病弱令嬢と思い出の少年
「はっ!旦那様!私としたことが、忘れておりました。屋敷の者の中には奥様は妖精ではないか。という案件もございます。ただ、これは極少数派にございますが」
「なるほどな。それは、私も感じた事がある。ただ、妖精というと自由気ままなイメージがあるからな……悪くはないが、ここはやはり、荘厳なイメージの女神であろう」
ともすれば、政治の話でもしているのかと思われるほど真剣な面持ちで語る二人の論争は未だ続いていた。
いつまでこの居心地の悪い時間は続くのだろうか。
はぁ。と、息を吐いたマリーは、そんな二人の会話は聞き流してやろうと心に決め、完全に第三者に徹することにした。
意外にも他人事として聞いていると表情と話の内容のギャップにより、なんとなく面白い事が判明する。
だが、この様子を遠巻きに眺めていた者の登場により、思いの外早い段階で二人の間で勃発した「マリーは天使か女神か、はたまた妖精か」論争は終焉を迎えることとなった。
「旦那様もカレンも、いつまでふざけているおつもりですか」
突如マリーの背後から発せられた声。
三人の他は誰もいないと油断していたマリーは、その冷え冷えとした声に冷や汗が出るほどぎょっとした。
……いつの間に。
「……イーサン」
イーサンは、振り返ったマリーをちろっと見やり、その驚いた様子に満足そうに口角を上げた。
それとは対照的に不満そうな声を上げたのはフィリクスだ。
「ふざけているとは何だ。私は今、マリーと想いが通じ合い、その愛を深めているところだ」
「ずっと見ていましたが……到底そのようには見受けられませんでしたね」
どこから見ていたのだろうか。ずっと見ていないでさっさと出て来てくれたら良かったのに。と、マリーは思わなくもなかった。
愛云々は置いておいて。この場合、フィリクスと想いが通じ合っているというならば、それはカレンの事ではないだろうか。
そんなことは露とも感じていないフィリクスは、この空間を邪魔されたことに腹を立て、あからさまに不機嫌オーラを放っている。
「旦那様の言い付け通りこちらをお持ちしたのですが、その様子では不要のようですね」
「おぉおっ!待ちかねたぞ」
打って変わって破顔したフィリクスは、弾かれるように立ち上がると大股でイーサンへと歩み寄る。
イーサンは「絶対、忘れてましたよね」と、苦言を呈しつつ懐から細長い箱をちらっとフィリクスに見せたのだが、意地悪そうに口を歪ませると箱を懐へ戻した。
「なぜ仕舞う」
「私は、本邸までひとっ走りしてきたのですよ?」
クリスフォード公爵家本邸といえば、ここから馬車で一週間ほどの距離がある。王都を挟んでマリーの実家であるマクシミリアン男爵領とは丁度正反対の位置にあった。
それをひとっ走りとは。
この男も冗談を言うのだな。と、マリーは思った。
ただ、冗談を言う時は、それらしい表情をして欲しい。とも思った。
「うむ。ご苦労」
「………」
それをフィリクスは一言で終わらせ、箱を寄越せと言わんばかりに手を差し出した。
イーサンは納得がいかないのか、じっとフィリクスを見つめている。
「なんだ?まだ何か文句があるのか」
「大旦那様が嫁はまだかと」
「それは……追々、だな」
「大旦那様がこちらに来る事は恐らくないでしょう」
「それは……そうであろうな」
フィリクスは決まり悪そうにマリーをちらっと見た。
嫁はまだかと言うことは、挨拶しに来いということだろう。マリーもそれは少し気にはなっていた。
何しろ準備期間どころか、両家の顔合わせすらない唐突な婚姻だったのだ。
私では会わせられないのね。
マリーは歯切れの悪いフィリクスに気が重くなった。
「マリー様では大旦那様には会わせられない。と?」
まるで、マリーの心の声が聞こえていたのか。というタイミングでイーサンが言う。
どきり、とマリーの胸が跳ねた。
フィリクスに自分はどう思われているのか。マリーは恐る恐るフィリクスを窺った。
「何を言う。言い方が悪いぞ。それではまるでマリーが悪いみたいではないか。お前も分かっているだろう?これは飽くまでもこちらの事情でだな……って、マリーの名を呼ぶな!」
「そのマリー様の為の質問だったのですが。それとも、また誤解させますか?私はそれでも一向に構いませんが」
