かっこいいね。
柊 橙華は、ずっとずっと怖かった。
なずなは唐突に、絵を描こうと言った。まるで夜に浮かぶ月のように静かに目を光らせ、真っ直ぐにこちらを見る。そんな瞳を見せられたら、橙華に断ることなんてできなかった。
だから橙華は小さく笑って頷きを返し、なずなに手を引かれ近くの自然公園までやって来た。
「遅くなってすみません」
そんな声を響かせて、近くのスーパーで買い物を済ませたなずなが、橙華の方へと駆け寄る。その手には2つのスケッチブックと鉛筆。それに、ジュースとお菓子が入ったビニール袋が握られている。
「それくらい、別にいいよ。それより、お金、大丈夫? ジュースとかお菓子まで買って来てくれたみたいだけど、ちゃんと残ってる?」
「それくらい問題ないですよ。この前バイトしたお金が、まだ残ってますから」
なずなは軽く笑って、橙華の隣に腰掛ける。そしてそのまま丁寧な仕草でスケッチブックを取り出し、見たことがないくらい真剣な表情で目の前の小さな池を見つめる。
「…………」
どうしてか、ドキリと橙華の心臓が跳ねる。最近はマシになってきたが、それでもなずなの瞳はまるで地獄の底を生きてきたかのように薄暗い。
けれど鉛筆を握った瞬間、瞳の色が変わった。真剣に、ただ目の前の事象と向き合っているだけの瞳。それはまるで陽の光のように眩くて、なによりとても綺麗だった。
……けれど、なずなの手は動かない。
鳥の声が響いて。子供たちが遊び回る声が聴こえて。暖かな風が、頬を撫でる。そんなとても心地の良い時間が流れるだけで、いつまで経ってもなずなの手は動かない。
「やっぱ、ダメか」
なずなはなにかを諦めたようにそう呟き、スケッチブックを閉じ空を見上げる。
「……辞めちゃうの?」
「はい。今ならいけると思ったんですけど、無理でした。……すみません」
「謝る必要はないよ。でも……」
絵を描こうとしていた貴方はとてもかっこよくて、だからもう少し見ていたかった。……そう、言葉にはしない。
「さっきも言いましたけど、俺ずっと父親に虐待されてたんです。それで無理やり、絵を描かされてたんですよ。だから俺にとって絵はずっとトラウマで、美術の授業もサボってました」
「じゃあどうして、絵を描こうなんて言ったの?」
「……あの絵、凄くいい絵だったじゃないですか」
なずなはそこでペットボトルの蓋を開けて、それを橙華の方に差し出す。そしてそれから、自分の分のジュースに口をつける。
「悔しかったんですよ。絵のことなんでずっとどうでもよくて……いや、今はもうそんなことを考える暇すらなかった。けど、あの絵を見た瞬間……悔しいって思ったんです。それくらいあの絵は綺麗で、でもだからこそ……気に入らなかった」
「……かっこいいね、なずなくんは」
「どこがですか。今日は1日橙華さんに付き合うって約束してたのに、急に絵を描こうなんて言い出して、そのくせトラウマが邪魔して手が動かない。そんな奴、どう考えてもかっこ悪いじゃないですか」
「でもなずなくんは、真剣に絵と向き合ってた」
「それは……」
「みんなとふざけ合ったり、赤音ちゃんと喧嘩したり、色んななずなくんを見てきた。でも今の貴方が、1番……真っ直ぐだった」
「……そうですか。そう言ってもらえると、嬉しいです」
そこでなずなは、笑う。その笑みはやっぱり眩しくて、橙華の胸はドキドキと高鳴る。
「じゃ、じゃああたしも、絵を描いてみようかな」
「ほんとですか? なら、お願いします。俺、橙華さんの描く絵見てみたいです!」
「ふふっ。なずなくんがそこまで言うなら、頑張ってみようかな」
なずなが買って来てくれたもう1つのスケッチブックを取り出し、鉛筆を握る。
「…………」
けれど橙華は、今までまともに絵を描いたことなんて数える程しかない。それこそこうやって真面目に写生したのなんて、小学生の時以来だろう。
だから中々、手が動いてくれない。
「なずなくん。なにかコツとかないかな?」
「あ、俺にそれ訊きます? 今見せた通り、俺は絵を描けないんですよ?」
「でもあたしのとなずなくんのとは、全然意味が違うでしょ? あたしは絵なんてもう長いこと描いてないから、どうやって描けばいいか分からないだけ。だからお姉ちゃんに、コツを教えて欲しいな」
冗談めかして、なずなの肩にウリウリと拳を押しつける。
「……分かりましたよ。でもコツなんてないですよ? 絵なんて、描きたいように描けばいいんですから」
「そんなこと言われても、困るよ」
