奴隷の呪い
「おかえりなさいです、ユリウス!」
教会宿舎の部屋に案内されて扉を開けるや、リーティアがばっと飛びついてきた。
驚きながら、咄嗟に受け止めたふわふわの金髪を撫でる。
「リーティア。元気にしてましたか?」
「はいっ! みんなすごく優しいです」
グランスが隣で小さく笑って、部屋の奥で座っていたイリスに声をかける。
「遅くなったね。留守番ありがとう、イリス」
「まったく・・・どこまで寄り道してたんだ。俺は保父さんじゃないんだぞっ」
そうぼやいたイリスの腕の中で、赤毛の小さな女の子が寝息を立てている。
完全に保父さんだ。
「イリス。アリスを家に送ってあげなさい。今ならまだ帰れるだろう」
「あー・・・そうですね。いつ起きて何をしでかすか・・・。ちょっと行ってきます。ユリウス、リーティアは頼んだ」
疲れ切った様子で、イリスは女の子を抱いたままそっと部屋を出ていった。
「アリス? あの子がイリスの妹ですか」
「アリスとリーティアは似ているよ。個性が凄い」
苦笑を浮かべたグランスの言葉で、イリスが疲れていた意味がわかった。
リーティアが2人いたら、それは、疲れるだろう。
「ユリウス、リーティア。今日は疲れただろう。明日はまた慌しくなるから、今日はゆっくり休んでくれ」
「グランス。貴方も休んで下さいね。まだ顔色が悪いですよ」
「ああ、ありがとう。姉さんに声を掛けたら、休ませて貰うよ」
「ユリウスとリーティアと、お部屋一緒ですよっ! いっせきにちょうって言うんだって。いっせきちょうって、何ですか?」
ぎゅっと腕に抱き着いたリーティアが、きらきらと目を輝かせる。
「一石・・・えっ? ちょ、どういう―――」
あわてて助けを求めた相手は、さわやかな笑顔で手を振って、さっと扉のむこうに姿を消した。
―――やられた。
リーティアと一緒の状況では、教会の内情をそっと探るのは難しい。
「待ってる間に、イリスがごはん作ってくれたの、ユリウスのぶんもちゃーんと取ってあるんですよっ! あ、おふろも綺麗なんですけど、どっち先がいいですか~?」
いきいきと幸せそうなのは良いが、どうしてリーティアがここにいるのか。
彼女の経緯は、聞いていない。
あのアロークが動物と仲良くと出来る才能があると評価していたということは、今回の件に、関わってくるのだろうか。
「イリスのごはんが美味しいのは知っていますよ。君と会出会ったのも厨房だったでしょう? でも、浴場は気になりますね。グランスも何か言ってましたし」
「おふろは、こっちです! みんな使い終わったから、空いてますよっ」
勢いよく腕を引かれて廊下に出る。
時期によって住んでいる人数は違うだろうが、ある程度の住み込みの聖使が生活する教会宿舎は、なかなかに広い。
時々、増改築を繰り返したような様子がある。
聖堂は煉瓦造りだが、こちらは木造だ。
歩くたびに足元の板張りが音をたてる。
これではどのみち、こっそり動き回るのは難しそうだ。
「ここのおふろ、ちょっと凄いんですよ! 聖女様が作ったんだって、ゆってました!!」
リーティアが浴場の扉を開くと、ざあ、と水音が満ちた。
浴場の真ん中の支柱から噴き出すのは、お湯の噴水だ。
綺麗な放射線を描いて、広い湯の中におちていく。
あの魔力に満ちた丘みた景色のように、きらきらと水飛沫が薄明かりに輝く。
「すごいですよね! あっ、着替えるのは、こっちに―――わっ!?」
ぱっと離れて足を踏み出したリーティアが、いきなり転んだ。
そのままお湯の中に滑り落ちて、バシャンと水飛沫をつくる。
予想外の事ばかりやる彼女に、驚くというより感心する。
「リーティア! 大丈夫ですか? 頭打ったり―――」
ざば、と顔をあげてびっくりしたように目を瞬かせたずぶ濡れの少女は、自分の惨事に少しばかり遅れて気付いて、ぶっと噴き出した。
「あは、は・・・あはははは!!」
「―――頭、打ってますね?」
どこが笑いのツボに入ったのか、水の中に座り込んで大爆笑を始めた彼女を助け出そうと、手を差し出した。
小さな手が素直に捕まったのに安心した瞬間、ぐいと引っ張られる。
予想外の行動を取ることがわかったばかりなのに。
一瞬のうちに、頭からずぶ濡れになった。
ほんのり温かいお湯が、たっぷり服の中に流れ込む。
「・・・ッ、ちょっ、リーティア・・・っ!」
言い終わらないうちに、どん、とその小さな身体の重みが胸の中に入ってきた。
ふるえる肩の奥から、つぶやく声がこぼれる。
