病弱令嬢は旦那様と急接近する
トレイス王国現国王リチャード国王陛下。
そのリチャードがまだ王太子だった頃、パトリシアという男爵令嬢が妊娠。彼女がお腹の子供はリチャードの子であると訴えた事により不貞が発覚。
この時既に王太子妃となっていたリリーはこれに大激怒。
揉めに揉めた末、パトリシアの実家は騒動を起こしたということで爵位を取り消され平民に落ち、彼女自身は出産後規律の厳しい修道院へと送られた。
リチャードの廃太子も検討されたが、リチャードの代わりに既に執務も行っていたリリーが「私がお支えしますから」と、嘆願し彼の首の皮は繋がった。
この時リチャードがリリーの機嫌を取る為に新種のバラを開発し、そのバラにリリーの名前を付けたというのは有名な話だ。
尚、この時リチャードは特に何もしていない。頑張ったのは専門家たちだった。
しかし、ならばバラではなく、ユリの花にすれば良かったのでは?と、社交界で揶揄されているのも有名な話。確かにリリーローズとはややこしい。
なんにしても、リチャードが浅慮な人間であるということを世に知らしめてしまった一件であることには変わりはない。逆に、不貞を働いた男を許し、なおかつ支えると公言したリリーの株は上がった。
更にリリーが行った治安の悪い貧民街の改革。
多くのホームレスに職を与え、街を整備した事により今までの貧民街の臭くて危ないイメージを払拭し、新しく職人の街として生まれ変わらせた。
リリーの好感度は爆上がり。現在もリチャードが王位を保っていられるのは、偏にリリーのお陰であるという話である。
そしてパトリシアが生んだ子供は男児だった為、籍は王族に置かれていたが、成人する前に死亡が発表された。
それは、さておき。
「殿下、なぜ私に内緒で私の妻と密会し、あまつさえ手を握って見つめ合っていたのか。説明を求めます」
「少し冷静になりたまえ。いいか、フィー。先ずこの場合は、なぜ従者も付けず一人で出歩いているのか。と、私を責めるところだぞ?」
マリーの目の前には、呆れた様子のセドリックと目を逆三角にしたフィリクスがいる。
セドリックは呆れた顔をしながらも、きらきらとしたオーラを放つことは忘れない。「さすが王族だわ」と、マリーは関心する。
「私の第一優先は妻ですから、どんな虫も近付けさせたくないのです」
マリーは思わず眉を顰めてフィリクスを見上げた。
何かの光線でも出しそうなほど金色の瞳をぎらぎらさせ、セドリックを睨みつけているフィリクス。
なんだか、会話が噛み合ってない気がするけど、これでは、まるで……。
殿下相手になんて事を言うんだ。と、マリーは恐る恐るセドリックを窺う。彼は苦い顔をしているが怒ってはいないようだ。兎に角呆れているということだけはよく分かる。
「やれやれ、虫扱いとは……そもそも、君が奥方を隠しているのが悪いのだろう?人間は隠された方が興味を持ってしまうものだよ」
「それが、妻を見つめていい理由にはなりません」
実際にセドリックは興味半分、いたずら心半分、本当にマリーに挨拶をしに来ただけであった。そこに下心は一切ない。
……まるで、旦那様が私の事を好き……みたいにも取れるじゃない??
