病弱令嬢と天使と女神と
「あの……旦那様」
「何だい、マリー?」
マリーは現在の状況に盛大に困惑していた。
前髪に息がかかるほど近くにあるフィリクスの顔。
そして、そんなフィリクスが一口チョコレートをつまんでマリーの口元に差し出している。
「一人で座れますし、食べられます」
そう。マリーは今、椅子に座るフィリクスの膝の上に横向きに座らされていた。
「何を言っている。夫婦とはこういうものだろう」
平然と言ってのけるフィリクスに、その顔を見上げたマリーは目と鼻の先にあるフィリクスの顔を思い切り直視して「ぎゃっ」と、視線を逸らす。既のところで声に出すのは留めることが出来た。
こういうもの。そういうもの?
お父様とお母様も仲は良かったけど、こんな事はしていなかったわ。
あ、でも。そういえば、酔っ払ったお父様がお母様に膝枕をせがんでいたことがあったわね。
あの時は、なんだかんだ言ってお母様も嬉しそうに膝枕をしてあげていたけど。
でも、それとこれとは……それに、旦那様は酔ってはいないようですし?今の状況とは逆ですし?
それとも私の前でしていなかっただけで、していたのかしら。夫の膝に妻が座るのは夫婦であれば普通な事なの?
ぐるぐると目を白黒させているマリーの口に、半ば強引にチョコレートが入れられた。
「あ」
「私がいるというのに、別のことを考えているね?」
マリーの顎に人差し指を添え、上を向かせながらフィリクスは不満そうな声を上げた。
ひぃいぃっ!やめてぇえぇー!
そんなことをされたら、口が開いてしまうじゃないの!
チョコが、チョコがぁぁあー!
口が開かないように、ぐっと顎に力を入れる。
マリーは、何か気を逸らす事はないか必死に探した。
「いえ、あの。しごと……そう!お仕事は、もうよろしいのですか?」
「ああ、代わりの者を置いてきたから大丈夫だ。まったく。リックの奴ときたら……昨夜も帰れるはずだったんだ。それなのに……あいつは私たちの仲を引き裂こうとしているんだ。そうに違いない」
フィリクスの返事が、ぶつぶつとした愚痴に変わった頃。顎に添えられた指は、手の平に変わりマリーの頬を包んだ。
セドリック殿下にそんな気は全くないだろうと思われるが、その隙きにマリーは下を向き必死に口の中のチョコをもごもごと溶かした。
「どうして下を向いてしまうんだ?」
旦那様が口にチョコを放り込んだからですがっ!?
マリーの顔を不満げに覗き込んでくるフィリクスを恨めしそうに睨んだが、何故だかフィリクスは目を見張り息を呑んだ。その頬がじんわりと紅く染まっていく。
一瞬、時を止めたフィリクスだったが、「ふふっ」と、微笑むとその顔をマリーに近付けた。
「マリー、チョコがついているよ」
マリーの視界がフィリクスでいっぱいになり、唇の端にざらっとした感触がはしる。
フィリクスに舐められたのだと理解するまで少々の時間を要した。
目を見開いたまま、ぴしりと固まるマリーを不審に思いフィリクスは首を傾げる。
「マリー?」
「――――――き」
「き?」
「っ、きゃあぁああーっ!!」
「えっ、マリー。どうしたんだ。ゎわっ!」
突然暴れ出したマリーをフィリクスは抱き止めようとしたが止めきれず、マリーはころんと椅子の下に転げ落ちた。
すかさずカレンが走り寄りマリーを抱き起こす。
「奥様、お怪我はないですか」
転げ落ちたとはいえ下は芝生。怪我などはない。だが、マリーは半泣き状態でカレンの二の腕をがしっと掴んだ。
「ぺろって……旦那様がぺろって……した!!」
「はい。このカレンはしっかり見ておりましたよ。確かに旦那様は奥様にぺろっとしましたね」
真顔で応えるカレンと、その後ろで「えっ?」「駄目だった?」「なんで??」と、狼狽えるフィリクス。
「開けられないのに……チョコが……口で、ぺろって……もう、お嫁に行けないわ!!」
もはや意味不明な言葉の羅列にもかかわらず、カレンはしたり顔でうんうんと頷く。
「大丈夫です。奥様はしっかりとお嫁に来ております」
「だけど……」
「そうです。旦那様が悪いのです」
「え、う……ん」
「ま、マリー……?」
目の前で堂々と「旦那様が悪い」と、宣言したカレンにフィリクスは衝撃を受けた。それを肯定するマリーに、ぴしりと石化する。
「乙女のお口事情も察せない男など言語道断です。その上、口についたものを舐め取るなんて最低ですよね!」
「え、ええ……まあ、そうよね」
「花を贈れば許されるなんて考えも浅慮で奥様を馬鹿にしていますし」
「え、と。そこまで、では……」
「そもそも!美しく着飾った奥様を褒めもしないなんて!旦那様の風上にもおけませんわ!」
「そんな!カレン、言い過ぎよ。旦那様は褒めて下さったわ!少し……大袈裟でしたけど。
それに、お花は嬉しかったわ。少し……多かったですけど。
あと、口は……恥ずかしいので止めて欲しいです……けど、でも、決して悪気があったわけではないのよ!」
カレンのあまりにひどい言い様に、気付けばマリーは言い返していた。
「ま、マリー……!!」
マリーの言葉にみるみるうちにフィリクスの石化の呪いが解け、死んでいた瞳に光りが戻る。
「申し訳ございませんでした。奥様の仰る通りでございます。では、奥様はこちらにお座り下さいませ」
カレンはペコリと頭を下げるとマリーを立たせ、すとんとフィリクスの向かいに座らせると、お茶の入ったマリーのカップをマリーの前に移動させた。
その手際の良さにカレンに丸め込まれた感が否めないが、そのお陰でマリーは落ち着きを取り戻した。
そうよね。夫婦なのですもの。
あれくらいで取り乱すなんて、私ったら。
あれくらい?
