夜明け。
絵を描いた。
今の俺の全てを使って。灰宮 なずなの全てを燃やして。真っ暗な夜に、溢れんばかりの花を咲かせた。
「……ああ。やっぱ、楽しいな」
長い間、ずっと絵を描くことができなかった。苦しみと痛みの中、凍ったように停滞していた。……自分にはもう絵は描けないのだと、そう思い込んでいた。
でも描いてみれば、こんなに簡単なことだった。
見せたい人がいるだけで、こんなに簡単に手が動いてくれた。……自分でも、どういう理屈で夜をキャンバスに絵を描いていたのかなんて、分からない。でも気づけば当たり前のように筆を握っていて、当たり前のように夜空に花を咲かせていた。
「今はそれで充分だ」
ありふれた花を。どこにでも咲く花を、俺は描いた。そんな花を綺麗だと、姉さんに思って欲しかったから。俺もみんなもそうやって花を咲かせるのだと、姉さんにも知って欲しかったから。
「──大きくなったな」
姉さんはどこか寂しそうに、それでいてとても嬉しそうに笑ってくれた。
「……ありがとう、姉さん」
それだけで、充分だった。それだけで、報われた。今までの努力に……今までの人生に、報いることができた。
「頑張ってきて、よかったなぁ」
俺が笑うと、姉さんも呆れたような笑みをこぼす。そして姉さんはゆっくりと夜空から地面に降りて、真っ直ぐに俺の瞳を見つめる。
「妾の負けだ。……妾が馬鹿だった。妾はお前を愛するあまり、盲目になっていたようだ」
「姉さんは昔から、過保護すぎるんだよ。1人で寝れるって言ってるのに、いつも気づけば俺の布団に潜り込んできたしさ」
「それはお前が、寂しそうな顔をしていたからだ。あんな顔を見せられたら、誰だって放っておけん」
「……なら、お互い様か」
「ああ、そうだ。お互い様だ」
姉さんが笑う。俺も笑った。本当はそれだけで、充分だった。俺がもっと早く姉さんのことを思い出して、姉さんがもう少しだけ素直になってくれていたら、こんなに遠回りすることもなかったのだろう。
「それで、姉さん。みんなは……黄葉は、ちゃんと戻ってこれるんだよな?」
「大丈夫だ。そう案ずるな。あの小娘たちは無事だし、この肉体の持ち主である娘も、ちゃんと元に戻してやる。誰1人欠けずにちゃんと帰すと約束するから、そんな顔をするな」
「……よかった」
その言葉を聞いた瞬間、肩から力が抜ける。
「……っ」
抜けすぎて、思わずこの場に倒れそうになる。……身体が、重い。さっきまで忘れていた疲労が、身体を押し潰すようにのしかかってくる。
「無理をするな、なずな。今のお前は死んでいてもおかしくないくらい、疲弊しているのだ。……だからあとは妾に任せて、今は眠れ」
「でも、俺は──」
「心配するな。永遠の眠りは、もう終わった。今眠っても、朝になればちゃんと目を覚ます。……眠りとは本来、そういうものだ。朝になれば、長い悪夢も終わる。お前もあの小娘たちも、柔らかなベッドで目を覚ますであろう」
ふらつく身体を、姉さんが支えてくれる。姉さんはやっぱり、温かくて気持ちいい。……でも、ダメだ。まだ眠るわけにはいかない。身体は死んでしまうくらい重いけど、姉さんにはまだ訊きたいことが沢山ある。
「……大丈夫。俺はまだ、眠くない。それより、姉さん。黄葉が元に戻るってことは、姉さんは……」
ずっと会いたかった黄葉と、ようやく会うことができる。あの屈託のない笑顔を、また見ることができる。それは、なににも変えられない喜びだ。……でも、依代がなくなるということは、姉さんはもう……。
「お前は本当に、優しい奴だな。お前がそんなだから、妾はお前が好きで好きでたまらんのだ」
よしよしと、乱暴に頭を撫でられる。
「いや、姉さん。俺は本気で──」
「だから、大丈夫だ。あの小娘たちはちゃんと、役目を果たした。妾の悪夢たる天底災禍は、もう壊された。故に妾はようやく、あの依代でお前に会いに行くことができる。……心配せずとも、妾は消えたりせん」
「……! そう、なのか⁈」
「ああ。妾がお前に会いに行けなかったのは、天底災禍が壊されていなかったからだ。……無論、あの依代はもう限界だから、今のように自由に力を使うことはできんがな。でもまあ、一緒に眠ってやることくらいはできる。だから、安心しろ」
姉さんはそう言ってまた、俺の頭を撫でる。
「……よかった」
俺はもう子供じゃないと、証明したばかりだ。でもやっぱりこれでお別れなんて、寂しすぎる。ようやく会えたんだから、もう少し側にいて欲しい。
「……いや。というか、姉さん」
「なんだ? なずな」
「頭、撫ですぎじゃないか?」
「いいではないか、これくらい。妾はずっと、我慢していたのだぞ?」
「いや、そうかもしれないけど……。…………大丈夫だよな? 俺がなにを言いたかったのか、あの絵でちゃんと伝わってるよな?」
「無論だ。あんな綺麗な花を見せられて気づかんほど、妾は鈍くない」
「なら──」
「でも、それとこれとは別だ。というか、お前が大きくなったのだとしても、妾がお前の姉であることは変わらん。……もうずっと眠っていろとは言わんが、3日……いや2日に1度は妾と一緒に寝ること。それだけは絶対に、譲らんからな」
「……なんだよ、それ」
笑ってしまう。笑ってしまうけど、姉さんと一緒にいられるのならそれも悪くないなって思ってしまう。……どうやら俺も、まだまだ子供のようだ。
「……でも、これからか。俺もこれから頑張るから、ちゃんと見ててくれよ? 姉さん」
姉さんが側で見守ってくれるなら、きっと俺も頑張れる。今よりずっと、頑張れる。
「ああ、いつまでも見ていてやるさ。……その前に、やらなければならんことが、いくつかあるがな」
姉さんの声が、少しだけ冷たくなる。それで姉さんがなにを考えているのか、分かった。
「……白白夜の死神とかいう奴のことか」
「そうだ。お前と、あの小娘たちが目を覚ましたあと、あの怪物について教えてやる。全ての元凶であり、お前たちが本当に倒すべき敵について、な」
「…………」
そう。まだ全てが解決したわけではない。……いや、本当の戦いはここからだ。俺たちをこんなに苦しめた白白夜の死神を倒さないと、世界は……。
「……っ」
そこでまた、ふらつく。どうやらもう限界のようだ。
「無理をするな。今は眠れ、なずな」
「……そうだな。じゃあ少しだけ、眠ることにするよ。……今夜はちょっと、夜更かししすぎた」
「そうしろ。……本当に、よく頑張ったな」
心地のいい眠りが、足を引っ張る。意識がゆっくりと、沈んでいく。
「──おやすみ、なずな」
そして、さっきと同じ言葉がまた響く。……無論それは、さっきの言葉とは全く意味が違う。永遠の夜へと誘う言葉ではなく、明日へと繋がる温かな言葉だ。
「ああ。おやすみ、姉さん」
だから俺もそう言葉を返して、目を瞑る。すると温かな朝日が、頬を撫でる。辺りの闇が、消えていく。
「いい天気だ」
長い夜を朝日が照らす。終わらない筈の夜が、温かな光に飲み込まれていく。
そうして、長い夜が明けた。