「っ、うるさい……とにかく、それをこちらに渡せっ!そして、名は呼ぶな!」
何某かの自覚はあったのか、フィリクスは「あ」と、マリーを見てから誤魔化すようにイーサンに催促する。
イーサンはまだ何か言いたそうであったが、渋々といった感じで箱をフィリクスに手渡した。
呼び名など、当の本人のマリーは、どう呼んでもらっても構わないと思っている。フィリクスが自分の事でもないのに怒っているのが謎であった。
建前かもしれないが、どうやら自分のことを悪く思っているわけではないらしいことが分かり、一先ず安堵の息を吐いたマリーの前にフィリクスがその細長い箱を置く。
「……あの、旦那様?」
「開けてみて」
戸惑うマリーが見上げると、優しく微笑むフィリクスがいた。
「私……に?」
箱の大きさからするとアクセサリーの類のような気もしなくはない。マリーの胸に、ほんのりとした期待が膨らんだ。
どきどきしながら、かぽっと蓋を開けると中に収められていたのはペンダント。
「……綺麗」
青い雫型の石のペンダントだった。
思わず手に取り、その石を眺める。
光りの加減で青味の濃さが変わる様は、まるで子供の頃に見た、深さにより色を変える海の様で。
「……彼の瞳の色みたい」
海で出会った少年の瞳を連想させた。
ぽつりと呟いたマリーの言葉に、その場がざわつく。
みるみるうちに険しい表情になるフィリクス。
ペンダントに見入っているマリーは、そんなフィリクスの変化はおろか、己の失言にも気付いていない。
「……彼?」
地を這うような低音のフィリクスの呟きに「え?」と、顔を上げると、無言のまま後退りしてこの場から離れて行くイーサンを視界の端に捉えた。そのイーサンはカレンの腕を掴み、そのまま連行するように離れて行く。
カレンは「えっ?」と、戸惑いながらマリーとイーサンを交互に見ていたが、大人しく連行される道を選んだようだ。
状況を理解していないマリーと、暗い顔をしたフィリクスの二人だけがその場に残された。
急にどうしたのかしら。と、イーサンとカレンを見ていると、二人は屋敷へ入ったところでこちらを振り返り、まるでのぞきをするように屋敷の中に半身だけ隠してこちらを窺っている。
なんなの??
眉を顰めて二人を見ていたマリーは、イーサンと目が合った。
イーサンは「しっしっ」と、いった手振りで口をぱくぱくさせている。
恐らくマリーに何か伝えようとしているのだろうが残念なことに全く伝わらない。
本当になんなの??
マリーが「分からない」という意思表示で首を小さく傾げると、イーサンはフィリクスに向かって指を指した。
ん?旦那様?
旦那様がどうしたというのだろう。と視線をフィリクスに戻すと、彼は茫然とした様子で力なく椅子にもたれかかっていた。顔面蒼白で目が死んでいる。よく見れば小刻みに震えているようにも見えるではないか。
つい先程まで元気だったフィリクスの変わり果てた姿に驚き、マリーは思わずフィリクスの足元に膝をつきその手を取った。マリーの手よりも大きくごつごつとした男性らしいその手は、やはり震えている。
「どうしたのですか!寒いですか?」
フィリクスは傍らに跪き、自分を心配そうに見上げる最愛の存在を見下ろした。
俯く姿勢だからだろうか、フィリクスのマリーを見つめる瞳が仄暗い。
何とも言えない恐怖を感じ、マリーはその手を握る手を緩め視線を逸らす。フィリクスにはそれが自分の許から逃げようとしていると映った。
一旦離れようと立ち上がったマリーは、逆にフィリクスに手を絡め取られ引き寄せられる。気付けばフィリクスの膝の上に収まっていた。
まるで壊れ物に触れるように優しく抱きしめられれば、フィリクスの胸に顔を押し付ける形となりその鼓動が聴こえてくる。
「逃さない」
一瞬でも恐怖を感じたマリーだったが、耳元で囁かれたフィリクスのその苦しそうな、切なそうな掠れた声と高鳴っている鼓動につられ、マリーの鼓動も高鳴っていた。
「逃げる、だなんて……」
ここで、やっとマリーは己の失言に思い至る。
確かに夫を前にして、夫からの贈り物を他の男に例えるなど、まるでその男に懸想しているようではないか。
旦那様を無視して失礼すぎるじゃないの!!
