異常事態。
「──なにやってるんですか。橙華姉さん」
そんな声が聴こえて、カツカツと意志の強さを感じさせる足音が響く。
「…………」
けれど俺は、動けない。声からして緑姉さんが近づいてきているのだろうけど、橙華さんの魔法のせいで指先一つ動かすことができない。
「……みどちゃんは、悪い子だね。久しぶりの学校なのに、いきなり授業をサボっちゃうんだから。いっけないんだ〜」
橙華さんはいきなり現れた緑姉さんに驚くことなく、優しく俺の頭を撫でる。
「そんなことは、どうでもいいんです。それより、橙華姉さん。貴女は一体、なにをしているんですか」
緑姉さんが、俺の正面に立つ。その場所で止まってしまうと、薄い緑色のパンツが丸見えになってしまう。……けれど今の空気で、それを口にする気にはなれない。
「……みどちゃんがなにをそんなに怒ってるのか、分からないな。あたしはただ、なずなくんと一緒にお昼を食べてただけだよ?」
「とてもそうには、見えないんですけど」
「そうかな? なずなくんがお腹いっぱいで苦しそうだったから、あたしの膝で休ませてあげてるだけだよ? ……ほら、見てみなよ。なずなくん、気持ちよさそうな顔してるでしょ?」
「……じゃあどうして、なずなは動かないんですか?」
「それは……あたしの魔法せい。なずなくんって、辛くても無理に頑張っちゃう子でしよ? だからこうして、無理やり休ませてあげてるの。あたしの膝なら、なずなくんも落ち着ける筈だしね」
橙華さんの柔らかな手が、頬に触れる。さっきキスをしたばかりの場所を、細い指が何度も這い回る。
「────」
その感触は言いようがないくらいくすぐったくて、思わず頭が真っ白になる。
「それよりみどちゃんの方こそ、どうしてこんな所に来たの? もう授業中なのに、なんの用もなく来る場所じゃないよね? 屋上」
「私は……私はただ、昼休みになずなと一緒にご飯を食べようと思って、なずなのことを探していたんです」
「それで昼休みが終わる直前に、こんな所に来たの。……ふふっ。そんなことするくらいなら、メッセージを送るなり電話するなりすればいいのに……。みどちゃんって、ドジだね」
橙華さんは笑う。緑姉さんはそれになんの言葉も返さず、視線を橙華さんから俺に移す。
「…………」
けれど俺はもう、言葉を発することもできない。どれだけ動かそうと頑張っても、もう口が動いてくれない。……橙華さんの魔法が人間相手だとここまで強力になるなんて、思ってもいなかった。
催眠。
それは俺が思っていたより、ずっと強力な魔法のようだ。
「なずな。大丈夫ですよ? 私がすぐに、助けてあげますから」
緑姉さんはそんな俺を……まるで母親のような優しい目で見つめて、そのままこちらに手を伸ばす。
「……ダメだよ、みどちゃん。なずなくんに触れちゃダメ」
「……っ」
けれど橙華さんのその一言で、緑姉さんの手が止まる。
「……ごめんね? みどちゃん。でも今は……ダメなの。こうしてなずなくんに膝枕してあげる時間は、今のあたしの宝物なんだよ。だからいくらみどちゃんでも、邪魔はさせない」
「……そんな風に無理やり迫って。魔法まで使って押さえつけて。それでなずなが喜ぶと、本当に思っているんですか? なずなが嫌がるとは、思わないんですか?」
「思わないよ。だってこの催眠は、本当に嫌だったら抵抗できるようにしてあるから。だからなずなくんが私の膝から動かないのは、それだけあたしの膝が気持ちいいってこと。……ほんと、かわいいなぁ」
首筋を細い指が撫でる。それはくすぐったいけれど、心地いい。だから俺は、橙華さんから逃げられない。……逃げたくないと、思ってしまう。
「……仕方ないですね」