フィリクスがセドリックに嫉妬しているかのような状況に―――いや、嫉妬しているのですけど―――マリーはフィリクスとセドリックを交互に見たが、いやいや、それはない。と、頭を振る。
――――――『あの男が一途に想っていた人がどんな女性か、ずっと気になっていたんだよ』
セドリックの言葉が蘇る。
旦那様には一途に想っている女性がいると殿下もおっしゃっていたもの。
私を好きなフリをしているのだわ。
だけれど、なにも殿下相手にここまでなさらなくてもよろしいのに……。
ほら、殿下も呆れ返ってますわ。
「……いいじゃないか、見るくらい。減るもんでもないのだし。それに、手は握っていない」
「減ります!もしマリーが半分にでもなってしまったら、どう責任を取るおつもりだったのですか!」
そんなことは絶対にない。人間が半分て、どんなホラーだ。そもそも視線を向けただけで人間の身体は減らない。
旦那様……。
無理して私を好きなフリをするから、おかしな事を口走ってますわよ。
マリーは思わず残念な人を見る視線をフィリクスに向けていた。
フィリクスは変わらず、射殺さんばかりの視線をセドリックに向けている。
セドリックは同情的な視線をマリーに送った。
カレンは……遠くからわくわくとした熱視線を三人に送っていた。
やがて、このままでは話が進まないと思ったのだろう。セドリックは深い溜め息を吐き、口を開く。
「フィーと一緒に仕事をする時に奥方を同伴させるのは危険だということがよく分かったよ。兎に角、もう用は済んだから私は帰る」
そう言うと、セドリックはフィリクスの肩に凭れるように肘を置き、フィリクスの耳元で囁く。
「誰のお陰でつつがなく結婚出来たのか、今一度思い出して欲しいもんだねぇ」
フィリクスは、はっと目を見開くと、そっと窺うようにその視線をセドリックからマリーへと向ける。
それにつられてマリーもフィリクスを見ると、視線が打つかった。視線を交わしたのは一週間振りくらいだろうか。
マリーに向けられた金色の瞳からは先程までの憤怒の光りは消え、その代わりに不安そうに揺れ出した。
腕を伸ばせば触れられる距離でフィリクスの顔を見たのはこれが初めてだ。
はあ。本当に整ったお顔をされているのね。お肌も白くてすべすべしてそうで思わず触ってみたくなりますね。羨ましい限りですわ。
ああぁ。特に殿下と並ばれたら……二人のお側にいたら私など霞もいいところだわ。同じ空間にいるのがつらい。
でも、このツーショット……。
こういうのを眼福というのかしら。見ているだけならいくらでも見ていられる気がする。
遠慮なくまじまじと見つめるマリーとは対照的にフィリクスはそわそわとし始め、所在なさげに視線を泳がせたかと思えば俯いてしまった。その顔は耳まで赤い。
あら、急にどうしたのかしら旦那様。
フィリクスが俯いたところで二人の身長差は頭一個分は優にある。マリーがわざわざ覗き込まなくてもフィリクスの表情は見て取れた。
「あの、大丈夫……」
フィリクスが急に調子が悪くなるところしか見たことのないマリーは、彼は実は身体のどこかが悪いのではないのかと思い、フィリクスの腕に手を掛けたところで、はっと息を呑んだ。
不意にフィリクスがマリーを上目遣いに見上げたのだ。いや、見上げているのはマリーの方なのだが、マリーの機嫌を窺うようにフィリクスは見つめてくる。しかも、今にも泣き出しそうな顔をして、瞳を潤ませていた。
かっ、可愛いっ?!
私ったら、どうしたのかしら。大人の男性である旦那様が可愛く見えてしまいます。
それに、なんだか胸がどきどきしてきました。
こんな時に困ったわ。発作かしら。
やだ!熱まで出てしまったのかしら。身体が熱くなってきたのだけれど?!
赤い顔で瞳を潤ませ、何かを訴えるように見つめてくるフィリクスを、マリーはどぎまぎとする胸を抑えながらぼーっと見つめ返した。
フィリクスの赤い顔につられるように、マリーの頬もじんわりと赤く染まっていく。
「……あのさぁ」
笑いを含んだセドリックの声にマリーは我に返り、フィリクスから手を離すと距離を取った。
「私の存在を無視しないでくれるかな。仲が良いのは十分に分かったから。その先は、私が帰ってからにしてくれるかな?」
「あ……」
別にセドリックを無視していたわけではないが、他人の前でフィリクスと見つめ合っていた事実に思い至り、マリーは羞恥に耐えられず両手で顔を覆った。
不思議と胸の動悸は治まり、マリーはほっとする。
だが、それも束の間。
セドリックはくすくすと笑いながら隙のない動きで俯いたマリーの耳元に口を寄せると小声で囁いた。
「君は殺されないように頑張ってね」
マリーの心臓が、どきりと跳ね上がる。
はっ、と顔を上げるとセドリックは、殴りかかったフィリクスの拳をひらりと躱しているところだった。
「だ、旦那様っ?!」
殿下に対する振る舞いとは到底思えないフィリクスの行為にマリーは慄く。
だがフィリクスの攻撃を軽やかに往なしたセドリックは優雅に微笑んだ。
「フィー。君、しばらく王城に泊まっていたんだろ?今日はもうこのまま帰宅でいいよ。ゆっくりしてくれ」
それだけ言い残し、セドリックは来た時と同様に優雅な足取りで去っていく。
フィリクスは流石に追いかけてまでセドリックを攻撃しようとはしなかった。
「あ!お見送りしなくては!」
と、マリーが気付いたが、時既に遅し。セドリックの姿はなく、その代わりといってはなんだがフィリクスに両腕を掴まれていた。
「……あの、旦那様?」
「何を言われた?あの男に何を言われたんだ?!それとも……何かされたのかっ?!」
フィリクスの鬼気迫る勢いに、思わずマリーは身を引く。
「あ……すまない」
我に返ったフィリクスが、さっと腕を離したがその表情は苦しそうだ。
「いえ、あの、何も……殿下は私に挨拶をしに来たと仰ってました」
「本当に?」
マリーが頷くと、フィリクスは微かに表情を緩めた。
殿下とは初対面だというのに何をそんなに警戒しているのかしら。
もしかして、殿下はタッセル公爵と何か関わりが?
