願いと約束。
音のない風が吹く静かな夜。満天の星空のような花畑を前にして、幼い頃の俺は緑姉さんの手をぎゅっと握って言った。
「──お母さんを助けてください」
と。そして幼い頃の緑姉さんもまた同じように小さな俺の手を握って、言った。
「──お父さんを助けてください」
と。それで俺は少しだけ思い出す。俺と緑姉さんがどういう風に出会って、この夜の冒険はなんの為にあったのか。
「……そうだ。緑ちゃんとは、病院で出会ったんだ」
俺の母さんは昔からずっと入院していて、俺と父さんは毎日のようにお見舞いに行っていた。
けれどその日はなにか大切な話があるとかで、父さんは少しだけ病室に残って話をすることになった。1人残された俺は病院のベンチに腰掛けて、ぼーっと退屈な時間を過ごしていた。
「こんにちは。きみ、すごく綺麗な髪をしてるね」
そんな時、まるで古いナンパのように声をかけてくる少女がいた。それが、俺と緑姉さんの出会い。緑姉さんもまた俺と同じようにずっと入院しているお父さんのお見舞いに来ていて、今は1人で待たされているのだと言っていた。
……そう。今まであまり話に出てこなかった、みんなのお父さん。その人も俺の母さんと同じように、身体がとても弱い人だった。……そしてどうしてか、あまり会ってはダメだと母親である真白さんから強く言われていたらしい。けれど緑姉さんはその言いつけを破って、1人でお見舞いに来たのだと言っていた。
そんな風に俺たちは偶然出会って、すぐに意気投合した。だって俺たちは同じように、ずっと入院している両親を助けたいと願っていたから。
「ねぇ、知ってる? この世界には魔法があるんだよ。だからきっとどこかに、病気を治す魔法もある筈なんだよ!」
そしてそんな言葉をきっかけに、奇妙な関係が始まった。大人にバレないよう夜の公園に集まって、どこかにある筈の病気を治す魔法を探す。そんな小さな秘密の関係が。
「……でも、どうして俺は今までそのことを忘れてたんだ?」
母さんが亡くなって、父さんが俺に暴力を振るうようになってからは、嫌な……本当に嫌なことばかり続いて、記憶が曖昧になっている。でもそれ以前の記憶は……いや。俺はついこの間まで、姉さんのことすら忘れてしまっていた。だからそれ以前のことを覚えていないのは、当然なのかもしれない。
……少しだけ、引っかかるが。
「でも今はそれより、この後のことだ。この後2人は、どうなったんだ?」
ついさっき響いた、幼い2人の願い。申し訳ないけど、それが叶わなかったということだけは分かる。俺の母さんもみんなのお父さんも、このあと亡くなってしまったのだから。
「これで安心だね? なずなくん!」
「そうだね! 緑ちゃん!」
2人は安心したように笑い合って、大きな欠伸をこぼす。子供の2人にとって、こんな時間まで起きているのは辛いことなのだろう。なのに2人は、こんな所まで魔法を探しにきた。
「……できれば、幸せな別れであって欲しいな」
今に至るまで……俺が柊さんの家にやってくるまで、緑姉さんとの関係は途切れていた。だからこの幼い冒険は、成長とともに消えていってしまったのだろう。それは仕方ないことだし、当たり前のことなんだと思う。
だからせめて──。
「──そんなこと、あるわけないじゃない」
そこで誰かが、そんな言葉を口にした。……いや、誰かじゃない。ついさっき眩い花畑に向かって願いを口にしていた緑姉さんが、冷めた目で俺を見る。見えなかった筈の俺を見て、言う。
「なずなくんは呪われてた。彼はただそこにいるだけで不幸を振り撒く、白い呪いを背負って産まれた。……そんな彼と一緒に遊んだ私が、幸せになれたと思う?」
「…………」
俺はなにも言えない。静かな風が、辺りの木々をざあざあと揺らす。
「お父さんは死んだ。一度目の天底災禍で、その魂ごと闇に飲まれて消えた」
「俺のせいだって言いたいのか?」
「他に誰のせいだって言うの?」
「…………」
いつの間にか、幼い俺の姿は消えている。俺が過去から未来に目を向けた瞬間、再現されていた過去が音もなく壊れた。