己の無礼さにマリーは愕然とした。
しかし、覆水盆に返らず。ここは早く誤解を解かなければ。と、フィリクスの仄暗い瞳を見上げたが、フィリクスの方が先に口を開いた。
「マリー。その……彼、とは誰のことなのかな。もしかして、やはり、君は……リックのことが……?」
「リック、ですか?……て、えっ、殿下のことですか?なんでここで殿下が出てくるのです??」
「青い瞳と言えばリックだろう。……やはり、あの時、遠慮せずに胸を貫いておけば良かったか……」
「………」
もしかしたら、今日が自分の命日になるのかもしれない。と、青くなっていたマリーは、暫し言葉を失った。
確かに、灰色やら茶色やら紫色やら色んな瞳の色が存在する。
だがしかし。この国の国民の半数は青色。下手をすれば十人中十人が青色なんて事もある。
つまり、ほとんどの人間が青い瞳をしているのだ。
なんだ、その乱暴な思い込みは。
そして、何を不穏な事を言っているのだ。
誤解を解こうとしていたマリーはこの時、なんとなく残念な気持ちになったという。
「違うんです。昔……子供の頃、父に連れられて海に行った事がありまして。そこで出会った男の子の瞳がこんな感じだったな。と思い出しただけです」
「……海?」
「はい」
今思えば、本当に不思議な瞳だった。
光りの加減で色の見え方が変わることはあるだろう。
きっと彼の場合もそうだったのだろうとは思うのだが、それにしても常に色が変化しているように見える瞳は今でも他に見たことがない。
その事を伝えると、フィリクスは最初こそ険しい顔で眉間にしわを寄せていたが次第に和らいでいき、しまいにはにまにまとし始め、口に手を当て視線をひたすら泳がせていた。
「そうか……そういえば、そうだったな」
「え?」
もごもごと話すフィリクスの言葉が聞き取れず、マリーが聞き返す。
「いや、なんでもない。それで……その彼が話に聞いていたマリーの初恋の相手なのだな?」
「えっ、はつ……?!何で知って……?!聞いたって、誰に??」
話の展開にマリーは慌てる。
誰がそんな事をフィリクスに教えたのか。
そして、何故フィリクスは妻の初恋話に嬉しそうにしているのか。
……この話を知っているのはメイリンだけ。
あの時、一緒にいた父には、ショックを受けてしまうのではないかと思い子供心にも言えなかった。
父はいつも母と一緒だったから、母に言う機会もなかった。
結局、秘密の話の類はいつも、その後我が家にやって来たメイリンにしか話す機会がなかったのである。
まあ、メイリンが両親に報告していたとしたら、知ってはいるのでしょうけど。
いくらマリー付きだとはいえ、雇っているのは父。報告の義務は発生しそうだ。
しかし、何もこんな話まで報告しなくともいいのに。
「その、違いますから。初恋とかそういうのではないです」
変な誤解を与えても良くない。マリーはきっぱりと否定した。
「違う……の?彼のこと……何とも思わなかった?」
それなのにフィリクスの様子がおかしい。表情が消えていく。
なんなの?
何をどう間違えたのかが分からない。マリーにはこの状況での正解が見い出せなかった。
「えぇと……格好良い男の子だなぁ、とかは思いましたけど……」
夫にこんな話をしていいのか。甚だ疑問は残るが、フィリクス自身が問うたのだ。マリーは素直に答えた。
「ふぅうん」
フィリクスの表情がみるみるうちに明るくなり、蒼白だった顔色もすっかり桃色に染まっている。
どうやら正解だったらしい。
本当に、なんなの??
お読み頂き有難う御座いました。