……バカね。
「──私の弟を虐めるな!」
夜の闇からそんな声が響いて、柊 赤音が姿を現す。……そう。比喩でもなんでもなく、柊 赤音は文字通り夜の闇から姿を現した。
「────」
「────」
そんな非現実的な光景に、俺と蘇芳さんは唖然と目を見開く。
……が、蘇芳さんはすぐに気を取り直し、困惑と苛立ちが入り混じった目で、柊 赤音を睨む。
「なんですか、貴女は。どうやって……本当にどうやって、ここに入って来たのですか。……いえ、そんなことはどうだっていいんです。それよりここは、わたくしの家です。さっさと出て行かないと、警察に通報しますわよ!」
「うるさい。私の……私たちの弟にこんな辛そうな顔させて、どうしてあんたは笑ってるのよ?」
「そんなの、部外者である貴女には関係ないですわ。……いいから早く、出て行ってください! じゃないと本当に──」
「──だから、うるさいのよ。あんた」
その瞬間、視界が赤く染まった。
……いや、キャンバスが燃えたんだ。ずっとずっとどうすることもできなかった真っ白なキャンバスが、まるで魔法のように真っ赤な炎に包まれる。
「な、なによ、これ……。 貴女、なにを考えてますの……! こんな、こんな風に燃やしたら……屋敷まで……!」
「そんなに騒がなくても、すぐに消えるわ」
「馬鹿言わないでください! こんなに燃えて、そんな簡単に消えるわけ──」
と。そこで本当に、火が消えた。焦げ臭さも、煙も、灰すら残さず、まるで夢のように一瞬で火が掻き消えた。
「なん……ですの。いったい貴女は、なんですの……!」
流石の蘇芳さんもその光景におののき、声を震わせて柊 赤音を睨む。……柊 赤音はそんな蘇芳さんを真っ直ぐに見つめ、誇るように胸を張って言った。
「私、魔法少女なのよ」
「……正気、ですの? 魔法少女なんて、そんな……非現実的な存在を、わたくしに信じろと言うのですか?」
「別に、信じなくてもいいわよ。……いや、逆ね。信じさせてあげても、私は別に構わないのよ?」
柊 赤音はまるで獲物を追い詰めた狩人のように、ゆっくりと蘇芳さんに近づく。蘇芳さんはそんな柊 赤音から逃げるように後退り、そのまま尻餅をついてしまう。
「こ、来ないでください!」
「なによ、今さら。他人を傷つけて笑ってた癖に、自分が傷つけられるのは嫌なの?」
「それ、は……」
「……まあ、私も人のこと言えるほど立派な人間じゃないけどね。いつもいつも自分の都合ばかりで、他人の痛みになんて全然気がつかない。……その人の為にって思ってたのに、全部全部……空回りしてた」
その柊 赤音の言葉は、どこか自分に言い聞かせるような響きで、だから俺も蘇芳さんもなにも言えない。
「ま、なんにせよ。あんたが信じようが信じまいが、私が言うことは変わらない。あんたと私は同じ穴の狢だから、私は絶対にあんたを許さない……!」
「ひっ……!」
柊 赤音の真っ赤な眼光に、蘇芳さんは恐怖するように目を瞑る。
「私の家族に危害を加えるなら、あんたが大切にしてる絵を燃やす。それでも分からないなら、あんた自身を燃やす。私は絶対に、容赦しない。……それだけは、覚えておきなさい」
柊 赤音はそれだけ言って、もう用は済んだというように蘇芳さんから目を逸らす。そしてまるでヒーローのように、俺に向かって手を差し出す。
「行きましょ? ほら、手を掴んで」
「…………」
「……なによ、黙り込んで。もしかして、私なんかの手は握りたくないって言いたいの?」
「いや、違う。……そうじゃなくて、ただ……」
ただ、なんなのだろう? 自分でもなにが言いたいのか、分からない。……でもなんていうか、言葉にできない奇妙な感覚が胸を過ぎる。
