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「おねがい、レフィルには言わないで」
ルナセオのマントを引いて懇願すると、彼は目を瞬いた。
「レフィルって誰?」
「あの男の人、レフィルの仲間なんでしょ?」
あのひと、と視線を金色の目の男に向けると、ルナセオはようやく合点がいったようだった。ぽんと両手を叩いてから、首を傾けて疑問符を浮かべている。
「ああ、トレイズの上司ね。でもなんで?巫子を保護してるひとなんでしょ?」
「おねがい、あの人、悪いひとなの」
「悪いひと、なの?」
ルナセオは困惑していた。彼自身はレフィルとは面識がないようで、ネルとトレイズを何度も見比べながらネルの真意を推し測っているようだった。
ネルはなおも言いつのった。
「わたし、レフィルに捕まったら、何されるかわからない…」
「な、なんで?そんな怖いやつなの?トレイズはそんなこと言ってなかったけど」
レフィルの元に引き渡されようとしていたらしいルナセオは、自身にも身の危険を感じたのか両腕をさすった。
子供たちが小声でひそひそやっているのを横目に、大人のほうも困ったことになっていた。
「とにかくお前は行ってこいよ。そこの子なら俺が見ておくからさ」
このトレイズが完全に善意から申し出てくれているのだということはレインには分かっていた。素直にここにネルを置いて行くべきか、それともレフィルと遭遇するリスクを追ってでも彼女を連れ出して、どこかから彼女を逃がすか。先ほどレフィルにけしかけた自身の配下が、まだ報告に来ないことも気がかりだ。ネルには言えないけれど、デクレを取り戻せずに配下もやられている可能性が高い。
まだ俺の目論みはレフィルにもエルミにも割れていないはずだが…脳裏でいくつもの想定を組み立てて、レインはようやく口を開いた。
「トレイズさん」
レインはこの男の正義感に賭けてみることにした。
「あの女の子を連れて、レクセまで逃げてくれませんか?」
「は?」
トレイズは間抜けな声を上げた。暗がりではよく見えないが、彼がネルを見る気配がした。少年少女は祭壇の裏にしゃがみこんでいて、二人ともマントをかぶった頭の先しか見えない。
レインはトレイズに身を寄せて小声で言った。
「あの子、レフィルがラトメまで連れてきたんですが、なぜかひどくレフィルに怯えているんです。一旦私が保護したんですが、できればレフィルに会わせたくない。トレイズさん、彼の部下であるあなたにお願いするのは心苦しいんですが…」
さらりと都合の悪いことはごまかして、さも申し訳なさそうに下手に出ると、案の定トレイズは厳しげな口調で声を落とした。
「アイツは一体子供相手に何やったんだ?」
「さあ、詳しいことはなにも」
今のところレフィルはネルに特にこれといった害は及ぼしていないが、どうせこれから彼女を狙ってくることはまず間違いないのだし、そこは好きに曲解してもらえばいいだろう。レインは心の中で舌を出した。
うまく義憤に駆られてくれたらしいトレイズはひとつ舌打ちすると、力強くうなずいた。
「事情は分からないが、怯えてる子供を見捨てちゃおけないしな。分かった、俺が一緒に連れて行く」
「それは助かります!」
喜色満面の笑みを浮かべて声高に言うと、不安げにネルが祭壇から顔を出した。手招きして呼び寄せると、祭壇に置きっぱなしになっていた燭台を持って近づいてきたので、親切な男の仮面をかぶったまま神妙に彼女の肩を叩いた。
「ネル、君はこの人と一緒に行くんだ」
「ええっ」
ネルはたちまち悲壮感たっぷりの表情を浮かべてレインのコートをつかんだ。
「どうして?だってこの人、レフィルの仲間なんじゃないの?」
レフィルの名前を出していやいやと首を横に振るネルへの反応を確かめるためにこっそりトレイズを伺うと、しっかり顔をこわばらせている。これでこちらの話にも信憑性を持たせられただろう。
「大丈夫、この人は信頼できる人だよ」
この街において信頼という言葉ほど薄っぺらいものはないだろうと知りながら、あえてレインはトレイズに聞かせるようにその言い回しを選んだ。事実、この金色の目の男は一度決めた約束事を破ることはないと、その一点においてレインは疑っていなかった。
だから、レインは約束を取り付けたあとで、ネルのフードを取り払った。
あらわになったネルの髪の一部が赤く染まっているのを見て、トレイズは口をあんぐり開けた。
「巫子じゃねえか!」
「もちろん、巫子を見つけたらレフィルに報告の義務があることは知ってます。だけど」
レインは子犬のように不安げな顔を貼りつけた。横のネルが先ほどまでとの性格の違いに、戸惑うようにこちらを見上げているのは無視した。
「約束、守ってくれますよね?」
トレイズは苦い顔だったが、やがてガシガシと髪の毛を掻き回して覚悟を決めたようだった。
「ったく!俺が首切られたら責任とれよ!」
「わあっ、トレイズさんありがとうございます!」
「40過ぎた男が『わあ』とか言ってんじゃねえよ…いいか、でも隠してやれるのは少しの間だけだ、あっちから聞かれたらいつまでも庇ってやれねえからな」
「もちろんそれで十分です!」
喜色満面で手を叩きながら、レインはネルの耳元でささやいた。
「立ち場はともかく、この人は約束は守る。しばらくは時間稼ぎになるはずだ」
