(56)涙(なみだ)
喜怒哀楽を激しく感じれば、涙が出やすい。これは人の生理的現象だから止めようもないが、めげないで必死に堪えれば、止められることもあるにはある。脳からは、それは哀しいでしょ!? だから涙を出しなさいよっ! と、一応、神経系統の命令を伝達するのである。だが、本人の気持が、いやいや、今はそういうときじゃないっしょ! めげないで我慢、我慢するんだっ! と自分に言い聞かせれば、脳は、あっ! そうなんだ…勝手にすればっ! 的に引き下がり、チェッ! と舌打ちしながら命令を取り消すことになる。当然、悲しいにもかかわらず、涙は出ない。ただ、陰鬱な顔がニコニコ顔にはならないだろうが…。同じように喜びの場合も同じで、この場合は哀しい場合よりは出にくくなる。めげる状況がないからだ。激しい感動のうれし涙を、グッ! と我慢する気持くらいだろう。怒りながら涙を流す場合の気持は、私にはよく分からない。^^
とある映画館である。その中に奇妙な観客席の男が一人いた。ブツブツと口では怒りながら顔では笑い、しかも涙をダラダラと流しているのである。オリンピックの体操競技に例えれば、難度Hクラスの金メダル演技である。^^
「どうしたんですっ!?」
隣座席の男が、迷惑顔で思わず声をかけた。映画は始まったばかりで、まだそんなに泣けるシーンでもなかったからである。
「えっ!? いや、すみません…。つい、今朝の家のことを思い出したもので…」
上映中の迷惑を考え、男はヒソヒソ声で隣の男の耳元で呟いた。
「ああ、そうなんですか。もう始まってますから…」
隣座席の男は、迷惑ですよっ! とまでは言わず、男の耳元へ遠回しに呟き返した。ブツブツと口では怒りながら顔では笑い、しかも涙をダラダラと流すこの男の心境が分からなかったということもある。その後も、男はめげないでブツブツと口で怒らなくなったが、相変わらず笑顔で涙を流し続けた。変わった人だな…と隣座席の男は思ったが、迷惑をかけている訳でもないので、思うに留めた。
涙が出る心境は、めげないでも流れるときは流れ、めげていても流れないときは流れない・・という複雑さが存在するのである。^^
完




