰ってらしたら、連れて行ってもらおうかしら」
ショーンも長期休みは帰ってくるでしょうから。そしたら、四人で行くのもいいですわよね。
私の所為で、まともな家族旅行はしたことがありませんし。丁度いいですわ。
マリーはメイリンがマリーの分として残しておいてくれたサンドイッチを手に取った。
その後、領地に戻ったフィーノよりもたらされた突然の報せに、マリーの願望は脆くも崩れ去る事をこの時のマリーはまだ知らない。
お読み頂きありがとう御座いました。