病弱令嬢と回顧録
フィリップ様の回顧録なる『愛の逃避行――略奪愛の末に――』。
読み始めたマリーは思いの外のめり込み、一気に読んでしまった。気が付けば日は落ち、本を閉じた時にはその空が白んでいた。
「思わず最後まで読んでしまったわ」
マリーはストールを羽織ると、カーテンを開けバルコニーに出る。
しょぼしょぼとした目に、夜明けの太陽がしみた。
帰りを待って起きていた訳ではないが、昨夜フィリクスは帰って来なかった。
旦那様は『なるべく帰る』と、言っただけだ。
それは、本来なら帰れない。と、いうことよね。
別に、私に会いたくないという訳ではないわよね。
自分に言い聞かせるようにマリーは「うん」と、ひとり頷く。
もっと話したかった。と、言ったくせに……。
はぁ。と、息を吐いたマリーは、ふと気付く。
「あれ?私、残念に思ってない??」
勿論マリーも、出来ることなら夫婦として良い関係を築けたら。とは思っていた。
それでも今まで帰宅しないフィリクスに対して、正直に言えば何の感情もなかった。寧ろホッとしていたくらいだ。
それなのに、今マリーに沸き上がってきた感情は、残念というか悲しい……と、いうか。
――――――寂しい。
「えっ、なんでっ??」
マリーは自分の急な感情の変化についていけずに戸惑う。
これは、きっと――――そうっ!
回顧録を読んだ所為よ!
回顧録の内容は、なんというか……言い方を悪く言えばクリスフォード伯爵であったフィリップはマーガレット王女のストーカーだった。
最初こそ陰からマーガレット王女を危険から守っていただけだったが、次第に王女の護衛から王女を守るという意味不明な理由で毎日(勝手に)護衛をするようになり、常にマーガレット王女の側で(付き纏い)愛を囁やき、執拗に愛を囁やき、更に愛を囁やき――――……
更には王女に近付こうとする男がいようものなら、その者たちの罪を暴き遠ざけた。その中には処刑された者もいるという。
最初こそ恐怖すら感じ、冷たくあしらっていた王女も、その情熱にあてられ次第に絆されていくのだ。
―――――マインドコントロールとも言えるかもしれないが。
そんな無茶が通るのもクリスフォードの家門故なのだが、罪を暴かれた者の中には「それ、大丈夫?冤罪じゃない??」と、読んでいてマリーがはらはらする案件もあった。
とにかく普通であれば引くほどの内容であったのは間違いない。
なのだが、不思議とマリーはその内容に嫌悪感を抱くこともなく、それどころか二人に自分とフィリクスを重ね合わせ、無自覚に身悶えさえしていた。
無自覚な故にマリー自身は覚えていないが、グレンはそんなマリーの奇行をしっかりと見ていた。
ベッドの上で「ふわぁ!!」と、言いながらばたばたしているマリーを見て「何やってんだ、あいつ」と、頭に疑問符を浮かべていたのは言うまでもない。
そんなこんなで、マリーはそわそわ悶々とする気持ちをその本の内容の所為だと決めつけて落ち着かせた。
「……奥様。まさか徹夜をなさった訳ではございませんよね?」
恨めしそうな声に振り返ればカレンが鬼の形相で立っている。
「あ、いえ、これは……うん」
「ああ!もう!本をお勧めしたのは私ですが!いいですか、奥様のお肌は陶器の様に白いのです!少しのクマでも目立ってしまうのですよ!」
カレンの勢いに、黙ってされるがままに手を引かれたマリーだったが、ベッドに押し込まれても既に外は明るい。いつもの起床時間よりは早いが、今更眠れる気はしなかった。
「ね、カレン。カレンは隣国と戦争になるのを鎮めた伯爵が格好いい。みたいな事を言っていたじゃない?どの辺が格好いいの?」
眠る気のないマリーは、ベッドの中からカレンに話しかけた。
回顧録にはその辺のことは「使用人を伴い隣国と話し合いの場を設けた」とだけ書かれていた。
それのどこがカレンが興奮するほどの内容なのか、マリーには読み取れなかったのだ。
勢い良く、くるりと振り返ったカレン。
その顔には「よくぞ、聞いてくれました」と、書かれているようであった。
「ふっふっふ。そこは物語には書かれていないお話があるのです」
「回顧録なのに?」
「大衆の娯楽本として出版されたので、秘匿された部分なんです」
カレンは含み笑いをしながら、ドヤ顔で語る。
そして始まるカレン劇場。
「隣国の軍隊が、今まさに我が国に攻め入ろうとしたその時です!我が伯爵家の使用人の一人が、その前線に躍り出ました!
ああ!なんということでしょう!一介の侍女に、戦場であるここで、いったい何が出来るというのか!?」
カレンは祈るようなポーズを取り、天を仰いだ。
「…………」
「――――しかしっ、次の瞬間っ!!」
ばーんっ!と、言いながらカレンは、野球で言うところのセーフみたいなポーズを取る。
「前衛部隊の兵士を一撃でふっ飛ばしたのです!!その数、ざっと見積もっても百名!」
「……うーん?」
良く分からない。
マリーは眉を顰める。
今の話で分かるのは、使用人が侍女……つまり、女性だったことと、その侍女が兵士をふっ飛ばしたということ。
一撃という響きには心惹かれるものがあるが、大人数をふっ飛ばすとはどういう意味だろう。
大砲でもぶっ放したのか。
つっこみどころ満載である。
「え……と、て、いうことは、凄いのは、その侍女だってことじゃない?」
「奥様、お待ち下さい。確かにその侍女は凄いです。何せ……魔物ですから」
「……は?」
カレンが小声で言った単語に、マリーは間の抜けた顔で間の抜けた声を出した。
魔物??