ネルはトレイズを見上げた。上背のある大きな男性で、ネルの頭の先がちょうど彼の胸のあたりに来るくらい。長旅をしてきたのか、髪の毛も髭も伸びっぱなしで、見た目にはあまり頓着しないようだ。そして、マントで隠れているからわかりづらいが、左腕のあたりが奇妙にへこんでいる。
「この人、小汚いし片腕ないけどいい人だよ」
ルナセオに言われて、ようやくネルはこの男性が隻腕であることに気づいた。トレイズは不満そうにルナセオを見下ろした。
「小汚いは余計だ」
「だってそうじゃん。もっとこまめに水浴びくらいしろよ。それじゃまるで浮浪者みたいだよ」
そしてこのルナセオという少年は、自分より二回りは年上の大人に対しても歯に絹着せずにものを言う性格のようだった。同年代の男の子といえばそっけないデクレか、村の粗野な少年たちくらいしか知らないネルには、ルナセオのようないかにも社交的で物腰柔らかなタイプには会ったことがなかった。
ネルはたちまち心細くなって、レインのコートを引っ張った。
「レインさん、デクレは?デクレも一緒なんだよね?」
「デクレは…」
レインは言い淀んだ。トレイズが顔をしかめた。
「なんだよ、他にもまだ保護してる奴がいるのか?もういいから全員連れてこいよ、面倒見てやるから」
「ネルと一緒にレフィルに連れて来られた子供で…そろそろ保護されていてもいい頃なんですが」
「かっかっ、閣下ァ!いや、レインさん!」
けたたましい音を立てて再び神宿塔の扉が開いて、ガタイのいい男が転がりこんできた。先ほどレフィルの前に立ちはだかってくれた男のうちのひとりだが、あちこち傷だらけで、特に頬にぱっくりと切り傷ができて痛々しい。
男はすがりつくようにレインに這っていって、涙ながらに訴えた。
「もっ、申し訳ありません、奴を取り逃してしまいました!」
表情こそ温和だったが、ネルは隣にいるレインから冷え冷えとした怒気が立ち上るのがわかった。傷だらけの男は見るも哀れなほどに縮み上がっていたが、ネルはそれどころではなかった。
「デクレは?デクレは無事なの?」
「そ、それがー」
男は気まずそうに視線をあちこちさまよわせた。
「あの神官服姿の子供から引き離したまではよかったのですが、相手側にも鬼のように強い女が加勢に現れて、相手取ってる間に逃げられちまって…」
そこまで説明したところで、男はレインの顔を盗み見るなり怯えきって平伏した。
「ヒッ!お許しくださいィ!仲間もやられちまってどうしようもなかったんですっ!俺も這う這うの体でようやく逃げだせたくらいでっ」
「やだなあ、人の顔を見てそんな怯えて」
レインは苦笑して言ったが、ネルは言葉尻に付け加えられた「無能が」というほんの小さな呟きを聞き逃さなかった。
「それで、ひとりでここへ来たんですか?」
「い、いえ、それが…」
「邪魔するわよ!」
男の隣に現れて仁王立ちしたその人物に、一同は揃って目を丸くした。そこにいたのは、まだ年端もいかない10歳くらいのエルフの女の子だった。彼女は平ぺったい胸をそらして偉そうに言った。
「私とパパがた・ま・た・ま!通りかかってなきゃ、危なかったんだから、この人。感謝しなさいよね!」
「アー…お前は?」
頭痛を抑えるようにこめかみをぐりぐり押して、トレイズが尋ねた。すると、さらにそこに声が割って入った。
「申し訳ありません、トレイズさん。私の娘なんです」
次から次へと忙しない。今度神宿塔の扉をくぐってきたのは、童話の世界から飛び出してきたかのような王子様じみた美しさの青年だった。背中まで伸びた銀髪をひとつにまとめて、同じ色の長い睫毛で彩られた瑠璃色の宝石みたいな瞳をしている。宿屋にやってきたときの姿でレインと並べばさぞ圧巻だろうが、薄い唇を噛みながら青年は、エルフの女の子を抱きかかえて何度も頭を下げてきた。
「ご無沙汰しています、トレイズさん。神護隊にご挨拶に伺おうとしたらこの騒動になりまして。レイン、その見失ったという子供だが、うちの殿下が追っている。舞宿街の方へ向かっていった」
「よりにもよって嫌な方へ向かうなあ」
レインは懐から、先ほどネルが返したばかりのハンカチを取り出して、再びネルの手に握らせた。
「ネル、私はこれからデクレを探しに行ってくる。君はトレイズさんについてレクセに逃げるんだ。このハンカチがあれば、君がどこにいても連絡が取れるから」
「待って!レインさん、わたしも連れて行って、デクレのところに行きたい!」
「だめだ、君はトレイズさん達と一緒に行くんだ」
レインにきっぱりと言われて、ネルはそれ以上食い下がれなかった。「でも…」とその先が声にならずにいると、レインは力強く請け負った。
「君の幼なじみの身は、私が守ろう。この槍に誓って」
そこまで言われてしまっては、ネルも口を閉ざすしかなかった。結局、旅に出てからここまで出会った人の中で、ネルたちのことを助けてくれそうなのは、この男を置いてほかにはいない。
「…デクレを守って、レインさん。わたしの、世界でいちばん大切な人だから」
「ご随意に」
レインはすぐに身を翻すと、傷だらけの男を引っ張って颯爽と出て行った。塔の扉が閉まっても、銀髪の男が真っ暗な塔の中に明かりを灯しても微動だにしないネルに、励ますようにエルフの女の子が言った。
「大丈夫よ、あの人、有能なんでしょ?パパが言ってたわ」
「で、きみってば誰なの?」
ルナセオもやってきて女の子に問うと、彼女は腰に手を当てて高らかに言った。
「私はね!メルセナ。みんなを守りにやってきた、赤の巫子よ!」
「…えっ?」