分からないんだよ。
「なずなくんを追い出す原因になった、赤音ちゃんのパンツがなずなくんの部屋から見つかったあの事件。あれね、あたしがやったんだよ」
その橙華さんの言葉に、思わず息を飲む。それほどまでにそれは唐突な言葉で、なにより……驚くべきことだった。
「…………」
でも……。
「どうして今更、それを俺に伝えるんですか? 当事者の俺が言うのも変かもしれませんが、あれはもう終わったことでしょう?」
そう。だからたとえあの事件の犯人が橙華さんであったとしても、今更それを責めるつもりなんてない。
「……うん。なずなくんにとっては今更だと思うし、いきなりこんなことを言われて迷惑だと思う。でも……ごめんね。あたしがこのことを謝れるのは、たぶん今だけなんだよ。だから、ごめんなさい」
橙華さんはそう言って、頭を下げる。……意味が、分からない。
「……別に構いませんよ、あれくらい」
けど黙っているわけにもいかないので、とりあえずそう言葉を返す。
「ありがとう。やっぱりなずなくんは、優しいね。そんな君だから、あたしもきっと……」
橙華さんはいつもとは色の違う笑みを浮かべて、そのまま俺に抱きつく。……ドクドクと、橙華さんの静かな心音が伝わってくる。
「なにか、あったんですか?」
「……どうしてあたしが、赤音ちゃんのパンツをなずなくんの部屋に隠したんだと思う? どうしてあたしは、そうまでしてなずなくんを追い出そうとしたんだと思う?」
「…………」
橙華さんは俺の問いかけを無視して、真っ直ぐに俺を見る。……流石にそれは少し理不尽だと思ったが、橙華さんの瞳には有無を言わせぬ迫力があった。だから今は余計な言葉を飲み込んで、首を横に振る。
「分かりません」
「怖いからだよ。あたしは貴方が……ううん。本当のあたしは、世界の全てが怖くてなにも理解できない。そんな、弱虫なんだよ」
背中にまわされた腕に、力がこもる。ドキドキと、橙華さんの鼓動が少しずつ速くなる。
「昔のこと、みんなから聞いた? ……あたしたちが一度、天底災禍に負けた時の話」
「……はい。なにか事件があって、青波さん以外のみんなは魔法が使えなくなって、戦うこともできなかったって聞いてます」
「それね、あたしのせいなんだよ」
橙華さんは重い息を吐いて、言葉を続ける。
「友達だった、女の子がいたの。本当に小っちゃい頃からの親友で、家族のみんなと同じくらい大切な子だった」
橙華さんは身体から力を抜き、俺に持たれかかる。するとシャンプーのいい香りが漂ってきて、少しドキリとしてしまう。
「それでその子がね、困ってたんだよ。お父さんとお母さんが、喧嘩ばかりしてる。このままじゃ、離れ離れになっちゃうって。だからあたしは、あたしの魔法でその子を助けてあげたの。……だってその子は親友だったし、あたしにはその子を助けてあげられる力があった」
「……それで、どうなったんですか?」
「気持ち悪いって、言われたの。まるで化け物でも見るような目で、あの子はあたしを……拒絶した」
そこで背後からミシリとした音が聴こえたので、そちらに視線を向ける。
「…………」
けれどそこには、誰の姿もありはしない。
「そしてその子は、あたしを無視するようになったの。親友だって思ってたのに、あたしを魔女だなんて呼んで……嫌がらせをするようになった。……ううん、あたしだけじゃない。あいつらは姉妹のみんなにも、同じような嫌がらせをするようになった」
「だから魔法が、使えなくなった」
そんな辛い経験をしていれば、心が源である魔法が使えなくなるのは当然だろう。……そう思っていたのだけれど、橙華さんは首を横に振ってそれを否定する。
「あたしはね、あたしを裏切ったあいつと姉妹のみんなを傷つけようとする奴らが、許せなかった。だから魔法を使って、そいつらを酷い目に遭わせたの」
「────」
言葉が、ない。
「みんなはね、そんなあたしの姿を見て魔法を信じられなくなった。それが本当に正しいものなのか、分からなくなっちゃったんだよ。だからみんなは、魔法が使えなくなった。……そしてあたしは、気がついた。あたしには、なにか大切なものが欠けていると」
橙華さんが、顔を上げる。その瞳は酷く澄んでいて、伽藍堂のように空虚だ。
「あたしには、分からない。あたしを裏切った奴を傷つけて、なにが悪いのか。みんなを傷つけようとした奴らを懲らしめて、なにがダメなのか。……どうしてみんな、あたしをそんな目で見るのか。……あたしにはなにも、分からない」
「……それは、本当に?」
「うん」
「でも俺には、橙華さんが……」
俺の知ってる橙華さんは、とても優しい人だ。ちょっとドジなところはあるし、偶に突拍子もないことをする時もある。けれどそれでも、みんなの為に美味しいご飯を作って笑っている橙華さんが、人の気持ちが分からないとは思えない。
「…………」
……けれど橙華さんは、そんな俺の甘い考えを否定するように、重い声で言葉を告げる。
「……あたしはね、あたし自身に催眠をかけたの。普通の女の子であるように。みんなの優しい、お姉さんであるように。魔法が使えるようになってから、毎日毎日、自分に催眠をかけ続けた。だからなずなくんが知ってる柊 橙華は、偽物なんだよ」
「────」
またしても、息を飲む。どうしてか胸が、ズキリと痛む。
「でも偶にね、その催眠が途切れる時があるの。そうなるとあたしは、あたしを止められない」
「……だから、俺の部屋にパンツを隠したんですか?」
「うん。だって、あの時のなずなくんはただの他人だったでしょ? 貴方がいたせいで、赤音ちゃんが怒ってあたしの大切な家族が傷ついた。だからあたしは、なずなくんをいらない人だと決めつけて、1番手っ取り早い方法で追い出そうとしたの」
橙華さんはそこで俺から手を離し、ゆっくりと立ち上がる。……その背筋は真っ直ぐに伸びていて、今朝の女性や少し前の柊 赤音のように、罪なんて弱さはどこにもありはしない。
「そして今朝も、唐突に催眠が途切れてしまった。いつもなら普段の柊 橙華を演じて、また催眠が効いてくるのを待つ。ついさっきまでは、今回もそうしようと思ってた」
でも、と橙華さんは真っ直ぐに俺を見る。
「どうしてから貴方には、嘘をつきたくないと思ったの」
「……俺に、なにかできますか?」
いろんな疑問を飲み込んで、そう尋ねる。
「……なずなくんは、優しいね。ずるいくらい、優しい」
橙華さんは泣きそうな顔で笑って、ゆっくりと俺の方に手を伸ばす。そして燃えるように熱い手で俺の頬に触れてから、続く言葉を口にした。
「ねぇ、なずなくん。今日1日だけでいいから、貴方の時間をあたしにちょうだい。……あたしにはどうしても、確かめなきゃならないことがあるの」
その言葉はまるで魔法のように、深く深く俺の心を揺さぶる。
そうして事態は、また前へと進む。




