その少女は。
青い。どこまでも青い遠い空。何時間経っても、何日経っても変わらない美しいだけの空を、俺たちはただぼーっと眺め続けていた。
「…………」
世界が狂ってから、体感で1週間近くの時が流れた。そのあいだ俺たちは、色んなところを調べて回った。……けれどその成果は全くと言っていいほどなく、ただただ精神が疲弊するだけだった。
……まあ俺は、押し入れに閉じ込められたりした経験があるから、この程度なら問題ない。立って自由に歩けるだけで、あと10年は平静を保てる。……けれど橙華さんと緑姉さんは、そうもいかないだろう。
2人……特に橙華さんは、目に見えて疲弊している。時間が経つ度に言葉数が少なくなり、今も学校の屋上で死んだように空を見上げている。このままだとそう遠くないうちに、橙華さんの精神は限界を迎えてしまう。……少なくとも俺の目には、そう見える。
だから俺は1人、考えていた。
この地獄から抜け出す手段を。
仮説があった。2人には話せない白い呪いと、今のこの人がいなくなった街。その2つの情報を合わせて、1つの仮説を立てていた。
この世界は、夢の中なのかもしれない。
橙華さん、或いは緑姉さんが白い呪いを受けている。そしてその呪いが橙華さんの魔法を暴走させ、こんな夢を創り出した。橙華さんは俺の悪夢を操って戦っていたのだから、それくらいは可能だろう。
だから……自分で言うのもあれだが、橙華さんが俺に向けてくれる好意を元に橙華さんの魔法が暴走して、2人だけの夢の世界を創り出してしまった。そう考えると、一応の辻褄は合う。
……いや、それだと1つおかしなことがある。
「なずな。大丈夫ですか? ぼーっとしてますよ?」
心配するような顔をした緑姉さんが、俺の前にやって来る。俺は屋上のフェンスから身体を起こし、言葉を返す。
「……俺は大丈夫だよ、それより緑姉さんは? 体調悪くなったりしてないか?」
「私も大丈夫ですよ。……というよりここでは、そういう悪い変化すら起こらないんだと思います」
「だよな」
俺は小さく息を吐く。……すると緑姉さんは口元で小さく笑って、えい! と俺の身体に抱きついてくる。
「……どうしたんだよ? いきなり」
「別にどうもしません。ただなずなにくっつきたいと思ったから、くっつくことにしただけです」
「…………」
なんだよ、それ。と言いたいけど、この1週間でもう何度も抱きしめ合ったりしている。だから今更、なにか言うつもりはない。……緑姉さんはいい匂いがして、幸せだし。
「あ、ずるいよー。あたしもなずなくんが欲しいよー」
そこで橙華さんもテクテクとこちらにやって来て、俺の身体に抱きつく。
「あははっ。なずなくんまたびくっとしたー。もういっぱい触らせてあげてるのに、まだあたしのおっぱいが気になるんだ。かわいいなぁ。……ほら〜、うりうりー」
橙華さんはふざけたように笑って、大きい胸を俺の身体に押しつける。その溶け込むような柔らかな感触は、いくら触れても慣れない。というか、慣れたくないと思ってしまう。
「…………」
けれど今はそんな柔らかな胸より、別のところに目がいってしまう。
「あれ? どうかしたの? 黙り込んじゃって。……あ、もしかして1週間もあたしのおっぱいに触り続けて、我慢できなくなっちゃった?」
橙華さんはそう言って笑うけど、その目には……生気がない。態度こそ最初の頃と同じように見えるが、目が曇っていて虚だ。
「……橙華姉さん。あまり下品なことを言わないでください。なずなが、困るでしょ?」
「別にいいじゃん。……ここには、あたしたちしかいないんだから」
「そんなの関係ないです。橙華姉さんは、なんだか少しおかしいです。なずなが困っているのに、エッチなことばかり何度も何度も言って……」
