7
※残酷な表現を含みます。苦手な方はご注意ください。
揺り起こされてネルが目覚めると、外は薄暗くなってきていた。デクレはネルにマントをかぶせた。
「逃げよう、ネル」
デクレに手を引かれて廊下に出ると、先ほどまであちこちにいた神護隊員は誰一人いなくなっていた。人気のない廊下を進みながらネルは尋ねた。
「どこに行くの?」
「わからない、とにかくこの街を出よう」
「でも、クレッセはどうするの?クレッセも一緒?」
「クレッセはラファさんが連れて行く。僕たちは二人で行こう」
デクレは出口までの道を覚えているのか、迷いのない足取りだった。
「僕たちだけで砂漠を越えられるか分からないけど…」
「だいじょうぶ、なんとかなるよ!水と食料はいっぱい持ってきたもの」
ネルが肩下げかばんを叩くと、デクレはすこし笑った。
神護隊本部は誰もかれもが出払っているのか、入り口近くなっても無人だった。しかし、外が何やら騒がしい。怒声のようなものも聞こえてきた。デクレが警戒しながら外の様子をうかがった。
「ラファさんがなにか騒ぎを起こすって言ってたけど…」
その時、廊下の奥からひとりの神護隊員が現れて、ネルたちを見とがめた。
「おい、お前ら、そこで何をしている!」
「行こう!」
「わっ、おい、ネル!」
とっさにデクレの手を引っ張って外に飛び出す。外は人であふれていた。人ごみの間を縫って入り組んだ小道に入り込むと、神護隊員はネルたちを見失ったのか追いかけてこなかった。
デクレが叫んだ。
「ばかネル!そっちは門とは逆方向だ!」
「えっ、そうなの?どっちに行けばいい?」
小道の先を抜けると噴水広場に出た。広場は騒然としていて、なにやら険悪な雰囲気にふたりは足を止めた。
噴水の前でひとりの神護隊員が大声で演説していた。
「この男はあろうことか、悪しき神都の者に誘惑されて神聖なるラトメの地を汚した!これは由々しき事態である!」
その神護隊員は見せつけるように手にした何かを掲げた。何か赤いものが滴り落ちて、地面に水たまりを作っている。
それがあの門番の生首だと気づくまでに少しかかった。
近くにいた街の住人の悲鳴で我に返った。引きずるようにデクレに誘導されて、二人はまた駆け出した。
「あっあれっ、くっ、くっ、くびがっ」
「ラファさんが、騒ぎを起こすって、まさか、アレのことなんじゃ」
「らっラファさんの、しわざなの!?わっ」
石ころに足を取られて、全速力で駆けていたネルは派手に転んだ。つないでいた手が外れてデクレが振り返る。
「ネル!」
「やっと、捕まえたっ!」
身を起こすと、デクレの腕が後ろ手にねじり上げられていた。息を切らせながら、レフィルがデクレを拘束している。
「デクレ!」
「おっと、それ以上の抵抗は、なしだ」
レフィルは懐から取り出したナイフをぱちんと広げて、デクレの首筋に当てがった。
「はあーっ、もう、やめてほしいよね、僕、魔法も使えなくて、走るしかないんだからさっ、無茶しないで、大人しくしててよ」
レフィルはゼイゼイ言いながら盛大にため息をついた。デクレがもがきながら叫んだ。
「ネル!逃げろ!逃げろよ!」
「わっ、暴れないで」
「む、無理だよ、デクレを置いていけないよ!」
「ばかネル!さっさと行け!」
ネルがナイフの切っ先とデクレの顔を見比べて迷っていると、どこからか男の叫び声が聞こえてきた。
「おい!聖職者が子供を襲ってるぞ!」
「えっ」
小道から何人かの屈強な男たちが飛び出してきた。レフィルが「げっ」と顔をこわばらせる。彼らはレフィルとデクレの視界を隠すようにネルとの間に滑り込んで詰め寄って、棍棒やら包丁やらを構えている。
「お前、神護隊の手先だな!見たことあるぞ!」
「お前らの圧制で俺たちがどれだけ苦労してきたか…」
「もう我慢ならねえ、やっちまえ!」
ネルが呆然としていると、勢いよく腕を引かれてつんのめった。「走れ!」と鋭く言うなり引っ張られて、ネルはその場から連れ出された。
「まっ、待って、待って!デクレが、デクレがまだ」
「今は諦めて、あそこからは連れ出せない」
その男は正面を見て「跳べ!」と叫んだ。反射的にその場でジャンプすると、ふわりと風が駆け巡って、橋を飛び降りてその下の路地に降り立つ。男の身にまとう神護隊の麻のコートがふわりと舞い上がった。
白髪まじりの金髪の男だった。ガタイはいいが背はそんなに高くない。デクレのような少年とは違う広い背中で、ネルの腕をつかむ大きな手は指も太くてごつごつしていた。彼が走るたび、背負った長い槍がカチャカチャ鳴った。
街のあちこちで怒号や悲鳴が上がっていて、殴りあったり、倒れ伏している人もいた。これがラファの狙った騒ぎなのだろうか。うつぶせに倒れている女の人の頭から血が流れているのを見て、思わずネルは顔をそむけた。
「あまり周りを見ないで、人と目を合わさないように。いつ誰に襲われるかわからないから」
男の言われるがまま、ネルは誰とも目を合わせないように男の背中だけを見た。やがて彼が立ち止まったのは、この街で最も高い尖塔の前だった。男はコートのポケットから重たそうな鍵を取り出すと、堅牢そうな両開きの扉にかかった錠前を開ける。
「さあ、入って」
