ずっとずっと……。
『明けない夜が、君の魔法だ』
その言葉を、赤音は一瞬たりとも忘れたことはなかった。
◇
「……うん。ごめんね、無理させて。……違うわ、姉さんたちが頑張ってくれたお陰よ。……うん。詳しいことは、また後で話す。だから今日は、先に帰ってて。……ありがとう」
そこで電話を切って、赤音は小さく息を吐く。
「上手くいって、よかった」
ずっとずっと悪夢を見続けていたなずなの心を、救うことができた。泣き続けていたなずなの涙を、止めることができた。……それであの蜘蛛の悪夢が消える保証はなかったけど、どうやら上手くいったらしい。
無論、明日からどうなるかはまだ分からない。けれどそれでも、今日の『夜』はもう終わった。
青波からの電話でその事実を確認した赤音は、膝の上で眠るなずなの頭を優しく撫でる。
「あんたも、お疲れさま」
赤音の胸でしばらく泣き続けたなずなは、そのまま倒れるように眠ってしまった。だから赤音は、そんななずなを近くのベンチまで運び、目を覚ますまで自分の膝で寝かせてやることにした。
「……かわいい寝顔。もう、大丈夫だからね。これからは私が、あんたを守るから」
もう一度、優しくなずなの頭を撫でる。なずなはただ、気持ちよさそうに寝息を立てる。赤音はそんななずなの髪を指で軽く梳かしながら、意味もなく空を見上げる。
「…………」
空はまだ、暗いまま。夜はまだまだ、明けない。
『明けない夜が、君の魔法だ』
赤音がまだ、幼かった頃。大きなリュックサックを抱きしめて、いつまで経っても来ない彼を待ち続けていた夜。唐突に姿を現した女性は、赤音に向かってそう言った。
『私と契約を結べば、また彼に会うことができる。もう死んでしまった、もう二度と会えない筈の彼に、もう一度会うことができる。……けれどその代わり、君は魔法少女になって私の代わりに戦わなければならない』
その言葉に、赤音は頷いた。少しも迷う素振りを見せず、当然のようにその女性の手を取った。これから先、どれだけ辛い未来が待ち受けていても。もう一度彼の笑顔を見られるなら、どんな困難も怖くなんてなかった。
そんな赤音を見て、その女性は言った。
『明けない夜が、君の魔法だ。君がずっとずっと1人で苦しみ続ける限り、君の魔法は永遠だ』
そう言ってその女性は笑いながら、3つの約束を赤音と結んだ。その約束を1つでも破れば、夜の魔法はたちまちその効力を失い、彼はまた冷たい地獄に落ちてしまう。
『だから赤音。君はずっと、1人で苦しみ続けなければならない』
明けない夜が、赤音の魔法だ。赤音はそれを、片時も忘れたことはない。
「……ほんと、可愛い」
意識を現実へと引き戻し、子供のような顔で眠るなずなの寝顔をぼーっと眺める。それだけで、赤音の胸は張り裂けそうなほどの幸福で満たされる。
愛しくて。愛しくて。愛しくて。
誰よりなにより、愛しくて。幸福を噛み締めるように、赤音は小さく笑う。
「……大丈夫だよ。貴方は、私が守るから」
赤音は、心に決める。この愛しい人を、未来永劫ずっとずっと守り続けていこうと。
……たとえその想いを、彼に伝えることができなかったとしても。
その女性と赤音が結んだ、3つの約束。それは今この瞬間も、赤音の心を縛り続ける。
『この魔法のことを、誰にも教えてはならない』
それが、最初の約束。だから赤音は、大切な家族である姉妹たちにも、この魔法のことだけは話していない。ずっとずっと1人で孤独に戦い続けなければ、夜の魔法は解けてしまう。
『ずっと永遠に、なずなを愛し続けなければならない』
それが、2つ目の約束。赤音の想いが片時でも途切れてしまえば、その瞬間……なずなは元の冷たい死体に戻ってしまう。……けれどそれは、赤音にとって当然のことだった。
たとえ魔法なんてものがなかったとしても、赤音はずっとなずなだけを愛すると決めていた。
そして、最後の約束は……
『その想いを、その愛情を、決して彼本人に知られてはならない』
だから赤音は、母親の真白がなずなと同居すると言った時、声を荒げて反対した。そんなのは絶対に、認められないと。
でも真白は一向に取り合ってくれず、言いたいことだけ言って海外に行ってしまった。……真白は決して、意味のないことはしない人だ。だからその行動にも、きっとなにか理由があるのだろう。
けれどそれでも、赤音だけはその同居を認めるわけにはいかなかった。
だから赤音は、なずなを振った。放課後の校舎裏。告白されてもいないのに、理不尽な態度で嫌いだと言ってみせた。自分がなずなを嫌っていると、そう印象づける為に。
そして無理やりにでも、なずなを家から追い出そうと画策した。だって同居なんてしていたら、この溢れんばかりの愛情を知られてしまう。そして知られてしまったら最後、なずなはまた元の死体に戻ってしまう。
だから無理やりにでも、なずなを追い出さなければならなかった。それで彼に、嫌われることになったとしても。それで他の姉妹たちに、軽蔑されたとしても。
胸に秘めたこの想いだけは、絶対に絶対に……知られるわけにはいかなかった。
「……いい夢、見てたらいいな」
