公爵と家令
間隔が空いてしまっていますが、宜しかったらお付き合い下さい。
マリーがカレンとおしゃべりしている頃のフィリクスとイーサンのやり取りです。
「天使とは成長すると、女神になるのか?」
イーサンが執務室に入ったところでフィリクスが独り言のように言った。
イーサンがいることに気づいているのだから独り言ではなくイーサンに聞いているのだろうか。
イーサンは執務室のソファで惚けている己の主人に、「なんだそれは?」と、残念なものを見るような視線を送る。
「……生態系が違いますので、何ともお答え出来かねますが……」
「そういう話ではない!!」
では、どういう話だ。と、イーサンは考える。
肖像画の間にてマリーに大まかな公爵家の歴史について講義をした後、イーサンは主人がいるであろう自室に向かったが、そこにフィリクスはおらず執務室を覗いたのだったが。
「お着替えをされるのではなかったのですか?」
フィリクスは着替えもせずソファにもたれて惚けていたのだ。
「それと差し出がましいようですが、奥様に対する先程の態度はいかがなものかと思います」
「何がだ?」
「念願かなって嬉しいのは分かりますが、あれでは奥様を無視したようなもの。
ただでさえ、奥様にはお慕いした方がいらっしゃったというのに……」
「ちょっと、待て!慕っていた奴とはなんだ?!聞いてないぞ!」
マリーを無視している。の、くだりは無視しているようだ。
がばり。と、起き上がったフィリクスの鼻にはハンカチが突っ込まれている。
「母からの報告によれば奥様には幼い頃からお慕いしている方がいらっしゃるとか」
珍しくイーサンがによによと目尻を下げている。
こんな時は間違いなく何かを企んでいる時だ。
フィリクスは訝しげな視線をイーサンに送った。
この男は公爵家に長く仕えているが、その分フィリクス自身への忠誠心は希薄なのではないかとフィリクスは思っている。
「母?……報告内容は聞き捨てならないが……お前の母親は本邸にいるのではなかったのか?それが何故マリーの幼い頃を知っている?」
「そんな細かいことは気にしないで下さい」
やれやれ。と、ばかりにイーサンが肩をすくめる。
細かいことを気にせずに、どうしてこの家の仕事が出来ようか。今の仕草もそうだが、フィリクスはイーサンに馬鹿にされている気がしてならない。
「お前の今の主人は私なのだが?」
「そうですとも。奥様を見るなり興奮して鼻血を噴き出し、挙句に妄言を吐くような男が私の今のご主人様ですとも」
フィリクスはイーサンを睨み上げたが、呆気なく嫌味で返された。
返す言葉もない。言葉に詰まったフィリクスは、鼻に詰めたハンカチを引っこ抜いた。
「もう血は止まっている……」
「馬車から放り出されても無傷の人が、何も無いところで無駄に血を垂れ流さないで下さい」
イーサンが「なんて器用な身体ですか」と、無表情ながら演技がかった仕草で嫌味ったらしく大袈裟に息を吐いた。
お前のそういうところが嫌なんだ。
どうして普通に言えないのだ。
イーサンとは生まれたときからの付き合いだが、こういうところは未だに好きになれずにいた。
まあ、好きになる必要もないのだが。
「そんなことより、お前こそ無駄に馬車を大破させるなよ」
「無駄ではありません。効率的と言って下さい。
馬車にあれだけの人数の賊に飛び付かれてしまっては馬車ごと崖下に落とす方が早いでしょう」
馬車に何人張り付いて来たかは分からないが、確かに一人一人を相手にするよりは遥かに楽だ。
だが、しかし。
何の打ち合わせもなく馬車を大破させたと思ったら、そのまま壊れた馬車を数人の賊もろとも崖下に突き落としたのだ。この男は。
「お前は御者をしていたのだからそもそも逃げられるとして、中にいた俺がどうなると思ってたんだ」
「旦那様であればあれしきの事、なんてことはないと思いましたので……実際に逃げ果せたではないですか」
イーサンは「これぞ、信頼関係です」と、いけしゃあしゃあと宣った。
フィリクスは息を吐く。納得したわけではないが「もういい」と、こめかみを押さえ目を瞑った。
一人くらいは賊の生き残りがいるかと、わざわざ崖下まで下りてみたが見事に全滅していた。
恐らくは屋敷を襲った者たちの仲間だったろうが話を聴く前に死なれてしまっては確認する術がない。
フィリクスはイーサンを睨み上げた。
「それで?屋敷で起こった事件も解決出来ているんだろう?」
「はい。手引きしたのは庭師でした」
簡単に賊の侵入を許すほどの警備ではない。捕えた賊から屋敷に勤める庭師が手引きしたとの証言が取れた。
「……あの庭師はお前が採用したのだったな?」
「はい。十年ほど前になりますか」
あの頃はまだフィリクスの父親が公爵だった。
「庭師の出自に問題はなかったはずだな?」
当然ながらこの屋敷に仕える為には調査が行われる。なんのしがらみもない平民や孤児の中から能力の高そうな者を引き抜いてくることがほとんどだが、その出自の調査は主にイーサンが担っていた。
「はい。タッセル公爵の関係者です」
「はっ?なん、だとっ?!」
問題が大ありではないか。
フィリクスが目を剥きテーブルを叩いた。