だとすれば、私に接触してきたのも頷けるわ。
そもそも、私なんぞに殿下が御自ら挨拶に来るというこの状況が既におかしいのですもの。
何か理由がなければ。
でも、殿下と旦那様は一緒に仕事をするような関係らしいし……そんな人が私に何かするかしら。
それに、殿下の最後の言葉が引っ掛かる。
――――――『君は殺されないように頑張ってね』
『君は』と、いうことは『誰か』は殺されている。と、いうこと。
その『誰か』とは、やっぱり……大奥様?
「……マリー」
切なそうな声にマリーが顔を上げると、切なそうな、と、いうより泣きそうな顔のフィリクスがマリーの顔を覗き込んでいた。
「君は私を恨んでいるかもしれないが、私は君を……愛しているんだ」
「……えっ」
フィリクスはマリーの手を取ると、愛おしそうにその指に唇を押し当てる。
ちらりとマリーを見上げたその目には熱が籠もっていて、再びマリーの心臓が騒ぎ始めた。
なっ、何?急にっ?!
旦那様の、くっ、唇がっ、私の指にっ!
それよりも、恨んでるって、なにっ?!
フィリクスはマリーの腰に腕を回し、引き寄せるとハーフアップに軽く結い上げられたマリーの髪を優しく撫でる。
マリーはフィリクスの突然の行為に、情報処理が追いつかない。
「たとえ、君に恋人がいたとしても……」
「えっ?」
私に恋人っ?!
そうなのっ?
知らなかったわ!!
フィリクスはマリーの肩にかかった髪をすくい上げると、そこにも口付けを落とす。
「たとえ、その恋人が殿下であっても……」
「んっ?」
なんとっ!!
私の恋人は殿下っ!!
そのままフィリクスはマリーの頭を自身の胸に押し付けるようにして抱きしめた。フィリクスの吐いた息がマリーの耳にかかりぞくりとする。
不貞がバレたから消されるということっ?!
私が殿下と恋人だったなんて知らなかったのにっ?!
殿下とは今日が初対面だから、妄想上の恋人ということ??
そうなのっ??
そうなのねっ?!
私が殿下を妄想上の恋人にしてたなんて知らなかったのにっ!!
人生で触れ合った男性は父親しかいないマリーは、初めて男性と身体を密着させているこの状況に完全にパニックに陥っていた。
「たとえ、君に恨まれていたとしても、君のことは誰にも渡さない。もう逃してあげられないんだ」
そうとは知らないフィリクスの苦しそうな声がマリーの耳元で響く。
「すまない。ゆっくり許しを請うつもりでいたのだけれど、悠長にしていたら君が逃げて行ってしまう気がして――――――マリー?」
腕の中のマリーが脱力し、フィリクスに寄りかかる。マリーが気を許し身を預けてくれたのかとフィリクスは期待したが様子がおかしい。
「どうしたんだ。おい、マリー?マリー!!」
マリーは意識を手放していた。
マリーには刺激が強すぎたのだ。状況を処理しきれず、本能が強制的に意識を閉じたともいえる。
膝から崩れ落ちたマリーをフィリクスは横抱きに抱え、一先ず部屋へ運ぼうとしたところで近付いて来た人影に気付く。
「ふぉっふぉ。安心して下さい坊ちゃま。お嬢様は気を失っているだけです」
「……いつ戻って来た?」
「たった今です。坊ちゃま」
「どうだかな。それより、坊ちゃまと呼ぶな。それに、マリーはもうお嬢様ではない。それと、お前には聞きたい事があるんだ―――――メイメイ」
「なんなりと」
メイメイと呼ばれた、長い髪を一つに結い上げ侍女服を纏った女性は、つり上がった切れ長の目を細め、にんまりと口角を上げた。
お読み頂き有難う御座いました。