病弱令嬢と不治の病
心地よい温もりに包まれてマリーは意識を浮上させた。ゆらゆらと身体が揺れているのも更に心地よさを誘う。
そっと瞼を開けるとフィリクスの横顔が間近に飛び込んできた。
なんで?と、思いながら、ぼんやりとその横顔を眺める。フィリクスに抱きかかえられているのだと理解するまでに時間がかかった。
私、どうしたのかしら。
えっと、お客様がいらして……旦那様が帰ってらして……それから……。
朦朧とした頭で考える。
だが、熱が出ているのだろうか、身体が怠く思うように頭が回らないばかりか口を開く事が出来ない。
旦那様のお顔。誰かに似ていますわ。
……誰だったかしら。
マリーは考えることを放棄してフィリクスの横顔をぼんやりと眺めていたが、久しぶりの発熱の怠さには勝てず、うとうとと再び瞼を閉じた。
◇◇◇
どうして、こうなった……??
マリーは気を失ってから発熱し、一晩中眠っていた。
朝目覚めた頃にはすっかり熱も治まったのだが。
「マリー。ほら、あーんして」
軽く顔を洗っただけの状態でベッドに座るマリーの目の前には、眩しいほどの笑みを湛えたフィリクス。
その手元には食べやすくカットされた林檎が盛られた器。
その林檎にフォークを刺し、マリーの口元へと運ぶフィリクス。
状況が理解出来ぬまま反射的にマリーは口を開け、差し出された林檎を一口噛った。
「ああ、少し大きかったね」
「……ひっ」
フィリクスは何の躊躇いもなくマリーが口を付けた林檎の欠片を自分の口に放り込む。
マリーはフィリクスを唖然と見つめた。
しゃくしゃくと小気味良い咀嚼音を響かせながら、器に盛られた林檎をフォークでさくさくと更に小さくしているフィリクスの姿は、なんだか嬉しそうだ。
何が、起きて……??
――――――今朝。
「我が妃を返してもらおうか」
「彼女は既に私の妻だ!王族であろうと、真実の愛を切り裂くことは許さない!!」
「やめて!私の為に決闘なんて!!」
寝起きのマリーの目の前で繰り広げられた、カレンによるカレン一人三役の「カレン劇場」。
声色まで変えて随分と熱が入っている。
どうやら昨日のシーンの再現のつもりらしい。
のだが。
「……最近読んだ物語の題名を言ってみなさい」
「『愛の逃避行――略奪愛の末に――』です!」
な、なんだ、その、バッドエンドのにおいを醸し出している題名はっ!
隣国の王子の婚約者となった王女と、その王女に恋する貴族令息の恋愛物語。
有名な物語らしいのだが、かなり昔の書籍なのでマリーは内容を知らなかった。
既に婚約しているというのに、強引に破棄させた上に自分との婚姻も強引に結んだというその令息のお話。
物語だからこその強引さなのだろう。
現実にそんな貴族がいたら引く。そんなことをしたら戦争になりかねない。
「それ、面白いの?」
現実味がないからこそ物語としては面白いということもある。
「はい!とにかく強くて格好いいのです!隣国のマシャールと戦争になりかけたのですが、向こうが引いたのはなんと言ってもフィリップ様率いる伯爵軍の圧倒的強さ!!」
ん?待て、待て。
隣国とは架空のではなく、実際の国名なの?
しかも、戦争になりかけた??
それに、伯爵軍て何?!
フィリップとは恐らくその貴族令息のことを言っていると思われる。貴族が私設騎士団を持っていることは珍しくない。
それに、現実に小国ではあるがトレイス王国に隣接する国にマシャール王国がある。
「しかも伯爵軍は伯爵家の使用人数名だけだったのですよ!!」
瞳をきらきらとさせ、嬉々として語るカレン。
……使用人数名。
それって……軍とは言わないんじゃ??
