……いいよね?
柊 橙華は、信じていた。
「…………」
唐突に降り出した、激しい雨。橙華となずなの2人は、その雨から逃げるように、近くの屋根があるベンチの方まで駆ける。そして屋根の下で大きく息を吐き、どこまでも広がる雨雲を眺める。
「大丈夫ですか? 橙華さん」
「うん、大丈夫。ちょっと濡れただけだから」
暗い闇が溶け出したような雨が、街を濡らす。つい先ほどまでは眩い陽の光が降り注いでいたのに、今ではもう見る影もない。
「なんかこの雨、見てると不安になりますね」
「……それはきっと、この雨が『夜』から溢れ出たものだからだよ」
「『夜』から溢れ出た、ですか?」
「うん。この雨は、『夜』がこの世界に与えた結果。だからこんなにも、暗く冷たく見えるんだよ」
橙華は冷めた声でそう言って、大事に抱えていたスケッチブックに視線を向ける。服はずぶ濡れになってしまったけど、どうやら絵は濡れずに済んだようだ。
「……『夜』の悪夢はね、どれだけ大きくても基本的には現実に影響を与えられない。街を埋め尽くすような天底災禍でも、それは変わらないの」
「確か悪夢は、持ち主に戻ることで現実になるんでしたよね?」
「うん。……でも『夜』そのものは、現実に影響を与えられる。あたしたちの魔法と、同じように」
「……つまり?」
「この雨は、悪夢にもなれなかった痛みや苦しみの残骸。或いは、あたしたちの魔法ではない力……天底災禍が壊してしまった、悪夢の残滓。……壊すことも持ち主に戻ることもできなかった『夜』のカケラは、現実にも悪影響を与えるんだよ」
いくら真白が『夜』を止めてくれているといっても、今までの戦いがなくなったわけではない。だからこの雨は、しばらく止むことはないだろう。
「頑張らないと、いけませんね」
「……うん。どんな手段を使っても、天底災禍を破壊して絶対に黄葉ちゃんを助けてみせる」
「橙華さんは──」
なずなはそこでどうしてか言葉を止め、慌てて橙華から視線を逸らす。
「……? どうかしたの? なずなくん」
「……あー、いや。……下着が透けてるんで、あんまり見ない方がいいかなって」
そう言われて、視線を下げる。すると確かに、オレンジ色のブラが透けて見えてしまっていた。
「…………」
でも今さらなずなに下着を見られても、そんなに恥ずかしいとは思わない。……いや、もしかしたら催眠をかけた状態なら、もう少し取り乱していたのかもしれない。
けれど今の橙華は、下着ぐらいでは……。
「……あ」
そこで橙華は、気がつく。雨に濡れた、なずなの姿。へばりついた前髪を鬱陶しそうにかきあげて、濡れたTシャツをバサバサと煽るどこか色っぽいその姿。
チラチラと見える鎖骨に、引き締まった腹筋。なずなはもっと華奢なイメージだったけど、こうして見るとやっぱり男の子なんだなって、そう意識してしまう。
「……!」
するとさっきのなずなと同じように、橙華の頬も熱くるなる。
「…………」
「…………」
2人ともお互いから視線を逸らし、ただ雨を眺め続ける。
……いつも姉妹たちの誰かと一緒に寝ているなずなは、下着を見たくらいでは動揺しない筈だ。橙華だって、風呂上がりのなずながもっとだらけた格好をしているのを、何度も見たことがある。
なのにどうしてか、胸が痛い。
……ああ。きっとこの雨が、悪いのだろう。まだ昼前なのに世界を真っ暗に染めるこの雨が、心を無防備にしてしまう。
「とうか──」
だからなずなは、無理やりその沈黙を打ち破ろうと口を開く。けれど橙華はそれを遮って、そのままなずなに……抱きついた。
「ちょっ、橙華さん⁉︎ いきなり……どうしたんですか?」
橙華の唐突な行動に、動揺するなずな。橙華はそんななずなに、囁くようにこう告げる。
「……恥ずかしいの」
「え?」
「その……なずなくんになら、下着を見られるくらい構わない。けど、ここは公園だから他の人も通るかもしれないでしょ? それで、知らない人に見られたら嫌だなって」
「でもその……こうやって抱きつかれると、胸とかいろいろ当たってるんですけど……いいんですか?」
「……なずなくんは慣れてるから、それくらい大丈夫でしょ? だって今まで何度も、緑ちゃんや紫恵美ちゃんと一緒に寝てるんだから」
「それは……」
