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少女ネルと夕暮れの聖女  作者: 佐倉アヤキ
1章 インテレディアの宿屋の娘
8/37

 思わず身を守るように腕を掲げて目をつぶったネルは、しばらく声をかけられていることに気がつかなかった。

「もしもし?もしもーし」

ぎゅっと身を縮こまらせていると、頭上の声はちょっぴり困った様子だった。

「ねえ、聞こえてる?もしもーし」


 はっと目を開くと、間近に女の子の顔があって、ネルは飛びのいた。後ろ手についた手のひらが触れたのは礼拝堂の冷たい大理石の床ではなくて、あたりを見回して息を呑む。


 そこは一面に赤い花が咲く、果てのない花畑だった。どの時間帯とも違う、朝焼けと夕焼けをまぜこぜにしたような色彩が入り混じった空には、星も太陽も月もすべてが光って、花々を照らしていた。

 目の前の少女は、ネルと同じように髪は栗色、瞳は若草色の色彩を持っていた。くるりと回ると、彼女の白いワンピースがふわりと踊った。彼女は右手に剣を、左手に赤い花を持った腕を広げてにこりと笑った。

「やっとここへ来てくれるひとが現れた!」


 まるで夢の中みたいに薄もやがかかった意識の中で、ネルはその少女を見つめた。

「ようこそ、ネル。やっと会えたね」


――あなたは?


「わたし?誰だっていいじゃない、そんなの。あなたはわたしを助けてくれる、わたしはあなたを助けてあげられる。持ちつ持たれつの存在。それでいいの」

 少女は楽しげにくるくる踊った。白くて細い裸足が赤い花の間を縫って、時折茎を踏みしめた。なんだかそれがひどく残酷なことのように感じて、ネルは口を挟んだ。


――お花を踏んじゃかわいそう。


少女は足を止めると、ネルに向けて優しげにほほえんだ。

「優しい子なんだね、ネル。でもいいの。ここはわたしのための世界だから、わたしはすべてを許されているの」

ぱきりと茎を折って、少女は左手の花を地面に落とした。途端にしゅるしゅると萎れて枯れていく花を見つめていると、ネルの視線を取り戻すように少女はネルの頬に触れた。

「わたしがあなたを、助けてあげる」


 視界がビリビリぶれて、白黒に染まった。花畑が消えて、そのかわりに広い会議室のような場所に座りこんでいた。指先ひとつ思う通りに動かなくて、ネルは誰かの中に入りこんでしまったかのようだった。

 ネルが中に入った誰かは、喉が枯れるのも構わずに叫んだ。


――なんで思いどおりにならないの、ぜんぶうまくいってたのに、こんなの台無しだよ!


 その誰かはあたりを見回した。会議室の席それぞれの椅子が引かれて、その上に人が首を吊っていた。誰も微動だにしないから人形かなにかだと思ったが、おのおの別のところから血を垂れ流していた。


――1番はわたしを哀れむから目を抉ってやった。

――2番は反逆者を庇ったから全身の骨を折ってやった。

――3番は反逆者を救おうとしたから肩を裂いてやった。

――4番はわたしの話を聞かないから耳を削いでやった。

――6番は仲間の流す血が怖いというから手首を切ってやった。

――7番はわたしに弓を向けたから左手を落としてやった。

――8番はわたしを置いて逃げようとしたから足を切り離してやった。

――10番はわたしに離反したから背中を斬ってやった。


 順繰りに円卓を回りながら、呪詛のようにつぶやいた“誰か”は、誰も吊るされていない9番目の椅子の前で立ち止まった。


――9番…あいつさえいなければ、わたしの剣と花は今もそばにいたのに。みんなわたしを大事にしていたのに。


「そういう君のわがままが、この悲劇を招いたんじゃないのかな」

不意にかけられた声に、弾かれたように“誰か”はそちらを睨んだ。4番と6番の間の席で、椅子に悠然と足を組んで座っている少年は、左側だけざんばらに切り落とされた髪をいじりながら楽しげに言った。

「君の望んだ世界と、9番たちの願いは一緒じゃなかったってことだよ。残念な話だけどね」


――あなたもだよ、5番。わたしの言うことを聞かないあなたの首を刎ねてやろうとしたのに。どうして思う通りに動いてくれないの?