「・・・った・・・戻ってきてくれた・・・」
胸の中に顔をうずめて、聞き取りにくいが、どきりとした。
「襲われたって聞いて、ホント心配したです。なかなか帰ってこないしっ・・・また何かあったんじゃないかって、すっごい心配っ・・・ご主人様みたいに、いなくなったら、いなくなったらどうしよう、って・・・」
痛いくらいの強烈な想いが、直接胸の中に響いてくる。
濡れそぼった金髪に指を絡ませて、優しく、声をおとす。
「・・・大丈夫ですよ。俺は、いなくなりません」
ほとんどの人間が、父の残像を通してユリウスをみている。
直接、「俺」を見ているのは、この子だけなのか。
貴族から籍を抜いた今でも、親の威光が無ければ存在価値に乏しいだろう。
どんな身分だろうと、学んだ事をなんでも活かせると思っていた。
アタマひとつあれば、何でも出来ると思っていた。
だがアロークの手腕を目の当たりにして、それがどれだけ傲慢で卑怯なものかが、分かった気がしている。
―――無力。
まだ、奴隷の少女に心配されるだけの人間でしかない。
今はどんなに巧くやっているとしても、父の残像を利用したやりかたでしかない。
魔物の声が胸中にこだまする。
あれは、何だったのだろうか。
魔物の生態はよくわかっていない。
魔女の時代になってからは、戦場に現れて彼女に従うもの、という条件が増えはしたものの、それ以前から世界中に自然に現れる魔物全体を条件付けるものではないだろう。
本当に人の血の穢れか何かを受けて現れるものであるなら、それが意志を持って言葉をあやつったときの意味は大きさは、見直す必要がある。
あの魔物の眼光が、大小の貴族達と重なる。
いつか総議長になるつもりでいたんだろうが、それはもうありえない―――。
そういう冷笑が聞こえてきそうだ。
その未来は、確かに消えた。
だけど、功名心のために毎日研鑽を積んできた訳じゃない。
まだ、やれることはある―――。
現実の水面にゆれる光を見つめながら、そう、胸に呟く。
呼吸を落ち着けたリーティアが、顔を上げた。
「ユリウス・・・私は、あなたを守ります」
突拍子の無い言葉を零した彼女の頬が、うっすらと赤い。
何を言い出すのかと一瞬目をまるくしたユリウスは、ますます真っ赤になっていくリーティアの顔色に気付いて、小さく笑った。
「参ったな。俺はそんなに弱って見えたんですね」
「ご、ごめんなさいっ! そ、その、えっと、あ、あの、カゼひいちゃうから、出ましょうっ」
あわてて立ち上がるとたっぷり水を含んだ聖衣が綴じ目から外れて、胸元の肌色がいきなり目の前に出現した。
「ぁわ、み、見なかったことに~!」
いそいで服をかき抱いて、重くなった服を持ち上げながら浴室の床に這い登るのを、思わず後ろからひきとめた。
―――奴隷の烙印。
それが彼女にあるのは当然だ。
だが、あの図柄―――自分と同じ、王冠の烙印は。
「リーティア。この街にくる前は、どこにいたんですか?」
硬い早口になったのに驚いた彼女は、自分の奴隷の印に注目されているのに気付いて、そっと胸をおさえた。
その仕草がどこか上品で、ひやりとする。
「・・・リュディア帝国の、サルディスっていう所にしばらく住んでました。でもその前とかは、よくわかんないです。ご主人様と一緒にここに来たときは、なんだがとっても嬉しそうでした。・・・でも長くてつらい旅だったから、倒れちゃって・・・」
「その方の出身だったんですか?」
また涙を滲ませたリーティアは、いそいで目を擦って、服の水を絞った。
「わかんないです。サルディスが長くて・・・。ご主人様が死んじゃってから、街の人たち、すごく怖かったです。・・・でも、この教会の人たちはみんな優しくて大好きです。ユリウスも―――」
言葉を切って、はじめて顔をあげた。
大きな蒼い瞳がじっと覗き込んでくる。
「ユリウスも、すっごく優しい人です」
にっこりした彼女に、困ったように笑ってみせるしかない。
「そんな事ばかり言ってると、悪い人に騙されますよ?」
「あぅ、ごめんなさい~・・・き、着替え持ってきますっ」
自分もずぶ濡れのまま、浴室を飛び出して床にぺたぺたと足跡をつけていった。
(ただの、偶然か)
リーティアが流れ者の奴隷だったということで、身元について疑わなかったのは、迂闊だった。
しかし彼女の出身がこの街だったとしても、第三者の指示に従ってこうしてここにる訳ではないだろうと思う。
今はそう、信じるしかない。