どうしてだよ。
柊さんの家を出てから、3日。俺は特に問題なく、日々の生活を送ることができていた。
少し前までお世話になっていた、『先生』から相続した家。その家は、ほとんど山の中と言っていいような場所に建てられていて、高校に通うのにも2時間近くかかってしまう。
おまけに、山小屋と見間違えるほど狭くて汚くてボロい。お世話になっておいてあまり文句は言えないが、その家は死ぬほど不便だ。
でも逆に言えば、それだけだった。
不便ではあるが、そこまで大きな問題があるわけじゃない。学校ではいつも緑姉さんが側にいてくれるし、1番の問題であるお金も、今日明日でどうにかなるほど貧窮してるわけじゃない。……無論それは、柊 赤音からもらったお金を使わなくても、だ。
だから少なくともしばらくは、問題なんてない筈だった。
「…………」
「…………」
耳をつんざくような激しい雨が、八つ当たりするかのように街を濡らす。こんな雨の中、傘もなく学校に行けば授業どころではないだろう。
だから俺も隣の柊 赤音も、なにもできずただ雨を眺め続ける。
「…………」
……正直言って、死ぬほど気まずい。でも思えば、無理して彼女と仲良くなる理由はもうない。だから俺はなにも言わず、雨だけを眺め続ける。きっと柊 赤音も、口を開くことはないだろう。
……そう思っていたから、その声は完全に想定外だった。
「……なにも、言わないのね」
初めは、気のせいだと思った。それくらいそれは、小さな声だった。……でも、そうではないというように、隣から強い視線を感じる。だから俺は諦めて、口を開く。
「なにも言わないって、どういうこと……って」
そこで慌てて、視線を雨の方に逃す。柊 赤音は俺よりずっと雨に濡れていたから、薄い水色のブラが透けて見えてしまっていた。
……まあ正直言って、下着が透けるくらいどうということはない。けど、その下着のせいで追い出されたばかりだから、どうしても気になってしまう。
「なによ、そんなに慌てて視線を逸らして。……もしかして、もう私の顔を見るのも嫌だって言いたいの? まあ、それも当然よね。だって、私は──」
「いや、そうじゃねーよ。そうじゃなくて、透けてるんだよ。……ブラが」
また前のように怒鳴られると思って、身構える。
「ああ、そんなこと。まあ随分と濡れちゃったし、仕方ないわよ」
……けど俺の予想に反して、柊 赤音はそう言って困ったように笑うだけだった。
「それだけ、なのか……?」
「……なによ、そんな驚いた顔して」
「いや、怒らないのか? 俺に、その……下着を見られて」
「別に、今さらそれくらいで怒る理由もないでしょ」
「なんだよ、それ……」
この前は俺にパンツを盗まれたと言って、あんなに騒いで俺を追い出したばかりだ。なのに今は、下着を見られても平然としている。……意味が、分からない。
「そんなことより、答えて。どうしてあんたは、なにも言わないの?」
俺の困惑なんて無視して、柊 赤音は同じ質問を繰り返す。
「……悪いけど、言葉の意味が分からない。なにも言わないって、なんの話だ?」
「なにそれ、とぼけてるの? そんなの、決まってるじゃない。私の……パンツについてよ」
「……パンツって、流石にパンツは透けてねーぞ?」
「そうじゃないわよ! ……そうじゃなくて、私があんたを家から追い出した時の話よ」
「ああ、そっちか。でもどのみち、言うことなんてなにもないよ。今さら言っても、意味ないしな」
小さく、息を吐く。雨はまだ、止まない。
「今さらって、あんたは初めからなにも言わなかったじゃない。自分はやってないとか。私の陰謀だとか。あんたには言いたいことが、山ほどあった筈よ。なのにあんたはなにも言わず、自分の運命を受け入れた。……どうしてあんたは、そんなに簡単に諦められるの?」
