それでも……。
柊 赤音は、夢を見ていた。
夢とは、人が見るものだ。それは『夜』に現れる悪夢も、例外ではない。彼女たち魔法少女が壊す悪夢もまた、どこかの誰かの苦しみと嘆きが詰まっている。
なら、この『夜』を染め上げるほど巨大な蜘蛛の悪夢は、いったい誰の夢なのだろう? どれ程の嘆きと苦しみがあれば、こんな悪夢を形作ることができるのだろう?
柊 赤音は、夢を見ていた。
蜘蛛の悪夢に取り込まれ、自分という存在がゆっくりと溶けていく。身体中の感覚が消え、うっすらと残った意識も消えていく。自分が誰なのか、もうそれすら分からない。
そんな中、彼女はただ夢を見ていた。
◇
とある、少年がいた。
彼は、とてもよく笑う少年だった。家でも、学校でも、いつもいつも笑っている。どれだけ嫌なことや辛いことがあっても、笑い飛ばして前に進む。
そうやって胸を張って生きることだけが、少年と母親の唯一の約束だったから。
少年の母親は、病気がちな人だった。毎年冬には風邪で寝込み、よく入院もした。けれど彼女は、いつも笑顔だった。いつもいつも、どんなことがあっても、彼女はいつだって力いっぱい笑っている。そんな、とても強い女性だった。
……でもそんな母親が、重い病気で倒れた。その病気はまだ治療法が確立されておらず、もう目を覚まさないかもしれないと、医者は言った。
しかしそれでも、少年とその父親は毎日のようにお見舞いに行った。
2人して無理な笑顔を浮かべて、その日あった楽しかったことを話す。そうやって自分たちが楽しそうに話していれば、きっとお母さんは目を覚ましてくれる。少年はそう、本気で信じていた。
そして事実、母親は目を覚ました。
ある日突然、まるで魔法のように母親は目を覚ました。体調もみるみるうちに回復していき、近いうちに退院できることになった。
父親と少年は心から喜んで、2人で一緒にパーティーを開くことにした。これから行きたいところなんかを話しながら、2人で一緒に部屋を飾りつけしていく。その時間は本当に楽しくて、2人は久しぶりに本物の笑みを浮かべた。
けれど、母親が退院して家に帰る途中……事故に遭った。
とてもありふれた、毎日どこかで起きているような事故。……そんな事故で、母親は死んでしまった。
少年と父親は、もう笑わなかった。
そしてそれから、父親は徐々におかしくなっていった。仕事を辞め、昼間から酒を飲み、何日も家を空けたかと思えば、必要のないものを大量に買って来る。
そして少年を見る度に、少年の中の母親の面影を見る度に、暴力を振るった。殴って、蹴って、いつも同じ怒鳴り声を上げる。
『なにを笑っているんだ! お前は!』
父親にどれだけ暴力を振われても、母親の死がどれだけ悲しくても、少年は必死になって笑い続けた。そうすればいつか、昔の優しかったお父さんに戻ってくれる。少年はそう、信じていた。……信じ続けていないと、涙を止めることができなかった。
けれど時間が経つ度に父親の暴力は苛烈さを増していき、いつしか笑う余裕もなくなった。……そしてなにより、父親のその言葉が少年の心を強く抉った。
『お前が、絵を描け』
少年の父親は、画家だった。その筋では知らない者は居ないと言われるほど、卓越した才能を持った画家。
少年はそんな父親を尊敬していたし、なにより父親の描く絵が大好きだった。だから少年も幼い頃から絵の勉強をして、いくつか賞をとったこともある。
なのに父親は、お前が描けとそう言った。
その瞬間、少年の中でなにかが壊れた。心の奥底に残されていた父親への小さな小さな愛情が、完膚なきまでに消え失せた。
そして少年は、絵を描いた。
父親はそれを自分の絵だと偽り、売り捌いた。絵を描き、怒鳴られ、絵を描き、殴られ、絵を描き……。
そんな生活がずっと続いて、少年はもう笑い方も泣き方も忘れてしまった。大好きだった母親の顔も思い出せなくなり、なにをしてもなにも感じない。
そして代わりに、父親が笑うようになった。下卑た笑みを顔に張りつけ、少年の絵を売って稼いだ金で、朝から晩まで酒を呑む。
少年は『それ』を、父親だと思うのは辞めた。
そして、ある日。少年は大きなリュックサックに、宝物を詰め込んでいた。偶然出会った、とある少女。その少女との約束の為、遠くへ逃げる準備を進めていた。
好きだったヒーローの人形や、好きだった漫画の本。まるで失った心を取り戻すみたいに、大切だったものを大きなリュックサックに詰め込んでいく。
その瞬間は、とても幸せだった。
その少女といる時だけは、少年は昔のように笑うことができた。その少女といる時だけは、温かさを感じることができた。だから少年は父親に隠れて、家出の準備を進めていた。