「僕は君のことが大好きだけど、君に媚びへつらって従いたいわけじゃないんだ。まして君のために物言わぬ魔法の一部になるだなんて虫唾が走るね」

 少年は立ち上がると、1番と10番の間に並んだ三つの空席の前で歩みを止めた。10番の隣席には細身の剣が、1番の隣席には赤い花が置かれている。少年はおもむろに剣のほうを取り上げて、その輝きを確かめるように刃を灯りにかざした。

「僕は嬉しいよ、君の恋が破れてくれて。おかげで僕にも勝ち目が出てきた」


 少年は透き通る刀身をこちらへ向けて、恍惚と笑みを浮かべてみせた。彼のハニーブラウンの瞳が細められうっそりと弧を描いて、寒気がするほど気味が悪い。


「僕と君、ふたりで5番の印を分け合うんだ。永遠に僕と泥舟の上で踊ろう、愛しの聖女クレイリス」



 ぱちぱちと頬を叩かれて、ネルは目を覚ました。月明かりに照らされて、レインの白髪まじりの髪が艶がかって見える。

「大丈夫か?」

身を起こすのを手助けされて、ネルは自分が倒れていたのだと気づいた。硬い床の上で横になっていたからか、背中がみしみし痛んだ。

「わたし、夢を見ていたの?」

「巫子になるとき、彼らはその力の意思のようなものに会うらしい。君も会ったのか?」

そう言って、彼はネルの髪を一房手に取った。真紅に染まった髪の毛を見下ろして、ネルはつぶやいた。

「わたし、夢の中で聖女さまになってた」

 花畑で出会ったあの白い服の少女の中に入りこんで、凄惨な夢を見ていたのだと思う。ただの夢というにはあまりに悪趣味で、生々しいものを見せられた。

「レフィルがいたの。聖女さまのこと、すごく…すごく」


 すごく、なんなのだろう。ネルの知る言葉では、レフィルのあの執着は表現ができなかった。ただ、すごく怖くて、気持ちが悪かった。聖女の感じた生理的な嫌悪感が心臓の奥の奥まで伝わってきて、ネルは思わず胸を押さえた。

「吐きそう…」

「聖女の夢に、レフィルが出てきた?5番の意思は聖女のものなのか?」

レインはひとりごとのようにブツブツ言って、ステンドグラスを見上げた。つられてネルも視線を追って、あれ、と声を上げる。


 先ほどまでそこにあったはずの少女の姿が消え、そこには赤い花畑に剣が突き刺さっている様子が描かれていた。

「君が倒れたと思ったら、ステンドグラスの絵が変わったんだ」

レインは燭台を祭壇に戻して、カーテンを下ろしてステンドグラスを隠した。

「多分、レフィルが解きたがっていた封印は、君が巫子となることで消えたんだと思う」

「レフィルは、わたしがもらった5番の印がほしいんだね」

「おそらく」


 ネルはもう一度自分の胸を押さえた。たぶん、レフィルがほしいのは、あの聖女さまだ。そして、聖女さまは今、ネルの中にいる、ような気がする。夢の中で見た、少年の粘ついた視線を思い出して、ネルは震えた。


 デクレに会いたい、そう思ったところで、神宿塔の扉が開け放たれた。即座にネルの姿を隠すように、レインが前に出た。扉を開け放った人物は、まず扉が開いていることに驚いた様子で、扉を支えたまま目を丸くしていた。

「開いた…!開いてる、トレイズ、ここ開いてるよ!」


 ネルとそう変わらない年頃の少年だった。黄土色の髪をひとくくりにした、細身の男の子は、なにやら嬉しそうに背後を振り返って、誰かに声をかけた。すぐに少年の後ろから現れたのは、赤錆のような色の混じったブラウンの髪の男だ。彼は無精髭を撫でながら神宿塔の中を見回して、こちらに気付いて目を見開いた。お月さまのような金色の瞳が剣呑な色を帯びた。

「レイン!」

「トレイズさん!」

「お前、なんでこんな所にいるんだ、外、大変なことになってるぞ!」


 レインはさりげなくネルのマントのフードを引き上げた。髪の毛を隠すようにかぶせられたところで、レインがいやあ、と手を振りながら祭壇の前から出て来訪者たちのもとへ歩み寄った。

「迷子の子供を保護していたんですよ。すぐに鎮圧に戻ります。トレイズさんはどうしてここへ?」

ネルはフードで顔を隠しながらぎょっとした。彼の声音も、表情も、指先の動きひとつとっても優雅さのかけらもないへらへらした中年男の風貌で、先ほどまでの凛とした男の雰囲気などかけらも残っていなかった。