マリーは首を捻る。
そして、昨日の旦那様が現れた場面が、その物語を思い起こさせたのだという。
「私は君を……愛しているんだ!!」
「っ?!」
何故か再び始まった「カレン劇場」。その物語の台詞なのかなんなのか、カレンはひしっと己を抱きしめ一人二役を熱演していた。
その後も「カレン劇場」は続いていたが、奇しくも昨日のフィリクスの台詞とリンクしており、マリーを赤面させるのには十分だった。
――――――からの、現在。
フィリクスはマリーの口のサイズまで小さくさせた林檎の欠片をフォークに刺し、マリーの口元に差し出して早く食べろと催促するように「ん」と、小首を傾げている。
病み上がりということで「朝はなにか軽めの果物を」と、頼んだのだが、何故か果物と一緒にフィリクスがマリーの部屋へと入って来たのだ。
フィリクスの「私が食べさせる」の台詞に、カレンは嬉々として早々に下がって行った。
「あの、旦那様。自分で食べられますから」
カレンだって、手ずから食べさせようとは思っていなかったはずだ。
子供の頃は寝込むと食べさせてもらったりもしていたが、今は流石に恥ずかしい。
「何を言う。まだ熱が下がったばかりじゃないか」
「でも……別に、手を怪我した訳でもないですし」
「私がマリーと一緒にいたい口実なんだ……ほら」
そう言うとフィリクスは、少し開いたマリーの口に林檎の欠片を強引に差し入れた。咄嗟に、はむっと林檎を口に入れたマリーにフィリクスは満足そうに微笑む。
しゃくしゃくと林檎を咀嚼しながら半ば呆然とフィリクスを見つめると、照れたようにフィリクスは視線を逸らす。
「マリー……あの、昨日、私が言ったことなのだけど……あれは、私の誤解だったようだ……あの……」
もじもじとしながらフィリクスが話し出したところで部屋の扉がノックされる。
「旦那様。そろそろ出ませんと」
イーサンが顔を出しその無愛想な声が聞こえると、途端に不機嫌を隠すことなく顰めっ面になったフィリクスが舌打ちをした。
「もう時間か……遅らせてもいいだろ」
「そうはまいりません。今日は大事な打ち合わせですから」
はぁ。と、大袈裟ともいえる溜め息を吐くとフィリクスはマリーに向き直りその頬を両手で優しく包み込んだ。
「……ぇあ」
フィリクスの流れるような所作に思わず見惚れていたマリーだったが、不意に近くなった距離に固まった。
心拍数が急激に上がっていく。
「もっと話がしたかったのだが……」
「……ぅえ、あ」
そんなマリーの心情など関係ないとばかりにフィリクスの顔が近付いて、こつんとその額がマリーのそれに触れる。
金色の瞳にマリーが映っているのが見えるほどの距離だ。
「今日はなるべく帰るようにする。だから……それまで、ゆっくり休むんだよ……愛しい人」
金色の瞳が優しく細められたかと思ったら、マリーの額に柔らかい感触が触れた。
「っ!!」
ちゅっ、というリップ音と共に名残惜しそうにその感触と手の平が離れていく。
本当に名残惜しかったのか、フィリクスがマリーの手を取ったところでイーサンに止められた。
「もう少し待て!」
「もう十分待ちました。これ以上はきりがありません」
マリーはイーサンに引きずられるようにして部屋を出て行くフィリクスを呆然と眺めていた。
……なにが、起きたの?
マリーはそっと自分の額に手を当てる。
さっきの、アレは……旦那様の……く、くち、び……?
ぼんっと、音がしなかったのが不思議なくらいの勢いでマリーの顔が紅潮し、慌てて両手で頬を押さえた。
……旦那様の手。
男の人の手って大きいのね。
額に感じた感触と、マリーの顔など簡単に包み込めるフィリクスの大きな手の感触を思い出し、胸がぞわっとする。
それに……い、いとしい、ひとっ。とか、言った??
最後のフィリクスの台詞まで思い出し、マリーの胸はきゅうきゅうと苦しさを増していく。
いとしいって、愛しい?
糸しい。
とかではないわよね。意味が分からないもの。
そういてば、昨日だって、『愛してる』って……。
愛?
あ、い??
あ、れ?おかしい。苦しいわ。
はくはくと口を動かすが呼吸の仕方を忘れてしまったのか、なかなか空気が入ってこない。
「奥様〜。おかわりはいかがですか?」
カレンが呑気な声で部屋へ入って来たが、マリーはそれどころではなかった。
「カレン!私、おかしいの!!」
「えっ、まあ!奥様!熱がぶり返してしまいましたか」
赤い顔をしたマリーに、カレンは慌てて駆け寄った。
「分からないけれど……旦那様に触れられたら胸が苦しくなったの。でも今までの病気の苦しさとはなにか違うの。違う病気なのかもしれない」
「……え?」
ベッドに寝かせようとするカレンにマリーは涙目で訴えるのだか、カレンはぴたりとその手を止めた。マリーの顔を覗き込むカレンの顔は何ともいえない表情で視線をあちこちに泳がせ、口元などはふにゃふにゃと波打っている。
「カレン。念の為、お医者様を呼んでくれない?」
あくまでも、マリーは真剣に言っているのだ。
ここで笑ってはいけない。と、カレンは腹筋に力を入れる。
「奥様。今は苦しさはどうですか?」
「あら?今は……大丈夫ね」