「ああ、そういうことか」
それで俺は、なんとなく理解する。この世界がなんのために存在して、どうして過去の景色を見せていたのか。幼い緑姉さんの問いかけで、ようやくそれに気がついた。
「俺に過去を見せていたのは、自分の罪と向き合わせるためか? それが白い呪いの力なのか?」
「…………」
緑姉さんはなにも言わず、俺を見る。その冷めた瞳がなにを言いたいのか、俺には全く分からない。……でも、それでも俺の言うことはなにも変わらない。
「悪いけど、もう少しだけさっきの続きを見せてくれないか? 気になるんだよ、あの後2人がどうなったのか。緑姉さんが言ってた結婚の約束っていうのが、どんなものなのか」
「それを見て、どうするつもりなの? 今の今まで約束してたことすら忘れてたのに、思い出したからって私と結婚してくれるって言うの?」
「……そうはいかないだろうな。俺ももう子供じゃないんだし、簡単に答えは出せない。……そもそも今は、それどころじゃないしな」
「また逃げるんだね。……なずなくんはいつだって、自分は被害者だって顔で逃げ続けてきた。本当は誰よりきみが、加害者なのに……」
緑姉さんが一歩ずつゆっくりと、こちらに近づいてくる。もう覚えていない過去が、前に進もうとする俺の足を掴む。
「なずなくんは、色んな人に酷いことをされてきた。優しい笑顔が死んじゃうくらい、辛い目にあってきた。……そしてなにより、君がいたから沢山の人が悪人になった」
「それはもう過去だ」
「うん。だからこそ、決して消えたりはしない。なずなくんと関わらなければ幸せになれた人たちは、なずなくんを引き取ったせいで悪人になった。幸せだった家庭を、なずなくんが壊した」
緑姉さんが笑う。笑って冷たい手で、俺の手を握る。
「それなのになずなくんは、その全てを忘れて1人で幸福になるの? 今まで壊した全てを呪いのせいにして、1人だけ幸せになっちゃうの?」
「…………」
その問いは、今更のものだった。そういった問答は、この前母さんと済ませてしまった。だから悪いけど、ここで悩むことも立ち止まることもできない。
「俺は1人で幸せになんかならないよ。今は自分より、幸せにしてあげたい人たちがいる。だから俺の過去がそれを邪魔するなら振り払うだけだし、必要なら俺自身が不幸になることも厭わない」
それが俺の罪との向き合い方だ。
「……そ。なずなくんは変わってないんだね。大きくなったけど、優しい心はなにも変わってない。どれだけ酷い目にあっても、なずなくんはなずなくんのままなんだ。……でもそれじゃ、そのままのなずなくんじゃダメなんだよ」
幼い緑姉さんはそう言って、俺から視線を逸らす。するといつの間にかまた幼い俺が姿を現し、いつかの過去が流れ出す。
「それでね、なずなくん。私のお父さんとなずなくんのお母さんが元気になったらね、なずなくんにお願いしたことがあるの」
「お願いしたいこと?」
「うん」
緑姉さんは頬を赤く染めて、視線を下げる。
「……私ね、こうやってなずなくんと一緒に魔法を探すの、凄く楽しかったんだ。だからね、これからもずっと……大人になっても、私のそばにいて欲しいなって思うの。……ダメ?」
「もちろん、いいよ。だって僕も、緑ちゃんと遊ぶの楽しいもん!」
「……! じゃあ、約束だね!」
濡れた月光が降り注ぐ、宝石のような花畑。2人はそんな景色なんて見えなくなるくらい幸せそうに、ただ笑い合う。……この後どんな別れがあったのだとしても、ここにあった笑顔は嘘にはならない。
それだけで俺は、満足だった。
「……でも、これが結婚の約束なのか。分かりづらいよ、緑姉さん」
俺のそんな言葉を最後に、目の前の景色が霞んでいく。これでようやく、過去の冒険も終わるのだろう。
「…………」
……そう思い安堵した瞬間、声が聴こえた。
「でも今度は、あの子も合わせて3人で遊びに行けたらいいね!」
その言葉の意味を理解する前に、目の前の景色は白い光に飲まれて消える。……最後に、真っ白な目をした神さまのような少女が見えた気がした。