……けれど、少女との約束の日。隠しておいたリュックサックが、八つ裂きにされていた。
父親は、言った。逃すわけないだろ、と。そして静かな顔で少年に迫り、逃げようとした罰を与えると言って、ナイフを取り出す。
父親はもう、完全に正気を失っていた。……けれど少年は怯えることも泣き叫ぶこともなく、色の抜けた目でボロボロになったリュックサックを見つめ続けた。
そしてまるで、今までの少年とは別人のような声色で……言った。
『くだらない人間だな、お前』
父親は叫んだ。けれど少年は笑いながら、幸せだった母親との思い出を語った。少年は、知っていた。いつだって威張り散らしていたこの男は、酒が抜けて正気に戻った時だけ、母親の写真を見て泣いていたと。
だから少年は、母親との思い出を話した。そうすればこの男が、苦しむと知っていたから。力じゃどうやったって敵わないが、こんな男の心を壊すことなんて今の少年からすれば、とても簡単なことだった。
父親は訳の分からない叫び声を上げて、ナイフを振り上げる。それでも少年はただ笑いながら、呪いの言葉を吐き捨てた。
『一生1人で苦しんでろ。この根性なしが』
父親はそのまま、少年の首を切り裂いた。そして次に、自身の首を切り裂いた。少年とその父親は、確かにそこで死んだ。
……でも、まだ悪夢は終わらない。
なにも知らない1人の馬鹿な少女が、とある契約で少年を蘇らせてしまった。少年の死はなかったことになり、父親は事故で亡くなったことになっていた。
だからそれからも、少年は苦しみ続けた。
毎日のように、父親に殺される悪夢を見た。母親が死ぬ、夢を見た。キャンバスや筆を見るだけで、戻してしまうようになった。
死人のような目をした彼はどこへ行っても煙たがられ、心ない罵詈雑言を何度も何度も浴びせられた。
そして今この瞬間も、彼は苦しんでいる。
赤音が青臭いと笑った、彼の不幸。その不幸がどれだけ重たく冷たいものなのか、赤音はなにも理解していなかった。それなのに軽々しく、自分だけの都合で幸福になれだなんて言ってしまった。
そして今、無様にも少年──なずなの悪夢に飲み込まれ、数分後には影も形も残らずこの世界から消え去る。
「…………」
情けなかった。悔しかった。自分が全てを捨ててまで願った魔法は、ただなずなの苦しみを深めただけだった。自分の願いを優先して、なずなを家から追い出したせいで、彼は今も苦しみ続けている。
……嫌だと、赤音は思った。
悪夢に飲み込まれてしまったら、逃れ術はないと母親である真白は言った。事実、今の赤音は指先1つ動かすことができない。
しかしそれでも、嫌だった。
全てを捨てて、なずなを蘇らせた。なのに彼は、苦しみ続けている。ずっとずっと、今も変わらずこんな悪夢を形作ってしまうくらい、なずなは苦しみ続けている。
魔法少女は、人を助ける存在ではない。
それくらい、分かってる。魔法なんかじゃ、人を救えない。たとえこの悪夢を壊すことができたとしても、なずなの苦しみは終わらない。どれだけ悪夢を壊しても、彼の現実はなに1つとして変わらない。
「……でも、嫌なのよ」
もうどこにもない筈の喉が、震える。
「私は嫌われても、構わない」
もうどこにもない筈の手を、握りしめる。
「でも、あいつは……笑ってなきゃダメなの」
もうどこにもない筈の心臓が、高鳴る。
「だって私は、その為に……」
もうどこにもいない筈なのに、確かにここにいる柊 赤音は、なにより深い悪夢を振り払い、確かな声で叫びを上げる。
「魔法少女になったんだから……!」
『夜』を染め上げる程の炎が、暗い夜空を染め上げる。その光景を見て、ずっと戦い続けていた少女たちは呆れたような笑みを浮かべる。
「おせーよ、赤音ちゃん」
「ふふっ。やっぱり赤音ちゃんなら、大丈夫だって言ったでしょ?」
「そんなこと言って、橙華姉さんと緑が泣いてたの、ボクちゃんと見てたからね」
「わ、私は泣いてません! ただ……心配だっただけです!」
「ふふっ。お帰り、赤音。よくやったね……と褒めてあげたいけど、残念ながらその蜘蛛は、まだまだ元気が有り余ってるようだ」
その青波の言葉通り、燃え盛る炎の中から姿を現した蜘蛛は、まるで助けを求めるかのように叫びを上げる。
「────!」
そんな蜘蛛の姿を見て、赤音は言う。
「ごめん、みんな。私これから、行かなきゃいけない所があるの。だからここ、任せていい?」
そんな赤音の、唐突な言葉。その言葉を聞いて、姉妹たちは迷うことなく言葉を返す。
「──任せろ!」
「ありがと、みんな。……大好き!」
赤音は、空を駆ける。今も苦しみ続ける、1人の少年を助ける為に。
魔法少女は、誰より速く夜を駆ける。