どうしてか湧き上がってきた過去を振り払い、赤音は優しく頬を緩める。この寝顔を守れるなら、たとえどれだけ嫌われても大丈夫だった。
明けない夜が、赤音の魔法だ。
だから赤音は、ずっとずっと待ち続ける。未だに机の下に置いてある、大きなリュックサックを抱きしめて。真っ暗な夜の、ベンチに腰掛け。もう絶対に来ないと知っている彼を、ただただ待ち続ける。
彼が自分を忘れて、他の誰かを好きになっても。しわくちゃなお婆ちゃんになって、彼の顔を思い出せなくなったとしても。
彼が心から生きててよかったって思えて、楽しくて幸福な人生を終えるまで。赤音はずっと、待ち続ける。
ずっとずっと、たった1人で待ち続ける。
それが、柊 赤音の魔法。
「大好きだよ。貴方が世界で1番私を嫌っても、私は世界で1番貴方を愛してる。……だから、お願い。きっといつか、幸せになってね」
万感の想いを飲み込んで、赤音は優しくなずなの頭を撫でる。するとちょうど、なずなが目を覚ました。
「…………ごめん、寝てた」
なずなは照れたように頬をかきながら、身体を起こす。
「いいわよ、これくらい」
離れていく温かさを寂しく思いながら、それを一切表情に出さず、赤音はいつもと同じ顔で立ち上がる。
「俺、どれくらい寝てた?」
「1時間とちょっと」
「……悪いな。そんなに長く、膝枕させて。脚、痺れただろ?」
「大丈夫よ。だって私は、魔法少女だもん。これくらい、へっちゃらよ」
「……そっか」
なずなはそこで伸びをして、まだまだ暗い夜空を眺める。
「それより、そろそろ帰りましょうか。いくら夏が近いからって、いつまでもこんなところで寝てるとまた風邪ひくわよ?」
赤音はそう言って、なずなに向かって手を差し出す。
「…………」
けれどなずなはその手を取らず、赤音が時折見せる幸せを噛み締めるような笑みを見つめて、言った。
「──長い間、待たせて悪かったな」
星が、流れた。一筋の流れ星が、長い長い夜に亀裂を入れる。
「な、なに言ってるのよ。意味……分かんない。私は別に、あんたを待ってなんか……」
それでも赤音は、知られるわけにはいかなかった。この気持ちを。この胸から溢れ出す、真っ赤な愛情を。どうしても、彼にだけは、知られるわけにはいかなかった。
……しかしそれでも、なずなの言葉は止まらない。
「ずっと、忘れてた。ずっとずっと、思い出せなかった。俺はずっと、過去から逃げていたから。あの頃の夜が怖くて、ずっとずっと目を背けてきたから」
でも、と。なずなは遠い空を見上げる。
「辛いだけじゃなかった。大切な……なにより大切な思い出が、そこにはあったんだ」
「……知らない。私はそんなの……知らない」
「同じなんだよ。髪の色も、瞳の色も、苗字も。なにもかも、違う。でも、本当は自分も辛い癖に強がって笑うそのかっこいい笑顔だけは、変わってない。……俺が大好きだったあの子と、同じなんだよ」
「違う! 変なこと、言わないで! あんたが誰と私を勘違いしてるのかなんて、知らない! けど私は、あんたなんか──」
「でも、ずっと待っててくれたんだろ? ……ごめんな、赤音ちゃん」
赤音は反論の言葉を口にしようと、口を開く。……けど、そのなずなの笑顔はあの頃の彼と全く同じで、
だから、赤音は……。
「遅いよ! バカ……!」
もう、我慢できなかった。
赤音もなずなと、同じだった。彼女もずっとずっと、我慢し続けてきた。本当は、気づいて欲しかった。本当は誰にも、渡したくなんてなかった。本当はただ……自分だけを、見て欲しかった。
だって誰より、貴方が好きだから。
貴方の笑顔が好きだから。貴方の優しさが好きだから。貴方の声が、貴方の横顔が、貴方の全てが大好きだから。
だから誰より、側に居たかった。
「大丈夫。今度は俺が、側に居る。もう一緒には逃げられないけど、それでも側に居るって約束する」
「……いいよ。そんな約束、しなくていい。だから、今だけ……。今だけは、側に居て。私を……私だけを、抱きしめて。お願い……」
もう来ないと知っていた。どれだけ待ち続けても、彼は来ないと知っていた。それでもずっと待ち続けていたのは、いつか来てくれるんじゃないかって、そう期待してたから。
いつか奇跡が起きて、こんな風に抱きしめてもらえるんじゃないかって、ずっとずっと期待してた。
だから赤音は、泣き続ける。
奇跡が起きても、想いは伝えられない。けれどそれでも、彼のこの温かさは本物だったから。何度も何度も夢に見たこの温かさは、決して夢ではなかったから。
……もう何年、待たされ続けたのだろう?
もう何度、1人の夜を過ごしたのだろう?
なにもかもが変わってしまって、あの頃と同じものはもうなにもない。……いや、違う。2人はずっと、同じ笑顔で繋がっていた。だからなずなは、赤音を見つけることができた。ちゃんと、約束を守ることができた。
「お互い、泣き虫だな」
「うるさい、バカ……!」
今度は赤音が、なずなの胸で泣き続ける。
長い長い夜が明けて、日が登るまで。ずっとずっと、今までの分の涙も流すように。赤音はただ、誰より愛しい人の胸で泣き続けた。




