行ってみようか。
正義の味方が好きだった。
ヒーローに、憧れていた。ムカつく悪をやっつける、カッコいいヒーローが好きだった。……たとえこの世界にそんなものがいないのだとしても、憧れだけは止められない。
──だから。
自分がそのヒーローになった時。その光景を見て、愕然とした。だってそこに広がっていたのは……。
──ただの暗い、夜の闇だけだった。
◇
『ねぇ、なずなくん。今日1日だけでいいから、貴方の時間をあたしにちょうだい。……あたしにはどうしても、確かめなきゃならないことがあるの』
橙華さんのその言葉を聞いた後。みんなが心配しないよう書き置きとメッセージを残してから、家を出た。……というのも、どうやら橙華さんはただ話をするだけではなく、どこか行きたい所があるようだった。
「それで、橙華さん。今日は一体、どこに行くんですか?」
いつより少し冷たい雰囲気で隣を歩く橙華さんに、そう尋ねる。
「まだ決めてないよ。でも、映画とか観たいな」
「映画ですか。なにか観たいのとか、あるんですか?」
「うーん。……あ、あれ。最近ちょっと、話題になってたやつあるでしょ? あの……あれ。少女漫画が原作のやつ。あたし、あれちょっと観たいかも」
「……やめておいた方がいいですよ。あれ、あんまり面白くないですから」
「あ、なずなくん観たんだ。……もしかして、デート?」
「まあ、そうですね。この前──」
「あ! なずなさんではないですか!」
と。そこで曲がり角から空を震わすような大声が響いて、綺麗な黒髪をした少女が姿を表す。
「……久しぶりですね、蘇芳さん」
俺はその少女、蘇芳 蓮香さんにそう言葉を返す。
「はい。お久しぶりですわ、なずなさん。……元気そうでなによりです」
「蘇芳さんも相変わらず、元気いっぱいですね」
「わたくしにはそれくらいしか、取り柄がないですからね」
冗談めかして、蘇芳さんは笑う。
「……この子、誰? なずなくんの友達?」
橙華さんはそんな蘇芳さんの姿を見て、訝しむように目を細める。
「はい。わたくし、なずなさんの同級生の蘇芳 蓮香と申します。……なずなさんとはいろいろあって、今は……贖罪の最中なんです」
「贖罪、ね。まあ、詳しくは聞かないよ。今は時間もないしね」
橙華さんはそこで一度咳払いをして、言葉を続ける。
「あたしは、柊 橙華。なずなくんの……お姉ちゃんで、今は彼とデート中なの」
「そうなんですか。……でも今はそんなことより、なずなさん。ここしばらくずっと学校を休んでいますが、もしかしてなにかあったのですか?」
「いや、それは……」
思わぬ問いに、言葉に詰まる。思えばずっと、無断で学校を休み続けていた。天底災禍に、黄葉のこと。そんな予想外のことが一気に起きて、学校のことが完全に頭から抜け落ちてしまっていた。
「もしかして、なずなさん。体調を崩したりしていたのですか? わたくし実はずっと心配で、今から家を訪ねようと思っていたんです」
「あー、いや。そうじゃないですよ。俺は至って、健康です」
「そうなんですか! ならよかったです! なずなさんが元気なら、別に学校なんてどうでもいいですからね。……それにもしあそこが気に入らないというのでしたら、わたくしが手を回してもいいですわよ? なずなさんの為なら、それくらいお安い御用です!」
蘇芳さんはそう言って、心の底から楽しそうに口元を歪める。
「いや、そこまでしてもらう必要はないよ。……留年する前には、ちゃんとあそこに戻るつもりだから」
「……そうですか。それは少し、残念です。……でもじゃあ今から、わたくしとデートしませんか? 実はわたくし、なずなさんと行きたいところが──」
「邪魔しないで」
蘇芳さんの言葉を遮って、橙華さんは重い声でそう告げる。
「さっきも言ったけど、なずなくんは今日あたしとデートするって約束してるの。だから誰だか知らないけど、邪魔するのはやめて」
橙華さんはそう言って、まるで見せつけるように大きな胸を俺の腕に押しつける。
「あら、そうなのですか。それなら、仕方ありませんわね」
けれど蘇芳さんは、そんな橙華さんの態度を気にした風もなく、優雅な仕草で髪をなびかせる。そして懐から、2枚のチケットを取り出す。
「でしたらこちら、お2人に差し上げますわ。……できればわたくしがなずなさんとご一緒したかったのですが、もう無理強いはできません。ですからお2人で、楽しんで来てください」
「いや、急にそんなこと言われても……」
という俺の言葉を無視して、蘇芳さんは言葉を続ける。
「ではでは、ご機嫌よう。……今度はわたくしとも、デートしてくださいね? なずなさん」
蘇芳さんはそれだけ言って、凄い勢いでこの場から立ち去る。……相変わらず、嵐のような人だ。
「……なずなくんって、意外とモテるよね」
そんな蘇芳さんの後ろ姿を見つめながら、ぽつりと橙華さんは呟く。
「……どうでしょう。みんなにはよくしてもらってますけど、目つきが死ぬほど悪いですからね、俺。昔から、女の子には避けられてるんですよ。……それに蘇芳さんも、俺のことが好きってわけじゃない筈ですし」
あの人が好きなのは、俺ではなく俺の才能……つまり、俺の絵だ。だからあの人も、俺個人に特別な感情を持っているわけではないだろう。
「それより、俺はともかくみんなは学校とか大丈夫なんですか? 今日は休みだから問題ないですけど、もう結構休んでますよね?」
蘇芳さんにはああ言ったが、少なくともこれから1週間は学校に行ってる暇なんてないだろう。……まあ俺は最悪、留年しても問題ない。というか、気にしない。でもみんなは、そうはいかない筈だ。
「それは別に、問題ないよ。その辺はお母さんが話を通してくれてるから、いくら休んでも留年したり退学になったりすることはないよ。……もちろん、なずなくんもね」
「そう、なんですか……」
別に、驚きはなかった。あの真白さんなら、それくらいのことはやってみせるだろう。……でもなんていうか、あまり気持ちのいいものではない。
「できれば早く、学校に行けるようになりたいですね」
「……うん。みんなでまた、学校に行きたいね」
そうして2人で、歩き出す。……橙華さんは俺の腕を離さないから、大きな胸がずっと当たったままだ。
「そうだ。それでなずなくんは、あの子からなにをもらったの? なにか、どこかのチケットみたいだったけど……」
「……えーっと。ああ、なんか展覧会のチケットみたいです」
「そうなんだ。……どうする? なずなくん、行ってみたい?」
「俺は、どっちでもいいですよ。今日は橙華さんに付き合うっ決めてるので、橙華さんが行きたい所に行きましょう」
残された時間は、あと1週間しかない。だからできるだけ、無駄なことはしたくない。……けどだからって、『自分に催眠をかけ続けてきた』なんて言った橙華さんを、放って置くことはできない。
それに橙華さんの心の夜に寄り添えれば、彼女の魔法の力も上がる筈だ。
「……なら、行ってみようか。その展覧会、ちょっと面白そうだし」
橙華さんは複雑そうな表情で空を見上げて、そのまま歩くペースを上げる。
そうして、楽しいデートが始まった。
「…………」
思わぬところまで『夜』の闇が迫っていることに、気がつかないまま。




