エピローグ。
眩しい光に、目を開ける。
「ここ、は……?」
意識がはっきりとしない。感覚が覚束ない。まるで長いマラソンを終えたあとのような疲労感に、小さく息を吐く。どうやら少し、眠ってしまっていたようだ。
柔らかな野原から身体を起こし、軽く伸びをする。
「……にしても、いい風だな」
遠くから流れてくる暖かな風が、頬を撫でる。どこまでも広がる野原は陽の光を浴びて青々と輝き、気持ちよさそうに風に揺れる。見上げる空は雲1つない快晴で、遠くでは宝石のような花々がキラキラと輝いている。
まるで、天国のような場所だと思った。
……いや。それは思ったのではなく、感じたのだろう。ここはとても、遠い場所だ。現実よりも夢よりも、もっともっと離れたどこか。
そんな場所で、俺はふと目を覚ました。
「──もう来ちゃったのか。楽しかった?」
隣に座った誰かが、当たり前のようにそう声をかけてくる。
「どうなんでしょうね。良いか悪いかで言えば、悪い方だとは思いますよ」
だから俺も当たり前のように、そう言葉を返す。
「ふうん。つまり君は、それだけ辛かったってこと?」
「……いや、辛いのは別にいいんです。それより俺は……俺は、受けた恩を1つも返せなかったのが、悔しい」
「バカだな、君は。恩なんてものはね、仇で返してもいいものなんだ。君はそんなことも、知らないんだね」
「いや、それはダメでしょう。だって受け取ったなら返さないと、相手を裏切ることになる」
「違う違う。なんにも分かってないな、君は。人生は金の貸し借りじゃないんだ。受けたもの返して、渡したものを取り立てるだけでいいなら、人生はもっと簡単だ」
「……申し訳ないですけど、よく意味が分かりません」
「君は賢そうに見えて、バカなんだね。……いや、それとも単に頭が固いのかな? まあ要するに、親孝行して子供に孝行してもらうことだけが、人生じゃないってことさ」
その言葉には、俺にはない重みがあった。
「…………」
だから俺は、なにも言えない。
「まあ、それくらいのことは、生きていればいずれ理解できる。私も君くらいの頃は、痛みと不幸の価値なんて理解できなかったしね」
「……痛みや不幸に、価値なんてあるんですか?」
「あるとも。この世界には、幸福より価値のある不幸が溢れてる。快楽よりも綺麗な痛みが、人を人たらしめるのさ」
「あなたの言葉は、観念論すぎて理解できない。不幸と幸福を天秤にかけて、不幸を選ぶような馬鹿はこの世界にはいませんよ」
この人の言葉を否定する気はなかった。……けれどこの人の声は、聞いていてとても心地がいい。だから俺はもっとこの人の声が聞きたくて、そんな言葉を口にする。
「確かに君の言う通り、幸福と不幸が同じ棚で並んでいたら、誰だって幸福の方を手に取るだろう。……でもそれが、世界の真理って訳じゃない。それは正しいが、全てではないんだよ」
「つまり?」
「そうだな。……この世で誰より幸福の神に愛され、1つの痛みも知ることなく死んだ人間がいるとする。……君はそいつの人生を、どう思う?」
「……羨ましいと思いますよ」
「ほんとに?」
「…………」
答えに窮する。隣から楽しそうな笑い声が聞こえて、また言葉が響く。
「不幸より幸福がいいなんて、そんなのは当たり前だ。だけど功利主義だけで、この世界は回っていない。この世には、不幸の中でしか見つけられない色がある。不幸の中でこそ、輝く星があるんだよ」
「それは……それは、そうなのかもしれませんね」
「なに他人事みたいに言ってるのさ。君だって、知ってる筈だぜ? つまらない映画を観て、友達とそれを笑う楽しさ。いい映画だけ観てきた連中には、その楽しさが分からないのさ」
「……あいにく俺は、友達と笑い合った経験なんてないですよ」
俺はいつも1人だった。いつだって、孤独だった。冷たい雪の中。1人寂しく震えているのが、灰宮 なずなという人間の人生だった。
「なんだよ、それ」
「なんだよって言われても、そのままですよ。……運がなかったんですよ、俺は」
産まれた時から、不幸を義務づけられた人生。あらゆる人間に嫌われ、あらゆる人間を不幸にしただけの存在。それが、俺という人間だ。
「バカか、君は。なにが、運が悪かっただ。君はただの、努力不足だ。決まった運命に流されてきただけの人間が、軽々しく運なんて言葉を口にするな」
「……あなたは、知らないから言えるんですよ。俺が……俺がどれだけ、努力してきたと思う? 俺がどれだけ、血と汗を流してきたと思う! それでも、無駄だったんだ。俺は……呪われてるから、なにをやっても……報われなかったんだよ!」
「なにが報われなかっただ。それがバカだって言ってるんだよ。努力なんてものは、はなから報われないものだ。呪いなんてなくても、あらゆる努力とあらゆる才能が報われないのが人生だ」
風が吹く。どこまでいっても暖かで柔らかな風が吹いて、遠くから鳥の囀りが聴こえてくる。隣の人は一度だけ遠くに視線を向けて、また言葉を続ける。
「どれだけ努力していようが、才能があって環境にも恵まれてる奴には勝てない。才能があって環境に恵まれていようが、車に轢かれれば死ぬ。あらゆる努力が才能に踏み躙られ、あらゆる才能が不条理にすり潰される。それが、人生というものだ。君だってそれくらい、知ってる筈だろ?」
「なら……なら俺は、どうすればよかったんだ。なにをやっても報われないなら、俺はどうすればよかったんだ!」