魔法少女。
そんな、あり得ないような存在を目の当たりにしたからだろうか? どうしてか胸が高鳴って、頭がくらくらする。
「……なんなのよ? その顔。もしかして、頭でも打った?」
「…………いや、違う。大丈夫」
そう言って柊 赤音の手は握らず、自分の足で立ち上がる。そしてそのまま、蘇芳さんの方に視線を向ける。
「い、行かないでください! なずなさん! わたくしはただ、貴方の才能が……貴方の絵が、好きなだけなんです! わたくし、貴方が絵を描いてくれるなら、なんだってします! だから──」
「蘇芳さん」
彼女の言葉を途中で遮り、俺は言う。ずっと言えなかった彼女の間違いを、俺が正す。
「蘇芳さんは俺の絵、好きなんだよな?」
「はい! 好きですわ! この世のなにを……友達や家族を犠牲にしても構わないと思えるくらい、貴方の絵を愛しています! わたくしは心底から貴方に……貴方の絵に、惚れていますの!」
「……そっか。なら貴女はやっぱり、見る目がない。あの程度の絵を褒めてるようじゃ、蘇芳さんもまだまだだな」
「……! なずなさん! 貴方はまだ、そんなことを仰るのですか! 貴方の絵は誰がどう見ても──」
「失敗作なんだよ、あれ」
「……は?」
俺のその言葉を聞いて、蘇芳さんは驚きに目を見開く。
「灰宮 欠慈……いや、俺のお父さんがさ、言ってたんだよ。昔、まだ優しかった頃。寝る間も惜しんで必死に絵を描いてた俺に、優しく笑って……言ってくれたんだ」
過去の幸せだった光景を思い出し、小さく笑う。
「『なずな。絵なんてものは、どうしても描きたいと思う時か、どうしても描かなきゃいけないって思う時。そのどちらかの時だけ、描けばいいんだ。無理して嫌々描いても、いい絵は描けないぞ?』って」
誰より優しかった頃の、お父さんの言葉。これからどんなことがあっても俺はあいつを許さないけど、その言葉と優しい笑顔が……俺は大好きだった。
「だから、蘇芳さん。貴女が褒めてくれたあの絵は、俺にとっては全部……失敗作なんだよ。……まあ、絶望や恐怖を描いた絵は、俺も好きだけどな。そしてきっとそういう絵を描いた人たちは、俺と同じように深い絶望の中に居たんだと思う」
「なら……」
「それでも、俺は俺の絵を認めない。だってあれは、俺が描きたかったものじゃないから。誰かから無理やり描かされた絵を、俺は絶対に認めない」
「……貴方は本当に、そう思うのですか? あんなに素晴らしい絵でも、貴方にとっては失敗なんですか?」
「ああ。あんな嫌々描いた絵は、駄作も駄作。誰が認めても、俺にとっては失敗作だ」
固く握りしめていた手を解き、渡された筆を蘇芳さんに差し出す。
「きっといつか……いつになるかは分からないけど、また絵を描きたいって思う時が来ると思う。なんだかんだで、俺はまだ……絵が好きだから。だからその時、まだ貴女が俺のファンでいてくれたなら、1番最初に貴女に絵を見せに行く。……今はそれで、我慢してくれ」
「…………」
蘇芳さんはなにも言わず、まるで恋にでも落ちたような呆然とした表情で、黙って俺から筆を受け取る。
「……あんたって、ほんと馬鹿ね」
俺と蘇芳さんのやりとりを黙って見ていた柊 赤音は、呆れたというように息を吐いて、また俺に向かって手を差し出す。
「じゃあ、行くわよ?」
「……そうだな、行くか」
柊 赤音が、俺をどこに連れて行ってくれるのか。それは俺には、分からない。けれど今度こそ迷わず、俺はその温かな手を握った。
「わたくし、待ってます! いつまでもいつまでも、待ってますから!」
最後に背後から、そんな声が響いた。