「一見、何の関係もないように取り繕ってはいましたが、我々の調査能力を侮ってもらっては困ります。
しかしですね。折角勇気を出して我々の懐に飛び込んで来てくれたのですから、情報操作出来るように泳がせておくのも一つの手かと思いまして。
もちろん。シリバス様……大旦那様の了承は得ておりました」
「……父が」
父が認めていたなら仕方ない。
しかし、あの温厚そうな庭師が……。
フィリクスの脳裏には、彼が庭の花を嬉しそうに愛でている姿が思い出されていた。
何も気づけなかった自分は、まだまだ未熟だな。
息を吐き、何とも言えない表情でゆっくりとソファに身を預ける。
「ですので、奥様の輿入れの日をそれとなく庭師の耳に入れておきました」
「何故だっ?!」
フィリクスは再び前のめりでテーブルを叩いた。
「必ず動くと思いましたので。……我々が刺客に手間取ってしまったのは想定外でしたが」
フィリクスは息を呑む。
領地にて問題が発生したとの報せがあり、フィリクスはやむなくイーサンと二人で向かったのだが、結局のところはガセであった。領地からはそんな報せは出していなかったのだ。
つまり、それも仕組まれていたのか。
屋敷を手薄にするために?
フィリクスは、ぎりっと、イーサンを睨みつけた。
「知っていながら……なぜ言わなかった?!」
「言ったら旦那様は敵の作戦に乗ってくれないでしょう?」
乗っかった方が、守り易く捕え易いのに。
イーサンの目は、そう語っていた。
「当たり前だ!マリーを危険に晒すなどっ!」
「はあーっ……。マリー様の方が賢く、話が通じますね」
イーサンが再び大袈裟に息を吐いた。
「おい!どういう意味だ!それに、マリーの名前を気安く呼ぶな!」
イーサンは心底残念なものを見る視線を、鼻息を荒くしているフィリクスに向けた。
「本当にもう。この家の主人たちにはドラゴンの血でも混じってるんですかね……」
クリスフォードに生まれる男児は――何故か男児しか生まれないのだが――一人の女性に対する執着が強い。
それは前公爵も、その前も。初代の当主から続く執着心。それはもう番を得たドラゴンかのような……。
そして、その弱点とも言える執着をタッセル公爵にも知られている。
弱点を狙われるのは至極当然の事。
イーサンはイーサンで、うんざりする思いで歴代の当主たちに仕えてきた。
奥方が関わると周りが見えなくなるらしい。突然ぽんこつになるのだ。
「初代は特に酷かった……」と、イーサンは思わず遠い目になっていたが、フィリクスがじっとりとした視線を向けていることに気づく。
「ええ、ええ。もうお名前ではお呼びしませんから……」
「当然だ!それで、庭師はどうしている?」
名前ひとつでどうしてこうも熱くなれるのか。と、イーサンには理解出来ない。というより、若干呆れている。
「やられました……。遺体で発見されています。黒幕の事は庭師だけが知っていたようで、他の者たちは金で雇われただけのただのならず者たちでした」
フィリクスの表情が、すんと無に変わった。
「それでは……マリーをみすみす危険に晒しただけ。と、いうことか?」
自分自身も危険な目に合ったのだが、フィリクスにとってそれは大した問題ではなかった。
マリーを囮のように扱い、あまつさえ敵を取り逃がすとは。
怒りによりフィリクスは鬼の形相でイーサンを睨んでいた。
「……それで?」
「『それで?』とは?今後の対策についてですか?」
どんなにフィリクスが睨んだところで、イーサンが怯むことなどない。質問の意図が分からず聞き返す。
「それもだが……その前に、報告していない事がまだあるんじゃないのか?」
なにしろクリスフォード公爵の世代交代は一年程前に引き継ぎなどもろくになく突然行われた為、フィリクスは公爵を名乗りながらもこの家の詳細を把握しきれてはいなかった。
それというのもこの家の家令であるイーサンが情報を小出しにしてくるからである。
「そうですね……たとえば旦那様が子供の頃、一目惚れしたというマリーという名の少女についてですが」
フィリクスが少年だった頃、父シリバスの仕事について行った先の海で出逢った少女に一目惚れし、彼女を探してくれとシリバスに頼み込んだ事があった。
手掛かりは名前だけ。それだけでは見つける事が出来なかったが、フィリクス宛の釣書の中に偶然マリーのものがあったのだ。
当然のことながらフィリクスはそれに即座に飛びつき、めでたくマリーとの婚姻までこぎつけた。
「実はすぐに探し出していました」
「はぁああっ?!」
「当たり前でしょう?我々を侮らないで頂きたい。少女一人を探し出すくらいでは一日もかかりません」
イーサンが向ける「あなた馬鹿ですか」とでも言いたげな表情にフィリクスはムッとしたが、確かにおかしいな。とは、思っていた。
しかし侮るなと言うならば、何故タッセル公爵にいつも逃げられているんだ。と、いう言葉は呑み込んでおく。
それよりも。
「なぜ見つからないなどと言ったんだ?!」
「分かりませんか?ご自分たちの特性と家柄をよく考えてみて下さい。」
フィリクスは、ぐっ。と、言葉に詰まる。
「見つけたなどと言ったら、どうせすぐに婚姻を迫ったでしょう。婚約などしてもその期間を我慢出来るとは思えませんし?