言い淀むなずな。橙華はそんななずなの様子を見て、意地悪するように大きな胸を押しつける。すると橙華自身の心臓も、ドキドキと高鳴る。けれどどうしてか、今はその感覚が心地いい。
いや、それはただ単に……。
「ねぇ、なずなくん」
「なんですか?」
「実はあたし、ヒーローになりたかったんだよ」
「…………」
またしても唐突な、橙華の言葉。けれどなずなはなにも言わず、静かに橙華の言葉を待つ。……そうしなければならないと思うほど、橙華の瞳は真剣だった。
「だからお母さんから柊の役目のことを聞いた時、凄く嬉しかった。みんなにこの役目を魔法少女って呼ぼうって言うくらい、あたしはヒーローに憧れてた」
「……それ、橙華さんが言ったんですね」
「うん。意外でしょ? でもあたしは、黄葉ちゃんや紫恵美ちゃんより、ヒーローって存在に憧れてた。自分もあんな風にかっこよく戦って、みんなに褒められたいってずっとそう思ってた」
でも、と。重い声で言葉を続ける。
「どれだけ頑張ってどれだけ悪夢を壊しても、誰も褒めてなんてくれなかった。毎晩毎晩、狂ったように溢れ出してくる悪夢を壊して、翌朝……重い身体を引きずって学校に行く。それが、あたしたちの現実。それが、あたしたちの魔法少女だった……」
なずなを抱きしめる橙華の腕に、力がこもる。なずなはそんな橙華の背中を、優しく撫でる。
「だからあたしは、友達を助けたの。そうすれば、褒めてもらえると思ったから。そうすれば、辛いだけの役目にも意味があるんだって思える筈だから。……でもあの子は、気持ち悪いと言ったの。みんなで指を指して、あたしたちを魔女だと笑った」
「……辛かったですね」
「うん。でも本当に辛かったのは、その後。あたしはその後、催眠の魔法を使ってそいつらを酷い目にあわせた。仲間内で喧嘩させて、自分たちで自分たちを傷つけさせた。あたしはそれで、姉妹のみんなを守ったつもりだった。だから今度こそ、褒めてもらえるって、そう……思ってた。……なのにみんな、怖がるような顔であたしを見て、あたしのせいで魔法が使えなくなっちゃった……」
雨が降る。目の前の光景が見えなくなるほど激しい雨が、ただただ昏い街を濡らす。
「あたしはみんなと違うんだって、そう思った。だからあたしは自分に……いや、違う。あたしはただ、逃げ出したんだ。あたしはただみんなに嫌われるのが嫌で、自分に催眠をかけた」
そこまで言って、涙を耐えるように息を吐く。なずなはそんな橙華の背中を、優しく撫でる。
「……橙華さんの気持ちは、なんとなく分かりました。……けど、橙華さん。貴女は結局、なにを確かめたかったんですか? なんのために、こうして俺を連れ出したんですか?」
橙華はそこで口を閉じ、腕にギュッと力を込める。
「…………」
雨に濡れた肌と肌が、重なり合う。なずなの意外と筋肉質な身体から、熱いくらいの体温が伝わってくる。雪のように真っ白な鎖骨に頬を押し当てると、痛いくらい心臓が高鳴る。
だから、橙華は……。
「……なずなくんは、あたしと同じだと思ったんだよ」
静かな声で、橙華は言う。
「同じ、ですか」
「うん。……言い方は悪いけど、なずなくんはあたしと同じように、辛い現実から逃げ出した。……『人生は、明けない冬だ』。それは全てを諦めて、現実逃避する為の言葉だったんでしょ?」
「…………」
なずなは、なにも言わない。だから橙華が、言葉を続ける。
「それになずなくんは、さっきあたしの絵褒めてくれた。あたしのこの卑怯な心がこもった絵を、いい絵だって言ってくれた。姉妹のみんなも否定したあたしを、貴方だけは認めてくれた」
だから橙華は、思ってしまう。この優しい心を、自分だけのものにしたいと。この熱い身体を、自分だけのものにしたいと。
そして、なにより……。
「ねぇ、なずなくん。キスしよ?」
甘えるように、なずなを見上げる。
「……いや、俺は……」
「嫌だって言うの? でもこの前、赤音ちゃんとキスしてたでしょ?」
「それは……」
「……お願い。本当に触れるだけでいいの。本当にそれだけでいいから、貴方の心をあたしにちょうだい」
橙華の唇が、なずなに迫る。そして、なずなは……。
「────」
その場にはただ激しい雨音が、ザーザーと響き続けた。