「そんなの決まってるだろ。努力すりゃあいいのさ。君がどこに産まれた誰であろうと、それ以外にできることなんてなにもない。頑張ること以外にすることなんて、人生にはない筈だぜ?」
「……でも、それでも! 報われないって分かってるなら、努力なんて……できないよ……」
明日死ぬと分かっていながら頑張れる奴なんて、どこかが壊れている奴か底なしの馬鹿だけだ。……生憎と俺は、そのどちらでもない。
「本当にバカだな、君は。たとえ努力が君に報いてくれなくても、君が努力に報いてやることはできる。違うか?」
「それ、は……」
「昨日の努力に報いる為に、今日もまた努力する。今日の努力に報いる為に、明日もまた努力する。そうやって血と汗を流しながら前に進んでいると、ふと……嘘みたいに綺麗な景色を見ることがある。血と汗の報酬が景色なんてつまらないけどさ、その景色は他のなににも変えられないくらい、綺麗なんだぜ?」
「────」
その言葉は、胸を打った。痛いくらいに、俺の冷たい胸に響いた。確かに俺は、逃げてきた。人生は明けない冬だと決めつけて、足を止めてしまった。
でも。それでもと前に進み続けていれば、なにか綺麗なものを見つけられていたのかもしれない。
「でも、今更もう遅い。俺はもう、頑張ることすらできない」
灰宮 なずなの物語は、もう終わった。今の俺にできることなんて、なにもありはしない。
「本当に?」
「……本当ですよ。俺は……俺はいるだけで、他人を不幸にしてしまう。仮にあそこに戻れたとしても、俺がいるだけでみんなが不幸になる」
「他人を不幸にしない人間なんて、どこにもいやしないよ。大切なのはその不幸と、どうやって向き合っていくのか。他人を不幸にしてしまうなら、それ以上の幸福を生めるように努力すればいい。違う?」
「……でも、俺にはもう戦う力なんて残ってない。戻ったところで、俺に勝ち目はない」
もう俺の腕には、藍色の腕輪がない。それにあの真っ黒な剣は、俺の全てを断ち切った。……そう。つまりあの剣は、俺を生かしていた白い呪いまで断ち切ってしまった。
だから今の俺が向こうに戻れば、きっと1秒後に死んでしまうだろう。
「君の悪夢はさ、どうして蜘蛛だったんだと思う?」
「え?」
「君の灰色に、意味なんてない。君とあの子が同じ色だったのは、ただの偶然だ。なのにどうして君の悪夢は、あの子と同じ蜘蛛の形をしていたんだと思う? ……あの誰より優しい女の子が、君が苦しんでいる姿をただ黙って見ていただけだと、君は本気で思っているの?」
「…………」
なにかが胸に刺さる。欠けた過去が、ある筈のない幻想を見せる。
「いや、違う。それでも、もう終わったんだ。形はどうあれ、これからはずっとみんなで一緒にいられる。みんなで一緒に眠っていれば、悪い奴らに傷つけられることもない。……それに、大好きな姉さんがずっと側にいてくれるんだ。今さら戦う理由なんて、ありはしない!」
「約束」
「……え?」
「約束、守ってないだろ? 可愛い女の子たちと、君はいっぱい約束してたじゃないか。なら、守らないとダメだ。約束をすっぽかして眠りこけてる奴なんて、最低だぞ? 君はそんな最低な奴じゃない筈だ」
幸せそうに笑う誰かの笑みが、胸に刺さる。このままではダメだと、誰かが叫ぶ。
「……でも、俺は沢山の人を傷つけた。俺がいたから、父さんも母さんも『先生』もみんな死んだ! なのに俺1人が生きたいだなんて、そんな我儘を……言えるわけないだろ……!」
たとえその責任が俺になかったのだとしても、俺は沢山の人を傷つけた。俺がいなければ幸せに生きられた人たちが、大勢いる。
俺はどうしても、それを無視できない。
「本当にバカだな、君は」
そんな声が響いて、温かな感触が俺を包み込む。
「……あ」
それはなんだか初めての感触で。でもどうしてか、なにも言えなくなるくらい……懐かしかった。
「さっきも言っただろ? 恩なんてものはね、仇で返してもいいものなんだ」
「……それはただの、暴論だ」
「なら訊くけどさ。人はみな生きていれば、誰かを傷つけなきゃならない時が必ずくる。そんな時、この人には恩があるから別の人を傷つけよう。なんて行いが正しいと、君は本気で思うのかい?」
「それ、は……」
「だから、いいんだよ。……少なくとも君がさっき言った3人は、君のことを恨んじゃいない。寧ろ、喜んでるくらいさ。……苦しい時に自分たちを頼ってくれて、ありがとうってね」
「────」
ずるい。そんなことを言われたら、なにも言えなくなるじゃないか。
「ほら、こうやってぎゅーって抱きしめて、私の幸福を全部わけてあげる。君の不幸は引き受けてやれないけど、前に進む勇気くらいなら私でも渡せる筈だ。だから、頑張れ。……いつまでも寝てると、遅刻するぞ?」
その人は最後にぎゅっと抱きしめて、俺から手を離す。……心地よかった温かさが、身体から離れてしまう。
でも。
「……分かった、行くよ。本当はまだ、全然遊び足りなかったしな」
「そうしろそうしろ。人生は明けない冬だけど、1年中雪合戦ができるくらい楽しい遊び場だ。だからもっと遊べ。ここに来るのは、全部に飽きてからで充分だ」
「……ほんと、敵わないな」
軽く笑って前を向く。そして振り返らず、そのまま歩き出す。
「なあ、なずな」
「なに?」
「いってらっしゃい」
「……うん。いってきます、母さん」
胸を張って言葉を返して、暖かな夢を振り切り冷たい現実へと進む。
そうして灰宮 なずなは、目を覚ました。