何より間違いなく狙われるでしょうからね。幼い少女に危険を強いるなど……その前に、ロリコンですかって話ですからね。大旦那様と相談して時を待とう。と、いう事になりました」
シリバスは自分自身のこともあり、この家の男の執着心をよく理解している。一度「この娘」と、決めてしまったら、それを覆すのは容易ではない。
「特に、タッセル公爵がその手先を庭師として送り込んで来た矢先でもありましたから」
イーサンは「幼い少女を囮にしようというのは流石に良心の呵責があった」と、いう言葉は敢えて伏せておいた。
「それにしたって……マリーが独りでいてくれたから良かったものの……」
時を待っていて、その間にもしマリーが婚約でもしてしまっていたらフィリクスは悔やんでも悔やみきれなかっただろう。
「ええ。ですから、母には男爵家に使用人として潜り込んでもらってました。運良くマリー様の侍女を探していましたので割とすんなり入れましたね。
それと、マリー様はおモテになるようで『婚約の打診をされてはそれを潰すのに苦労した』との報告もありましたよ」
初めて聞く内容にフィリクスの顔色が悪くなる。
イーサンがマリーの名を呼んでいることにも気づいていない。
「……もしかして、ウチに男爵家から婚約の打診があったのは相手がいなくなってしまったからか?」
「まさか。打診する相手がいなくなったとしても家格が違い過ぎてそんなことするわけないでしょう。
あの釣書は旦那様の気持ちを、念の為確認する為に私が用意したものです。
婚約の打診はこちらから男爵にしたのですよ。
まあ、婚約を飛び越えていきなり婚姻させたようなものなので……男爵は真っ青になっていましたねぇ。少々、強引でしたから。悪い事をしました」
全く悪びれる様子もなくイーサンが言う。
驚きで二の句が継げないフィリクスはイーサンを睨んだ後、両手を組んでそこに額を当てるようにして顔を伏せた。
「ついでに言わせてもらえれば、奥様は旦那様とお会いしたことを覚えていないようです」
フィリクスの肩がぴくりとして、ずるずるとテーブルに沈み込むようにして突っ伏した。
あの時、マリーは幼かったのだから覚えていなくても仕方ない。
しかし、もしかしたら、覚えていて、そしてフィリクスに釣書を送ってきたのではないか。なんて都合の良い夢をちょっぴり見ていた。
だが実際には、そんなことはとんでもなくて。
いや、本当は疑う余地はいくらでもあった。
ただ自分にとって都合がいいからそのまま鵜呑みにしたのだ。
「マリーは……俺を恨んでいるんじゃないだろうか」
少々浮かれていて、マリーがどんな表情をしていたかなど見れていなかった。
公爵家からの申し出など断れるはずがない。
しかも、想い人がいたというではないか。
マリーからしたら、突然顔も知らない男に求婚され、強引に恋人と引き離された挙げ句、嫁がされた。という現実しかない。
だが、手放してやる気は微塵もない。
「だけど……マリーに嫌われたら、俺は……いや、もう嫌われているのか……?」
テーブルに突っ伏したまま、ぶつぶつと呟く。
その様子を「ダメだこりゃ」と、眺めていたイーサンだったが、その時イーサンの耳が何かに反応し、微かにひくひくと動いた。
だが、テーブルに突っ伏し、落ち込んでいるフィリクスはイーサンの様子に気づくことはない。
「旦那様……大旦那様のようにご自身の奥様を殺さないで下さいね。……後処理が面倒ですから」
再びフィリクスの肩が、ぴくりと動いて少し顔を上げた。
「それだけは理解したくないと思っていたが……まさか……父の殺したくなる気持ちが分かるようになるとは……」
フィリクスは大きく息を吐いて、今度はソファに寝転ぶように突っ伏した。
落ち込むフィリクスに、執務室の扉が少し開いていることなどに気づく余裕はなく。
ましてやこの時、フィリクスを見下ろしているイーサンの口が弧を描いているなど露ほども思っていなかったのである。
お読み頂き有難う御座いました。