緑姉さんはそんな俺たちの様子を見て、諦めたように息を吐く。そしてそのまま、右手を前に掲げる。
するとその瞬間、風が吹いた。
「──っ」
「きゃっ」
屋上の扉がガタガタと揺れる。屋上を囲う背の高いフェンスが、叫び声のような音を立てる。緑姉さんの方から吹き荒ぶ目を開けていられないほどの風が、俺と橙華さんを飲み込む。
「……あれ?」
そして気づけば、俺の身体は自由に動くようになっていた。
「みどちゃん。……凄く強引だね。魔法を使うほど、なずなくんが苦しそうに見えたの? ……それともただの、嫉妬?」
「どちらでもありません。私はただ、なずなを自由にしてあげただけです」
緑姉さんはそう言って、少し強引に腕を引っ張り無理やり俺を立ち上がらせる。
「……ちゃんと、動く」
まだ頭がはっきりとしないが、ようやく身体が動くようになった。どうやったのかは分からないけど、緑姉さんのあの風で橙華さんの催眠は解けたようだ。
「なずな、大丈夫ですか? どこか痛いところとか、ありませんか?」
「ああ、大丈夫。……それより2人とも、喧嘩なんてするなよ。魔法まで使うなんて、やりすぎだぞ」
そう言って、真っ直ぐに橙華さんを見る。いきなり魔法を使われて別に怒ってはいないけど、俺は少しだけ不安だった。……そこまでするほど、橙華さんは追い詰められているのかと。
「ふふっ。ごめんごめん。なずなくんが可愛かったから、ついやり過ぎちゃった」
そんな俺の視線を受けて、橙華さんは小さく舌を出して『ごめんね?』と頭を下げる。その様子からして、追い詰められているわけではなさそうだ。
「それなら別に、いいんですけど……。でも、橙華さん。俺は──」
「いえ、ダメです。橙華姉さんはもっと反省してください」
緑姉さんは俺の言葉を遮って、言う。
「橙華姉さんの魔法は強力なんです。軽々しく使っていいものでは、ないんです。橙華姉さんは誰より、そのことを理解している筈です。なのにこんなに軽々しく魔法を使うなんて、なにを考えているんですか」
「……そんなに怒らなくてもいいじゃん。みどちゃんだって、魔法使った癖に」
「私が魔法を使ったのは、橙華姉さんがなずなを無理やり──」
「無理やりじゃない! なずなくんは喜んでたよ。あたしのおっぱいを見て、顔赤くしてたもん。そうだよね? なずなくん」
「いや、それは……」
2人の視線が俺に突き刺さる。……確かに俺は橙華さんの胸に見惚れていたが、それは今は関係ないと思う……。
「……って、あれ? なんかおかしくないか? 2人とも」
「誤魔化さないください! ……なずなはやっぱり、胸は大きい方がいいんですか!」
「もちろんそうに決まってるよ! なずなくんって胸を押し当てると、いつもビクってして可愛いんだ〜」
「…………」
緑姉さんに睨まれてしまう。……けれど今は、それどころではない。なにが原因か分からないが、今確実に異常なことが起こっていた。
「2人とも外を見てみろ。耳を澄ませてみろ。いくら授業中とは言っても、少し静か過ぎないか?」
屋上はとても静かだ。さっきまで吹いていた風も、いつの間ににか止んでいる。……それだけなら普通のことかもしれないが、屋上から見える街には人の姿が全くない。
まるで俺たち3人以外の人間が全て消えたように、なんの音も聴こえない。誰の姿も見えない。俺たちが黙り込むだけで、痛いくらいの静寂が辺りに広がる。
「って、大変! 屋上のドアが開かない!」
ドアをガチャガチャと引っ張りながら、橙華さんが叫ぶ。
「どうなってんだよ……」
今の状況が、白い呪いによる異常なのかは分からない。けれどこうして、想像とは違う形で、異常な事態が起こってしまった。