「…………」
柊 赤音のその問いに、少し頭を悩ませる。……けど俺にとってそれは、悩むまでもないことだった。
「変わらないだろ? 俺がなにを言っても」
あの場でパンツを盗んだのは俺じゃないと証明しても、きっと数日後には別のことで責められていた筈だ。人に嫌われるというのは、そういうことだ。目先の問題を解決しても、意味なんてない。
そこまで嫌われてしまったら、なにをしても結果は変えられない。
「でもあんた、紫恵美姉さんや黄葉と仲良さそうにしてたじゃない。私はそれを、奪ったのよ? なら、私に復讐したいとか思わないの?」
「思わないよ。……そりゃ、多少はムカつくけどな。でもだからって、俺がお前を傷つけていい理由にはならないだろ?」
「──! なんなのよ、それ……」
柊 赤音は、心底から驚いたというように声を震わせる。でも俺は、ただ雨を眺め続ける。
「まあ、安心しろよ。俺はお前に……お前たちに、危害を加えるつもりはない。それに……お前との約束も、ちゃんと守るよ」
「そんなの……そんな生き方、辛いだけじゃない……」
「そうだよ。俺の人生は、明けない冬だ。だから辛いのには、もう慣れてる」
どれだけ俺が泣き叫んでも、雨は決して止まない。なら俺にできることは、傘をさして前に進むことだけだ。……たとえ傘を忘れてずぶ濡れになったとしても、それは雨が悪いんじゃなくて、傘を忘れた俺が悪いんだ。
「……あの時と同じ、顔じゃない。なにも……なにも、変わって……」
「……? なに言ってんだよ。声が小さくて、聞こえねーよ?」
「……私は、私は……! あんたの生き方が、嫌いよ! 私にとって運命は、乗り越える為のものよ! あんたみたいに辛い現実を受け入れて諦めて、悟ったような顔をする奴なんて……大嫌い!」
「なんだよ。なに、怒ってんだよ……」
あまりの剣幕に、俺は驚きながら柊 赤音の方に視線を向ける。
「────」
柊 赤音は、俺を見ていた。真っ直ぐに、なによりただ真っ直ぐに彼女は俺だけを見つめていた。
柊 赤音は、俺を嫌っている。それは、揺らぐことのない事実だ。だって、いくら隠さなければならない秘密があったとしても、あんな酷い追い出し方をする必要はなかった筈だ。
一歩間違えれば、俺は緑姉さんや紫恵美姉さんからも嫌われていただろう。……いや事実、仲良くなれたと思っていた黄葉や橙華さんは、廊下ですれ違っても声をかけてくれなくなった。
自分の行動が、どういう意味を持つのか。どれだけ正しくて、どれだけ間違っているのか。それが分からないほど、柊 赤音は愚かではない。だから彼女は絶対に、自分の行いの意味を理解していた。
秘密を守るため。家族を守るため。そういう理由も、あったのだろう。柊の家には、普通じゃない秘密がある。彼女はその秘密と家族を、なにより大切に思っていた。
だから柊 赤音は、俺を追い出した。……でもやっぱり、あんな手段を取る必要なんてなかった。どうしても俺を家に置いておけない理由があるなら、直接それを俺に言ってくれればよかったんだ。
秘密そのものの話をしなくても、正面から『お前には言えない秘密があるから、出て行ってくれ』そう言われれば、俺は素直にあの家から出て行った。
だから、柊 赤音は俺を嫌っている。それは、揺らぐことのない事実だ。
……その筈、なのに……。
「……なん、で……」
柊 赤音が、俺にキスをした。
泣きそうな顔を隠すように、柔らかで冷たい唇を俺の唇に押しつける。それはとても乱暴だったけど、紛れもないキスだった。
「意味、分かんねーよ……」
キスをされる理由なんて、俺には全く1ミリたりとも分からない。
だからこの場にはただ、激しい雨音だけが響き続けた。




