病弱令嬢は思い出す
川添茉莉は五歳の時に両親を事故で亡くし、父方の祖父に引き取られた。
祖父の剛造は、茉莉と共に息子夫婦を亡くしたことを悲しんだが、引き取った孫娘の茉莉のことはたいそう可愛がっていた。
だがその孫娘も―――――――。
―――――――そうだ。茉莉は、咲を庇って……。
意識が浮上し、目を覚ますとマリーは自分のベッドに横になっていた。
ぼんやりと、思い出したことを反芻する。
この国ではなく、日本という国で生きていた茉莉。
高校生だった茉莉は、学校の帰りにトラックに轢かれそうになった親友の咲を庇って、代わりに轢かれてしまったのだ。
お祖父さまを一人残して……可哀想なことをしてしまいましたわ。
茉莉だった事を思い出したとて、マリーはマリーだった。自分であって自分ではない。
それをまるで自分がしてしまったことのように感じている。茉莉の記憶を辿るのは不思議な感覚ではあった。
ふふっ、と思わずマリーは顔を綻ばせる。
『……儂はカレンという名で、貴族の奥様付きの侍女だったんだよ』
『はあっ?!可憐とは対照的な位置にいる人が何を言ってんのっ?!』
茉莉と剛造のやり取りを思い出したのだ。
剛造は柔道家であり、厳つい顔に貫禄のある体格をしていたが、それとは対照的な夢物語というか、乙女チックな作り話を孫娘の茉莉によくしていた。
茉莉という名も剛造が名付け親で、名前の由来はそのカレンが仕えた奥様がマリーだったからだという。
赤ん坊の茉莉を見た途端、剛造は『儂は前世を憶えている!』と、騒ぎ出したのだとか。
しかも、『茉莉がマリーとして生まれ変わるから、儂はお前を強くしなければならない』と、意味不明な理由で茉莉を鍛えようとしたのだからいい迷惑だ。
ふっと、マリーはここで思考を止める。
「……偶然。ですわよ……ね」
剛造の言う通り、茉莉は貴族のマリーとして生まれ変わったというところは確かだが奥様ではない。恐らく結婚は出来ないだろうから、この先も奥様になることはないのだ。
それよりも、と。
マリーが気にしたのは、茉莉が庇った親友の咲だった。
事故の直前に少し口喧嘩をしてしまい、咲がトラックに気付かず道路に走り出てしまった。
それを茉莉が咲の腕を取り、引き戻した反動で茉莉がトラックの前に出てしまったのだ。
自分の所為で茉莉が死んだ。
あの子はきっとそれを気にしてしまうだろう。
そう思ってみても今更な話で、どうすることも出来ないのだが。
「咲なら大丈夫よ」
どうか気に病まず、乗り越えて欲しい。
そう祈るしかマリーには出来なかった。
「お嬢様。目が覚めたのですか」
メイリンが音もなく部屋入って来ていたことに気付きマリーはびくっと肩を震わせた。
もう十年近くの付き合いになるメイリンは、たまにこういうことをする。
前にも、驚くから必ずノックをしてくれと言ったのだが。
「寝ていると思ったからしなかっただけですよ」
と、飄々としていた。
寧ろマリーが驚いていることを面白がっているのではないかとさえ思える。
シーズンの時期は、元々少ない使用人のほとんどを連れて王都のタウンハウスに行ってしまう。
その為、その時期のマリーの面倒はメイリンがほぼ一人で行ってくれている。
マリー一人とはいえ、すべての面倒を見てもらっている手前、あまり細かい事は言い難いので強く言うのは諦めていた。
「ばあや。事故は大丈夫でしたの?」
「ええ、大丈夫でしたよ。怪我人もいないみたいでしたし、お嬢様が心配するほどの事ではないです。寧ろお嬢様の方が心配です」
目の前で事故を目撃したショックで倒れたと思われたようで、医師を呼んでしまったらしい。ドミニクがメイリンの背後から顔を見せた。
「なんか……すみません」
主治医とはいえドミニクは開業医なのだ。男爵家専属の医師でもないのに簡単に呼び付けてしまうのは申し訳ない。
人の良いおじさん。といった雰囲気のドミニクは「元気ならけっこう」と、豪快に笑う。
「事故に驚いただけみたいだね」
マリーの脈や心音を確認した後、ドミニクが言った。
驚いて倒れるって、私ったらどんだけ弱いのかしら?