男はそう言って振り返った。ネルよりもずっと年上らしい中年の男は、みかん色をした目の目尻にあるしわにどこか親しみやすい愛嬌があった。
「あなたのこと、知ってる」
ネルはその場に立ち止まったまま男に言った。彼は乱れた髪をさらにかき回しながら優しく言った。
「誰かが私のことを話したかな?私はレイン、ラトメ神護隊の長だよ」
「ううん、わたし、あなたに会ったことある」
レインと名乗った男は笑みを消して無表情でネルを見た。肩下げに入れっぱなしだった絹のハンカチを取り出して、彼に突きつける。
「また来てくれるって言ったのに、全然来ないんだもん。嘘つきだね、お客さん」
男はハンカチを受け取って、百合の刺繍を見ながらくすりと笑った。
「この姿の時に正体がバレたのは初めてだ。君は人の本質を見る目があるんだな」
確かに、あの日会った青年はもっと若々しくて、人形みたいにうつくしい顔をしていた。細身だったし、もっと脚も長くて、背も高かったと思う。けれど、彼のみかん色の瞳を見た瞬間、間違いなくこの男があのときの旅人だとピンときたのだ。
「あなたが、クレッセたちを連れて行った悪の親玉なの?」
「俺は…いや、確かに『私』はラトメ神護隊の隊長だよ。君の幼なじみとその父親を連れて行った悪党の長であることに間違いはない」
「だけど、あのときあなたはデクレだけは助けようとしてくれたでしょ?」
「ネル、あいにくと、俺は君が想像しているような優しい男じゃないんだ」
レインは神宿塔の扉を開いて、ネルを手招きした。ネルは振り返った。暴徒はここまでは来ておらず、塔の周りは静かだったけれど、街並みの向こうではところどころ火の手が上がっているようだった。
「わたし、デクレを助けにいかなくちゃ」
「君ひとりで何ができる?大丈夫だ、あの男たちは俺が手配した。レフィルからデクレを救い出すように命じている」
そう言われてようやくネルはほっとして、レインの誘いに応じた。重厚な扉の隙間から中に入るとそこは明かりもなく冷え冷えとしていた。
「ここは?」
「神宿塔、“神の子”が本来住んでいるはずの塔だ。今は空位になってるから塔自体が普段は閉ざされている。クレッセが9番に選ばれてから、レフィルは執拗にこの塔に入りたがっていた。奴が君をこの街まで連れてきたのは、この塔に封じられている封印を解く資格が、君にあると思われていたからだ」
暗闇の中、レインが迷いなく奥の方に歩いていく音がした。マッチを擦るような音がして、奥の方にある燭台にレインが火をつける姿が照らされた。祭壇のような机から燭台を取り上げたレインに視線を向けられて彼のもとまで恐る恐る歩いていくと、彼は巨大な十字架の像の裏手に回った。
十字架の裏にある厚手のカーテンを引くと、そこには月明かりを受けてきらめく、見上げるほど大きなステンドグラスの窓があった。
ひとりの白い衣装の少女が、右手に剣を、左手に赤い花を握っている構図が刻まれている。
「まだこの世界がいくつかの国に分かれていた頃、それをひとつに統一したという、聖女の姿を描いたステンドグラスだ」
レインはそしてネルを見下ろした。
「ここに、巫子の意思が封印されているのだとレフィルは言っていた。クレッセが9番に選ばれた今であれば、その封印が解けるはずだとも」
「なんでわたしにそんな資格があるの?」
ただの宿屋の娘に、そんな特別なことができるとは思えなかった。ましてやネルは魔法なんて使ったこともないし、デクレみたいに頭がいいわけでもない。
「巫子は9番に近しい者が選ばれやすい。クレッセに近い女の子だから、君には巫子になる資格がある。俺もそう思ったから、君をここに連れてきた」
レインは燭台を置いて、その場に膝をついた。冴えない中年男の容貌をしているのに、まるで絵本の中の騎士様みたいに優雅な動きだった。
「ネル、この封印を解いて、巫子の証を持ってここから逃げろ。レフィルに決して捕まるな」
「でも、巫子になったら、わたし、クレッセを倒さなきゃいけないんじゃないの?」
その男は、ふと仄暗く微笑んだ。あくどい笑みに、この街には本当に、ただの優しい善人なんて誰もいないのだと理解した。
「そんなのはな、君が決めればいい」
レインは白髪まじりの金髪をかきあげた。
「世界の滅びか、幼なじみの命か、好きな方を選べ。巫子になれば、その傲慢が許される」
ここにデクレがいたら、そんなの選べるわけないだろ、って言う気がする。いや、世界が滅びたら、クレッセだって無事じゃ済まないだろ、って揚げ足を取るかも。ばかネル、もっとよく考えろって。
ネルだって、世界か幼なじみかだなんて、そんな壮大な話をされても決められない。けれど、本当の悪者はきっと9番に選ばれたクレッセなんかじゃなくて、その周りにいくらでもいるのだと思った。
たぶんこの人は、それを言いたいんだ。そう思ったから、ネルは肩下げ鞄を下ろしながらレインに尋ねた。
「巫子になったら、デクレたちを守ってあげられる?悪いひとたちをやっつけられるくらい、強くなれる?」
「君がそれを望むなら」
レインはステンドグラスを示した。ネルは恐々と、ガラスの中の少女に手を伸ばした。
少女の花を掴んだ手に指先が触れそうになったところで、あたりが目映い光に包まれた。