ぉおぅ。出た!いきなりのファンタジー要素!
まぁ、昔話にはありがちよね。
残念ながら、トレイス王国には魔法も、ましてや魔物なんて存在は確認されていない。
マリーの冷めた視線に気付いたカレンは、慌てて首を横に振る。
「クリスフォード家に伝わるお話で、決して嘘ではありません!!」
「伝わる話……カレンはその魔物を見てはいないのでしょう?人型の魔物?それとも、人に化けているの?それに、それが本当だったとしたら、やっぱり凄いのはその魔物ではないの?」
「……むぅ。フィリップ様は旦那様のお祖父様に当たる方です。少し昔の話ですので、確かに目にしてはおりませんので何とも言えませんが……ですが!その強い魔物を従えることが出来るフィリップ様は、やはり格好良いのです!」
そういうことか。
当主の威厳を使用人に見せ付ける為の作り話。
代々の当主はその強い主の血筋である。と、使用人たちは教育されるのね。
で、あれば、本には記載されるわけないわよね。
作り話なんだもの。
あ、でも逆に、物語風にしているのだから、そのくらいの脚色はあっても良かったような気もするわね。
なるほど。と、ふんふん頷くマリーにカレンは満足したのか、彼女も満面の笑みで頷き「それに……」と、続けた。
「なんと言っても女性だったら、愛される方が良いではないですか。……まぁ、実はフィリップ様は行き過ぎだという声もあるのですが。
でもでも!同じ女性としては、王女様が羨ましいのです!!」
マリーは自分の事を言われたわけでもないのに赤面する。
確か、お二人も最初は相思相愛ではなかったのよね―――――って!
お二人もって!
私ったら何を、お二人を私と旦那様に重ね合わせているの!
そもそも旦那様には愛していらっしゃる方がいるのだから、図々しいにもほどがある!
マリーは、ばふっと布団を頭から被ったと思ったら、がばっと跳ね起きた。
「奥様??どうしました?」
「……カレン、もうこのまま起きていることにするわ」
とてもじゃないが、寝てなどいられない。
マリーはそわそわする気持ちを持て余し、自分が分からなくなっていた。
「左様でございますか……仕方ないですね。今日はこの間注文したドレスが届く予定になっています。試着するだけですから眠くなったら無理しないで言ってください」
「分かったわ。それにしても、もう仕上がったの?早いわね。十着はあったと思ったけれど?」
「うふふ。それは、もう。急かしましたから!」
カレンは両手をわきわきとさせ、何故だが気合を入れている。
「……なんだか分からないけど、お手柔らかにお願いします」
しかし、マリーの要望は聞き入れられる事はなかった。
午前中には仕立て屋と共に屋敷に届いたドレスたち。
その半数以上はデイドレスやアフタヌーンドレスなのだが、問題はイブニングドレスだった。
他の物は試着し、サイズなど問題がなければ着替えるだけで良かったのに、イブニングドレスに至ってはドレスの色に合わせたメイクやヘアセットまでさせられた。
その都度メイクを落とす。という徹底ぶりにマリーは辟易していた。
「つ、疲れた……」
最後のドレスの着付けとヘアセット、メイクが終わり、仕立て屋とメイド達に「お似合いです!」と、やんややんやとおだてられていたマリーは、カレンの「これで終わりです」の声と共に、ドレスを着たままドサッとソファーに倒れ込んだ。
最初こそ肌の露出が多いドレスに羞恥心があったが、着せ替え人形のような状態になってからは、もうどうでもよくなっていた。
「マ、マリー……」
不意に名を呼ばれた。心なしかその声が震えている。
睡眠不足な事もあり、うとうとしかけていたマリーだったが、その声に心臓が跳ね上がり、飛び起きると声のした方へと振り返った。
「旦那様」
そこにはいつの間に帰宅したのか、部屋の扉を開けた状態のまま、フィリクスが呆然とした様子で立ち尽くしていた。
慌ててマリーが立ち上がると、フィリクスがふらふらと吸い寄せられるように歩み寄る。
そそ、とカレン含むメイド達が壁際にはけて行った。何故かその中には仕立て屋も含まれている。
「おかえりなさいませ。お出迎え出来ず、申し訳ございませんでした」
フィリクスの不意打ちの登場に動揺が隠せないマリーだったが、フィリクスはそんなマリーを目を細めてじっと見つめるだけで何も言わない。
マリーは自分の衣装を見下ろした。最後に試着したのは、フィリクスが提案したというあの黒いドレスだ。
何か問題があったのだろうか。
それとも似合っていないのか。マリーも一応は鏡で自身のドレス姿を確認している。特に問題はないように思えたが、それと似合う似合わないは別かもしれない。
どきどきしながらフィリクスの言葉を待った。
「公爵様、いかがでしょうか?奥様に合わせて公爵様のものも仕立てましたので、夜会ではお二人が注目されること間違いなしだと思うのですが」
何も言わないフィリクスに、マリーも含めたその場の者は緊張した面持ちで固唾を呑んでいたが、遂に仕立て屋が遠慮がちに問い掛けた。
さすが、ベテランの仕立て屋である。勇気がある。と、マリーは心の中で称賛した。
だが、次の瞬間。フィリクスが、ぎろっと仕立て屋を睨みつけた事でその場が凍り付いた。
「夜会になど連れて行ける訳がないだろう!誰だ、このようなけしからんドレスをオーダーした奴はっ!!」
「―――――え」
お読み頂き有難う御座いました。