正確には茉莉が死んだ瞬間の恐怖を思い出して倒れたのだが、驚いて倒れたことに間違いはない。
「先生。どうしたら元気になりますか」
「うーん。先ずは体力作りかな」
ドミニクはいつもと同じ台詞をマリーに言う。
きっと、それしかないのだろう。
散歩を、それも無理のない範囲で行って来たが、地道に続けて行けということだ。何事も一朝一夕にはいかない。
庭の散歩程度でどのくらい体力がつくのかは不明だが、マリーにとって気の遠くなるような話であることは間違いない話だった。
「……ふぅ」
ドミニクが帰った後、メイリンにお茶を淹れてもらうと一息ついた。
「……うらやましいな」
一人になった部屋で、思わず呟いたのは茉莉のことだった。
彼女はとても活発な女性だったのだ。
茉莉がまだ幼い頃、剛造が鍛えると言って柔道の稽古に参加させても普通に食らいついていたし、その他に剛造の友人の女性からも稽古をつけられていた。
彼女くらい健康な身体だったら良かったのに。
散歩するのが精一杯の運動だなんて、茉莉が私を見たらどう思うかしら。
茉莉の記憶が蘇った事で、自分が動けていたような錯覚を起こしている。
実際には頭は覚えているが、身体は覚えていないだろうから動くことは出来ないはずだ。そもそも体力も筋力もない。
それでも、マリーの気持ちにはフラストレーションが溜まっていた。
『―――――呼吸は基本だよ』
これは誰の言葉だっただろうか。
不意にマリーの脳裏に蘇った言葉は、茉莉の記憶の中の誰かのものに違いない。
ああ、静加さんだ。
剛造の友人の女性。お婆ちゃんなのだが、お婆ちゃんと呼ぶと怒られる。
なので名前で呼べ、と「静加さん」と名前で呼ばされていた。
そして何故か剛造は静加を「魔女」と、呼んでいた。理由を聞いても「彼女は魔女様だから」と、言うだけで結局のところ意味は分からなかったが、静加も理由は知らなかったので、もしかしたら静加の見た目から剛造がつけた渾名なのかもしれない。
『教えて欲しいなら教わる覚悟をしな』
初対面で開口一番、静加は茉莉にこう言った。
静加は剛造から強引に茉莉の教育を押し付けられたようで、渋々といった感じを隠すことなく表していた。
幼い茉莉にとっても静加の所へ行ったのは渋々だった。初めて会った時はとにかく静加の外見が怖かったのだか、静加の忍者みたいな動きや触れるだけで相手を転がしたりするのを見てからはその考えは変わった。
純粋に凄い、と。教えて欲しい、と。それから毎日のように静加の所に通ったのだった。
静加の教えるそれは古武術を基本としているものらしかったが。
中学生になった頃、自分が周りの子供たちとあまりにかけ離れた生活をしている事に気づいちゃったのよね……。
だって、周りには相手を気で感じ取るとか、気で倒すとか、はたまた木々の枝を伝って飛び回るなんていう修行をしてる子なんて一人もいなかったんだもの。
幼い頃はただ楽しくて遊び感覚でやっていたけど、大きくなったら急に恥ずかしくなっちゃったのよね……。
それでも、身体を動かすのは好きな茉莉は剛造に反発するように空手を習い始めたんだっけ……。
マリーは遠い目をしながらティーカップに口をつける。
静加からは相手と呼吸を合わせるとか、身体の不調に合わせた呼吸法なんてのも教わっていた。
もう少し、真面目に聞いておくべきでしたわ。
それが静加さんの言っていた教わる覚悟というものかしら。
教わる覚悟の真意は定かではないが、呼吸法はまともに覚えていなかったのは真実だった。
今のマリーに効果があるかはさておき、折角だからやってみようと思ったのだが、肝心なところは茉莉の幼い頃の記憶ということもありうろ覚えであった。
ああ、もうっ!!茉莉ったら!それこそがマリーに必要なものではなくてっ?!
呼吸ならば身体を激しく動かす必要はないはず。
マリーは必死に茉莉の記憶を辿っていた。
え、えーと。腕を曲げた状態で、息を吸って、吐きながら腕を伸ばしていく。それと、同時に足?……足はどうしておくのだったかしら……あれ?これは違うものだったかしら、呼吸法は呼吸法だと思うのだけれど。
マリーは椅子の上であぐらをかき、両腕を天につき出した姿勢で「うーん」と、唸る。
……なんか、違う?
もっと、基本的なものがあったと思うのだけれど。
……あっ!これかもしれないわ。
マリーは息を吸いながら円を描くように両腕を上に上げ、息を止めると、息を吐きながら腕を下ろした。
これっぽいですわ!そんな気がしてきました!
気の流れを整える。とか、そんな感じのやつですわ!
呼吸なら激しくないと思っていたマリーだったが椅子から立ち上がり、思い出した呼吸法を三回もした頃にはじっとりと汗をかいていた。身体もぽかぽかしてきた気がする。
「なんだか……凄いですわね」
「何が凄いのでしょうか、お嬢様?」
「きゃぁあっ!ばあや!驚かさないでよっ?!」
夢中で呼吸法をしていたマリーは、メイリンが部屋に入って来た事に気付かず飛び上がった。
「ふぉっふぉ。そんな、まるで、ばあやが化け物みたいな驚き方をしなくても」
振り返ると、どこが目なのかわからないくらいの糸目で微笑むメイリンがいた。
驚くマリーに満足しているようにも見えなくもない。
「そんな……化け物だなんて言いませんけども……」
「ふぉっふぉ。そんなことは気にしませんけどもね。ところで、お嬢様は先程から何をされてたんです?」
呼吸法だとは知らないメイリンからしたら、マリーの動きはさぞや奇行に見えていたことだろう。
そして、どこから見られていたのだろうか。
声を掛けてくれればいいのに!
先程ぽかぽかしてきた身体は、羞恥で先程とは違う熱を持ち始めた。
「いえ、その……深呼吸をしていただけですわ」
それは決して嘘ではない。
「ふぉっふぉ。……そうでしたか」
動揺するマリーは、この時メイリンの糸目が妖しく光ったことに気付かなかった。
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