そもそもマリーの公爵夫人としての仕事は、いうなれば子作りなのである。一応学んでいるとはいえ、茉莉だった時も男性経験はなかった。
どれくらいがどんなものか想像も出来ないが、あれくらいよりは恥ずかしいものなのではないかと思うと頬が熱くなる。
マリーが熱くなった頬をぱたぱたと手の平で扇いでいると、フィリクスが性懲りもなくマリーの隣に座ろうと立ち上がった。
「お待ち下さい、旦那様」
それをカレンが止める。思いがけずカレンの掌底がフィリクスの鳩尾に決まり「ぐふっ」と、片膝を着いた。
「ぅうっ……カレン!!なぜ邪魔をするのだ」
「も、申し訳ございませんっ!!今のはわざとではありません!!」
カレンは土下座する勢いで謝り、フィリクスを介抱しながら内緒話をするようにこそこそと呟く。
「ですが、奥様は天使の如き純真なお方。あまり、ふらち……いえ、旦那様といえど、距離が近いのは如何なものかと」
こそこそと呟いた言葉はしっかりとマリーに聞こえていた。
……天使の如きって。
マリーは吹き出しそうなのを必死に堪えた。
「いや、待てカレン。マリーは天使などではないぞ」
当然、フィリクスの呟きも聞こえている。
お腹を擦りながら立ち上がったフィリクスの言葉に、ずきっとしながらも真実であるのでマリーは「まあ、そうですけど」と、頷く。
「マリーは……女神だ!!」
「ぶはっ!」
フィリクスは堂々と言い放った。
少なからず傷付いた気持ちを落ち着かせようとカップに口をつけようとしていたマリーは吹き出した。危うくお茶をこぼすところである。
何を言っているのだ。と、フィリクスを見れば至極真面目な顔である。からかっているわけではないらしい。片やカレンはというと、こちらもフィリクスと同様に真面目な顔で「まあ、そうですけど」と、頷いている。
「ですが、旦那様はご存知ないとは思いますが、奥様は天使であり女神なのですわ」
カレンはドヤ顔で言う。しかしフィリクスはそれを鼻で笑った。
「ふっ。俺がそんなことも知らないと思ったか。舐められたものだ」
フィリクスは前髪をかき上げ、カッコつけた雰囲気で言っているが、その言っている内容が内容である。
「いいか。基本、マリーは天使だ。だが、凛とした表情をした時に女神に変わる。例えば、今のマリーは女神だ。だけど、上目遣いで微笑んだ瞬間、天使と成り変わるのだ。まるで魔性の女神だな」
「……くっ!流石です、旦那様!!」
カレンは本気で悔しそうにしているが、何が流石なのか分からない。
唯一分かるのは、二人共マリーについて語っているということ。
なっ、なんなの、この公開処刑。
新手の拷問??
そもそも魔性で女神とはどういう状態なんだ。
魔王のことか??
至極真面目な顔で「マリーは天使か女神か論争」を始めた二人に、マリーは居た堪れない思いでなるべく気配を消してみた。
「なぁ、マリー。君もそう思うだろう?」
しかし、この距離で存在を消すことなど不可能である。
いつしか議題は「マリーが着用するドレス」に変わり、マリーはフィリクスに同意を求められた。
「そもそも、私が提案したあのドレスは外に着て行く為の物ではない」
「では何の為なのです」
「あれはマリーと二人きりの時に、私がマリーを愛でる為のものだ。他の男に見せていいものではない」
「「…………」」
マリーとカレンは遠い目をしていたという。
今回仕立てた物の中では、恐らくあのドレスが一番お金がかかっている。
それを外出用ではないという。普段着にしろと言うのか。なんというお金の無駄遣い。
「何を仰っているのです。あのドレスこそ、多くの方々に見せ付けるべきではないですか!」
「そうなのだが……美しいマリーを見せ付けたいと思う反面。見せたくない。どこにも出したくないのだ。そうでないと、皆がマリーの虜になってしまう。そうだろう?」
再び論争を始めるフィリクスとカレン。
どこまで二人が本気で言っているのか理解に苦しむマリー。
恐らく両者の考えは相容れないものだろうと思われた。
誰のことも虜には出来ませんからーっ!残念っっ!!
羞恥に震えるマリーは盛大にフィリクスを斬った。……心の中で。
……お世辞も過ぎるとこんな気持ちになるのね。
マリーは二人のどこにどう突っ込むべきか逡巡した挙げ句、時間が解決するのを待った。
現実とかけ離れた世辞が過ぎると、虚しいような情けない気持ちにさせるのだということをマリーはこの日学んだという。
その目は遠くを見つめていたそうな。
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