カレンと話していたら、不思議と先程までの胸の苦しさも熱も引いていた。
「そうですか……因みに、その症状が出た時の状況をお伺いしても?」
カレンの台詞が若干震えている。
「状況?そうね……だ、旦那様が……私の頬を、触って……」
言いながら「そういえば、昨日から距離が近い」と、気付いたマリーの顔はみるみる赤くなっていく。
カレンからしてみたら、マリーのこの様子を見ただけで病名は明白だった。
「ほら、思い出しただけでどきどきしてきたわ!!」
縋るように瞳を潤ませるマリーとは対照的に、カレンは「ぐふっ」と、膝を折った。
「奥様、それはご冗談ですか、それとも……本気で?」
この時、カレンは思った。
「奥様に腹筋を試されている」
と。
もしかしたら、最近訓練をさぼっていることがバレているのか?これを機に鍛え直せということか?とさえ思ったそうな。
「もちろん本気よ!本当に胸が、きゅうってなるのよ!」
大事なことなので二度いうが、マリーは真剣に言っているのだ。
だが、目の前のカレンには何故か話が伝わらない様子。しかもカレンは赤い顔で、ふー、ふー、と、肩で呼吸をしている。
「カレン、もしかして体調が悪いの?」
己の太ももを、ぎゅっとつまんで耐えているカレンに、マリーは意図せず追い打ちした。
どうして、そんな話になるのかと問いたいが、口を開くと笑い出してしまいそうだ。必死で首を横に振る。
「そりゃ、クサヅの湯でも治せない病ってやつだろ」
そんなカレンに助け舟を出したのはグレンだった。
いつの間にかベッドサイドの椅子に座り、林檎を口に放り込んでしゃくしゃくとさせている。
「ええっ!!グレン、あなたに病気のことが分かるの?!」
一瞬、グレンの目が可愛そうな子を見る目になったが直ぐに持ち直したのでマリーは気付かない。
「まぁな。病気というか……そういう意味で言えば、旦那様の方が病気だけどな」
「グレン!あんた、また勝手に奥様のものを!!」
グレンの登場にカレンが息を吹き返した。
「時間が経つと不味そうな色になるだろ。そうなる前に食べてやってんだ」
そう言いながら残った林檎にも手を出す。
器用に林檎を口に入れる時だけ頭巾の口元だけを開けていた。
「色が変わらないようにしてあるからいいのよ!」
カレンがグレンの手から器を奪い取るが、既に器は空になっている。
「ねぇ、グレン。その病は治るの?」
二人がじゃれ合って収集がつかなくなる前にマリーはカレンを制した。
「んー……医者でも治せないらしいからな……」
グレンの声が笑いを堪えているように感じるのは気の所為か。
「『お医者様でもクサヅの湯でも治せない』それって『愛の逃避行』の一節よね!」
グレンの言葉に被せるように興奮したカレンが声を上げた。
どこかで聞いたことあるフレーズだな。と、マリーは首を傾げる。
「クサヅの湯って?」
「これです!!今朝お話した回顧録です。お持ちしました。この中でシズカ様が仰った一節なのです。なんでもシズカ様の故郷には病気を治すことが出来る霊験あらたかなお湯があるのだとか!なので、お医者様でも、その湯でも治せない。つまり、誰も治せない病ということです!」
エプロンのポケットから本を取り出したカレンが一気にまくし立てる。
一度に入ってきた情報にマリーが目を瞬かせた。
「え、と……かいこ、ろ、く?」
今朝した話であれば、あれは聴衆向けの物語ではなかったのか。
「回顧録です。奥様」
「え、実話?」
話によれば戦争を起こしかけた貴族令息の話だったと思ったが?
しかも、聞いたことのある名前まで出てきた。
「はい!マーガレット王女がクリスフォード伯爵家に降嫁した経緯を記したフィリップ様の回顧録です。誰でも読みやすいように物語風になっているんですよ。読んだことがないということでしたので、ぜひ奥様にもお読み頂こうと思いまして!」
ずいっとカレンはマリーの手に回顧録を押し付ける。
「あ、ありがとう……」
ぉ、ぉおぅ。まさかのこの家の話だったとは。
そういえば、過去の当主の中にフィリップ様という方がいたな。と、イーサンから聞いたことをマリーは思い出す。
白髪のシズカ様に抱っこされた、まだ赤ん坊の頃のフィリップ様の写真があったわよね。
あら?何かしら。今、違和感があったわ。
マリーは思い出した写真に違和感を抱きつつ、押し付けられた回顧録に視線を落とした。
だいぶ古びてはいるが、しっかりとした表紙で厚みがある。読み応えはありそうだ。
「……ねぇ、シズカ様が言ってたのは、『お医者様でも草津の湯でも恋の病は治らない』ではないの?」
「そうです!あ、なんだ奥様はご存知だったのですね」
どこかほっとした様子でカレンが言う。
マリーは微笑んで曖昧に応えたが、当然それを知っていたのは茉莉の記憶が多少なりともあるからだ。
たまたま。なの?
それとも何処かに草津という地名があって、お湯が湧いているの?
シズカ様の故郷って……やっぱり?
いや、いや、いや!
……て、あれ?
じゃあ、二人が言っている私の病気って……。
恋の病。
こ、い。
……鯉?
いや、いや、いや!!
「恋ーっ?!」
マリーは真っ赤な顔で叫んでいた。
お読み頂き有難う御座いました。