 金色の目の男は、ガシガシ頭を掻いた。

「さっきラトメに来たんだけど、あの暴動だろ?危険だから、神宿塔の転移陣が使えないかと思って。巫子をレフィルのところに連れて行くはずだったんだけど、アイツどこにもいなくてさあ」

 聞き捨てならない言葉が聞こえて、ネルは祭壇から目を覗かせた。金色の目の男にバシバシ背中を叩かれた少年は、ネルの視線に気付いたのかこちらを見た。


 レインは大仰に驚いてみせた。

「ええっ、その子、巫子なんですか?」

「そう、いろいろあって、コイツが4番を引き継いだんだ。神護隊で匿うのは今は難しいよな」

ネルは少年と見つめあっていたが、やがて少年がこちらに向けて歩きだしたので、慌てて祭壇の後ろに頭を引っこめた。レインが少年の背中を見ながら一瞬だけ苦い表情になった。

「もちろんできればそうしたいですけど、今回の事実関係を洗い出さなきゃならないですし…むしろ今のラトメは巫子にとって安全だとは言いがたいでしょう?」

「だよなあ…やっぱり一旦マユキのとこにでも連れていくか…」


 丸くなって縮こまっていると、少年がネルの真横にしゃがみこむのを感じた。内緒話をするように小声で尋ねられる。

「きみ、迷子なの?」

ネルが小さくうずくまったまま反応を示さずにいると、さらに距離を詰めてくる。デクレ以外の男の子にこんなにそばに近寄られたことなんかなくてネルは緊張した。黙り込んでいると、また少年はささやいた。

「俺、ルナセオ。レクセから来たんだ。きみはここの人?」

ネルはフードを押さえたまま、膝からちょっとだけ顔を上げてルナセオを見た。燭台の明かりに照らされる色白の肌は砂埃で汚れてこそいたが、荒れ知らずでまっさらだった。指も細くて長い。髪の毛もネルよりもさらさらつやつやしていて、見るからに都会の男の子だった。

 ネルは小さく首を横に振ったが、名乗ったりはしなかった。さっきあの金色の目の男はレフィルの名前を呼んだ。この子も彼の仲間かもしれない。


「私がレフィルに言っておきますよ」

レインが愛想よく言った。

「トレイズさんは彼を連れてマユキ様のところへ行ったって。ほとぼりが冷めたころにお呼びしましょう」

「そうか?それなら助かるけど…」

 黙り込んだままのネルに、ルナセオは不思議そうに首を傾げた。ネルの顔を覗き込もうとするので、ネルはぎゅっとフードを押さえつけた。

「そうだ、あの騒ぎ、ラファのしわざなんだろ?なんだってあの野郎をラトメに引き込んだんだ?9番が連れて行かれちまったぞ。どうすんだよ」


 クレッセ!ネルは反射的に身を起こした。ラファは無事クレッセを連れ出せたのか。彼らは無事なのか…男とレインの会話に耳をそばだてていると、ルナセオがまたも聞いてきた。

「きみ、クレッセの友達?」

「…あなた、クレッセを知ってるの?」

「さっきそこで会ったよ」

ネルがようやく気づいたのがよっぽど嬉しかったのか、ルナセオは歯を見せて笑った。彼はチラリと男たちを盗み見てから、内緒話みたいに口元に手を当ててネルに問うた。

「ねえ、きみ、もしかしてネル?」

ネルは心臓が飛び出そうなほどびっくりした。

「なんでわたしのこと知ってるの?」

「クレッセに言われたんだ、ネルとデクレのこと守ってって」


 ネルはまじまじとルナセオを見た。本当に、クレッセがそう言ったのだろうか。この見ず知らずの男の子に?昼間会ったクレッセは、最初はネルたちをあんなに恨んでいて、ラファが処置したあとは心も子供に戻ってしまったのに。

 けれどその一言があまりにもクレッセらしくて、ネルはぽたぽた涙を落とした。もう今日一日で一生分の涙を流したんじゃないだろうか。

「ほんとに?ほんとにクレッセがそう言ったの?」

ルナセオは突然泣きだしたネルにオロオロしながら頷いた。服のあちこちを叩いてハンカチを探しているがどうにも見当たらないらしく、結局自分の袖口でネルの目元を拭きだした。

「わっ、待って待ってなんで泣いてるの、俺なんかいらないこと…言った…」

ルナセオは尻すぼみに言葉を止めて、じっとネルを見つめた。正確には、ネルのフードからのぞく髪の毛を。


 ルナセオに赤い髪を見られた。慌ててフードの裾を引っ張ったが、もうごまかしようがなかった。

「きみ、巫子なの?」

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