「でも俺は、そう教わったんですよ。『絵を描く前は、絵のことだけを考えろ。なにをどんな構図で描くか。どんな顔料を使い、どの筆を使うのか。ずっとずっと、絵のことだけを考え続けろ。そして筆を握ったあとは、なにも考えず好きなように描け』それが俺が教わったことの全てです」
「……じゃあなにも準備していないあたしは、なにも描けないのが当然ってこと?」
「違いますよ。……橙華さんにだって、今まで色んなことがあったでしょ? 『夜』のこととか、みんなで楽しく夕飯を食べた時のこととか。その時感じた嬉しさや悲しさを、そのスケッチブックにぶつければいいんです。そうすれば、上手い下手は関係なくいい絵が描ける筈ですよ」
なずなの灰色の髪を、澄んだ風が揺らす。そんななずなの姿を見ていると、どうしてか勝手に手が動いた。
まるでなにかが……いや、まるでなずなの気持ちが乗り移ったように、手が勝手に動く。目の前のありふれた景色が、自分の手によって全く違う景色に変わっていく。
それこそまるで、魔法のような時間。できない筈のことを、なにか不思議な力が肩代わりしてくる。その感覚は心がどこかに行ってしまうくらい、気持ちいい。だから橙華の意識は切り離されたように、ふわふわと宙を舞う。
橙華には、確かめたいことがあった。
自分のものの考え方は、人とは違う。大切な姉妹たちとも、生きている視点が違う。だから橙華は、自身に催眠をかけた。それはただの現実逃避だったけど、それでもあの時のように大切な姉妹たちにまで、あんな目で見られたくなかった。
……でもじゃあどうして、なずなにそのことを話してしまったのだろう?
今まで姉妹たちにも話さなかった秘密を、知り合ってまだ1月近くのなずなに話してしまった。それは一体、どうしてなのだろう?
橙華には、確かめたいことがあった。
ごちゃごちゃと理屈をこねてはいるが、自分の本心はとても単純なものだ。自分に催眠をかけた理由なんて、本当はたった一言で説明できる。
だから今日なずなの隣に居たいと思った理由も、確かめたいと思ったことも、本当はとても簡単なことだ。
でも、だから橙華は……。
「できた」
気づけば絵は、完成していた。だからまるで魔法が解けたかのように橙華の意識は橙華に戻り、隣に座るなずなの体温をとても近くに感じる。
「……でも、よくよく見るとあんまり上手じゃないかも。描いてる最中は凄いの描けてるって思ったけど、こうして見ると線も歪んでるし、影の付け方も下手で──」
「いや、いい絵ですよ」
橙華の否定を遮って、なずなは真っ直ぐにそう言い切る。
「上手い下手なんて、どうでもいいんですよ。……というか、初めから上手く描ける人なんて、どこにもいません」
「じゃあなずなくんは、この絵のどこを褒めてくれるの?」
風に揺れる木々と、小さな池、眩い陽の光と、遠い山々。そんな景色を描いただけの、つまらない絵。けれどなずなはまるで宝石でも見るかのように、その絵に輝かしい視線を向ける。
「この絵の中には、橙華さんがいる。色んな橙華さんが、この絵の中に隠れてる。風に揺れた木々は、橙華さんの怒りだ。静かな水面は、橙華さんの悲しみだ。そしてこの眩い陽の光は、橙華さんの優しさだ。だからこれは、凄くいい絵です。俺が、保証します」
「────」
その言葉は、狙って言った言葉ではなかったのだろう。でもそれは今の橙華が最も欲していたもので、だから橙華の心臓はまたドキドキと高鳴る。
「……あれ? そんな驚いた顔して、どうかしましたか?」
「…………ううん。なずなくんは、褒めるのが上手いなって。それで女の子を、何人騙してきたのかな?」
「なんですか、それ。騙してなんかいませんよ。俺は本心で、この絵を……橙華さんを褒めてるんです」
「……そっか。なら……なら、ご褒美もらおうかな……」
ご褒美? と首を傾げるなずなに、橙華はゆっくりと手を伸ばす。そして──。
そして、まるでそんな橙華の行動を遮るように、空から雨が降り出した。
「ちょっ、やばっ。行きましょう? 橙華さん」
なずなは橙華の手を引いて、近くの屋根があるベンチの方まで駆け出す。
「…………」
橙華は一度だけ空を見上げてから、そんななずなに続く。
この雨は、ただの雨ではない。空を暗く染める雲は、『夜』と同じ色をしていた。だからきっとこの雨は、しばらく止むことはないだろう。
「……『夜』が、溢れてきた」
橙華は小さく、そう呟く。
近くのベンチまで駆ける僅かな間、雨はただ静かに2人を濡らし続けた。