緑姉さんも同じようにくっついてはいるが、確かに橙華さんは少しタガが外れてきている。
「……仕方ないじゃん。もうずっと……なにも変わらないんだよ。もうずっと、同じ空ばかり見てる。こんな中でずっと我慢するなんて、あたしには無理だよ……。どうせみんな壊れちゃうなら、あたしは……」
「────」
橙華さんの唇が俺の頬に触れる。触れたまま長い舌が、慈しむように俺の頬を舐める。唾液が、頬を伝う。吐息が、背筋を震わせる。
「……橙華さん」
「なに? ……もしかして、やめて欲しい? それとも……もっと激しくして欲しいの?」
橙華さんが俺を見る。その目は暗く染まっていて、焦点があっていない。……もうこれ以上は、限界だろう。これ以上時間が経てば、姉さんとの約束を破ってしまうことになる。橙華さん……いや俺が、我慢できなくなってしまう。
だから俺は、覚悟を決める。
たとえその選択が間違えていて、彼女を傷つけることになったとしても、ここで進まないと手遅れになる。
「なあ、緑姉さん。緑姉さんに訊きたいことがあるんだけど、構わないか?」
いつもよりずっと真剣な声でそう言って、2人から距離を取る。
「…………」
……頬はまだ橙華さんの唾液で濡れていて、心臓もドキドキ脈打っている。けれど今はそれら全てを飲み込んで、真っ直ぐに2人を見る。……いや、俺は真っ直ぐに緑姉さんだけを見る。
「……どうしたんですか? 改まって。もちろん、いいんですよ。なずなになら、なんだって教えてあげます」
「なら訊かせてもらうけど、緑姉さんは俺とお昼を一緒に食べるつもりだったんだろ? なのにどうして、メッセージを送ったり電話したりしなかったんだ?」
「……え?」
今更の質問に、緑姉さんと橙華さんは驚いたように目を見開く。けれど俺は、ずっとそのことが気になっていた。
「俺と緑姉さんは、放課後に話をしようって約束してた。ならなんで、昼休みに俺を探し回ったりした? そもそもそこまで俺に会いたいと思ってくれるなら、俺の教室で待ってればいい。そんなことは誰でも分かる筈なのに、緑姉さんは昼休みが終わる直前に屋上なんかに来た。その理由は、なんだ? どうして俺たちが、屋上にいると分かった?」
ずっと違和感があった。この世界が橙華さんの魔法が見せる夢だとするなら、どうして緑姉さんが混じっているんだ? 白い呪いを受けているのが橙華さんなら、緑姉さんがいるのはおかしい。
そしてもし仮に緑姉さんが呪われていて、その影響を橙華さんが受けているのだとしても、緑姉さんの行動に説明がつかない。
だから俺は、緑姉さんがこの状況の鍵を握っているんだと考えた。彼女がなにか、隠し事をしているんだと思った。
……正直、緑姉さんを疑うような真似は、したくなかった。他になにか見つけられるなら、その方がずっとよかった。けれど橙華さんは、もう限界だ。ならもう、進むしかない。たとえ間違えているのだとしても、緑姉さんを疑うしかない。
「……なに、それ。みどちゃんは、隠し事なんてしてないよ。ちょっと口うるさいけど、みどちゃんはいつものみどちゃんだよ。……そうだよね? みどちゃんは、あたしたちに嘘なんてついてないよね?」
俺と橙華さんは同じような不安を抱えながら、緑姉さんを見る。
「…………」
緑姉さんはそんな視線を受けて、困惑したように少しだけ後退り空を見上げる。そして彼女はそのまま空を見上げたまま、裂けるような笑みを浮かべて……言った。
「──もういいか」
「────」
その声が響いた瞬間、世界が白く染まる。仮初の世界が音もなく崩れていき、白い光が緑姉さんを飲み込む。そしてそこから、白い誰かがゆっくりと姿を現す。
だからまだ、夢は覚めない。




